七瀬ちゃんは振られてみたい?(作中時間:2022年3月)

「んー。うー」


 例によって七瀬ななせの和室での執筆デート中。真剣にノートパソコンに向かっていた彼女が何やら唸り始めたので、俺もキーボードを打つ手を止めて彼女の背中に目を向けた。

 文机ふづくえの上に軽く突っ伏すようにして、可愛い声で「ちがうな……」とか呟いている彼女。構ってほしくて鳴いているというわけでもなく、むしろ背後に俺がいるのも忘れて創作の世界に没入しているようで、そういうところがまた好きだったりするのだけど。

 ちゃぶ台の前を離れて、横顔が見える位置にそっと回り込んでみると、美少女作家はキリッとした目つきでくうを睨んだり、そうかと思えば切なそうに睫毛を伏せてみたりと、忙しなく一人劇場を繰り広げている。


「……七瀬って、百面相だよね。執筆してるとき」


 俺が横から言うと、彼女はふいに素の顔に戻って、ノーマスクの口元にえへっと気恥ずかしそうな笑みを含ませた。

 執筆中のシーンと同じ表情を無意識に作ってしまうのは、創作者なら誰でも覚えがあることだとは思うが、七瀬のそれはたぶん人より感情移入の度合いが大きいわけで。重要キャラの死亡シーンとか、一体どんな顔をして書いていたんだろうと想像するのもまた楽しかったりして。


「さすがれんくん。いいことに気付いてくれたねー」


 もう百回くらい見た、顔の横に指を立てる仕草とともに、七瀬は講釈じみた口調を作って言った。


「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとか言うけどさ。実際問題、経験したことない感情は書きづらいわけですよ」

「それはまあ、わかるけど」


 と、次の瞬間、体ごと俺に向き直って、思いもよらない一言。


「だから蓮くん、ちょっと私のこと振ってみてよ」

「はい?」


 聞き間違いかと思って二度ほど目をしばたかせたところで、彼女は構わず続けてくる。


「だって私、振られた経験ないんだもん。あ、自慢とかじゃなくて、必然的に機会がなかった的な意味でね?」

「いや、そこは堂々とドヤ顔しても許される立場だとは思うけど……。なに、今書いてるの、別れ話なの?」

「うん、『新人類』の女の子の過去話なんだけどね。『力』のことが彼氏にバレちゃって、怖がられて捨てられちゃった話」

「あー……キツイやつだ、それ……」


 俺が素直にコメントすると、作家先生はふふっと小さく笑って。


「だからね、そのキツさを体験させてよ。もちろん、演技でいいからー」

「いや、そんな、ありえない仮定をいきなり演じろと言われましても」

「いいじゃん、ケチなこと言わないでさー。七瀬ちゃんだって一度くらい振られてみたいのだよー」


 よくわからない駄々をこねてくる彼女に、俺は苦笑を隠さず言った。


「ていうか、振られたことはなくても振ったことは山程あるんじゃないですか、センセ」


 都会から遠く離れた地元の学校で、藤谷ふじたに七瀬に恋した同級生の何割が玉砕覚悟で特攻してきたのかは知らないが。彼女がそれをことごとく斬り払って、死屍累々の山を築いてきたのは間違いないわけで……。

 今更ながら、なんで俺なんかがその彼女の隣にいるんだろうと思うと、散っていった無数の同志達に申し訳なく思えてくる。


「んー……それはさ、お付き合いした上での別れ話とは違うじゃない?」

「じゃない、って言われても、俺なんかどっちも経験してないし」

「じゃあ、一緒に仮想体験してみましょうー。仮だよ仮、あくまで演技の上でのことだからっ」

「えぇぇ……」


 演技でもなんでも、そんな縁起でもないこと考えたくないんだけど……。ほら、本能が拒絶しすぎて変なダジャレが出てきてるじゃん……。


「……あー。えーと」


 何だろうな。今の俺の顔、最愛の恋人から演技で自分を振ってみろと言われて困っている表情のサンプルとしては結構いい線行ってるんじゃないだろうか。もとい、それはサンプルじゃなくて実物だし。

