第7話



太陽が少し西に傾いている昼下がり、うっそうと茂る草木の間を、縫うように進む九つの影があった。苔の生えたような深い緑の肌はこの森林に溶け込むために進化したものなのだろうか。



彼らの一部は、ギラつく剣を抜いており、いつでも戦闘にかかれる状態だった。




「ゴブ郎、さん、今日、どこ、いく?」



その中の一人、右手に木刀、左手に鍋蓋……俺を持つ新人ゴブリンが、前を行くゴブ郎に問う。




「今日、お前、いるから、森の、浅いところ」



腰に何も巻いていない、リーダー格のゴブリン、ゴブ郎が簡潔に答えた。




「わかった」




夕飯に食べるモノを狩猟するために森に出たゴブリンたちは、警戒しつつ森の中を歩いていた。




いやぁ〜〜八年ぶりの森の中は良いもんだな! 集落に来てからの毎日がいくら騒がしいといっても、流石に同じ景色には見飽きてたからなぁ……




そんなことを考えているのは、一匹のゴブリンの左手に握られた鍋の蓋だ。彼は八年前、ある理由でゴブリンの集落の鍋蓋になってしまっている転生者だ。



彼は無機質でありながらも、きちんと感情を持っていた。




にしても、ゴブ郎! ちゃんとリーダーしてるじゃないか! 俺を拾った頃はひよっこだったのに……ってか、酔いそうだからあんまり振るなよ?




こうして俺、鍋野改めシルドーが月日の流れとゴブ郎の成長を感じていると、ゴブ郎が立ち止まった。





ゴブ郎はそのまま、ある一点を指差す。




「あそこ、アプルジカだ、静かに」




アプルジカ、ゴブリンたちのよく食べている鹿型の魔物だ。一匹狩ればかなりの肉が採れることから、集落でも人気のある肉だった。

 俺にとっては、大きすぎてそのまま煮れないから、刻まれて鍋に入ることになるので、経験値がなかなか入らない迷惑な魔物でしかないんだが……





森では元気に生きてるんだよな……





言われた方角には、確かに細かく刻まれた姿でよく見たアプルジカがいた。見た目は通常の鹿と同じだが、ツノが少し大きく、その体は薄い緑色をしている。





獲物はこちらの存在に気づいた様子もなく、呑気に地面に生えたキノコらしきものを食べていた。



「食事中、チャンス」





ゴブ郎の声を聞き流しながら、ゴブリンたちのすごさに驚く。





少なくても百メートルは離れているけど、よく見つけられたな、あんな周りと同じような色合いなのに……




 日々の狩りで培われたスキルなのか?





一人考える俺を置いて、新人を含む九人のゴブリンがゆっくりとアプルジカに近づく。見たところ、とりあえず包囲をして逃げ場をなくす作戦のようだ。




ゴブ郎の合図で一気に鹿との距離を詰め、完全に獲物を囲うように木陰に隠れた。

新人ゴブリンはアプルジカの右側面の木の影に身を潜め、息を殺している。





手の汗が彼の心情を表していた。




「大丈夫、うまく、やれる」




そう言って彼は、そろりそろりとその足を進める。それはまるで、綱渡りをしているかのようだった。




おうおう! 頑張れよ新人君! でも、痛いから盾は使うなよ?




我関せずな鍋蓋がそんなことを考えた時……





パキッ……






新人の足元からだ。木の枝を踏んだ音が辺りに響いてしまう。



地面に目を向けると、運悪くそこにあった木の枝を踏んでしまっていた。





 あっ……





音に反応して顔を上げるアプルジカ……





……これは気づいたか?





と思ったその瞬間、アプルジカの首元に矢が生え、獲物は声を出すこともなく、ゆっくりと倒れた。




速すぎて見えなかったが、誰かが矢を放ったようだ。


痙攣して少し動いているが、死ぬのも時間の問題だろう。




「ほぅ……」




安全を確認した新人ゴブリンが溜息をつきながら、矢の飛んで来た方向を見る。




そこには、矢を手放した状態で弓を構えるゴブ郎がいた。



気づかれたと思ったゴブ郎が、いち早く矢を放ったようだ。





「て、てきかく」





そうそうできる技ではないことに関心する。





ゴブ郎、お前、狩りしてるところなんか初めて見たけど、真っ裸なくせして凄かったんだな……





ゴブ郎の意外な強さに驚いていると、仕留めたことを確認したゴブリンたちが声を上げる。




「さすが、リーダー、すごい」




あたりを囲んでいたゴブリンたちが鹿の元へ集まっていった。



ゴブ郎もまんざらではない様子だ。


最近こういったゴブリンたちの表情が可愛く見えてきたのは、八年間の付き合いのなせる技なのだろうか……。





そうして一人和んでいると、鹿の所まで着いた新人ゴブリンが、他のゴブリンたちに頭を下げた。




「すみません、音、出した」


「新人、気にするな、シカ、死ぬ前に、運べ」





そう言ってゴブ郎は鹿を指差す。





ゴブ郎、新人がちゃんと役に立つという姿を他のゴブリン達に見せるためか?……お前ってやつは、本当に成長したんだな




と思ったが、そうでもなかったようだ。






「使え、ないな」




 そんな声が裸のゴブリン、ゴブ郎から聞こえたのだ。



……おい、ゴブ郎! 聞こえてるぞ!! 俺の感動を返せ!





