第8話




「ハァッ……ハァッ……」


荒い息遣いが聞こえる。




ほら、逃げてくれよ! 逃げ切ればお前も俺の命も助かるかもしれないだろ。




後ろからは絶えず大きな足音が聞こえ、それが通り過ぎると、周りの木々が炎をあげて燃えていた。



見上げると、走るゴブリンの目はすでに焦点が合っていない。足は何度ももつれそうになっている。




「ハアッ……アァッ……」





それでも彼は走り続けた。たとえ血を吐き出しても、そんなことは彼にとって些細なことに過ぎないようだ。





俺はそんな彼をただ見るだけだ。

所詮、鍋蓋なのだから……




このゴブリンはあと数分で体力も……その命すらも尽きるだろう。






でも、もう少しなのだ。






「もう少し、もう少し、で……」







そしてその時は来た。






 ドラゴンから逃げ始めて、三時間ほどたった頃。夜も終わりを迎え、東の空がほんのりと明るくなった頃。




 ゴブリンの集落からはかけ離れた場所で。







 彼はついに……





 倒れたのだ。







それはドラゴンの住う山の入り口付近でのことだった。彼はもはや歩いているのか走っているのか分からない状況だった。






「ゴホッ……ここまで、来れば、ハァッ……もう、大丈夫、だろ」






俺を持つゴブリンはそう言うと、そのままうつぶせに倒れた。彼は手をつくわけでもなく、流れるように地面に体を押し付けたのだ。


  


 




「もう……動けん、が……目標、達成……だ」





 



確かに、ここまで来ればゴブリンの、集落から離すという目的は達成されただろう。





しかし……ここで走るのをやめると言うことはすなわち、このゴブリンの死を意味する。

だからといって、ここまで走りきった彼に対して、まさか立てとも言えない。






お前、ついに死ぬのか……






 うつ伏せに倒れたゴブリンと、後ろに迫ったしっかりとした足取りのドラゴンを見比べて、俺は静かに考える。






普通、冒険者に序盤で倒されるゴブリン。俺はそんな種族に生まれた一人の男の生き様を見た。





「はぁ、はぁ、はぁ……」





俺の頭の上で声が聞こえた。






「おい、鍋の蓋……お前も、こんな、ところまで、ついて、きてくれて、ありがとう」






そのゴブリンは伏せったままこちらに顔を動かし、微笑みながら言った。その顔は朝日に照らされて、傷だらけだったことが分かる。





自慢の牙は折れ、片目はただれて使い物にならなくなっていた。





 俺はただただ思う。





このゴブリンは、紛れもなくバカだ……と。





自分のためではない、仲間のために善行をして、こんなんになってでも命を張ったのだから。





今回このゴブリンが得られるものは何もないはずなのだ。『人のために頑張る自分』すら、誰にも認知されていないこの戦いにおいて、得られるものではない。





本当に、このゴブリンはバカだ……バカでバカでバカで……






そして、紛れもなく善人だ。






その瞬間、胸にこれまでにない熱い何かを感じた。普段なら、このゴブリンを、力量を測れなかったお前が悪いと蹴落とすだろう。しかし、どうしてもそう割り切れなかったのだ。





ズンッ……ズンッ……



「ギュルァアァァァア」






すぐそこにまで迫った声を聞いて、俺は視線をその方へと向けた。






俺はドラゴンを見る。






これが、弱肉強食というわけか……弱者は強者に従うしかない。






ドラゴンがこちらに首を伸ばしてくる。


生暖かい、荒い鼻息が俺たちを包み込んだ。


ゴブリンは、もう一ミリたりとも動こうとしない。







そして……






奴は大きく口を開いたのだった。







 最後に俺は、無音で言葉を残す。





あぁ、俺もお前みたいな善人に会えて良かったよ。







ゴブリンには届かないはずの声だったが、ゴブリンはこちらを見てニッコリと微笑んだ。






ああ、次目覚めたらまたあの彼岸花が咲き乱れる世界にいるのだろう。


そこで、このゴブリンとまた会えるのだろうか。




会えたら……



まぁ、その時は笑ってやろう






「仲間のために善行とか、バカなことするからだ」って





……そんなのも、悪くないな






そんなことを思いながら、俺はそこで意識を失った。














ーー熱い……?


