3杯目 薫製イカみたいに
ちゃんと四隅貼らないとダメね、と鼻でふうと息をしながら机に座る坂隙さん。
俺はと言えば全く状況が飲み込めなくて、水を失った魚のようにフリーズしてしまっている。
「え、坂隙さん、これって部活なの……? 他のメンバーは?」
「ああ、どうしても放課後にお酒飲みたくてさ。そういう理由は伏せて、友達4人に名前貸してもらって、4月末の20歳の誕生日のタイミングで設立したの。だってほら、空き部屋に籠ってたら校則違反でしょ?」
「遵法精神がすごい」
でもなんか大事なところが大きくズレてる気がする。
「さかな研究部ね……坂隙さん、魚が好きなの?」
「ああ、違うわよ、お酒のおつまみの方の
「そっち!」
ほとんど名称詐欺に近い!
「おつまみを愛でて研究する会よ。生徒会にも『さかなを研究する』って申請したから嘘はついてないわ」
「なぜそういうところはフェアにやろうとするの」
それでこの部室来て酒飲んでるっていうね。
「まあ、とにかくここなら学校で一人になれるからね。居心地の良い場所ができてよかった」
そう言って坂隙さんは俺に背を向け、窓の外を見る。それを見ながら俺は、彼女に気付かれないくらいのボリュームで「あーーー」と低い唸りをあげた。
坂隙さんがどの女子グループにも属していない理由が分かった。独特の雰囲気を醸し出している理由が分かった。
彼女は、孤独を抱えてるんだ。
自分に置き換えて想像してみる。周りは全員自分より3歳も下で。自分の本当の同級生はもうとうに卒業している。その状態で日々を過ごすなんて、絶対にしんどいはずだ。俺が彼女でも、周りの人とほんの少しだけ距離を感じたに違いない。
だから、今の俺ができることは一つだけ。
「そのままでいること」
彼女の秘密を知っても、彼女に対する接し方を変えないこと。
坂隙さんがこちらに向き直って、一つ溜息をつく。
「はー、まさかこんなカミングアウトすることになるとは思わなかったけど、葦原君ともちゃんと話せたし、いっかな。普段席近いのにあんまり話さないもんね」
鮮やかなほど黒い瞳でまっすぐ俺に視線を向ける彼女に、手をブンブンと振って否定する。
「いやいや、坂隙さんクラスでも人気だから話しかけられないって。みんなオトナっぽいって言ってるし」
「あははっ、そりゃオトナだもんね!」
「ホントだよ、まさか俺達の方が正解言ってたとはね!」
種明かしを聞いたら、なんてことはない。本当に3つ上のお姉さんだったってことだ。
「葦原君、ありがとね」
と、急に彼女は真顔になる。そしていつものように、口元だけ微かに微笑みを湛えた。
「3つ上だよって打ち明けて、急に敬語になったりしたらどうしようかって思った」
「……しないよ」
瞬間、強い風が吹いて窓を揺らす。彼女の不安を表しているかのように、カタカタと音を立てた。
「確かに年齢的には上だろうけど、やってることは変わらないわけだし。それに、坂隙さんも急にそういう扱いされるのイヤでしょ?」
坂隙さんは、目を丸くした後、少し照れたように「ありがと」と首だけ突き出した。
「俺だったらそんな風にやられるのイヤだし、気になると思うからさ」
「そうね……気になっちゃうな、きっと」
軽い、でも寂しさを含んだトーンで言い放った彼女は、手元の缶を振って残りが少ないことを確認し、口の上で垂直に立てるように一気に飲み干した。
「うん、やっぱり美味しい」
「お酒って美味しいのか。親が飲んでたの舐めたことあるけど苦いイメージしかないな」
「お、葦原君、飲んでみる?」
「えっ、あっ、ちょっ」
彼女からサワーの缶を突き出され、挙動不審になる。飲んじゃダメということより先に、「これって間接キスじゃん」という緊張で顔が強張った。
「ウソよ、ウソ。これで飲んだらホントに私も停学とかになっちゃうわ」
坂隙さんは苦笑しながらネイビーの自分のリュックを漁る。そして、今空にした缶と全く同じものを取り出した。
「さてと、お替りいきますか」
「まだ飲むの!」
1缶だけ飲んでほろ酔いとかじゃないの!
