第2話 突然の来訪者

 部室棟の片隅にある文芸部の部室に、どこか優雅さを感じさせるノックの音が鳴り響いたのは、俺がいつものようにパイプ椅子を引いて窓際に腰掛け、スマホのゲームアプリを開こうとしていた時だった。

 室内には俺一人。の部員はまだ来ていないが、アイツならノックなんてするはずないしな……なんて思いながら、俺はひとまずスマホを長机に伏せ、あごに掛けていたマスクの位置を直して「はい」と返事をする。


「失礼しまぁす」


 どこか楽しげな調子の女子の声。

 横開きの扉がからりと開き、姿を見せたのは、きょう一日クラスの注目を集めっぱなしだった、あの美少女転校生に他ならなかった。


「えっ……!?」


 あまりに予想外の事態に、俺は思わずガタッと音を立てて立ち上がってしまう。

 どうして、彼女がこんなところに……!?


「あー……えっと、藤谷ふじたにさん? なんで?」


 かろうじてその名字を記憶から引っ張り出し、俺が緊張に喉を震わせて言うと、彼女はマスク越しにくすりと笑って後ろ手に扉を閉め、部室に足を踏み入れてきた。

 リノリウムの床に響く微かな足音。柑橘系の甘い匂いが鼻腔をくすぐり、俺はバクバクと鳴る胸を咄嗟に片手で押さえる。


「な、何しに……?」


 長机を挟んで僅か二メートルほどの距離で、絶世の美少女が――話題の高校生作家が俺と向き合っている。その異常な状況に脳の処理が追いつかず、俺はぱちぱちと目をしばたかせることしかできなかった。

 さっきまで「持ってるやつ」のことなんか考えたくもないと思っていたのに、いざ目の前に立たれると、あまりの動揺に全身の血流が熱くなるのを感じずにはいられない。

 休み時間のたび、他のクラスや学年からさえも、彼女をひと目見ようと多くの野次馬が教室に押しかけていた今日という一日。そんな「密」を極める喧騒の中でも、もちろん俺は彼女と一度も口なんて利いていないのに、なぜその彼女が俺なんかの居場所に……?


「そんなの決まってるでしょ、尾上おがみれんくん」


 もっと驚くべきことに、彼女は俺の名前をフルネームで呼んできた。教壇で挨拶していた時とはどこかキャラの違う、ふふっとイタズラっぽい笑い声まで交えて。


「な、なんで、俺の名前……」

「なんで、も何も。同じクラスじゃない」


 いや、それは、少なくとも数ヶ月くらい同じ教室で勉学を共にした人間の言うことであって……。

 今日転校してきたばかりの彼女が、一度も言葉を交わしてすらいない俺の名前を知ってるなんて、そんなことあるわけが……?


「もう、察しが悪いなあ、仮にも物書きでしょー?」


 なぜか嬉しそうな口調のまま、彼女は肩に掛けていたスクールバッグをスッと長机の上に降ろした。

 物書き? ああそうか、ここが文芸部だとわかって……。


「……別に俺は、物書きなんかじゃ……」


 もう小説なんて一年以上も書いていない。文芸部と言っても名ばかりで、マジメに文学をたしなんでいるわけですらない。

 そんな俺の否定の言葉を遮るように、彼女は机越しにすいっと身を乗り出して、俺の目をまっすぐ覗き込んでくる。


「っ……!」


 距離が、距離が近い……!

 無意識に後ずさった俺の背中が窓にぶつかるのを見て、彼女はまたも笑みを漏らした。


「でも、ここ、文芸部でしょ? そしてキミは部長の尾上くんだよね」

「……そうだけど、ふ、藤谷さんみたいな人が来るとこじゃないって」


 みたいな人、という言葉を自分がどんな意味で言ったのか、自分でもよくわからなかった。

 道ゆく誰もが振り返りそうな美少女が、こんな陰キャのテリトリーなんかに。あるいは、仮にもプロの作家様が、たかが高校の文芸部なんかに。

 ……いずれにしても、彼女が興味を持って訪れるには、この場所はあまりに場違いすぎる。


「私が来なくてどうするのだよ、ワトソン君。自己紹介は聞いてくれてたでしょ?」


 なおも机越しに問いかけてくる彼女に、いやいやと俺は首を振る。

 というか、やっぱり教室にいた時とキャラが違わないか? 担任には「作家の件はヒミツって言ったじゃないですか」とか言ってなかった?


「よく知らないけど、高校生作家なんだろ? ……ここには、作家センセーにお見せするものなんか何もないって」


 精一杯の嫌味を取り繕った俺の言葉なんて、意にも介さず。

 彼女は目元に余裕の笑みを含ませたまま、傍らのスクールバッグから無造作に何かの本を取り出してみせた。

 長机を回り込んで、華奢な体が俺に歩み寄る。動けない俺の眼前にすっと差し出されたのは、新品らしき文庫本だった。


「これ、まずはご挨拶がわりに。この部室の蔵書に献本いたしましょー」

「……何? 藤谷さんの本?」


 ここまでの流れからして、それが彼女の著書であることくらいは俺だってピンとくる。

 彼女の纏う甘い匂いを感じながら、俺はやむなく本を受け取った。草薙くさなぎレギオン文庫……ラノベの有名レーベルの一つだ。

 表紙には赤く染まった空と、男女四人の若いキャラクターのイラスト。萌え絵ではなくキレイ系のタッチに、クールなフォントで『オルフェウスの楽園』というタイトルが被さっている。ウェブ小説の流行りとは異なる、いかにも公募勢という感じのタイトルだった。

 著者名は――「虹星 彩波」。


「にじほし……あやは?」


 当てずっぽうで読み上げると、作者様は「ちっちっ」と俺の目の前で人差し指を振ってきた。


「下の名前はともかく、上は読めるはずだけどなー。朝のホームルームをよーく思い返してみましょうー」

「……イヤ、普通に読み方教えてほしいんだけど……」


 言いながらも、俺は今朝の彼女の自己紹介の記憶を辿っていた。

 担任のちょっと雑な字で黒板に書かれた名前……。フルネームは確か、藤谷……七瀬ななせ


「ああ……これ、虹の星でナナセって読むの?」


 俺が言うと、彼女は「正解っ!」と嬉しそうに声を弾ませた。

 いや、ここまでヒントを振られて、正解も何もないんじゃ……。よく見ると、著者名の下に気取ったフォントのローマ字で読みが書いてあるし。


「あらためましてー、新人作家の虹星ななせ彩波いろはと申します。以後、お見知りおきをー」


 おどけた調子でぺこりと小さく頭を下げてくる彼女に、俺は「はぁ」と生返事で返すことしかできない。


「……それで、その新人作家様が、こんなとこに何の用で……」


 俺の言葉を再び遮って、美少女が上目遣いに視線を合わせてくる。


「だーからー、決まってるじゃん。キミの作品を読ませてもらいに来たんだよ、尾上くん」


 そう言い切った彼女の表情は、上半分しか見えないのに、今日で一番楽しそうに思えた。

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