最近慣れつつあるそんな感覚とともに、俺はゆっくりと目を開ける。


薄暗いな……ここは一体……?





その空間は学校の教室一つ分ほどの広さで、まるで血で塗りたくられたような赤い壁が目に飛び込んでくる。




あぁ……? どういう状況だ……?






少なくとも、彼岸花の咲く世界ではないようであった。





ならどこなのだろうと、思考を必死で働かせる。それとともに、視覚や聴覚が機能して意識が次第にはっきりしてくる。






俺は鍋の蓋として集落で……そして……そうだ、ドラゴン! それにあのゴブリンは!?






周りをまた見渡すが、ゴブリンもドラゴンも見当たらない。





ん? それにこの液体はなんだ……?





どうやら俺は何かしらの液体の上に浮いているようだった。熱耐性を極めた俺にすら襲いかかる熱さの原因は、この液体みたいだ。






よし、とりあえず状況を整理しよう。たしかドラゴンに食べられそうになって、そこで気絶した。



そして、目覚めたら目の前に赤い壁。今は全てのものを溶かしそうな液体の上にいる……







そこまで状況を判断すると、自然と一つの結論が導き出された。







ん……? まてよ、もしかして……ここって、






ドラゴンの体の中じゃないか……?







食べられたとしたら、胃に行くのは当たり前だ。






なぜそんな当たり前なことがわからなかったのか? いや、そもそもそんな状況、当たり前のはずがないか……




こちらの世界に来てから、ろくなところにいた記憶がない。




おいおい、ゴブリンの集落の次はドラゴンの胃の中かよ……







俺は改めて周りを見渡す。壁だと思っていたそれは、確かに体内の肉のように脈打っていた。それはわずかな光を放っている。







 肉が光る……??








うーん……このぼんやりと輝く感じ、前に見たことがある気がする。





どこで……って、そうだ、思い出した。





その答えは八年前にあった。

ジャニー達兄弟のお母さんが火をつけたときの光だ。あのときのことは、はじめて異世界を体験したようで、よく覚えている。






それを見て、俺は一つの答えに行き着いた。






 ここがこんなに熱いのは、炎系統の魔術のせいっぽいな。





どうやらこのドラゴンは胃の中で物を溶かす時に、魔術的な熱も使っているようだ。






それなら、胃液がこんなに熱い理由も納得がいく。






 熱で溶かして栄養分を……そんなことが出来るのか? さすがは異世界といったところか?







 この熱さは熱耐性のある俺なら嘆くだけで済むが、普通の生物ならすぐに溶けてしまうだろう。







普通の生物……俺の脳内に、一匹のゴブリンの顔がよぎる。







つまり、あのゴブリンはもう……







 俺は、胃液の中を見渡す……が、何も発見はできない。





彼とは一日足らずの短い付き合いだったが、仲間思いのいい奴だった。


あいつとなら、こんな性格の俺でもちゃんと仲良くできたような気がする。






 ……たぶん。






そんな曖昧な気持ちをぐっとこらえて、思考を切り替える。








 あーー……にしても、胃の中か……どうしたもんかねぇ





そうぼやいた時だ、突然周りの赤い光がより強く光った。




これは……なんだ!?





 胃液の温度が急激に上がる。体を熱が駆け巡る。






 ……なんだ!? 






