2杯目 彼女の秘密

 え、坂隙さかすきさん? なんでここに? 浅野先生はどこ? いや、ここ完全に空き教室じゃん、絶対理科準備室じゃないな……?


 っていうか、イカ? いや、その前に酒? 酒を飲んでるの? 1人で? 女子高生が?


 様々な疑問が同時並行で浮かび、それぞれ答えの出ないまま、リアクションだけが弾き出される。


「いや、あの、ね、その、ありがとうございました!」


 人間、パニックになると謝罪も感謝もごっちゃになるらしい。


 ちょっと気になっていた彼女とお近づきになれてラッキー、みたいな感情は一切なく、とりあえず逃げなきゃ、という判断だけが脳内を駆け巡る。なんか絶対逃げた方がいい気がする!



「ちょ、ちょっと、葦原君!」


 慌てて立ち上がる彼女に、俺はクリアファイルに挟んでいたプリントをバサバサと落としながら、顔の前でブンブンとファイルを振る。


「ごめん! 見てない! 何も見てないし、誰にも言わないから!」


 裸でも見たのかと思うほど全力の否定。

 そりゃそうだ。学校の空き教室で未成年が飲酒なんて、どう考えても停学、下手したら退学じゃないか。冗談じゃない、これは見なかったことにしないと、坂隙さんに処分がくだる。そんな目に遭わせるわけにいかない。


「葦原君、待って待って!」

「じゃあ俺行くから! 良いお酒を! 体に気をつけて!」


 意味不明な気遣いの挨拶をしつつプリントを大急ぎで拾いながら、足早に去ろうとした。


「ちょっと、葦原君!」


 その腕を、彼女は後ろからぎゅっと捕まえる。


「待ってって言ってるのに」


 普段どちらかといえばクールな彼女が、「まったくもう」と軽く頬を膨らませている。



「ちゃんと話した方がいいと思うわ。何でも質問してくれる?」


 むしろ聞きたいことだらけだ。頭の中に「坂隙夕映さんって誰? 彼氏は? 飲酒してるってホント? 色々調べてみました!」なんてネット記事が浮かんだ。



「じゃ、じゃあ……な、なんでこんなところでお酒飲んでるの?」

「まあ、ここにお酒があるから、かな」

「用意したのも自分では」

 ダメだ会話にならない!



「一応確認だけど、あれってノンアルコールって呼ばれてるヤツ?」

 彼女の奥の机に置かれた缶を指差すと、彼女は首を横に振る。


「お酒よ。ふふっ、私、お酒が大好きだからさ」


 少し意味ありげに笑ってみせる彼女に、俺の脳内には再び、処罰だの自宅謹慎だの不穏な言葉が巡り始めた。


「ちょっと座ってよ、葦原君」


 力の抜けた俺は、坂隙さんに促されるままに、机を4つ繋げたテーブルの空いている椅子に座る。


 俺の向かいに腰を下ろした彼女は、まるでミネラルウォーターで水分補給するかのように、「サワー日和 グレープフルーツ」と商品名の明記されたその缶をくいっと傾ける。


 缶の側面に水滴のついたグレープフルーツの絵が描いてあり、一見ただのジュースに見えるけど、「アルコール7度」という表記が俺を現実に引き戻す。


 その横には、焼き鮭が乗るくらいの大きさの平皿が置かれ、薄クリーム色で平べったい、輪切りの薫製イカが盛られていた。



「えっとね、一応ちゃんと理由を説明しておこうと思うんだけど」

 彼女は鼻で大きく息を吐きながら、少し言い淀むように目線を下げた。


「まあ実は……その……私は…………ちだ……」

「え?」

「いや、だからさ、私実は…………たちだから……」

「たち? たちだ?」


 少しだけ恥ずかしそうに下を向いている坂隙さんの声は、全然聞き取れない。


 観念したかのように、彼女はバンッと机を叩いてもう一度立ち上がった。


「私、二十歳はたちだから!」

「…………はい?」


 突然の告白に効果音を付けるように、校庭から運動部のホイッスルが聞こえた。




「え、二十歳って……坂隙さん、俺の4つ上……?」

「そうね。葦原君は今年17歳でしょ? 私4月末に誕生日来てるから今年で20歳、3学年上よ。ほら、20歳でお酒飲んでるのは何も悪いことじゃないでしょ?」


 なるほど、3学年上か……ってそんな説明だけで理解も納得もできるはずがない。


「……まあもちろん、私がなんでそんなに年食ってるんだ、って話になると思うけどさ」

「いや、年食ってるは言い過ぎだけど……」


 前髪を軽く横に払いながら、彼女は小さく溜息をつく。驚きの年齢を聞いたものの制服ブラウスも赤いリボンも違和感はなくて、綺麗な人は何を着ても似合うんだと実感した。


「中学卒業するタイミングでね、親の仕事の都合で3年くらいドイツに行くことになったのよ。不安もあったけど、結構ワクワクしててさ。海外暮らしとか憧れるじゃない? しかも英語じゃない国でドイツ語話せるようになったりしたら日本帰ってきてからも自慢できるし」

