4杯目 誓約書の上半分

「坂隙さん、哲学が好きなの?」

「うん、結構好きなんだ」


 向かいの彼女がずいっと身を乗り出す。一気に顔の距離が近くなり、緊張しいな俺の視線は、逃げるように斜め上を向いた。


「ドイツでお酒好きの医者と看護師に会ったって話したでしょ? みんながもう一つ、面白いよって勧めてくれたのが哲学だったの。ヨーロッパは哲学者多いしね」


 確かに、現代社会の授業で少し習ったけど、フランスやドイツ出身の人が多かった気がする。


「ドイツにいるときに、日本語の本が置いてある図書館で『初めての哲学』って本借りて読んでみたら、なんか全然分からなくてさ。でも飲みながらぐるぐる考えてたら意外と面白くなってきて、あーこうやってぼんやり考えてるの結構好きかも、って。授業中もたまに考えたりしてるの」

「そっか、窓の外を眺めてるときって、そういうこと考えてるんだ」


「あ、分かった? でもよく見てるのね」

「え、あ、いや!」

 しまった、いつも見てたことがバレる!


 ぶんぶんと腕を振る俺を見て、彼女はクスクスと笑みを漏らした。


夕映ゆえって名前も哲学っぽいからね」

「そうか?」

「デカルトの『我思う、ゆえに我あり』ね。字は違うけど」

「なんか聞いたことあるな、意味はよく分かってないけど。哲学とか倫理とか現代社会でちょっと習ったくらいだもんなあ」


 良かったら簡単な本貸してあげるよ、と言いながら、彼女は暗くなってきた部室を入口まで歩いて電気を付ける。パツンパツンと頼りなく点滅した後に光を放った蛍光灯は、彼女のビターな色の髪に天使の輪を映し出した。


 もともと端正な顔立ちの坂隙さんが、照明の下でより美人に見える。二十歳と知ってしまった俺にはすっかり「年上のお姉さん」に映り、否が応でも心臓の鼓動が跳ねた。


 彼女の興味がある話題で少しでも繋ぎとめたくなって、頭をフル回転させる。


「……葦原って名前も、哲学っぽいしね」

「え、そんなのあったっけ?」

「うん、考えればすぐ分かるよ」


 それは、必死で考えた即席のクイズ。握った手を頬に当てながら「難しいなあ……」それとなくヒントを求める目をする彼女に、俺は敢えて気付かないフリをしてはぐらかす。その無言のやりとりが楽しかった。


「仕方ないわね、葦原君。このお酒半分あげるからヒント教えてよ」

「俺はヒントを教えたうえに罪を犯すのか」


 こんなにメリットがない交渉珍しくないですか。


「んー、仕方ない、降参ね。正解は?」

「ふっふっふ、始めからヒントは出してたんだよ。『考えれば分かる』『葦原』、考える葦原……」


「あっ、そっか、パンセね!」

「ご名答! 『人間は考える葦である』 まあ他に哲学者ってあんまり知らないんだけどね」

「ううん、そうやって考えてくれたのが嬉しい」


 彼女は優しく微笑む。その笑顔があまりに大人びていて、ブラウスすら「高校生っぽいファッションをしているお姉さん」に見えてしまう。


 本当に偶然だったけど、坂隙さんの意外すぎる一面を知れた。気になっていた彼女と少しだけ接点ができたのは嬉しい。



「うんうん、今日は初めてここに人を呼んで、良いお酒が飲めたわね」


 満足気に感想を呟いている声を聞きつつ部屋を見回すと、壁の上に時計があった。17時を回っていて、俺はここに来た本来の目的を思い出す。


「やっべ、浅野先生にプリント届けないと。あれ、でも理科準備室ってここじゃないのか」

「理科準備室? 北校舎の3階よ」

「向こうか! 勘違いしてた」

「あ、待って」


 戻る準備をしようとするところで、立ち上がる直前に彼女から「ねえ」と呼び止められる。


「分かってると思うけど、このこと誰にも言わないでね……?」

「え……あ……」


 こ、これはあれじゃないか! ラブコメ漫画でよく見るところの「何でも言うこと聞くから」のパターンじゃないですか!


「何でも言うこと聞く。どんな強いお酒でも飲むから」

「俺に1つも得がないんですけど」

 さっきから交渉が下手すぎる。


「大丈夫だって。年齢のことも飲酒のことも言わないよ」

「ホントかなあ…………うん、よし、決めた」


 何か決心したらしい彼女は、鞄の中に手を入れて数枚の紙を取り出し、ボールペンを持ってごそごそと何か準備をしている。


 やがて、A4の紙を俺の手元に寄せた。


「誓約書書いて」

「はい?」


 よく見ると、その用紙には手書きで文が綴られている。


『私は、坂隙夕映が飲酒したことを黙っていることを誓います』


「いや、ここまでする?」

「まぁ念には念を入れてね。ほら、下に日付と名前書く欄があるでしょ。一筆お願い、ね?」


 両手をパチンと合わせて、片目を瞑ってお願いされる。そんな風に頼まれると、ほぼ条件反射的にペンを待ってしまう。男ってのは弱い生き物だ。


「ここだな。5月11日、葦原南瀬、と。はい、できたぞ」



 そう、この時俺は目の前でジッとこっちを見ている彼女に集中力散漫にならず、しっかり誓約書の文面を見るべきだったのだ。そうすれば、ペンを走らせる前に違和感に気付くことができた。