「「キィイイイイ!!」」






 声……いや、鳴き声が腹の外から聞こえる。





複数の猿のような声だ。その鳴き声は鋭く尖り、興奮気味なのがわかる。ドラゴンが戦ってるようだ。






ゴゴォオオ……バキッ……ドゴォオン






 何かがひしゃげる音や折れ曲がったような音がし、その後で先程までの荒々しいものから打って変わって弱々しい鳴き声がする。





「キィ……イ」

「キャイ…………ィ」





しばらくそんな死のオーケストラが奏でられ、続いた戦闘音が収まったとき、上から何かが降ってきた。





「キッ……キキッ……」





ボチャン……そんな音で降ってきたものが液体の中に沈んだ。




そして、しばらくして……






あ……浮かんできたぞ?






それは人間ほどの大きさだったが、肌は真っ赤で、どちらかというとサルに近い見た目をしていた。ピクリと時々動くことから、瀕死であることが分かる。





こいつは……?




ゴブリンが料理しているのを見たことがないな……初めて見る魔物だ。






 八年ゴブリンの集落で過ごした俺が、初めて見る魔物……





これは、あの死んでしまったゴブリンにとっては、この上ない朗報かもしれない。






なぜなら、この魔物はアプルの森の生物ではない……つまり、今このドラゴンはアプルの森におらず、ゴブリンが連れてきた火山帯にいることが言えるのだから。







新人ゴブリンがここまでドラゴンを連れてきた甲斐があったってことなのか。


良かったじゃないか……






そんな感慨にふけっていると、上から同じサルが次々に降ってきた。皆瀕死で、すぐに液体に溶かされてしまうだろう。





このドラゴン、いったい何体の魔物と戦ってるんだよ……





落ちてくる魔物の数がこのドラゴンの強さを物語っている。





ん……なんだ?






呆れた様子でこの謎の景色を見ていると、三十匹程度降ってきたところで、俺のステータスに違和感を感じた。






レベルが……とてつもないペースで上がっている!?






ステータスのレベルを見ると、数字が、ポンポン上がっていく。






……まさか、こいつらを倒した経験値が俺に注がれているのか!?






そして、赤いサルが全員ドロドロになりながら液体の中に沈んでいったとき、そのレベルアップは止まったのだった。





……うぇ、グロかった……詳しくは言わないが、色々と溶ける姿はトラウマになりそうだ。





よし! 思い出したくないし……切り替えてステータスを詳しく見てみるか!





俺はそのまま、視線を自らのステータスに動かす。









名前 シルドー

種族 盾

称号 鍋の友達 NEW 胃の中の鍋蓋

Level 53→71


攻撃力. 0

防御力. 8645→12650

魔力. 0

素早さ. 0


スキル

熱耐性(極)





ユニークスキル

人語理解


進化 (NEW 人間の盾 NEW 亀の甲 NEW 革の盾


NEW 付喪神







なんだ……これ?






胃の中の鍋蓋ってなんだよ! 井の中の蛙みたいに言うな!! 好きでこんなところにいるんじゃないのに……はぁ……よし、冷静にだ。クールに行こう。



それで? ステータスは……やっぱり防御力しか上がってないな。



おっ! でもその下のユニークスキルが何やら興味深いことになっているじゃないか!





前からあった「進化」の横にいくつか単語が増えている。





亀の甲に革の盾、それに……人間の盾?






 これは、ここに書いてあるものに「進化」できるってことなのか?

 誰も説明してくれないので完全な予想にはなるが、恐らくそうだろう。





亀の甲はその名の通り亀の甲羅、革の盾は革製の盾を表すのだろう。しかし、人間の盾か……






前世で聞いたことがある。軍が敵の攻めてくる場所の近くに民間人を配置して、それを敵に知らせることで進軍を思いとどまらせようとしたり、軍が進むとき、民間人に兵士の前を歩かせるよう強制して、兵士の安全を図ろうとしたりしたことがあるらしい。






それらで使われる人のことを『人間の盾』という。





今ではこの戦術は非人道的であるとされ、戦争犯罪とみなされているはずだが、第二次世界大戦においてはある国が使っていた戦法だ。






すると、もしかして進化することで人間になれるのか……?






