第9話



その後も俺とイチジクの静かな会話は続いた。俺たちは久しぶりに会話できたことが嬉しかったのだろう、話題は尽きることなく、楽しい時がながれていた。





まぁ、あの勘違い以降のイチジクの毒舌を除いて……だが





『あ、また外で戦闘ですマスター、上から哀れな経験値が降ってきます』




たしかに言われてみれば、外から魔物の断末魔が聞こえていた。





『ああ……またか……てか、魔物だろ? 経験値なんて言ってやるなよ』





しかし、そう思えてしまうのも仕方がない。イチジクとの二時間ほどの会話の中で、すでに三十体以上の魔物が俺の経験値となっていたのだ。





ボチャン……さっきの声の主だろう。大きな塊が上から落ちて来て、経験値となっていく。





この山の魔物は大陸の中でも凶暴かつ強力ということで、レベル60以上の冒険者しか立ち入らないらしい。さらに、奥へ行けばレベル80の冒険者でも一歩間違えれば死ぬそうだ。





今の俺はそんな山の奥で、高レベルこ魔物をバッタバッタと倒す冒険者のようなものらしい。レベルがすごいスピードで上がっていた。





『なぁ、イチジク、俺が人間になってイチジクのいた鞘の剣を使えばここから出られないか?』




ここにきて特に話すことのなくなった俺は、ここから脱出する策をイチジクに提案してみた。




『はいマスター。確かにそれは可能だと思いますが、今ここで外に出るメリットがありません。今のマスターは鍋蓋として浮いているだけで、経験値がどんどん入ってきている状態です。どうせ出るのなら、少しでも強くなってからの方がいいのではないでしょうか?』




さっさと鍋蓋から卒業したい気持ちは変わらないが、たしかにそういイチジクの言うことに異議はない。




この世界では強さこそが全てだ。これは新人ゴブリンを見ていて痛いほどに分かった。





強くないものは淘汰される定めにあるのだから、少しでも強くなってからのほうが良いだろう。





『それに、外に出てしまってはマスターをこうして罵倒する時間も短くなってしまいます』




それに、俺は呆れたような声を出す。




『お前ってやつは……安心しろ、俺はコミュ症だから外に出たとて生身の人間よりイチジクと会話すると思うぞ』





『………………』





あれ? なぜに無視?




『ま、まぁ、お前の毒舌のことは置いといてだ。俺はしばらくはここで力を蓄えることにする。幸い話し相手もいるわけだし、ここで浮いているのも悪くはない』




俺が本心を告げると、イチジクは重たい腰をあげるように言った。





『……まぁ、仕方ありませんね。分かりました、お伴します』



『あぁ、これからもよろしく頼む』






こうして鍋蓋と付喪神の胃の中生活が幕を開けたのだった。










胃の中生活ニ日目


早々にレベルが75を超えた。岩みたいなイノシシが大量に降ってきたからだろうか。





胃の中生活五日目


 イチジクに日本に伝わる昔話を聞かせてやった。イチジクのここ数年間で荒みきった心を、この清流がごとき俺が、楽しい話で癒してやろうとしたのだ。

話していると、イチジクが柄にもなく『ありがとうございます』と感謝してきた。


レベルがもうすぐ80になろうとしている。




胃の中生活十日目


 イチジクには夢があるらしい。夢の内容までは教えてくれなかったが、その話の時はやたらとウキウキしていた……気がする。無機質だから分からない。

レベルが80を超えてから上がりにくくなった。一日でレベルが1上がれば良いほうだ。





胃の中生活二十日目


今度は俺についての話をした。あの世のことは言わなかったが、前世でのことやこちらに来てからのこと。その中で彼女が特に興味を持ったのは俺の初恋の話だった。


フラれたことを伝えると『……フフフフフ、たしかにマスターの性格では、その辺の女の子とお付き合いするのは無理でしょう』


という、感情のない笑みと、毒舌付きのアドバイスが飛んできた。『その辺の』を特に強調していたのは、わざとなのだろうか?



くそ! こいつにはもう恋愛相談しない!





