第29話 運命の人(2)

「私も、中学の頃にね、小説サイトで書いてたことがあるの。オルフェウスの三つ前くらいのバージョン。まだタイトルも違ったけどね」

「……そうなんだ」


 そういえば、サイン会に来たアンチが、「サイト時代は鳴かず飛ばずだった」とか何とか言っていた気がするな……。

 少しずつ欠けてゆく月を見上げながら、美少女作家は言葉を続けた。


「でも、全然ダメだった。ネットの読者さんに受ける作品の魅せ方とか、私にはわからなかったし……。ポイント稼ぎのために、沢山の作者さんと交流する気にもなれなくて」

「耳が痛い話だわ」


 俺が自嘲めいた相槌を打つと、彼女はくすっと笑って、特にフォローするでもなく述懐を進める。


「でも、そんな時にね。あなたは文章上手いんだから、ちゃんとした小説が書けるんだから、公募に転向してみたら? って言ってくれた人がいたの」

「……へぇ」


 まあ、俺もよくそういう話はしてたけど……。ウェブ小説で結果が出ないと嘆いている作者に対して、「あなたは公募向きかも」は角の立たない励ましの言葉として一般的だし……。


「大勢のフォロワーさんがいるその人が、私なんかの相手をしてくれたのが嬉しくて。私、その人に言われたように、高一の年、初めて公募に作品を送ってみたの。結果は落ちちゃったけど、でも……私よりずっと落選の辛さを知ってるはずのその人が、変わらず前向きに新作を書き続けてる姿を見たら、私もまた頑張れた」


 マスクに隠された彼女の口元が、なんだか幸せそうに緩んでいるように見えて、俺は胸に刺さる痛みを表に出さないようにするのに必死だった。

 ソイツこそが彼女の恩人で、本当の「運命の人」ってわけか……。そんな相手がいるなら、俺なんかが入り込む余地は……。


「その頃の私って、Twitterとかもあんまり得意じゃなくて。その人ともそんなに頻繁に話したわけじゃなかったの。だけど、作品は全部読んだし、たまに勇気を出してTwitterでも話しかけてみた。何百人ってフォロワーさんと日々話してるのに、その人は私みたいな弱小作者のこともちゃんと見てくれて、ちょっと弱気なこと言ったら、決まって励ましてくれた……」


 うっとりした声で語る彼女の横顔に、ふと、ネットで優しい人はリアルでも優しいものだよ――と言っていた先日の彼女の姿が重なる。


「まさか、その人が、リアルでも会ったっていう?」


 我慢しきれず俺が尋ねると、彼女はなぜか笑って、「こらっ」と顔の横に人差し指を立てた。


「話は最後まで聴きなさいっ」


 弾む声でたしなめてくる、その仕草の可愛さも、今の俺には身を切るように切ない。

 すっと手を下ろして、彼女は夜空を見上げて続きを語る。


「だけどね。私が二回目の公募に落ちちゃって、三回目をどうしようかなって思ってる頃に……その人は、いきなりサイトのアカウントもTwitterも消して、いなくなっちゃったの」


 一瞬、えっ、と驚きかけたが、よくある話だと思い直した。

 少し前まで意気揚々と活動していた作者が、ある日を境に突然消えるなんて、この世界では日常茶飯事だ。かくいう俺も何人もの仲間を見送ってきたし、最後は俺自身も……。

 ……そこで、赤銅色に染まって欠けていく月を背景に、彼女はすっと俺に向き直った。星空を宿すその瞳が、ここからが本題だよ、と告げている気がした。


「私ね、どうしてもその人とまたお話したくて、覚えてる限りの小説のタイトルで検索したの。そしたら、中学校の文芸部の活動報告が載ってるページを見つけた。……その人は、サイトに載せてたのと同じ短編を、文芸部名義の電子書籍に載せてた」

「え……?」


 ぞくり、と、それまでとは違う冷たさが意識を侵食する。

 勝手に大人の男性を想像していたが、中学生って……。いや、それより、文芸部の電子書籍って、まさか……。


「今の時代って怖いよね。大体の地域と名字だけでもわかれば、ネットで何でも調べられちゃう」


 絶世の美少女の目には、妖しいまでの笑みが浮かんでいた。


「同じ学区の小学校の名前で調べたら、作文コンクールの授賞式の写真がすぐに出てきた。そこで知ったフルネームで検索したら、読書感想文の賞のページに高校名が載ってた」

「……キミ、何を……」


 凍てつく夜空に放り出されたような感覚。息もできない動揺の中、俺の理性はかろうじて、彼女の挙げる単語の一つ一つが、自分自身の経歴と合致することを悟る。

 だけど、そんな……。そんなことが、あるわけ……。


「それから、オルフェウスの受賞が決まって……私は、その人の居所がわかる内に会いたくて、高校生の内に東京に出てきた。高校を出ちゃったら、その先も行方がわかる保証なんてないもんね」


 かたかたと小刻みな震えが全身を襲っていた。私ってやるでしょ、とでも言いたげな笑みを前に、俺が思わず喉から絞り出したのは、「なんで、そこまで……」という言葉だった。