人間になれるというのなら、是非なりたいと思う。俺も元は人間だ。人間の素晴らしさというのが鍋蓋になった今だからこそよくわかる。





それに、何より偽りのものであったとしても、『善行』を積むことができるはずだ。それは、俺の天国への一歩を踏み出すことになる。




 ってか、あの閻魔様、これを見越してたってことはないよな?……まさか、ねぇ。





 いや、今はそんなことどうでもいい。さっさと、このユニークスキルなるものを試してみよう。


 俺は、強く、強く念じる。



 





できるなら……





人に……なりたい!







 こんな願っただけで叶うかは分からないが、ダメもとでやってみる。





そのとき、眩い光が辺りを満たした。ドラゴンの魔力の行使によるものではない、この光は……俺自身から発せられたもののようだった。






「な、なんだこの光は……!?」






その声は確かにこの薄暗いドラゴンの胃の中に響いた。




あれ……?




「俺……声が出てる?」




眩い光が収まると、俺はゆっくり目を開いた。そう、目を開いたのだ。






目が……開く? ……これは! 本当に!




目線を下に向ける。




人の……体……





その体の右手を持ち上げようとする。もし自分が蓋なら絶対に不可能な行為だが……





「右手が、動く! 左手も動く! これは、俺の体だぁあ!!!!」






足は大丈夫か!? そう思って下を見たとき気づいてしまった。





「あれ? 俺、沈んで……ブグッボゴォ」




沈んでいた。それはそうだ、ここはドラゴンの胃の中なのだ。周りの状況は先程から変わっていない。




つまりは超高温の液体の上に浮かんでいる状態で、人の体になった今は、絶賛沈み中なのだ。





 だめだ、息が……




 鍋蓋のときはなかった感覚、息ができないための苦しさ。

 




 じ……じ、ぬ……

 





 その時だ。






『ーー元に戻ってください』





頭まですっかり胃液の中に入ってしまい、テンパっていたとき、頭の中に直接声が響いた。







 え? なんだ!? 誰の声だ?


『早く、鍋の蓋に戻ってください』






とりあえずは言うことを聞くことにする。

人間、何をしたらいいのかわからないときは人の意見に左右されやすいものだ。





俺はすぐに鍋蓋に戻りたいと強く念じる。





……この光! またか!!





胃の中を二度目となる明るい光が覆い、俺はぎゅっと目をつぶった。


 それから、すぐのことだった。






『マスター、起きてください』





うっ……これはさっきの声だ。無機質な女性の声。


俺は言われるがまま視界を開き、自分の状態を確認する。どうやら、また胃液の上に浮いているようで……





って、あれ……鍋蓋に戻ってる。いや正しくは少し前までは人間に戻れていて、また鍋蓋になったと言えるのだろうか?


 



どちらにせよ……また鍋蓋か……






 残念に思う反面、呼吸が必要なくなったことによる余裕ができる。






『はじめまして、私は鍋蓋であるマスターに取り憑いた『付喪神』という存在です』






その時、先ほどの無機質な声の女性が丁寧に挨拶をして来た。





なんだ……頭に直接……

 




それに、付喪神?





付喪神ってのは、あの付喪神なのか?






 そういえば、ユニークスキルの下の方にそんなのが追加されていたような……





声に出すことが出来ない俺は、頭に直接語りかける。






『こ、こちらこそはじめまして。俺はシルドーって言います。今はこんななりですが、元は人間でした』






声に出さない声に戸惑いながらも、俺は久しぶりの会話に緊張気味に答える。これでちゃんと伝わってるのだろうか?






『はい。だからマスターは物でありながら私と会話できるのでしょう……あと、丁寧な言葉遣いは結構です。マスターは私の宿主なのですから』






その声に、ちゃんと伝わったのだとホッとする。鍋蓋の俺を宿主と言って事は、やはり俺の知ってる付喪神でいいのだろうか?