胃の中生活三十日目


イチジクと長い間会話していく中で、新しい称号が増えた。「付喪神に好かれし物」というものだったので、イチジクに『お前、俺のこと好きになったのか?』と聞くと、『マスター、ケンカを売っているのですか?』と簡潔に返された。



うん……俺も自分で聞いてて、ありえないなと思ったよ?



それと、最近レベルがやっと90に達した。





胃の中生活五十日目



 イチジクとの距離が近くなり、少し踏み込んで胃の中での三年間について聞いた。



 まず、元の持ち主が死んだあとも、人間の冒険者たちはこのドラゴンの足止めをしようと、次から次にやって来ていたらしい。外の声と降ってくるもので分かったのだろう。

 そのおかげで、このドラゴンがイーストシティに到着することはギリギリ防げていたようだ。




そんな中で、彼女はここに落とされてからのはじめの数日間、ずっと刀の付喪神と話していたらしい。しかしすぐに、刀の付喪神はこの暮らしに耐えられなくなり、落ちて来た布切れに取り憑いて、それが溶けるとともに死んだそうだ。




 宿主であった鞘や剣は【自動修復】なるスキルが備わっていたらしく、このルビィドラゴンの胃の熱さにも耐えられたらしい。




イチジクも剣の付喪神の追って死のうと思ったが、自分が死んだら自らの親である鞘を見捨てることになると、思いとどまったらしい。




そして、彼女は多くの感情を失った。話す相手もいない、心の支えもない、ただただ聞こえるのは魔物と冒険者の断末魔だけ、全てのものが蒸発してなくなる世界……精神が壊れても仕方のない状況だ。



そんな彼女に残ったのは全てに対する諦めだった。もう死のうかな……そう思った極限の中、上から俺がやってきたらしい。




経験値に違和感を覚えて上を見ると、眩い光が辺りを満たした中心に人の姿をした俺がいたそうだ。おそらく人化した時の光だろう。




『じゃあ、俺はイチジクを救った救世主になるのか! まぁ、まだ救ってないけど』




シリアスが重くのしかかってきたので、俺がおちゃらけて切り出すと、思いもよらない言葉が返ってきた。




『はい……マスターは偶然にでも私を救ってくださいました』


『え……? お、お前……』





まさかの発言に戸惑ってしまう。普段ならこういう事を言うと安定の毒舌で返してくるはずなのだが……




『からかってるだろ?』

『少々……』



最近はこういった、俺の困っている反応を見るためのからかいをして来ることがあるのだ。





胃の中生活六十日目


この長い生活の中で、また称号が書き換わった。これまでは「付喪神に好かれし物」だったが、今では「付喪神に愛されし物」になったのだ。イチジクに『お前、俺のこと愛してたのか?』と、いつか聞いたような質問をすると『聞かなくても分かるでしょう? マスター、喧嘩なら買いますよ?』と返された。




うん……分かってて聞きました。



称号は誰が何を見て決めてるのか……異議申し立てたいところだ。




レベルが95になったことも述べておこう。ここまでこようと思えば、普通の冒険者なら死ぬほどの努力を何年もしなければならないらしい。それでも到達できないことがほとんどだと言う。


俺はただ浮いてただけなんだがな……





胃の中生活百日目


初めてイチジクと喧嘩をした。きっかけは些細なことだった。イチジクが前世におけるこの世界と似た設定の創作物について知りたいといったので、『魔眼でチートな異世界生活』のストーリーを話していた時のことだ。



『マスターはそのベタ惚れ幼馴染と物静かな少女、どちらが好みなのですか?』


『え? そりゃ、惚れてくれてる幼馴染の方がが良いだろ? 静かな方は何考えてるか分からんし』



いつでも冷静沈着さがトレードマークの少女は、いつも主人公にちょっかいをかけてまとわりついて来るが、別に主人公のことが好きではないらしい。本人が作中で言っていたのだ。