しかし、そんなこと聞こえていない新人ゴブリンは、ゴブ郎の偽の優しさに感謝すると、この鹿の手足を縛るように木の棒にくくりつけた。





どうやら、この状態で運ぶようだ。前を別のゴブリンが持ち、後ろを新人ゴブリンが持ち上げる。


そうして皆が移動できる状態となった時、ゴブ郎がリーダーとして指示を出す。




「今日、狩りは、終わりだ。帰り、キノコとか、食材とる」



「りょう、かい」




その声で、みんな動きだした。








それからしばらくして、山菜を採取しながらも歩くゴブリンたちの前に、見慣れた柵が見えてくる。




もともとそこまで森の奥に行かなかったからか、馴染みの集落には三十分もしないうちに到着した。




最近できた入り口をくぐると、いつものように集落内にいたゴブリンたちが藁の家から出てくる。





「男ども、帰ってきた」


「また、アプルジカだ」





狩りから帰ったゴブリンを迎えたのは、集落にいるメスゴブリンだ。正直、オスゴブリンもメスゴブリンも見た目はほとんど変わらない。違いと言えば、胸に少しのふくらみがあるかどうかの差だ。




いつもは迎える側だから、なんか新鮮だな……




そんなことを考えていると、ゴブ郎がアプルジカを指差した。




「腹減った、早く、頼む」




ゴブ郎が、毎食料理をしているメスゴブリンたちに言う。





ここからはメスゴブリンたちの役割なのだ。ゴブリン村では、男女の仕事内容がはっきりしていた。





もうそんな時間かと太陽を見ると、太陽は西にその姿を隠そうとしていた。

日が沈むとすぐに寝る彼らは、早めに夕食を食べるのである。





ゴブ郎の言葉に、メスゴブリンが「分かった」と簡潔に言って新人ゴブリン、もとい俺の方に近づいて来る。



そして手を差し出して言うのだった。




「新人、鍋蓋、返せ」


「あ、はい」




メスゴブリンの手に渡った俺は、いつもの鍋の上に帰ってきた。





結局、俺は何のために持っていかれたのか。





痛いから使って欲しくないけど、活躍はしたい。この複雑な心を理解してくれる人は、きっとこの世界にはいないだろう。





そんなことを近頃新しくなった鍋の上で考えていると、隣でメスゴブリンたちがシカを切り分け始めた。





特に血抜きをするわけでも、皮を剥ぐわけでもなく、脚と胴体と首でブツブツ切断するだけだ。あとは、水を入れたお鍋にポイ。




 本当に除菌のためだけ……




ゴブリンの脳内は、そのまま焼けば丸焦げで食べれたものではない、だから、煮る。それだけなのだ。





アプルジカが完全に息絶えたタイミングで、若干の経験値が俺へと注がれる。







そして……





「よし、完成」






そう言ってメスゴブリンたちは、満足げな顔をした。





彼女らは、一時間もしないうちにいくつかの鍋を使って約百人分の料理を完成させたようだ。





全ての鍋から、生臭い強烈な匂いが放たれる。






 嗅覚に直撃する。






……うぉおぇえええええ







 鍋蓋だから吐けもしないはずなのに、吐きそうになる。







 毎度毎度、こりゃぁ……ひでぇ……






そんな俺の思いなど知るはずもないメスゴブリンたちは、匂いにつられて見に来ていた子供ゴブリンに言った。






「ご飯、みんなを、呼べ」






その言葉で調理の様子を見ていたチビゴブリンたちが嬉しそうに散らばる。




 ゴブリンたちにとっては、これすら立派な食事なのだ。この味しか知らないから、これで充分満足しているようだった。





「できた、のか?」






皆お腹を空かせていたのだろう、十分もしないうちに、集落のあちこちからゴブリンが集まって来た。




ちなみに、ゴブ郎が一番最初に来ていたことは言わないでおいてやろう。





鍋を中心としてゴブリンたちが集合する。





 ゴブリンたちの頬はみな、歪に引き上がっていた。これは彼らなりの笑顔で、これから訪れるであろう幸せの時間を楽しみにしているようだった。





そうして少しいびつな楕円が出来上がったタイミングで、それを見届けたゴブ郎が、待ちきれない様子で立ち上がって器を持ち上げた。






「みんな、そろった、食べて、よし」





ゴブリン達は野蛮そうに見えて、実はすごい仲間思いないい奴らだ。集落の仲間が死ねば土に埋めるし、ご飯の時はみんなを待つ。喧嘩をすれば最後には仲直りだ。





こうして、器にゴロゴロとした肉が分けらてから、俺が五千回以上は見たことのある食事風景がスタートするのだった。





にしても、みんな美味そうに食べる。なにより、ゴブ郎……普段は怖い顔してるのに、ご飯の時だけはニコニコしてるよな……








最初は溢れんばかりにあった鍋の中身は、みるみるなくなり最後には空っぽになる。いつ見ても壮観だ。





みんなが食べ終えた頃、太陽が完全に姿を消した。今はわずわかな月明かりだけがこの集落を照らしている。





そんな中で、ゴブ郎が空になった器をおいて立ち上がり、口を開いた。





「よし、では、就寝」



「おやすみ」





ゴブ郎が指示したことで、皆はテント型の寝床に入っていく。




一つのテントに数人入ることになるが、彼らはそれに文句の一つも言わない。現状に満足しているのだろう。




本当、しあわせな種族だよな……




こうしてゴブリンたちの一日は終わっていくのだった。







にしても……


あぁ、そして俺はまた洗われないのか……あの街で洗われた感動をもう一度味わいたいものだ……




ゴブリン達は鍋は洗うが、鍋蓋は洗わない。




まぁ、汚くはないし、無い物ねだりしても仕方ないよな……




そう、思考を切り替えた。




よし、忘れてさっさと寝るか!