丁寧な言葉遣いはどうもむず痒くて苦手な俺は、付喪神さんのご好意に甘えながら会話を続ける。





『そうか、なら付喪神ももっとラフな感じで話してくれ、あっ、名前が付喪神でいいのか?』




『いえ、あなたはマスターですので、このままでいかせていただきます。それと、私に名前はありません。付喪神は長年使われた物に取り憑く霊みたいなものの総称です。』





マスター呼びで丁寧語か……少し抵抗があったが、まあ、どうせ俺たち以外聞こえないんだと納得する。





そう切り替えた俺は、付喪神という存在についてもう一度考える。




付喪神といったら、長い年月を経た道具に憑依する精霊のような存在……だよな?



これは、前世の知識だが、状況としては似たようなものだし、認識として間違ってはいないのだろう。





『そうか、まぁ、いいか、さっき溺れかけてた俺を助けてくれたの、えっと、付喪神さんだよな?』



『はい。恐らくそうなるかと』



『俺が人間から鍋蓋に戻れるって、付喪神さんは知ってたのか?』



『……いえ、知りませんでした』



『……? じゃあ、なんであんな鍋蓋に戻れみたいなこと言えたんだ? 進化って、普通に考えたら退化はできないと思うんだが?』



『それは、正直勘でした。あれで戻れなかったら、仕方ないと諦めていたでしょう』



『お……おう、思ったより余裕なかったんだな』



『はい。勘、でしたので』








 どうやら俺は死の一歩手前だったらしい。とにかく、鍋蓋に戻れたことに感謝だ。


 まさか鍋蓋になれたことに感謝する日がくるとは思わなかった。


 とにかく、今は窒息する心配がないことに安心しつつ、話を続ける。




『まぁ、助かった、付喪神さん。それで、付喪神さん……あー、なんか呼びにくいな』




『……?』





 付喪神さんは何が? と言いたそうだったが、呼びにくいのは、付喪神さんの呼び方だ。付喪神は、いってみれば種族名だ。付喪神を付喪神さんと呼ぶのは、人間を名前じゃなくて人間さんと呼ぶようなものだ。






 俺は頭に語りかける。





『なぁ、名前考えてくれないか? 付喪神さんはちょっと長いし呼びにくい。これから色々聞きたいこともあるし』



『私の名前を、ですか……?』






少し驚いているようだった。どうしたのだろうか?





『よろしければ是非マスターが考えてください』





彼女曰く、付喪神に名前という概念はないらしい。まぁ、そもそも付喪神なんて誰にも認識されなのだから無理はない。せいぜい認識できるのは同じ付喪神か取り憑かれた道具くらいだろう。





『えっ……いいのか?』


『はい、これも何かの縁ですから』





うむ……名前か……






名前をつけるという、したことのない体験に頭を働かせる。





 付喪神だから、ツックー……いや、そんなポップな名前はこの無機質な声に合わないか


 なら、モガミ? 確か東北の方にそんな川があったような……





 その時、いつか見たクイズのテレビ番組の一部を思い出した。


 確か、付喪神の「つくも」は「九十九」の読みからとってきているはずだ。百年経つと精霊を宿すからとかいう理由じゃなかっただろうか?




九十九……九が二つか……そういえば「九」と書いて「いちじく」と読む苗字が、読めそうで読めない苗字としてそのクイズ番組で取り上げられてたな……




そんな安易な理由だが、他に何も思い浮かばないしと、付喪神に語りかける。





『よし! じゃあ今日から「イチジク」でどうだ?』




女の子っぽいし、問題ないだろう……と思う。




『いちじく、イチジクですか……』




そこで一拍置いてから、再び声が聞こえた。




『良き名をありがとうございます。私は今日からイチジクです』




さっきまでと同じ無機質な声だったが、少しだけ嬉しそうに聞こえた。




よかった、気に入ってくれたみたいだな




その結果に満足しつつ、俺は溜まりに溜まった疑問を投げかけることにする。






『じゃあ、早速だがイチジク、いくつか質問してもいいか?』



『もちろんです。マスター』




素早い返事が返ってくる。




『まず、イチジク……地球というものを知っているか?』



『……? 知識不足で申し訳ございません。何ですか? それは』




この反応から見るに、イチジクは地球を知らないのだろう。どうやら付喪神というワードは人語理解のスキルが発動した結果、訳された単語であるようだ。一つ疑問を解消した俺は、イチジクと会話を続ける。