『明らかにその少女の方が幼馴染よりも主人公に惚れていると思うのですが……マスターには伝わっていないのですか?』



『うーん……それはないだろ? そいつ、よほど主人公が嫌いなんだろな、主人公にだけちょっかいかけてるんだぞ?』




しばらくの沈黙の後でイチジクが言う。


『はぁ……これだからマスターは……』


初めての少し悲しそうな口調だった。




『なんで悲しげなんだ? これだからなんなんだよ!』



『……そうですね、マスターに分かるわけがありませんか』



そこで俺もイラっときてしまったのだ。




『結局何が言いたいんだ? 俺をバカにしたいのか? いつもみたいにからかいたいのか?』




しばらくの静寂……



『……いえ、申し訳ございません。なんでもありません』




最後にまた悲しげな雰囲気で、また、なにか少し残念そうに、イチジクは言ったのだった。





この日俺はレベル98に上がったが、イチジクとそれを一緒に喜ぶこともなかった……こんなことはこれまでなかったからか、物凄く寂しく感じた……ような気がする。






胃の中生活百五日目


喧嘩をしてから五日たった。今もイチジクとはほとんど話していない。この五日間は、あの全く喋れなかった八年間よりも長く感じた。




なぜだろう? と考えた時に、そういえば胃の中に入ってからはずっとイチジクと話していたことを思い出した。




『なぁイチジク、ちょっといい『何ですか?マスター』……か?』



俺の呼びかけに、待ってましたとばかりに、一瞬で返事を返してきた。



『えっと……イチジクと喧嘩してから色々考えてみたんだ……』



いつもならイチジクがここで『マスターの考えなど大したことないのですから、逐一相談してください』などと茶々を入れて来るが、今回はなんの返答もなかった。



『結論から言うと、なんで喧嘩になったのか、今でもよく分かってない』



宿題をしてこなかったことを反省しながら先生に伝えた日を思い出す。こういう時、結局正直が一番なのだ。



『でも、あー、その、だな、あー、あれだよ、あれ』



『あれ……とは、何ですか?』



『……ひ、暇、なんだよ。そう、暇! もう、いいだろ? 何かは分からんが、俺が悪かったって』




言ってから、自分のコミュニケーションの足りなさが嫌になって来る。



 これは、許してもらえないか……


 だが、何て言えば良いのか、分からないんだから仕方ない。





そんなことを思っていると、イチジクの声が頭の中で響いた。





『マスター……そんな言葉で仲直りできるのは、何日も一秒も離れることなく一緒にいて、マスターのことをよく知る私くらいですよ』




これまでみたいな辛口の回答が来た。だが、久しぶりに聞いた彼女らしい言葉に心が温かくなるのを感じた。



あっ、決して何かに目覚めたわけではない!

それだけは断固としてないと主張しておく。




『それに、今回の件に関しては私の自己本位な部分がありましたから……こちらこそ申し訳ございませんでしたマスター』




珍しくイチジクが謝って来た。明日は雨でも降るのだろうか? いや、毎日雨どころか、魔物が降って来てるか……


そのとき、俺の称号がまた変わったことに気づいた。


付喪神に愛されし物→付喪神に溺愛されし物






『なぁ、お前俺のことめちゃめちゃ愛してるのか?』


『はい、めちゃめちゃ愛してますよ?』


『…………からかってるだろ?』


『少々……』







胃の中生活百五十日目





この日、物語の展開は大き変わることになる。




始まりは、外から聞こえた『人の声』だ。




人の声など、ここ最近聞いた覚えがなかった。


 まさか人の街にでもついたのかとも思ったのだが、イチジク曰く、落ちてくる魔物からドラゴンが今、火山帯にはいるのは確からしいのだ。





……ここまで来た冒険者なのだろうか?





そう思って耳を傾けていると、その男は落ち着いた様子で話しかけてきた。




「やぁ、ルビィドラゴン、三年ぶりくらいかな? 君のこと、すっかり忘れてたよ」




声からして若い男だということが分かる。


しかし、逃げる気がないのは何故だ?


そんなことを考える俺に、爆弾を投下したような衝撃発言がなされたのだ。






「確かこの前、魔物の君に『人族の街を滅ぼす』って浅い知能を、その左の翼に刻印で与えたんだけどなぁ? 三年経っても一つも滅せないなんて、やっぱり、バカな魔物には難しかったのかな?」





俺は、これに驚きを隠せなかった。




……は? なんだと!?