「まあ確かに……え、でも向こうで普通に高校行けるよね? 日本学校とかないの?」


 それどころじゃなかったのよ、と坂隙さんは両手をひらひらと動かしてみせた。


「血液の病気で、まあ血がうまく流れない状態になってさ。向こう行ってすぐ入院になっちゃったの」

「えっ! 大丈夫なの!」


「うん、手術もしたし、今は完全に治って平気。でも結局3年間ほとんど病院と自宅療養でさ、学校行けないまま帰国しちゃったんだよね。だからこっちでちゃんと高校行こうって」


 なるほど、それで竹葉学園ここに入ったのか。


「で、4月で20歳になったからお酒を飲み始めたってわけか」

「あ、飲み始めたのは結構前よ」

「ダメじゃん」

 何さらりと自供してるんだ。


「まあまあ、葦原君。ドイツは何歳でお酒飲めるか知ってる?」

「え? あ、そうか、国によって違うのか」


「そう。ドイツは16歳で飲めるの」

「マジで!」

「うん、日本人であってもドイツ内であればその年齢が適用されるから」


 16歳ってことは俺達の年でももう飲めるってことか。海外ってホントに文化が違うんだな。


「ドイツはビールが有名なんだけどワインとか他のお酒も種類があってね。入院先のお医者さんや看護師さんがすごくお酒好きで、『退院したらこれを飲むといいよ』ってアレコレ紹介されて、それでハマっちゃったってわけ」


 ドイツは水より安いビールが売ってる国だからね、と頬を緩める坂隙さん。

 いつもクールでどこか気怠そうに見える彼女が、今は大分リラックスしているように見える。


「もちろん、日本に帰ってきてからは20歳になるまでちゃんと禁酒したわよ」

「禁酒ってこういう時に使うのかな……」

 飲みたいのに我慢してる感がすっごく出てるけど。


「ね、分かった? 法律には触れてないのよ」

「でも坂隙さん、法律はともかく校則違反じゃないの?」

「ふっふっふ、鋭いわね、葦原君。でも大丈夫よ」


 勝ち誇ったように、彼女は横に置いていた鞄のサイドポケットから生徒手帳を取り出した。


「校則には『学校内で酒を飲まない』とは書いてないの。どう、完璧でしょ?」

「完璧以前に常識でしょ?」

 わざわざ校則に書くようなことか。


「『不必要なものは持ってこない』とは書いてあるけど、必要かどうかなんて所詮は主観だしね。私にとってはお酒は必要なものだった。ただそれだけのことよ」

「言い回しはカッコいいんだけど……」

 そんな高度な開き直りをされても学校側だって困る。


「ううん……ん? なんでわざわざここでお酒飲んでるの? 合法なら、普通に家に帰って飲めばバレる心配とかないのに」

「良い質問ね! なんでだと思う?」

「え、なんでだろう……」


 楽しそうにイカをキュッと歯でちぎった坂隙さんは椅子ごと横を向き、うさぎが頬張るかのようにもしゃもしゃと細かく噛みながら、「んん……」と回答に迷っている俺を眺めている。


 彼女のとんでもない秘密を知ってなお、その横顔は変わることなく綺麗に見えて、容赦なく俺の動悸を司るポンプを激しく動かしていく。



「分かった! 家では親に飲むのを禁止されているから!」

「残念。正解は、学校だとこっそり飲む背徳感で2倍美味しいから」

「直球だな!」


 ツッコんだ後に思わず吹き出してしまう。オトナ綺麗な坂隙さんの口にした理由が子どもみたいに素直で、でもそのギャップがとても可愛らしく見えた。



「みんなそういうのあるでしょ。学校で悪いことするのが逆に燃える、みたいなの」

「まあね。カップルでも敢えて教室や廊下でキスしたり、みたいな……ヤツ……とか……」


 そこまで言って、言葉の勢いがどんどん弱くなっていく。この状況下でそれを言うのは、何か余計な想像がかき立てられてしまって。収拾のつかなくなった返事を「ああいうの困るよな」というニュアンスで眉を曲げてごまかす。


「大体さ、葦原君も悪いんだよ? ちゃんとノックしてねって貼ってるのに」

「貼ってる……?」


 まったく話が飲み込めていない俺に首を傾げた坂隙さんは、少し首を右に傾けてドアの方に目を遣り、「え、そういうこと?」と独り言を漏らしながらドアを開けて外へ出る。やがて戻ってきた彼女は、手に白い紙を持っていた。



「これ、貼っておいたけど落ちちゃってたみたい」


 コピー用紙には太い黒マジックで、デカデカと綺麗な文字が書かれていた。



『大事な作業中なので必ずノックして、返事を待ってから入ること さかな研究部』

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