『俺はな、地球というところに前世で住んでいたんだ。それで、八年前にこの姿でこちらに生まれ変わってきた。それ以降人と関わらなかったから、この世界のことをよく知らないんだ』



『なるほど、マスターは転生者なのですね?』





転生者……? この世界ではやはり勇者などが異世界から召喚されたりするのだろうか? 非常に気になるところではあるが、今そこは重要ではない。




『まぁ、そんなところだ。じゃあまずはイチジクのことについて教えてくれ、なぜこのタイミングで? なぜ俺に憑いたんだ?』





正直、イチジクの存在は謎すぎる。突然頭に響く声、それに私は付喪神だという言葉……


 付喪神ってのは、長い年月が経った物に憑く存在のはずだ。俺……鍋蓋は、年代物らしいが、それほど長い年月が経った代物のようには見えない。





すると、彼女は語り始めた。






『そうですね……そもそも私たち付喪神は作られて百年経った道具に自然と生まれる霊体です。しかし、その後は自由なのです。他に気になる道具があればそちらに移動することもできます。』




『移動できるのか』




付喪神ってのは、思ったより自由なんだな……俺はまだ作られてから数年しか経っていない。やはり、俺自身に宿ったというわけでもないのだろう。






『で、イチジクは何に生まれたんだ?』



『私は剣の鞘に生まれました。そして私はそのまま親である鞘に憑いたまま、長い年月を過ごしたのです。刀に憑いている付喪神とも気があったので』





え、付喪神同士って話とかできちゃうの?

いや、問題はそこじゃないか……





『それで、その鞘と刀は今どこにあるんだ? もう壊れたとか?』





『いえ、私の憑いていた鞘は今、その刀と共にこの胃の底に沈んでいます。実は、持ち主は約三年前……この歩く災害とも呼ばれるルビィドラゴンが山を降りてイーストシティに接近していると聞いてから、それを止めるためにこのドラゴンと戦い、敗れ、食べられてすぐに消化されたのです。しかし、剣と鞘はスキルの【自動修復】が働いて、今でも溶けていないのです。』



『……!? ちょっとまて、頭が追いつかない』






 えーっと? まず、イチジクの宿っていた刀の持ち主は、三年前、このドラゴン……ルビィドラゴン? が人の街に近づいて来たから、それを止めようとしたが、返り討ちにあって喰われたと……





しかし、今の話からいくと、イチジクが三年間もこんな薄暗いおどろおどろしいところにいたということになる。




こいつ、こんな薄暗い、グロテスクなものを見せられ続ける空間にいて、よく精神が持ったものだ。



ほんの数分でも堪え難さを感じていた俺は、多少の同情を込めて言った。





『そ、そうなのか……それは大変だったな……でも、外のものに憑くとかして出られなかったのか?』





今の話から考えるに、外のものに憑けばその道具の付喪神として生きていけそうなものだ。





『それは不可能です。付喪神は今憑いている道具から憑く対象に移動するときに、その間に遮断物があってはいけないのです』





なるほど、ドラゴンの肉体のせいで外に出られなかったのか。そして、そのどうしようもない状態の中で溶けることのない俺を見つけてやってきたと……






『それにしても、俺がいることによく気づけたな?』





さっき人間になって沈んで思ったが、この胃は人が沈むくらいには深い。そんな深くからこの薄暗い視界の中で、浮かぶ俺を見つけるのは困難だろう。






そう尋ねると、その答えは、なかなかに興味深いものだった。






『それは、急に経験値が入ってこなくなったからです。これまでは上から降ってくる瀕死の魔物たちを倒した経験値は、全て私の宿主であった鞘と剣に注がれていましたから』




『経験値……』





 やはり、この世界には経験値があるようだ。

 だが、そのあり方、定義がいまいちはっきりしない。やっぱりそれは、倒したものに注がれるわけじゃないのか?