すぐにイチジクに話しかける。





『今この男、今、今とんでもないこと言ったぞ!?』


『はい、マスター。落ち着いて話を聞きましょう』




俺たちはこの男は何者なんだと思いながらも、続きを聞く。





「ふと思い出して見に来てみれば……なぜこんなところにいるんだい?」





 このドラゴン……ルビィドラゴンが街を破壊せずここにいる理由?

 イチジクの元の持ち主である者をはじめ、冒険者たちが進行を防いだから……もう一つ、その『刻印』が何者かによって壊されたから……

 





そのとき、パズルのピースがぴったりと当てはまったのを感じた。







これで、この火山帯ででも無双できるS級のドラゴンがわざわざアプルの森にまで降りた理由に納得がいく。

 それに、あの新人ゴブリン。





そうか……あの新人ゴブリンが破壊した左の翼、ちゃんと意味があったんだな……





 新人ゴブリンがルビィドラゴンの左翼を攻撃したときの光……あれは、紛れもなくこの人間の言う『刻印』が破壊されたときに発生したものだったのだろう。





たまたまだろうが、間違いなくあのゴブリンによって彼の故郷は救われたことになる。

もし『人族の街を滅ばす刻印』が攻撃されずに残っていれば、人族の街であるイーストシティまでの通り道にあるゴブリンの集落は、跡形もなくなっていたであろうからだ。





『この声の奴が全部の元凶なのか。ルビィドラゴンに怯えたゴブリンが人の街の近くに移動しなければ行けなくなったのも、それへの対処に追われた冒険者や自警団が危険に晒されたのも……それに、あの新人ゴブリンが死んでしまったのも。……そして何より、俺がここでこうして異世界の時間を浪費しているのも!!!!』




 つい最後の言葉に熱がこもってしまう。




 正直、他の人のことはどうでもいい。

 何より許せないのが、俺がこうして夢の世界である異世界を満喫できていないことだ。 なぜなら、俺が森に放り出されたそもそもの理由が、突き詰めていくとこの男に行き当たるからだ。





 もちろん、満喫できないのは鍋蓋だからという原因は少しくらい……多少……いや、多大にあるだろうが、それでもほんの少しでも原因がある……と思われるこいつに怒りが沸沸と湧いてくる。






すると、思わず人化しそうになる。あれ以降使ったことがなかったが、いけるだろうか? それに、刀の場所も教えてもらわなければ。



 



『マスター、落ち着いてください。この男はS級のドラゴンに魔術を施すような輩です。今の私たちでは危険でしょう』


 



イチジクの言葉で少し冷静を取り戻す。実際、イチジクの言うことはもっともだ。怒りで今ここから飛び出そうとするのは愚策もいいところだ。





『あぁ、そうだな……忠告ありがとう』


『いえ、マスターのためならば』





外からまた声が聞こえる。





「まぁいいや! もう一度かけなおすね! 君も弱い者を蹂躙するのは大好きでしょ? 毎日毎日飽きもせず魔物を倒してるんだからさ!」




「グゥオオオオオ!!!!」





ルビィドラゴンがそれに同意するように大きく吠える。





『ルビィドラゴンが魔物を倒すのは、食料でも経験値のためでもないと思っていましたが……己の快楽のためだったのですね』




イチジクが呟く。しかし、それに頼りになったのも事実だし、俺につべこべ言う資格はないだろう。




外からまたあの男の声が聞こえる。




「ふっ、ほんとに趣味が悪いね? じゃあ行っておいで、あの街へ! そして人族の全てを奪うがいい!」




こいつ、まだ懲りもせずドラゴンに他の生態系を破壊させる気なのか!?