 それこそ体験したことのない種類の気まずさを抑えながら、俺はひとまず彼女の望み通りの言葉を喉奥から引っ張り出してみる。


「……俺達、もう……その、アレだ、別れたほうが? いいと思うんだけど……」

「どうしてそんなこと言うの?」


 なんだかマジっぽい演技で彼女が応じてくるので、ずるっと肩の力が抜けるのを感じた。


「いや、ドウシテソンナコトイウノ?じゃなくて、キミが言わせてるやつだから!」

「ちょっとー、現実に戻ってるよー。演技してよ演技ー」

「えぇ……まだやんの……」


 はぁっと息を吐き出す俺をよそに、七瀬は胸の前で小さく手を打ち合わせて「はい、仕切り直しね」とか言っている。


「どうしてそんなこと言うの? 私の何がいけないっていうの?」

「台詞の引き出しが意外と凡庸!」

「……ひどいよ、そんな理由で別れるなんて」

「いや、素のほうへの突っ込みを演技に組み込んで続けられても」

「お願い、捨てないでっ、もう素の突っ込みを演技に組み込んだりしないからっ」

「今やってるだろ、今!」


 ご丁寧に取りすがってくる彼女の腕を、軽く振り払ってみせたところで、俺達は互いに失笑しあった。


「もう、マジメにやってよ」

「いや、真面目にやりたくないんだって。俺から別れ話を切り出すとかさ、嘘でも考えられないし……」

「私から切り出されるのはいいの?」

「いいわけないだろ。そういう意味じゃなくて」


 全部冗談だと頭では分かっていながらも、背筋は律儀にヒヤリとする。そんな俺をからかうように、彼女はにまっと口元を歪めて、ぬるい流し目をくれてきた。


「案外、こっちはミワちゃん達とそういうトークしてるかもしれないよー?」


 七瀬と交流のある陽キャ女子達については、最近ようやく俺の中でも顔と名前が一致してきたところだ。


「そういうトークって、どういうトークだよ」

「『ウチももう倦怠期なのかな……。彼ったら、最近は全然私に手を出そうとしないし……』」

「最近じゃなくて一度も! 誤解を招くようなこと言うんじゃありません!」


 羞恥心を吹き飛ばすように厳しめに突っ込みを入れると、彼女も彼女で、自分で言った冗談で自分で赤くなっていた。後から恥ずかしくなるなら言わなければいいのに……。

 ふう、と改めて息を吐いて、俺は七瀬の目を見て言う。


「先生、もう気が済みましたか」

「……うん。蓮くんが演技でも私と別れ話したくないのはよくわかった」

「いや、目的変わってない?」


 まさか、ここまでのやりとりの全てが、俺の反応をサンプリングするための作戦だったんじゃないだろうな……。なんて考えていると、彼女もまた小さく息を整えて、「まあ、無理だよね」と、独り言のように呟いていた。