「あのね葦原君。ちょっと酔ってふにゃふにゃの可愛い女子になる、みたいな飲み方はとっくに終えたの。私は16歳から18歳までドイツで飲んでたし、帰ってきてからも飲まないけどお酒の勉強はしてたわ。飲酒歴5年目、何があってもお酒を飲みたいお年頃なの」
「そんなお年頃は存在してはダメなのでは」
ちなみに、入退院を繰り返してるのに酒を飲んでたのか、という疑問は「アルコールの影響の少ない病気だったらしい」という彼女の回答で不問となった。結構ユルい病院だったんじゃないだろうか。
「どんな味なの? そのグレープフルーツサワー」
「んっとね……」
彼女はどう表現しようか迷ったらしく、しばらく目を左右に動かしていたが、やがて飲み口に軽く鼻を近づけ、その後クッと缶を傾けて少量を口に含んだ。
「香りはグレープフルーツジュースそのままでお酒っぽくはないの。でも飲んでみると自然な甘みが口に広がるわね。で、飲み込んだ瞬間、爽やかな香りが鼻から抜けて、果実感のある味わいが舌の上に残る。その味わいの中に、グレープフルーツとは明らかに違う苦味が主張してきて、はっきりとしたアルコールを感じることができるわ」
「レポーターじゃん」
そんなガチなやつが来ると思わなかったよ。
「そっか、やっぱり苦いのかあ」
「ふふん、お子ちゃまだなあ。この苦いのが良いのに」
「へん、スポーツドリンクかコーラをがぶ飲みしてこその高校生よ」
2人で芝居がかった台詞の応酬。今日一日で、随分坂隙さんと仲良くなった気がする。
「あ、葦原君、こっちなら食べられるでしょ?」
坂隙さんが俺の方に平皿を押して差し出してくれたのは、薄く輪切りされてぺしゃんこになっている、薄黄色の薫製のイカ。机の端には「ソフトいかくん」と書かれた、おつまみの袋が開いていた。
「コンビニでよく見かけるヤツだ」
「そうそう、柔らかくて食べやすいわよね」
平べったいイカリングのようになっているそのイカを食べてみると、確かに
「美味しいな、これ」
「ふふっ、でしょ」
その時、脳内にとんでもない閃きが浮かんだ。
「あ! いかくんってイカの薫製の略なのか!」
「……なんだと思ってたの?」
「いや、イカに君付けするなんて面白いなあと思ってた……」
それを聞いた彼女は、きょとんとした顔を見せ、すぐさまブフッと吹き出す。
「イカ君! イカの愛称! あははっ、確かにね!」
公園のすべり台ではしゃいでいる小学生のように、くしゃっと顔を綻ばせる坂隙さん。「笑いすぎだって!」と怒ってみたけど、その表情は授業中も友達と話しているときにも見たことのないもので、本音ではやめてほしくなかった。
「ねえ坂隙さん。薫製って、煙を当てるってこと?」
「そうよ。香り付けのために木材のチップがあって、それを熱して出した煙を当てるのよ。色も変わるし、味も濃くなって深みが出るわ」
ううん、さすがさかな研究部。おつまみに詳しい。
「結構手間がかかるんだな」
「そうね。もっとも、こういうコンビニのものとかは、大体『薫製風味』って感じで、液体に漬けちゃうんだけどね」
「液体?」
そう、と頷いて、彼女は手で雲を作るようなジェスチャーをして見せる。
「チップの煙を冷やして液体にしたものを調味料と混ぜるのよ。そうすれば、香り付きの薫製液が出来上がるから」
なるほど、それに漬ければ
「液なら簡単に大量生産できるのか。なんだか手抜きだなあ」
「あら、葦原君はそういうの不満?」
「いや、不満ってわけじゃないけど、正しい物じゃないんだろ?」
そう訊くと、坂隙さんは俺に視線を合わせ、どこか悟ったように、目を細めて笑った。
「正しさなんてないと思うな」
彼女はそのままゆっくり目を瞑り、優しく、でも力強いトーンでそう答える。
「私もちょっと前までは葦原君と同じように考えてたんだけど、最近は別にコンビニのだってマイナスだって思わないようになったの。ちゃんとしたものを食べたい人は薫製を買えばいいし、手軽に安く食べたい人は簡単に作れる方を選べばいい。薫製の液だってどんどん美味しくなってるはずだから、味も大きく違うってことはないかもしれないしね」
真面目な話をしているのが少しだけ気恥しくなったのか、イカの穴から右目を覗かせる彼女。ツヤのある髪を背後から照らす西日に染めて、話を続ける。
「自分の今のことについても、なるべくそう思うようにしてるんだ。高校卒業に3年かかっても6年かかっても、どっちが正解とかなくて、その間に何をしたかとか、何を得たかが重要だと思うから。時間がかかったことを私自身が卑下して、相手と分厚い壁を作る必要はないかなって」
「……うん、そうだな」
正しいことなんてない、というその考えこそが一番正しいように思える。
おつまみの話をしていたのに、いつの間にか彼女の人生観の話にベクトルが変わっている。その飛躍の仕方が面白くて、引き込まれるように体が前のめりになっていた。
「『垣根は相手が作っているのではない、自分が作っているのだ』ってね」
「……誰かの言葉?」
「アリストテレス。古代西洋で最大の哲学者の一人よ。紀元前にも、現代に通じる言葉があるなんて不思議よね」
紙もスマホも見ず、2本目の缶サワーを飲みながら、彼女は格言を引用した。
「はあ、真面目な話をした後のお酒は格別ね」
「制服で言うと違和感がすごいな」
ちょっと赤ら顔で「ふう」と熱のある息を吐いているのを見てドキッとしてしまう。
「フランスの哲学者のデカルトも言ってるでしょ? 『私は飲みながら考え、考えながら飲む』」
「いや、初めて聞いたけど」
すぐにスマホで調べたら本当に言っていて、俺の中の哲学者のイメージが軽く崩れた。
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