彼は続ける。





「僕ら『魔族』の唯一の天敵、『勇者』も誕生しちゃったみたいだし ……今度はすぐに人の街に着くよう、しっかりと行動を固定した魔術をかけるね」





 魔族……イチジクに聞いたことがある。この世界に住む意思を持つ生物は大きく分けて、人族、亜人族、魔物、魔族に分けられると。人族は自分もよく知る人間のこと、亜人族はファンタジーにつきものの獣人やエルフ、ドワーフなどが当てはまる。魔物はホーンラビットやレッドモンキー、ドラゴンなど人間から離れた容姿をしており、知能が低い動物のようなものを指す。




 そして、魔族……彼らは強力な種類が多く、基本的に残虐非道、それでありながら独自の国家を持っている。四大種族の中ではもっとも数の少ない種族だ。悪魔が上位を占め、続いて吸血鬼や人狼、弱いものだとゴブリンやオークなどがいるらしい。




『このあたりは、人族の治める領地のはずだろ? 何故魔族がこんなところに?』



『それは私にもわかりません。ただ、この魔族はイーストシティを破壊することを目的としているようです』




どうやらそうらしい。


正直、俺としてはあの街が滅ぼうがどうでもいいのだが……




『流石に、人間がドロドロになっていくところを、ここで見たくもないしな』



魔物でさえ溶けていく様は、見れたものではないのだ。それが人間だったら……考えただけで吐き気がする。




そうなれば、このルビィドラゴンなる化け物の街への侵攻を止めるしかない。





そこで、どうすべきか考える。





今なら可能性は低いが、ルビィドラゴンの進行を止めると同時に、この魔族を倒すこともできるかもしれない。




『イチジク、俺はどうするべきだ? やっぱり今攻めるか?』



困った時はイチジクというパートナーが頼りになる。




『マスター、先ほども言ったように今魔族を倒すのは難しいです。ここはしばらくはこれまで通り経験値を稼いで、少しでも強くなってから、街の直前で一気にこのドラゴンを倒すのが得策かと』





 ふむ……





 少し考えてから返事をする。






『そうだな……この魔族はすぐにぶち殺したいところだが、今のままじゃ厳しいか……』






結果として、イチジクの案を採用することで

百五十日目が終了した。









ーーそして今、魔族の話を聞いてから二十日がたっていた。






『ようやくレベル100か……』


『はい、おめでとうございますマスター』






ドラゴンはだいぶアプリの森に近づいているようで、降ってくる魔物も山の入り口付近にいるものになっているらしい。




『街の近くに来た時、ちゃんとこのドラゴンを倒せるように知らせてくれよ?』



『はい、私は大体の魔物は把握しておりますので、街の近くに出る魔物が降ってきたら伝えます』





この辺の魔物について知っているお前が頼りだ、そう言おうとしたとき、外から叫び声がした。





その高い声は、これまでのような魔物の声ではない。






「い、いやぁあああ! 来ないで!! 来ないでください!!」





これは……女の子の悲鳴か!?




俺は、慌ててイチジクに確認する。





『おい! ここはまだ火山帯なんだよな!?』



『はい、間違いありません。火山帯の入り口付近です』





どうなっている……? 冒険者か?





いや、ルビィドラゴンの地面を進む速度はゆっくりのはずだ。もしドラゴンを見かけても隠れるか逃げるかして、逃げ切れるだろう。





『どちらにせよ、仕方ない! 行くぞ!』






これがどこぞの男の声なら、俺はいちいち相手にもしなかっただろう……が、外から聞こえてくるのは、確実に女の子の声。




もしこのまま放っておけば、上から噛みちぎられた血みどろの女の子が降ってくることになるのだ。





それは、さすがに見たくない……






『はい、マスター。刀の場所は私に任せてください』



そして、ルビィドラゴンの胃の中で三度目となる眩い光が辺りを満たした。




「よし! 成功だ! 刀の場所まで潜る、案内してくれ」



一度しか人化したことがなかったから不安だったが、成功したようだ。視界は固定され、下を向くと人の体がそこにはあった。




『左下です、潜ってください』




俺は言われた通りに思い切り息を吸い込んで左下に進む。





……が、俺が潜るのは胃液の中だ。薄暗さに加えて、そのドロドロとした液体は汚く濁っていて、数メートル先など見えたものではない。





『くそ! どこだ? 濁ってて見えない!』


『ありました、右下を見てください、肉の間に挟まっています』




俺と同じ視界を共有しているといったイチジクから報告がきた。俺はそこまで一心不乱に潜ると、手を伸ばす。




……これかっ! そこには確かに棒状のものがあった。素早くそれを左手で握る。



「だ、だれか! 助けてください!!」



また外でさっきの声が助けを求めている。

時間がない!!