 俺も眠りにつくことにする。体力を使っているわけではないが、脳が休みを求めている、といった感じだろうか? とにかく視界を閉ざして思考を止めるのだ。これをしないと、次の日頭が働かない。




じゃ、おやすみ




誰にも聞こえない中で行う挨拶は、鍋蓋であることへの最後の抵抗だ。












ーー夜も更け切った頃、夜中の二時くらいだろうか? 月明かりが照らす一つのテントから誰かが出てくる気配を感じて、視界と頭を働かせ始めた。




そこから出て来たのは、一匹のゴブリン。




近づいてくるにつれて、その正体が明らかになる。




あれは……狩りのときの新人ゴブリンか?





彼は音を立てないように、慎重にこちらに近づいて来ていた。今も首を回してあたりを警戒している。





おい……どした? 早く寝ないと明日に響くぞ?





しかし、彼はその歩みを止めることはない。彼はそのまま手探り気味にふらふらと歩いてきて、俺の前で立ち止まった。




そして、彼はグッと手を握って、歯ぎしりをする。




「見回りだけでも……頑張らないと」




少し悔しそうに彼はそう言って、俺を持ち上げた。




ゴブリンの少し暖かい手が、俺の取っ手の部分を包み込む。




あー、なるほど、今日の見回り当番はこの新人君なのか……





見回りは村が大きくなってくるにつれて必然的にできた制度だ。やはり、夜の森は危険ということで常駐の見張りとは別で毎日誰かが村近辺の見回りをするようにしている。





 やっぱり、俺を連れていくつもりなのか?




そうであって欲しくないと願うが、そんな悪い予感は的中することになる。





彼はそのまま暗い集落の中を進み、入り口近くの武器置き場から、錆びた剣を手に取った。

そして、こちらに来て俺を持ち上げると、覚悟を決めるかのように大きく息を吸い込んで言ったのだ。




「よし! やるぞ」





月明かりの空の下、新人ゴブリンが口に出したその言葉を聞いた仲間はいなかった。





唯一、鍋の蓋を除いては……だが。









彼、新人ゴブリンは鍋蓋と錆びかけの剣を持って、真夜中の村を出た。ゴブリンのギョロリとした目が月の明かりに反射して怪しく光る。




周りに目をやると、木々が風で揺れている。月明かりがあることが唯一救いの中で、狼らしき生き物の遠吠えが鳴り響いた。




そんな昼間と全く違うその世界は、進むものの恐怖を煽る。




そんな怪しげな雰囲気の中で、毎度災難に巻き込まれる鍋蓋は、考えていた。





あー、もう、毎度毎度なんで俺はこんなはずれくじばっかり……






実際、ジャニーに連れ出された結果八年間もここで鍋蓋をしてるわけで……




それからのことを思い出す。ある時は集落が大雨で流されそうになったのを塞き止めようと頑張った…………ゴブリンたちを見てたな。

最近だと、たまたま集落にやってきたクマの魔物をみんなで協力して倒したんだ…………見てただけだけど。





って、あれ? ……俺この八年間、なんもしてなくね?





しかし、そんな俺の回想を誰が相手してくれるわけもなく、新人ゴブリンは歩き続ける。そうして歩き続けてしばらく経つと、新人ゴブリンの呟きが漏れた。




「あれは……ホーンラビット!」




それを聞いた俺は、過去から再び現実に目を向けるのであった。





確かにそこには、ホーンラビットがいた。




ホーンラビットは、その名の通り頭に角をつけたウサギだ。ゴブリンの集落では週に三回くらいこいつの姿煮が作られていたから、さほど珍しい魔物ではないのだろう。





 ……あれは、わざわざ倒さなくてもいいだろう。どう考えても村の脅威にはならない。






 と、思ったが、新人ゴブリンにとってはそうでもないらしい。




 彼は目を細めてホーンラビットを見る。狩人の目だ。






「俺だって……」






 狩りくらいできるって言いたいのか?




 昼間の挽回でもしようと考えているのだろう。


 




そこで、以前のことを思い出す。





 狩りをするのは勝手だが……確かあれって罠を張ったり弓矢を使って捕獲するんじゃなかったか? 集落の職人たちが木でそのための罠を作ってたぞ?






しかし、このゴブリンはなにせ狩りの新人だ。そう言った知識も少ないのかもしれない。




「大丈夫、今度こそ、うまく、やれる」



そう言って彼は剣を構えるのだった。




ホーンラビットは気合いを入れる新人ゴブリンに背を向けて、地面にある何かを食べている。






「食事中、確か、チャンス」





昼間にゴブ郎が言っていた言葉を思い出して、好機とばかりにゆっくり近づく新人ゴブリン。





 一歩、また一歩……





しかし、第三者の目線からこの状況を見ることができる俺は、その新人ゴブリンの行動に問題を呈する。





焦ってるのか? 慎重さが欠け始めてるぞ。





 新人ゴブリンの歩く速度は上がり、それに比例して歩き方が雑になっていく。





そして、俺のアドバイスも新人ゴブリンに届くことはなく。





ホーンラビットまであと十歩というところまで迫った時……





ーーパキパキッ





新人ゴブリンの足元で音がした。これでは昼の時と同じだ。




あぁ、やったな……




これは新人ゴブリンの気持ちの代弁でもあっただろう。




ホーンラビットはその音を合図にして、耳をピンと張ると、前、つまりは新人ゴブリンとは逆の方向に一気に走り出した。






だから忠告したのに……まぁ、無音でだけど





「逃す、か!!」





すると、ホーンラビットが走り始めてすぐ、新人ゴブリンもそれを追って走り始めた。





速さは圧倒的にホーンラビットの方が上だ。始めは十歩ほどの差であったのが、二十歩、三十歩と次第に離されていく。





これは、無理だな……そう早々に諦めた俺に対して、追い続ける新人ゴブリン。






「くそ……ま、て!」





いくら追いかけても絶対に追いつかないだろう。言いたくはないが、無駄な努力というやつだ。




そもそも、追いかけ回して狩るような魔物じゃないしな……







それからしばらく追っかけっこが続いたが、ホーンラビットがもう見えなくなったところで、ついに新人ゴブリンも諦めたようだ。ゆっくりと歩き始めた。





「はぁ、はぁ、また……ダメ、だな……」




 新人ゴブリンは目に見えてがっかりする。

 




