第30話 ただひとつの条件(1)
翌週の月曜日、
近くで待ってるから、とは、今回は言わなかった。「ついてきて」と彼女に笑顔で言われたのもあるが、何より俺自身が、彼女の努力が報われるシーンに立ち会いたかったのだ。
「――うん、これなら問題ないでしょう」
簡単なパーテーションで仕切られた打ち合わせブースで、企画案から目を上げた菊池氏は、マスク越しにもわかる自信満々の表情で、彼女と俺に向かって親指を立ててきた。
「一巻のストーリーを壮大な序章として、真の戦いの始まりを描く理想的な第二巻です。これなら既存読者にも歓迎されますよ」
「やったっ。ありがとうございます!」
隣に座る美少女作家の目が喜び一色に染まるのが、俺も自分のことのように誇らしい。
「……っと、まだぬか喜びはダメでしたね」
すぐさま我に返ったように頬を
「先生にここまで頑張って頂いたんですから、ここから先は私の仕事です。会議はバッチリ通してみせますよ」
その頼もしい一言に、彼女は再びぱっと表情を明るくして、「よろしくお願いしますっ」と頭を下げていた。
俺もペコリと黙礼したところで、ふいに菊池氏は俺にも温かな目を向けてくる。
「
「い、いえっ……! あの、なんかスミマセン、部外者が図々しく付いてきちゃって」
俺が恐縮しきって答えると、彼は優しく笑って。
「部外者……今はそうかもしれませんね。でも」
どこまでも真剣な声のまま、さらりと言ってきた。
「いつかあなたが、商業でデビューされることがあれば……その時は、ウチのレーベルもご縁を頂きたいものです」
社交辞令にしても身に余るその言葉に、ひたすら縮こまって頷くしかない俺の横で、美少女作家はくすくすと口元を押さえて笑っていた。
***
「じゃあん、重大発表! このたび、私こと
十二月に入って間もないその日、文芸部の部室を訪れた藤谷さんが高らかに宣言すると、チカは俺をずいっと押しのけて彼女に駆け寄り、狂ったようなテンションで「おめでとうございますっ!」と叫びながらその胸に飛び込んでいた。
「ナナセさんなら、きっと行けるって信じてましたっ!」
「うん、ありがとっ」
微塵のためらいもなくその体を抱き締め、よしよしと頭を撫でる彼女。「ファーストハグ頂きですー」とか何とか
「尾上くんがあの夜ハグしておかなかったのが悪いんじゃーん」
「そーですよ、みすみす据え膳逃したヘタレ犬が悪いんですよっ」
と、チカもすかさず同調する――あれ?
「って、なんでお前もそのこと知ってんだよ!」
たちまち顔面が熱くなるのを感じながら突っ込むと、女性陣は揃って楽しげな流し目を向けてきた。
「尾上少年、ガールズトークを甘く見ちゃいけないよ?」
「ナナセさんにヒドイことしたら全部私に筒抜けですからっ」
「えぇ……こっわ……」
それから、やっとチカが藤谷さんから離れたので、俺は本題を思い出して、改めて「おめでとう」と言った。
「ありがとっ。まぁ、ここからが死ぬほど大変なんだけどねー」
可愛く肩をすくめてみせる彼女の言葉が、決して大袈裟ではないのは俺もわかっている。新作を書くの書かないので右往左往していた分、ようやく決まった続刊のスケジュールは相当タイトなものになっているはずだった。
「まず急ピッチで作品を仕上げなきゃいけないしー、それが通ったら何度も何度もゲラ
チカが「でも憧れますっ」なんて言うのを横目に、俺は控えめな声で申し出てみる。
「手伝えることがあったら手伝うけど……」
「だーめ、受験勉強してなさいっ」
ぴしっと人差し指を向けられ、ぐっ、と黙る以外の選択肢は俺になかった。
入試本番まではあと一ヶ月半しかない。今だって、机には気休め程度に英語の過去問を広げていたところだった。……正直、総合型選抜で既に進路を決めている彼女が羨ましくて仕方がない。
……と、そこで、彼女はシトラスの香りを漂わせながらふわりと俺の前に歩み出て、改めて俺の目を見て告げてきた。
「私、尾上くんに二回も助けられちゃった。ほんとにありがとう」
マスク越しの笑みに、どきんと心臓が跳ね上がる。
「ど、どういたしまして……。一回目のことは、覚えてなくてゴメンだけど」
おずおずと言うと、彼女はクスリと笑って「いいんだよ」と答えた。
「だって、昔のキミは……私が美少女だからでも、手を握られたからでも、デートしたからでも、お
「……まあ」
気恥ずかしさにチカの方をちらりと見ると、後輩はさすがに空気を読んでいるのか、彼女と俺の会話を興味津々の目で見守っているだけだった。
彼女が
「ホラ、私って、こんな見た目だからさー」
細い指で自分の顔を指差して、絶世の美少女は話を続ける。
「色んな男の人から、そりゃもう色々優しくされるわけですよ」
「……だろうね」
「ウチの小学校なんか、男子は全員一度は藤谷
「あながちウソとも言い切れないのが怖い……」
正直にコメントすると、彼女は「ホントだよ?」と小さく胸を張ってみせた。
俺が思わず目をそらした瞬間、その視線を引き戻すように、彼女は新たな言葉を口にする。
「でも、尾上くんは……。ネットの向こうの、顔も知らない、歳も知らない、女子かどうかもわからない、そんな私を真剣に励ましてくれた。しかも、その一つ一つを覚えてられないほど、いつでも沢山の人に希望を配ってきた。そんなキミだから、私は――」
一言一言で俺をドキリとさせるように発せられてきた言葉が、そこで、ふいに止まった。
「……私は、なに」
「ううん」
小さく首を横に振り、艶やかな黒髪を片手で軽く撫ぜて、彼女は急に今までと違う調子で言った。
「ちょっと、勢いよく喋りすぎちゃった。ノド乾かない?」
「はい?」
「尾上くん、飲み物買ってきてよ」
すかさず「そんなの私が」と言いかけるチカに、彼女は何やら目配せして。
「いいのー、尾上くんチョイスの飲み物が飲みたいの」
戸惑う俺の手に、Suicaの入ったピンクのパスケースを押し付けてくる。
「自販機でこれが使えるくらい、イナカの子でも知ってるんだぞー」
「……いいけど、後輩がいるのに部長をパシるんだ」
わけもわからず苦笑して視線を向けると、当の後輩もキョトンとした顔をしていた。
「いいじゃん。きっとこれが……今の関係でする、最後のお願いになるから」
もはや見慣れた、胸の前で手を合わせて小さく首をかしげてくる仕草。何度見たって可愛いものは可愛くて、俺はもう言い返す気力を奪われていた。
まあいいけど……と呟いて、部室を出て購買部を目指す。
いつも唐突で言動が読めないんだよなぁ、あの子は……。創作に関することなら少しはわかるようになってきたけど、それ以外の部分は何を考えてるんだか未だにサッパリだ。
それにしても、今の関係では最後って。高校の同級生でいる間は、もう俺に頼るような事態は発生しないってこと?