俺は、頭の中で叫ぶ。




『イチジク、この刀の使い方を教えてくれ!」




俺には刀の使い方などわからない、しかしイチジクなら鞘の中で使い方を見てきただろう。




『承知しましたマスター、まず刀を左の腰に添えてください。左手はそのまま鞘を握って、右手で柄の部分を握ってください、その姿勢を保ちながら集中して力を溜めるのです』





これは……居合の姿勢? やはり、なんとなくそんな気はしていたが、この刀は日本刀のようだ。





「だれかぁ……助けてよぉ……」





弱々しくなった声を聞きながら、俺は液体の中に体を沈めた状態で居合の姿勢をとる。踏ん張る力がほとんどないのだが、どうにかなるものなのだろうか?





いや、集中しろ……集中だ……






そうして、意識を極限まで高めた時、イチジクの鋭い声が聞こえた。





『今です。マスター、思い切り引き抜いて斬ってください。大丈夫、その刀とマスターは間違いなく……』





俺は構えの姿勢から一気に刀を引き抜いた。





「うぉらぁああぁあああああああ!!!!」


ゴボゴボと息を吐き切って俺は叫ぶ。





胃液の中にキラリと輝く刀身が見える。この状況でも思わず見とれてしまう美しさだった。




刀の刃が肉を捉えた。手に少し抵抗がかかる。しかし、ここで速度を落としてはならない。俺は思い切り右に払った。躊躇はない。そこに全身全霊を注ぐ。





『最強の矛と最強の盾なのですから』





静寂……




ダメだったか?



 ……?




 景色は未だ変わらず薄暗い胃の中だ。




それに、苦しい……ダメだ、息がもたない。



俺はすぐに浮上した。






『マスター、お疲れ様でした』


「え……?」





その時、居合斬りを放った暗い壁に亀裂が走った。



これは、外の……光?


久しぶりに見たその光は、俺たちを祝福してくれているようだった。




「ギャルァァアァァア!!!!」




光が見えるのとほぼ同時にルビィドラゴンのものと思われる叫び声が響く。




……俺は、やったのか?




次第に自分がやってやったという実感が湧いて来る。




言葉が溢れ出た。




「やって、やったぞ!!」


『これくらいは当然です』





イチジクの声も若干嬉しそうに聞こえる。





しかし、そんな喜びに満たされていた時に違和感を感じた。





あれ? この体……まだ動いている!?




「やばいぞ! イチジク! このドラゴン倒しきれてない!!」




また斬るか!?


しかし、一人で焦る俺の頭に、至極冷静なイチジクの声が響く。




『落ち着いてくださいマスター、それはありません。すでにマスターにはルビィドラゴンの経験値の一部が入っています』




「……? じゃあ、なぜ動いているんだ?」




『マスター、これはですね、右に倒れているんです』




あっ……なるほどね?





そうしてルビィドラゴンがうまく倒れたお陰で、その切り口から灼熱の液体が外に出ることはなかったのだった。



不幸中の幸いというやつだろうか……




俺はその幸いに感謝しつつ、さっそく外に出ようと平泳ぎで切り口まで進んだ。




そして……



「ま、眩しいな……」




左手に例の刀をもったまま、上半身をその切り口から出した。百何日ぶりかの外だ……。


 目の前が真っ白になり、何も見えない。





その時、頭に声が響いた。




『マスター、私はついに、ついにこの死の世界から出れました。全てマスターのおかげです……ありがとうございます』




『気にするな、俺もイチジクに会えて……まぁ、ほどほどには感謝してるんだ』





目が次第に慣れてきた。辺りはゴツゴツとした岩ばかりで、太陽の存在が昼間であることを教えてくれる。




この山から少し先にある木々は……アプルの森だろうか?