「役に、立ちたい、のに」





肩を落として一人嘆く新人ゴブリン。かれこれ十分くらい走り続けたからだろう、肩で息をしていて苦しそうだ。






そんな焦る必要がどこにあるんだ? こいつはあれか、本来の力ならもっと出来るとか勘違いしてるのか?






他のゴブリンを見ていても、だいたい狩りに出てから、二ヶ月くらいでようやく一人前という感じだった。このゴブリンは今日初めて狩りに出た新米で、現段階で一人で狩れるわけがないのだ。





こんな面倒な努力するより、さっさと見回りするか、寝たほうが有意義だと思うぞ?





俺の上から目線の助言を無視して、落ち込む新人ゴブリンは呟く。






「見回り……するか」





 その時だ。






「……ん?」







 そんなゴブリンの声が、静かな森にこぼれた。





 なんだ……? どうした?






キョロキョロする新人ゴブリンにつられて、俺も周りを見渡す。


しかし、近くに魔物がいる様子もなく、側にある岩の無機質さが夜の冷たさを語っていた。





 ん? どうしたっていうんだ?





「ここ、どこだ? 集落から、そこまで、離れてる、わけない、はずだけどな……」

 





そう悟ったことでか、俺を握る新人ゴブリンの手汗が少し冷たくなったのを感じる。




 




って、まさかの迷子かよ……




 頼むから無事帰ってくれよ?




 こんなところに放置されたら本当に暇すぎて死ん……いや、朽ちてしまう。

俺は基本誰かに運んでもらうしかない。新米ゴブリンが帰れない時は、俺も帰れない時なのだ。





彼は少し歩きながら辺りを見る。





確かに、山は遠く向こうの方にそびえていることから、そこまでイーストシティやゴブリンの集落から離れているわけではないはずだ。




しかし、俺なら焦るところを、さすが知能低めのゴブリンといったところだろうか……





「まぁ、来た方向に、向かえば、分かるだろう」





そんな短絡的な考えで、くるりと方向転換した彼は足を進めるのだった。






はぁ……本当にこんなんで大丈夫なのか?








そう俺がゴブリンのお気楽さに不安になった瞬間だった。







「「カァアアッ! カァアアアアッ!」」





バサバサッと、一斉に鳥が飛び立つ音とその鳥のものと思われる鳴き声が森に響いた。すかさず新人ゴブリンがそれに反応する。





「なんだ? ホーンラビットが、走って、いった、ほうだ」






確かに、その鳥の鳴き声はさっきの進行方向から聞こえた。

 その鳴き声は真夜中の森に響き渡るサイレンのようだった。





 なにか、いるのか?






 鳥が一斉に逃げ出す理由なんてものは限られているだろう。




 俺と同じ考えなのか、鳥の飛び立った方に目を向ける新人ゴブリン。






十中八九、あの辺に何かしらやばい奴がいるんだろうな……







しかし、鳥が飛んだのは何百メートルも先の話だ。それとは逆の方に逃げれば、まだ余裕でその脅威から逃げられるはず。





俺はおそらく集落の方向と思われる方に視線を移して、そちらにはなにも危険性がないことを確認する。



 逃げ道はきちんとある。なにも心配せずに集落までは帰れるだろう。






さて、逃げるん……





「何か、あるなら、報告、しないと」







だ。そう言おうとしたが、新人ゴブリンはどこまでいっても集落の役に立ちたいらしい。俺の逃げるという案は即座に却下され、調査することにするようだ。


確かにその方が仲間のゴブリンたちのためにはなるだろうが、鹿の……いや、兎の一羽も倒せないのにそんなの無謀すぎる。





 俺は、この新人ゴブリンのためを思って、本当に新人ゴブリンのためだけに忠告してやる。もちろん、そこに己の安全のためなどと無粋な考えは存在していない。





絶対逃げるべきだ! なんかヤバいフラグ立ってるから! 





しかし、フラグなど知るよしもないどころか、俺の声すら聞こえない新人ゴブリンは、一歩、また一歩とフラグがたなびく森の中を進む。





それを見て、流石に呆れた俺は、踵を返すことにする。






そうか……なら、もう知らん!! 俺は帰るから、勝手にしろ!!


俺はそう言い放つと、ゴブリンとは逆の方向へ進み始め……






ることもできない俺は、所有者の意思に従うしかない。







こうして、新人ゴブリンと感情を持った鍋蓋は、その違和感の方向へ足を進めるのだった。








警戒しつつゆっくりと進むゴブリン。額から出た汗を月明かりが照らす。






ガサガサッッツ!!







すると、そんな彼の前に突然、茂みから先ほどのものと思われるホーンラビットが飛び出して来た。





そいつは、こちらの存在を気にした様子もなく、突き進んでいってしまう。





まさか捕まえて欲しくて戻って来たわけじゃないだろうしなぁ……





恐らくこのホーンラビットは、俺たちより脅威を感じる存在を目の当たりにして、こちらに逃げてきたのだろう。




「どうなって、いる?」




新人ゴブリンも突然の出来事に対処しきれていないようだ。さっきまでのようにホーンラビットの相手をすることもなく、その飛び出して来た方向を見ている。




やっぱり、やばいって……悪いことは言わん、帰ろう!