気にはなったが、今は黙って聞くことにする。





『先ほど、たしかに上からレッドモンキーが降ってきているのに、経験値が他の何かに注がれていたので、その原因を探したのです。』





『ちょっと待ってくれるか? 魔物を倒した経験値ってどういった基準で与えられるんだ?』




今の話ぶりからして近くにある物に与えられるようだが……


 やはり気になった俺は、尋ねてしまう。




『経験値……知らないのですね。経験値は魔物の魂のようなものです。魔物が死んだ時、その魂は行き場を失い彷徨います。そこで近くの自我のある者、もしくはその者の武具のもとへ集まり、経験値となるのです。』





なるほど、つまりは自我がある人間にはもちろん、俺のような盾にも経験値は注がれ、レベルアップに繋がるということか





『なら、このドラゴンも経験値のために魔物を狩っているのか? どうも栄養分のためとは思えないんだが……』





これは先ほども考えたが、やっぱり熱で食べた獲物を溶かしていては、栄養分など吸収するにしても効率が悪いだろう。




だから、このドラゴンもレベルアップのために魔物を倒していると思ったのだが、この考えはイチジクによって否定される。






『いえ、それはないでしょう。そもそも、魔物にレベルという概念はありません。強い魔物は生まれた時から強く、弱い魔物もまた然りです』





……ということは、このドラゴンは本当に何のために魔物たちを倒しているんだ? 食べるためでも、経験値のためでもないなら……いや、そんなことを考えたところで何の意味もないか。





疑問はいつまでも生まれるが、いちいち対処しきれない俺は、話を続ける。





『なるほどな……しっかし、その理屈で言ったらイチジクのいた鞘や剣はすごいレベルになってるんじゃないか?』



『はい、私は三年間ここにいたわけですから。レベルは軽く100を超えています。』





100……っていったらやっぱり高レベルなんだろう。





『すごいんだろうな……俺なんか真っ二つにされそうだ』




『ええ、あの刀を使えばマスターなんて、手も足も出ません』




『いや、そもそも俺に手も足もないし……って、何言わせるんだよ』





これは、イチジクなりのジョークなのか?


うーん……なんて言うか、トーンが変わらんから、真面目にいってるのか冗談で言ってるのかわからんな……





 とりあえず、触れないことして、話を続ける。






『イチジク、普通の冒険者でレベルはどれくらいなのか教えてくれないか?』



すると、やはりすんなり教えてくれる。





『そうですね……新米冒険者でレベルは十程度、魔族最弱のゴブリンを倒せる強さです。レベル三十くらいになると中堅冒険者とされ、アプルの森にいる生物なら大抵のものは倒せます。六十を超えると一流とされ、ドラゴンの住むこの山でも十分渡り合えるようになり、九十になればこの大陸のおおよそどこでもやっていけるでしょう』





ほう……となれば、イチジクのもといた剣や鞘はとてつもなく強いことになる。

 




『じゃあイチジク、人間だと限界が九十なのか?』




『いえ、そういうわけではありませんが、レベルが上がるほどたくさんの経験値を得なければレベルアップしません。例えば九十を超えてくると、一つレベルアップするのに先程のレッドモンキーを三百は倒さなければいけないのです。』




なるほど、この辺は昔懐かしのRPGと一緒だ。強い魔物を倒すほど得られる経験値も多いのだろう。




『よって普通の人間にはそれ以上を目指すことができないのです。しかし、逆に言えば特殊な人間なら百を超える人も存在します。彼らは勇者や聖人と呼ばれ、皆から崇められます』




勇者か……やはりこの世界にはいるようだ。ということはもちろん魔王もいるのだろう。




『そうか……ちなみに、イチジクのいた鞘の持ち主はどれくらいのレベルだったんだ?』




『確か……彼のレベルは九十程度だったと記憶しております。他者のステータスを見るときはギルドに行ってステータス用紙を貰う必要がありますから、最終的なレベルまでは分かりませんが』