「あのぉ……」




状況確認をしていると、下の方から声が聞こえた。




「あぁ、助けを呼んでいた子か!」




俺は首を下に向ける。そこには粗末の服を着た高校生くらいの女の子が座って……いや、鎖に捕まっている?




『マスター、こんなご趣味が……』


『俺はノーマルだ』




頭の中でこんな会話がされているとも知らない女の子は、俺の方を見ると目を潤させた。




「た、助けてくださったん……ですよね? あ、ありがとうございます!」


女の子が頭を地面に擦り付けて……土下座をしながら俺に感謝をしてくる。




「いや、気にするな、ちょっと予定が早まっただけだし……」




女の子は何のことか理解できないのか、体を起こして、キョトンと首を傾けた。




「あの……ドラゴンのお腹の中から出てきたみたいですが、大丈夫ですか?」




「え……?」




そういや俺、すごくおかしな人みたいになってないか? ドラゴンの中から着ぐるみが如く出てきたんだぞ?



明らかにおかしいが、ここで一から事情を話すわけにもいかない。俺は戸惑いながらも返事をする。




「あ、あぁ、俺は大丈夫だ、それよりお前の方こそ大丈夫なのか?」




さっきまでは自分が殺されそうになっていたのに、人の気遣いができるとは、なかなか殊勝な子じゃないか。




俺はそんなことを考えながら、ドラゴンの腹から抜け出し女の子のもとまで向かう。




「おっと……久しぶりすぎて動きづらいな……」




人の体が久しぶりすぎて、どうしても足元がおぼつかない。これは自由に走り回るまでに、少し動く必要がありそうだ。




よたよたと歩きながら女の子の前にたどり着くと、目の前に鎖に手足を繋がれた女の子が座っている。




うーん……まだ目が明るさに慣れていないな、女の子の顔がぼやけて見える。




俺はゆっくりと自分の顔をその女の子の顔に近づけ、顔がよく見えるように指で少女の顎を持ち上げた。




その女の子は綺麗というより、可愛い顔立ちをしていた。クリリとした紫色の瞳は涙で潤んでいる。少し高めの鼻、真っ白な肌……いや、今は赤みがかっているな? 髪は綺麗な赤茶色、所謂小豆色だったが、手入れできていないのか少しパサついていた。




それに……少し、臭うな、お風呂も入れていないのか?





「ん……?」





この子、頭に何かついてるぞ







「お前……人族じゃないのか?」






 それを見た俺はなんとなく言った。






しかし、その言葉に対する少女の反応は劇的だった。その一言で少し赤らんでいた女の子の顔から血の気が引いたのだ。顔面蒼白になり、体を震わせる。





 彼女はガタガタ震えながら口を開いた。






「も、申し訳ございません! 私のようなものが高貴なる人族様に助けを求めるなんて! 平に、平にご容赦ください!! あ、貴方様のお指を私ごときの肌で汚してしまいましたことも重ねて謝罪いたします! 本当に申し訳ございませんでした!!」





突然、土下座をかましてきた女の子を前にして、俺は固まる。





「え……いや、なんで?」




『マスター、女の子に土下座させるなんて、サイテーです』






ちょっとイチジクは黙って欲しい。俺だって別にこの子に土下座させようなんて思っていない。






よし、とりあえず誤解を解くためにもこの鎖を切るか……俺は静かに刀を抜いた。





そして刀を振り上げる。





「あぁ……神様よ……」





女の子は手を胸の前で結び、神に祈りを捧げていた。






『頼んだぞ、イチジク』


『マスター、お任せを』






そう頭の中で言った刹那、俺は見事にその子の自由を奪う『鎖だけ』を断ち切ったのだった。






「えっ……?」






俺はその女の子に、立ち上がるよう手を差し伸べながら言った。





「うーん、悪くもないのに謝るのは癪だが、なんか、すまなかったな……まずはお前のことを教えてくれ」






そう言った俺の前には、潤んだ目を見開いた、頭に曲がった『ツノ』を二本持つ可愛らしい女の子がいた。






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