そう心の中で説得をしていた時……







ズシン……ズシン……






何か迫り来る大きな音が、森にこだました。木々がわずかに揺れているのは、風のせいか木々自身が恐怖を抱いているせいか……






「な、なにか、こっちに、来る……」





ゴクリ……ゴブリンの喉を唾が流れる。冷や汗がとめどなく流れ、彼の体が全体で警告を鳴らしていた。





これは、何か知らんが……完全にやばい。





戦闘に出ない鍋蓋にでも分かった。足音が鳴るたび、森が痺れる。空気が震える。





そして……






ついにそいつは姿を現した。


ゴブリンの約百メートル先、なぎ倒された木々の間。

 まるで鎧のような鱗を体に纏い、二対の大きな翼を背中に生やしている。鋭い牙を生え揃え、爬虫類特有の眼はギョロリとあたりを見渡していた。




俺はそいつの存在を知っていた。かつては虚構であった存在。今では現実になった存在。









ーードラゴンだ。







新人ゴブリンは、想定外の事態に目を大きく見開いていた。





「ド、ドラゴン……しかも、こいつは、普通じゃ、ない……」





そこにいたのは真っ赤なドラゴン。四足歩行で、ドラゴンらしい二つの大きな翼を持ち、胴体から繋がった顔には、剥き出しにした大きな牙が見える。

 



それを見て、口はないが、乾いた笑みがこぼれる。




ははっ……


マジもんのドラゴンだよ、想像してたより何倍もでかいけど……





かなり遠目からでも分かる。その図体はゴブリンの数十倍のでかさで、人間やゴブリンなら丸呑みにできそうだった。この辺の木々が大きいから分からなかったが、平野にでも出ればその存在感は圧倒的だろう。




このサイズには、新人ゴブリンも驚きを隠せないようだ。



「俺の、知っている、ドラゴンは、ここまで、でかく、ないぞ……」




そこで思い出す。八年前の言葉『森に不穏な空気が流れている』




……こいつ、森の奥にある山のドラゴンなのか!?






クソッ、八年経った今さらフラグ回収すんなよぉお!!





俺の魂が今生の叫びをあげる。





さぁ、早く逃げろ! 新人ゴブリン!!




焦りとともに自分の今の持ち主の方を見る……しかし、そこには完全に臨戦態勢のゴブリンの姿があった。






「や、や、やってやるぞ……やって、やって」




こいつ、オドオドしながらカッコつけやがった! まだ間に合うって!! 逃げろよ





というアドバイス(無音)をよそにドラゴンはゆっくりとこちらに進んで来る。




見たところ歩くスピードはかなり遅い。図体に似合わず普通の人間の歩く速度くらいだろうか?





ズンッ……ズンッ……





その一歩一歩、一定のリズムが己の死へのカウントダウンに聞こえる。





 人の胴より太い木々が当たり前のようにボキリボキリと折れ曲がり、辺りには逃げ惑う動物たちの鳴き声が響く。





そのままドラゴンは、ただただ普通に堂々と進み、俺たちまであと五十メートルというところまで迫った。






しかし、ここまでドラゴンが迫ってもゴブリンは逃げない。やはりゴブリンは知能が低いからなのか、彼はただただずっと小刻みに震えていた。






これは本当に……終わったな





はぁ〜〜


 もっと異世界を満喫したかった、ちゃんと人として。

結局、八年間鍋の上で耐え忍んだだけだったな。







二つの大きな瞳がギョロリとこちらに向く。






 そいつはこちらをじっと見つめる。






新人ゴブリンはピクリとも動かない、完全に萎縮しきっている。

 心と体が一致しないのだろう。


 ゴブリンはガクガクとしながら口を開く。






「か、か、か、か、か、か……かって、こい」






 ……バッカだな。お前が勝てるわけないだろ。






 俺がそう思ったとき。






ドラゴンは、目の前で口を広げて炎の玉を作り始めた。





 どういう原理かは分からないが、ドラゴンは静かに、本当に静かに炎を練り上げた。彼にとって俺たちは威嚇するほどの敵でもないのだろう。いや、敵と認識されているのかさえ怪しいものだ。






ほとんど光のない世界に煌めくその大きな炎は、世界に一輪だけ咲く花のようだった。しかし、その花は限りなく恐ろしい。





 熱さがこちらにまで届く。






やっぱりドラゴンといえば炎だよなぁ……





もはや諦めにかかった俺は、そんなどうでもいいことを考えていた。







そして次の瞬間……






牙の生えそろった口が、より大きく開かれて炎の玉が凄いスピードで飛んできた。







 まあ、善行はしてないが、鍋蓋としてできることは、十分やったよな……








もうとっくの前に諦めていた俺のそばで、誰かの言葉が聞こえる。










「俺だって……役に……立つ!」






……新人ゴブリンか!?






俺にだけ聞こえたであろうその声は、震えていた。







無理だ。ゴブリンはドラゴンに勝てない。







しかし、彼は意地でもその望みを叶えたいようだ。彼は……新人ゴブリンは、最後の抵抗とばかりに、









……鍋蓋を構えた、つまり俺を構えた。








 あー、はいはい、分かってましたよ?