「? 何が?」

「ううん。ちょっと考えてたの。高校や大学でのカップルなんて、半年も経たずに別れちゃうのが相場だけどさ……」

「イヤな相場だなぁ」

「私は蓮くんと別れるなんて考えられない。そんなことになったら生きてけないよ」


 いきなりまっすぐ目を見て言われ、かっと顔が熱くなるのを感じた。


「……そんな、マジ顔で言われても、普通に恥ずかしいんだけど」

「私だって恥ずかしいよ。何これ」

「一から十まで全部キミが始めたんだけどね?」


 俺の言葉に「そうだっけ?」とトボけながら、彼女はあかく染まった頬を両手で扇ぐ。


「まだ一線も越えてない内からヘンだね、私達」

「『まだ』って……」


 いつかは越える前提なんだと、改めて思うとドキッとする。

 その内心を見透かしているかのように、彼女は穏やかな声を作って言ってきた。


「大人の階段を上る日は来るよ。望むと望まざるとに関わらずね」

「……まあ、望むか望まざるかって言われたら、それは望むところなんですけども」

「じゃ、今から階段上っちゃう?」

「いや、いやいやいや!」


 今にも七瀬のおばさんが部屋に入ってくるような気がして、俺はぶんぶんと手を振った。


「そのさぁ、俺がそうするって言わないの分かっててからかうの、いい加減やめない!? 心臓に悪いんだって!」

「それだけ信用してる証だよ」

「それは結構なことですけども……! 知らないよ、俺が耐えきれなくて狼になっても」

「やっとたいを表してくれるんだ」


 くすっと笑って、七瀬はふいに話を切り替える。


「でも、大人といえばさ。私達、四月で成人になっちゃうんだよね」

「ああ、そういえば……。全然実感わかないけど」


 俺達の世代にとって、それはここ数年で耳にタコができるほど聞かされてきた身近な話題だった。

 いよいよ、この四月から民法の規定が変わり、成人年齢は二十歳から十八歳に引き下げられる。飲酒や喫煙はできないが、もう選挙の投票にも行けるし、スマホやアパートの契約なんかも一人でできるようになる……。

 そして、陽キャも陰キャも問わず、この世代の高校生という高校生が、一度や二度や十度や百度は耳にしたり自ら喋ったりしてきた話題といえば。


「もう自分達だけで結婚もできちゃうよ。どうする?」


 そう、そうなのだ。イタズラっぽい上目遣いで、パチリと片目を閉じてくる七瀬の言う通り。婚姻適齢とかいうのが男女ともに十八歳に揃えられ、成人年齢と等しくなることで、法律上、十代の結婚にあたって親の同意という概念は姿を消す。

 俺達は三月末で高校生ではなくなるので問題ないが、一つ下の学年からは、たとえ現役高校生でも十八歳になれば本人の意志だけで婚姻届を出せるようになる。それを学校側が禁じることはできるのかという問題に、今、全国の先生達が頭を悩ませているらしい。


「どうするって、そんな、今夜の献立の話みたいに……」

虹星ななせ彩波いろはにする? 藤谷七瀬にする? それとも私?」

「全部同じじゃん」

「三つめの私は尾上おがみ七瀬だったりして」

「だから、気が早いんだって!」


 俺が胸を押さえて必死に突っ込んでいると、彼女は俺の目を見つめて尚も追撃をかけてくる。


「えー、じゃあー、いつチカちゃんを私の姻族いんぞくにしてくれるのー?」

「なんでそれがキミの望みになってるんだよ。親族になりたきゃ勝手に養子にでもしてやればいいじゃん」

「養子縁組できるのは今後も二十歳からだよ?」

「あぁ、そうなんだ……」


 そこで束の間の沈黙。じぃっと俺を見上げてくる彼女の視線が、ひとまずの区切りの言葉を欲しがっている。俺は観念して口を開いた。


「……まあ、その。いつかそれに相応しい時が来たら、ちゃんとしたシチュエーションで、ちゃんと話します」


 一体何を言わされているんだろう、と思いながら言い切ると、彼女は満面の笑みで「うん、待ってる」と頷いてくれた。

 お互い顔面付近の温度がヤバいくらい上昇しているのが分かる。俺は片手で顔を扇いで、恥ずかしさを振り払うように、彼女のパソコンの方を指差した。


「そんなことより、続き書かなくていいの。今日中に菊池きくちさんに送るんだろ」

「そうだったっ。もうー、蓮くんが茶々ばっかり入れるからー」

「絶対違うじゃん」


 俺の指摘にぺろっと舌を出し、文机に向いて執筆に戻ろうとしたところで、彼女はわざとらしく「あっ」と声を上げた。


「そうそう。入学式の日、夕方以降は空けておいてね?」

「へ?」


 民法改正と同じ四月一日。ウイルス禍のため小規模ではあるが、俺も七瀬もそれぞれの大学で入学式を迎える。新入生用のオリエンテーションは別日だし、さしあたって式の日は他に何もないはずだったが……。

 この楽しそうな七瀬の顔。これはよほど悪いことを企んでいるな?


「それまでに私のこと振っちゃダメだよー」

「だから、振るわけないって……」


 入学式編かエイプリルフール編か何か知らないが、ウェブ小説風に言えば「次回に続く」ということらしかった。

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