なんだか、それはそれで物足りないような……。
……そんなことを考えながら、彼女のパスケースが周りの生徒の目に入らないようにして、自販機で小さなペットボトルのミルクティーを買い、それから自分のSuicaで缶コーヒーを適当に二種類買って、部室に戻ってみると。
そこには、藤谷さんが一人、夕日の差す窓辺に佇んでいるだけだった。
「あれ、チカは?」
「うん? ちょっと、急用ができたとか言って、どっか行っちゃった。……優しい子だよね」
何だそれ。前段と後段がイマイチ噛み合ってない気がするけど……。
「アイツの分も買ってきたのに。……まあ、悪いヤツじゃないのは否定しないけどさ」
彼女にミルクティーとパスケースを手渡し、コーヒーの片方は適当にスクールバッグにねじこんでおく。
なんなんだ、この状況……と思っていると、彼女はマスクを外して胸ポケットにしまい込み、ミルクティーのキャップを開けながら、素顔で微笑みかけてきた。
「まあまあ、ホラ、飲み物でも飲んで落ち着いて」
「今は別に慌ててないけど……」
彼女にならってマスクを外し、熱いコーヒーに口をつける。彼女はなぜか満足げな目で頷いて、自分もミルクティーを口にした。
そして、鈴を転がすような声で、楽しそうに言ってくる。
「言われてみれば、尾上くんもすっかりキョドらなくなったよねー。初めて会った日の慌てぶりが懐かしく思い出されるよー」
「……いや、そりゃ、誰だってビビるって。美少女転校生がいきなり小説を読ませろって言ってきたらさ」
言うほど落ち着いて話せるようになった気もしないが、僅か二ヶ月前のあの日のことが、随分と遠くに感じられるのは俺も同じだった。
「でも、実は私もドキドキしてたんだよ?」
「ウソばっか」
「ウソじゃないよ。……ずっと会いたかった人に、やっと会えたんだもん」
ノーマスクの恥じらい顔との合わせ技に、呼吸が止まりそうになる。……ほら、やっぱり、全然慣れてなんかないんだって。
片手で胸を押さえるいつもの俺の仕草に、彼女はふふっと笑って、それから。
「さて、尾上くん」
ことりと窓枠にペットボトルを置いて、すぅっと小さく息を吸って吐き、ゆっくりした動作で俺に向き直ってきた。
「もし、このまま何も変わらなかったら、私達、あと三ヶ月くらいでお別れなわけだけど……」
えっ、と動揺するいとまも与えず、続けざまに一言。
「何か、私に言いたいことがあるんじゃないのかな?」
黒く輝くその瞳には、俺を弄ぶというより、試しているような光が宿っていて。
緊張も何もかも忘れて、思わず苦笑いが漏れてしまった。
「それさぁ、ずるくない?」
「ずるくないよ。主人公らしく決めさせようとしてあげてるんだよ」
「主人公、ね……」
……まあ、作家先生が言うならそれでもいいか。
こういうことはやっぱり、ちゃんと男から言うべきだっていうのは、俺も意見を同じくするところだし。
それに、何もかも彼女からのままだと、これからも永遠に対等になんてなれない気がするしな……。いや、この見え透いた人払いの時点で、完全に彼女の術中なのはわかってるんだけど……。
彼女の黒い髪が、夕映えを照り返してキラキラと輝いている。
俺の言葉を待っているその笑顔は、いつもより少し張り詰めている気もして。
もしかして、彼女も緊張しているのかな……なんて思うと、自然と覚悟が決まった。
物書きだからって、月が綺麗ですねとか、必ずしも持って回った表現は要らない。結局、シンプルでストレートな言葉こそが最も人の心を打つのだと、誰かが言っていた気がする。
だから俺は、コーヒーの缶を机に置き、バクバクと鳴る胸を押さえて、しっかりと呼吸を整えて。
星空のような彼女の瞳をまっすぐ見て、その言葉を告げた。
「好きです。付き合ってください」
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