 でも、無理だと思うよ? ゴブリン君。


 一緒に閻魔様に会いにいくか……







 死を覚悟したからか、あの時……ジャニーに盾にされたときのことが走馬灯のように蘇る。


 あの時は、たかだか棍棒を防ぐだけだった。だからまぁ、どうにかなったけど、今回はドラゴンの炎だしなぁ……



 このままゴブリン共々炭になって消えるのか。






目の前に人間のサイズほどの大きさの炎が迫る。






あぁ、今からそちらに行くので、またお世話になりますね閻魔様。今度こそよろしくおね……






それは衝撃だった。勢いよく飛んできた火の玉は見事俺に命中したのだ。







……あガッッッッ!!!!







 体全体に痛みが走る。






 ないはずの肉の体が裂ける感覚。血が、肉が、飛び散るような。






痛い……苦しい……





 前世を含めて、もこれほどの衝撃、受けたことがないだろう。痛みがジンジンと広がる。ジンジンと。







 ……ん? ジンジンと……?






しばらくして、気がついた。






 まだ痛みを感じられていることに。






 要は……生きていることに。






死んで、いや壊れてない?







己の体に目を向ける。






そこには……







 傷一つ付いていない鍋の蓋があった。










熱耐性(極)の効果か……?







もう終わりだと目をつぶっていたゴブリンが、目を大きく見開いて俺のことを見ている。








それを見た俺は、無音で高らかに笑った。








……フッ、フッハッハッ!! 恐れ入ったか!ゴブリン! これが俺の真の力なのだよ!!






きみぃ、相当驚いてるな?



……実は俺もだ!







そこで、一旦落ち着いたゴブリンが、行動を開始した。







「か、勝つのは……無理」




 新人ゴブリン、さっきまでの威勢はどこへやら、戦うことを放棄したようだ。






「ここは、村に伝えて……みんなで、逃げよう」






 ゴブリンは呟くと、カッコつける俺を無視して、走り出す。ドラゴンとは逆方向、ゴブリンの集落の方へ。







かたや俺は、自身の予想外の丈夫さに気分が高ぶる。






走れ新人! 君を遮るものは何もない! もしあのドラゴンが炎を放とうとも、この最強の盾が防いでやるさ!





 なんといっても、俺にはドラゴンの炎なんてもろともしなかった実績があるのだ。






 ふっはっはっはっ! ドラゴンも大したことないじゃぁないか!!







 その高笑い(無音)の直後だ。






 ……ゴォォオオ!!!!






自分の意外な凄さに調子に乗っていると、目の前の木がゴウッと凄まじい音を立てて燃えた。







その原因は、明らかにドラゴンの炎によるもので……






 何より問題なのが、その炎が降ってきた角度だった。






その炎は、本来ならばありえない……





 後方のはるか『上空』から降ってきたのだ。







……あ、あれ? なんで、あんな上の方から飛んできたんだ?







 いくらドラゴンがでかいといっても、限度がある。






 先ほどまでの豪快な笑いがなりを潜める。







俺は、一旦深呼吸して、恐る恐るといったように後ろを見る。







その瞬間、頭の中から余裕の二文字が消えた。







と、飛んでるぅううう!!!!







 目に映ったのは、その巨体の二倍はある翼を左右にバサリと大きく開いた怪物の姿だった。





そう、例のドラゴンが飛んでこちらに迫っていたのだ。翼があるのだから飛んでもおかしくないのだが……






「ダメだ! 追いつ、かれる!」







走るものが飛ぶものに速さで勝てるわけがなかった。

 歩くのが遅いドラゴンではあったが、飛べば一瞬で移動できるらしい。






 ドラゴンはビィュンッッッと俺たちの真上を通過すると、角度を変えて地上に降りたった……






 ……俺たちの前に。







「ギュルァアアアアアッッッ」







 ドラゴンが雄叫びを上げた。




俺たちの前に立ち塞がってこちらを威嚇するように立つ。


 咆哮が、森全体に響き渡る。


 体がピリピリと痺れ、直視することを避けてしまう。






 爆音が鳴り止んだ森に立つ、一匹のドラゴン。

 歯の隙間からは赤い炎がチラチラと姿を見せていた。



 

 



 それによって、直進あるのみだったゴブリンの足が止まる。







 

 ドラゴンを前に、足が止まる。







 だ、だが、あの炎を俺は完全に防いだんだ。いくら見た目が怖いからといって、恐れる必要はない。






 俺たちを見下ろす怪物と目が合う。






 ないったら、ない……






 ドラゴンは牙を剥き出しにして、呻き声を上げる。






 ないは……ず……





 

 ドラゴンさんは相当お怒りなようだ。目がギロリと光る。






 ……………………す、す。




 


 さっき、ドラゴンの炎の球を真正面から受けたときの衝撃が脳内に浮かぶ。






 ……す、すみません、図に乗りましたぁあ!!



 僕には貴方様の攻撃を防ぐなんて無理です!!だから、どうか、どうかお助けをぉ!!!!








しかし、手の平を、いや、鍋蓋をひっくり返す俺の意は、俺の持ち主であるおバカなゴブリンによって拒否される。






ゴブリンは言ったのだ。







「帰れ、ないなら……俺が、俺がやる! 最悪でも……火山に、戻す、ぞ!!」






まっすぐな瞳で、俺とは対照的に改めて戦意むき出しの新人ゴブリン。





 それを見た俺は、ただただ驚くしかない。





え、ちょっとまて! 戦う? 山へ帰すだと!? 無理に決まってんだろ!!






そんな俺の叫び(無音)を気にした様子もなく、ゴブリンは錆びた剣を構える。






「うおぉおお!!!!」






けたたましい威勢とともに、新人ゴブリンは大地を蹴った。盾を前にして剣を握り、突き進む。






絶対無理だって! 無謀だって!