どうやら、この電子的なステータス画面は、他の人も自分の物に限っては見えているようだ。しかし、それを他者に見せるには紙にする必要があると……





『イチジクは俺のステータス画面が見えているのか?』



『はい、私は基本マスターと同じ景色を見ていますので』




『そ、そうか……』




なんか……照れるな。






そこで、俺は話を変えるために、雑談を放り込んだ。





『にしても、イチジクの喋り方って、一辺倒というか……なんか、抑揚がないよな?』




『一辺倒……ですか?』





やはり、相変わらず無機質な感じの声がする。





『ああ、他の付喪神に言われたりしないか?』





俺がなんとなくそう尋ねると、イチジクは少し困ったようにきり出した。





『他と言われましても、数年間この外界との関わりを断った状態でしたから……ここに来るまでは、そんなこと言われなかったので、長い年月が、私をそうしてしまったのかもしれません。事実、感情など無にしなければこの空間では生きていけませんから』







そこで気づいてしまった。確実に、触れちゃいけないところに触れたことに……





イチジクは、このR18も真っ青な空間で長い間、耐え抜いてきたのだ。

まともな精神状態じゃ無理だろう。それこそ、あらゆる感情を無にしなければ……






うーーむ、悪気はなかったとはいえ、あまりに配慮が足りなかったか?




俺は悪くない! と言い張りたいが、流石に悪いことをした気分になってくる。






俺は、慣れもしないフォローなるものをしてみることにした。






『あー、いや、でも、な? 俺はいいと思うぞ? その無表情な感じ』




『……? はぁ、そうですか』




『おう、なんか、こう……冷徹で真面目な秘書って感じで』





……これ、褒めてるよな?


俺は、必死に言い直す。




『あ、これは、ダメってことじゃないぞ? 少なくとも、俺は好きだし、クールで感情を表に出さない感じの女の子とか! うん、罵られたりしたらなおよしだよな!!』





何言ってるんだ、俺……





自分自身、何を言っているのか分からないでいると、しばらくしてからイチジクがひとこと言った。






『……マスター、なぜ私は、突然マスターの性癖を聞かされているのですか? 私は、マスターを罵れば良いのですか?』









……あっるぅぇ? なんか、おかしなことになってるぞ?







俺は、取り返しのつかなくなる前になんとかしようと試みる。






『ちょっとまて、今のは、あれだ、言葉のあやってやつだ』



『では、嫌いなのですか? クールな感じのメガネ美人とか』



『……それは、悪くない……いや、むしろ大好物だっ……て、何言わせてんだよ!』



『やはりですか……分かりました。これからは私もそれを念頭に置いて会話します』



『ちょっとまてぇぇい!! それは勘違いも甚だしいぞ!?』



『安心してください、このことは誰にも言いませんから』





こいつ……さっきまでの同情は無しだ!!


本体があるなら一発殴ってやりたい気分になる。




俺が一人、やっぱりガラじゃないことするんじゃなかったと後悔していると、イチジクが小さな声で言った。





それは、まるで冷たい北極の氷河の中に、たったひとつ、マッチの火が灯ったような、弱いながらにも、確かに心のある言葉だった。





『……ですが、励まそうとしてくださっていることはきちんと伝わりましたから、安心してください』





聞こえなかったフリでもしたかったが、脳内に直接響いているから、そうもいかない。

 俺はゴモゴモと返す。






『……別に、そんなんじゃない……俺は、そんな崇高なもん持ち合わせてないからな』





『……そうですか』




『あぁ、そうなんだよ』




『あ、すみません。私の言うことを否定するんじゃないわよこの豚!と答えるのが正解でしたか?』




やはり、この勘違いは収まってなかったらしい。



俺は、少し大きめな声をあげた。





「俺は、Mじゃなぁあいい!!」

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