 彼女は僅かに首を傾け、「なんで?」と繰り返す。


「決まってるじゃん。私が作家になれたのは……お母さんとの作品を世に出せたのは、その人の言葉があったからだもん。会ってお礼が言いたかった。今の私を見てほしかった。もっとお話したかった。もっともっと……その人の作品が読みたかった」


 押し寄せる言葉の波に、どくん、と心臓が脈打つのを感じた。


「私に勇気をくれた運命の人。その人の名前は紅狼くろうアレン――キミだよ、尾上おがみれんくん」


 美少女作家の白い指が、すぅっと俺を指差す。



 その瞳にまっすぐ俺の姿を映して、彼女が最後の言葉を言い切った、その瞬間――

 長い金縛りから解かれたように、凍りついていた血流が、どくり、どくりと、全身を流れ出すような気がした。


「……俺が……?」


 乾いた喉から、それ以上の言葉は出なかった。

 知らない間に、俺は彼女とネットで話していたっていうのか。あの頃、アレンとして言葉を交わしていた無数の作者の中に、デビュー前の彼女がいて。

 彼女はこの学校に来る前から俺のことを知っていた? いや、それどころか、俺と会うためだけに、この学校を調べて、わざわざ東京に出てきた……?

 普通だったら考えられない話だった。だけど――

 出会ってからの無茶振りの数々が早回しのように脳裏を駆け巡り、一つの思いが俺の中に確信となって焼き付く。

 そうだ。


 十秒か、二十秒か、月食の夜空を横目に、俺と彼女はじっと無言で向き合っていた。

 彼女は満足そうな笑みを浮かべて俺を見つめているだけ。反応を待っているのはわかるけど――こんな衝撃の事実を明かされて、俺は彼女になんと言葉をかければいい。

 努力が実ってよかったね、か。お役に立てたなら嬉しい、か。違う。彼女はそんな当たり前の言葉を欲しがっているんじゃない。

 だったら、なんだ、月が綺麗ですねの原文か、それとも――


「……なら、ケントは生きなきゃ」


 それほど熟考したわけでもなかった。ふいに頭に浮かんだその言葉を、俺はそのまま彼女にぶつけていた。

 えっ、と、黒い瞳が見開かれるのを見て、俺は続ける。


「ケントは生きてたことにして続きを書かなきゃ、話が合わないじゃん」


 あの主人公のモデルがアレンだというのなら。アレンが彼女の前から消えたから、ケントもユリの前で眠るように目を閉じたのだというのなら。


「だって、俺はここにいる。アレンじゃなくなっても、俺はキミの前にいるだろ」


 動揺も緊張も振り切って言うと、今度は彼女が言葉を失う番だった。

 ゆっくりとしばたかれたその瞳から、はらりと涙がこぼれる。


「尾上くんっ――!」


 感極まった声で、彼女は俺の名を呼んで。

 ばっと腕を広げて、俺の胸に飛び込もうとしてくる――それを結局、すんでのところで後ろに引いてかわしてしまうのが、俺のどうしようもなくチキンなところだった。

 目の前で軽くつんのめった彼女が、涙まじりに「もうっ」と声を上げて、上目遣いに俺を睨んでくる。


「ばかっ、ここは抱き締めるシーンでしょっ」

「……いや、そのっ、心の準備が」

「チカちゃんにヘタレ犬って言われちゃえっ」

「自分で言えば!?」


 一瞬の沈黙を置いて、どちらからともなく笑いが漏れたところで、彼女はいきなり「そっか!」と黄色い声を上げた。


「な、何?」

「今の『アレンじゃなくなっても』で閃いたのっ。うん……そう……これなら!」


 半分まで欠けた赤銅色の月をバックに、その目を星空よりも輝かせて、美少女作家は言葉を並べ立てる。


「最後の戦いで命の火を燃やし尽くしたケントは、新人類としての命を失った……だけど、そのかわりに、もう一度新しい命を得た。ニホンオオカミの力の代わりに、今まさに地上から滅びようとしている『新人類』そのものの力を受け継ぐの」


 種族としての「新人類」を背負って戦う彼の姿が脳裏に浮かび、俺は思わず発言のバトンを引き継いでいた。


「そっか、まだ真の敵との戦いは終わってない。ケントは、死んだイズミやレイラ達の夢も背負って、人間と新人類、両方の希望として立ち上がる――」


 小刻みに頷く彼女の表情が、見る見るうちに満面の笑みに変わっていく。


「やった! できたよ、オルフェウスの続きっ!」


 両手で俺の手を握り、飛び跳ねんばかりの勢いで彼女は言った。いつもの緊張より何より、俺の胸も興奮と感動で一杯だった。


「ずっと握ってたいけどっ、でも、早く菊池きくちさんに伝えなきゃっ」


 やっぱり俺をドキッとさせる一言を差し込むことも忘れず、彼女はたたっと机に駆け寄ってスマホを取り上げる。

 この企画なら通るのは、もうわかっていた。数秒置いて通話が繋がり、嬉しそうに喋り始める彼女の横顔を、俺はいつまでも満ち足りた気持ちで眺め続けていた。

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