 逃げるはずだったのに、突然始まったバトル展開についていけない。






 しかし、そうも言ってられないようだった。というのも、ゴブリン突撃を黙って見ているドラゴンではない。次から次に炎の玉が飛んできていたのだ。







ちょっ! 痛い! 痛いってば!!







炎が飛んでくる度に、新人ゴブリンは俺を利用して防いでいた。つまりは生身で受けたら一瞬で蒸発するであろう炎を、俺は何度も受けているわけだ。







 ……ボウッ! ジュゥウ! ドゴンッ!!






 そんな音と共に、傷はつかない……が、やはり痛みとして炎の玉は俺に襲いかかる。






さすがに……やばいかも……






いくら熱に耐性があると言っても、相手はどでかい怪物、ドラゴンだ。その攻撃は死にたくなるほど痛いし、俺が防げるのは炎の攻撃だけだ。






 それに、ドラゴンの攻撃が炎の攻撃だけにとどまるわけがない。







「くそ! 近づけ、ない!」








そう、遠距離の炎の玉の攻撃は俺で防いだゴブリンであったが、近づくとドラゴンの鋭い牙が襲いかかってくるのだ。






もし、あの牙で噛まれようものなら、ただの鍋蓋の俺は木っ端微塵だろう……






そうこうしている間に、火の手がそこらじゅうから上がっていた。真っ暗であるはずの夜が、昼間ように明るくなる。






もはや、逃げ道すらないじゃないか! どうするんだよ!





背後は燃え盛る炎、前には地面に降り立ったドラゴン。





そんな絶体絶命の中、ゴブリンが一言だけ、ポツリと呟いたのが聞こえた。





「いける……か?」





そう言った新人ゴブリンの表情は、真剣そのものだった。





何かしら打開策を閃いたのか!? この状態で、どうするつもりなんだ?




周りの木々は絶賛炎上中で、今はその中心にいるのだ。すでに退路は断たれている。





すると、新人ゴブリンは突然走り始めた。





それは、目の前のドラゴン……にではなく、右に向かってだ。





右側は徐々に炎が燃え広がりつつある森で、木の水分による煙と、真夜中による影響で、視界はかなり悪くなっている。






そこへ行くということは、自ら何も見えない領域に足を踏み入れたも同然だ。


それくらいのこと、ゴブリンでも分かっているはずなのだが……





しかし、ゴブリンは走る。煙がモクモクと立ち上がる森の中に自分の意思で飛び込んでいく。






ダメだ、そこに飛び込むのは自殺行為だ。


 なんも見えなくなるぞ!






しかし、俺のそんな警告はすぐに止むことになる。






驚くことに、彼は視界が不良の中、目の前の木々を全て避けて走っていたのだ。






……もしかして、ちゃんと見えてるのか?






少なくとも、普通の人と同じ視力を持つ俺には、何も見えない世界だったのだが……






ふと、そこで思い出す。昼間のゴブリンたちの動きを。






そういや、ゴブリンの目は百メートル以上の遠さからアプルジカを発見できるくらい目が良かったっけ?






俺にとっては意外な展開だが、このゴブリンにとっては、予想通りだったのだろう。何も躊躇することなく、炎の上がる森の中を華麗に走る。







ヒュゥゥ……




何かが飛ぶ音がして、しばらくして、メラメラという音へと変わる。






ゴブリンとは対照的に、ドラゴンには何も見えていないのか、森の中に無差別に炎の玉の雨を降らしていたのだ。







「よし! いけ、る!」






そのまま新人ゴブリンは、迂回しつつドラゴンの背後を目指す。






 ヒュウンッという高い音が通り過ぎるとともに、どこかでメラメラと木の燃える音がする。その音はあちこちに降り注ぐが、一つも当たりはしない。






……なるほど、この状況に応じてドラゴンの背後を狙う作戦か? たしかに、背後からなら炎も牙も怖くない!!






未だにドラゴンが火を撒き散らす森を抜け、ドラゴンの背後についた。





 森を旋回して横を見ると、煙の隙間からドラゴンの大きな背中がみえる。





片足を軸にして、グルンと体の向きを変える。剣を構え、ドラゴンへとその錆びついた刀身を向けた。






そこには無防備な巨大な弱点がある。





彼は叫ぶ。






「もらっったぁああ!!」







ゴブリンは体勢を低くし、目標に向かって走る。地を蹴る彼は一瞬の風になっていた。





いける! いける! いける! いける!





ゴブリンは小柄で目立ちにくい。それを最大限に活かした攻撃は、ドラゴンのすぐそばにまで迫っていた。





 遠目でも大きかったドラゴンが目の前になり、赤く輝く鱗の一枚一枚が視界に映り込む。





 ドラゴンは未だに誰もいない森に向かって炎を飛ばし続けている。




 そこにはゴブリンはいない。





 ゴブリンは、ここにいるのだ。




 そう、ドラゴン、お前の真後ろだ!!





あと少しでドラゴンに届く、ゴブリンの勝ちだ。






絶対無理だと思っていた戦いに勝利できる喜びに、興奮が止まらない。






そして、その刃が奴に届く……







 そう勝利を確信した時だ。







 こちらの存在に気がついたのか、首をグンッと曲げてこちらを見るドラゴンの表情が見えた。









奴は……笑っていた。






 いや、笑っているように見えたというのが正解だろう。




それは勝者の笑みだった。まんまと罠にはまった弱者を見る目だ。自分の思い通りになって相手を嘲る者の目だ。








……はっ! まずい!!