 なぜ誓約書の本文が手書きで、日付と名前の欄がパソコンで作ったものになっているのか、ということに。


 そして、気付いたときには遅すぎた。


「さてさて、葦原君。ここで上半分を剥がすと……」

「剥がす……?」


 坂隙さんの謎の言葉に注意を凝らして手元をよく見ると、上半分と下半分は別の紙になっていた。お酒を飲んだことを人に言わない、と書かれたその上半分の本文を、彼女は小さく折り畳んで傍に置く。


 そこに新しく現れたのは、明らかにキーボードで打たれた文章。



『私は、さかな研究部への入部を希望します』


「はあああああ! 入部届じゃん!」

「入部おめでとう、葦原君」


 笑顔で拍手する坂隙さん。グラウンドでもゴールが決まったのか、「ナイッシュー!」の掛け声とともに、サッカー部のまばらな拍手が聞こえた。


「いや、待ってよ! 入る理由がないよ!」

「ふふっ、これで共犯ね」


 右の口角を僅かにクッと上げて、悪い表情を見せる。


「これで葦原君は、私がお酒を飲んでいなかったのに止めなかった部活仲間になるわ。葦原君が秘密をバラそうものなら貴方自身もおしまい。これでさすがにバラせないでしょ」

「悪どい! 悪どいぞ坂隙さん!」


 やや冗談交じりに立ち上がって糾弾してみたものの、彼女は手で押さえた口の端からクックックという声を漏らすだけだった。


「葦原君って部活入ってるんだっけ?」

「いや、今は入ってないけど……」

「じゃあ、良かったら入らない? どうせ活動してるの私一人しかいないし、来れるときだけ来てもらえばいいから飲み相手になってよ。秘密知ってる人の方が気軽に話せるしね」


 ど、ど、どうしよう。クラスでちょっと気になっていた女子から二人っきりの部活に入ろうって誘われるなんて、こんな二次元的な展開ある? でも入るとお酒が絡むから面倒なことにならないかな……いやでもせっかく坂隙さんと……。


「もちろん、イヤなら無理にとは言わないけど」

「イヤじゃないよ、むしろ嬉し……だっ! がっ! どっ!」


 考え事をしていたまま返事したせいで思いっきり本音が漏れてしまい、慌てて濁音の叫び声で掻き消す。


「ん? なんか言った?」


 聞き返す坂隙さん。でも、その表情は本当に疑問に思っているようには見えない。まるで実際は聞こえているのに聞こえないフリをしているような、そんないたずらっぽい笑みを含んでいる。


「……なんでもない。別にイヤなわけじゃないって言ったんだ」


 照れを隠しながら必死に返した俺の言葉に、彼女は満足そうに口元をクイッと曲げる。


「そっか、なら良かった、入部決定ね。じゃあアレやらないと」

「アレって?」

「乾杯に決まってるじゃない」

「いきなり飲ませるの!」

 入部即廃部だよ!


「大丈夫よ、ノンアルコールのお酒風味の飲み物にしてあげるから」


 さっきと同様に、彼女はネイビーのリュックを漁る。そして、「サワー気分 グレープフルーツ」と書かれた黄色の缶を取り出した。そのリュックには勉強道具は入ってるんだろうか。


「なんでそんなもの入れてるの?」

「カムフラージュよ。もし先生に見つかりそうになったときにね、『すみません、どうしても飲みたくて、誰も見てないのをいいことにお酒もどきのドリンク飲んでました』って言えば、苦笑いで許してくれるじゃない? 嘘をつくコツは、小さな嘘を混ぜることよ」

「発想が怖い」

 なんて計画的な犯行なんだ。


「はい、葦原君、あげる」

「ホントにくれるの? じゃあ、遠慮なく」


 手渡しでもらった缶のプルタブをガコッと開ける。彼女はと言えば「ちょっと待ってね」と言って3本目を取り出していた。どんだけ飲むんだ。


「じゃあ改めて、葦原君。ようこそ、さかな研究部へ! 乾杯!」

「か、乾杯」


 クラスメイトと初めてする乾杯。コンッという軽い缶の音が静かに響き、坂隙さんと2人っきりであることを自覚する。彼女曰く、お酒風味だから少し苦めの飲み物らしいけど、緊張や興奮のせいなのか、柑橘の酸味と果物の甘味だけが舌の上にさらりと残った。


「あ、ゆっくりしてる場合じゃないや。理科準備室いかなきゃ!」

「そっか。じゃあそれ、置いていっていいわよ」

「えっ、飲むの!」

 それこそ間接キスでは!


「飲まないわよ。先生がノンアルコールのその缶を見て色々詮索してきて、最終的に私に辿り着いたら困るでしょ?」

「私に辿り着くって」

 どこの世界の黒幕なんだよ。


「そもそも、お酒飲んでるときにジュースは飲みたくないしね。飲んでるときはお酒に没頭したいっていうか」

 先生、酒浸りの女子高生がここにいます。


「じゃあ葦原君、明日からもここに来てね」

「ん……まあ入ったからには来るよ。また明日な」 


 勢いをつけてドアに向かい、部屋を出る。少し歩いたところで立ち止まって深呼吸。色々ありすぎてオーバーヒート気味の頭と体を休める。



 クラスの憧れのお姉さん的存在の彼女は、実際は本当にお姉さんで、しかもとんでもない秘密を持っていた。


 でも巻き込まれたのが面倒かと言われればそうでもない。ほとんど接点のなかった彼女と仲良くなれたことが嬉しいし、部活を辞めてちょっと退屈だった日常が色づいた。きっと、グレープフルーツの黄色だな。



「っと、急がないと」



 北校舎へ続く渡り廊下に向かって、ダッシュで階段を下りていった。



〈第1章 了〉

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