そう思った時には遅かった。







 目の前に。手を伸ばせば届く距離に。何か勢いよく迫りくるものがあった。






 それは、勢いを止めることなく、俺を手に持つゴブリンの元へ吸い込まれる。





 その瞬間、血が吹き出した。





 奴の振り下ろした『尻尾』が新人ゴブリンに直撃したのだ。









ベチン……







そんな蚊をたたいたような、呆気ない音とともに、新人ゴブリンの体は地面に弾き飛ばされた。





 ガンッ






 地面に衝突したゴブリンは水切りのように数回跳ねる。






 そして、ゴロゴロと転がる。




 


俺は直撃を免れたが、新人ゴブリンは、そのドラゴンにとってみれば攻撃ともいえないような攻撃をダイレクトに受けたのだ。








彼はもはやピクリとも動かない。







それを見て、俺は自分のドラゴンに対する認識を再確認した。







俺は、何を当たり前のことを忘れていたんだ。


 ドラゴンなんだぞ? どうして脅威がその牙や炎だけだと思ったんだ?




 ドラゴンといえば、その強靭な尻尾から繰り出される攻撃があるくらい予想できたはずだ。





 俺がそれを思い出せていたところで、こうなる運命にはなんの関係性もなかったんだろう。




 それはなんとなく予想できる。




 が、それでも……






首を回してそんなゴブリンを見たドラゴンは、満足したように前を向き、再び人間の街やゴブリンの集落がある方に向かって大きな足音を鳴らして歩き始めた。







ドラゴンにとってゴブリンなど、相手にもならない矮小な存在だったのだ。人が虫を潰すのと大差ない。








あぁ……これが、善行の行く末か……







俺は故郷のために尽くそうとする……いわば、善行に勤しむ新人ゴブリンを、それなりに気に入っていたのだ。俺には到底できない芸当だったから、多少の尊敬の念があったのかもしれない。






しかし、そんな命が一瞬で刈り取られてしまった。






あーーあ、やっぱり、善行なんてするべきじゃないんだよ。






 ドラゴン、空を飛ばないのは、あの巨体を何度も浮かせることが厳しいからなのだろうか?





 まぁとにかく、このままだと、ゴブリンの集落はおろか、人間の街も破壊されることだろう。






そんなことどうでもいい……普段ならそう言い切って終わりなのに、今回ばかりは、そう思えなかった。






この新人ゴブリンのせいか……? あんな行動見せられたからなのか?


 いや……違う、違うぞ。俺がここで一人になってしまうことに対する憤りだ。そう、別にこのゴブリンは関係ない。






とにかく、気に入らない。このドラゴンが。






そもそも、こいつはなんでそこまでして街の方に行きたがるんだ? もともとはゴブリンの集落やイーストシティの街とは反対側の山に住んでるという話だった。ここは奴のテリトリーではないはずなのだ。






しかし、今更そんなことを考えたところで、遅い。全ては手遅れだ。







ゴブリンの命は尽きたのだ。



 全部終わりだ。俺はここでこのゴブリンとともに腐っていくのを待つしかない。









 しかし、そう思ったのも束の間。





それは、虫の羽音くらいの小さな音だった。







「うぅ……」







どこからか、声にならない声が聞こえてきた。






まさか……?






俺はそんなバカなと思いながら、先程、無残にも潰された戦士に目を向ける。






ピクリッ……






完全に命を手放したと思っていた彼は、その命をギリギリのところで繋ぎ止めていた。







は、ははっ! お前、生きてるとかマジか?






ゴブリンがなんとか息をしているのを見て、不思議と笑いが漏れる。


……しかし、いくら生きていたからといって、彼はもう虫の息だった。






勝者はドラゴン、ゴブリンは敗者なのだ。







 結果的に無傷で立ち去るドラゴンと、体を己の血に染めた真っ赤なゴブリン。






……それなのに、なぜ起き上がろうとしている?







その事実が揺らぐことはないだろう。しかし、敗者はまた立ち上がろうとしていた。







敗者は、敗者に似合わぬことを口にする。



「まだ、終わって、ない、ぞ……ドラゴン」







俺にしか聞こえないくらいの声で言った彼は、フラフラしながらも両足を無理やり押さえ込んで立ち上がった。




 そして、左足を一歩前に出し、両足を前後にグッと開いた。




 そのまま右手に持った剣をドラゴンの方に向けて、肩の上で構える。







それは、槍投げにも似た構えで……




その目は敗者の目ではなかった。



狩猟者の目だった。






そして、彼は目を見開き、掠れた声を上げた。





「この、勝負、俺の、勝ちだぁあ!!」






ゴブリンは一切の躊躇いなく、その手に持った剣をドラゴンに向けて、地面と平行に飛ばした。







「くらぇえええ!!」






 ビュンッッッツ!!






 ゴブリンといえども、やはり人間離れした魔物。その剣は凄まじい速さになる。





勇ましい言葉と同時に放たれた剣は、何にも止められることはなかった。真っ直ぐな一本の線を描いてドラゴンに迫る。






そして……









「ギャアァアァアアアア!!」







初めてドラゴンが苦痛の声をあげた。





ゴブリンの放った剣がドラゴンの左翼を突き抜けたのだ。錆びた剣ではあったが、薄い膜でできた翼を狙ったのが良かったのだろう。





翼の根元を狙ったゴブリンの攻撃は、見事に左翼に命中し、剣が通過した部分が血飛沫を上げる。




 それは、少なくともしばらくは翼を使えなくなるほどのダメージを与えることにはなっただろう。


 




そのときだ。





 パリンッ……





 そんな音とともに、左翼のあたりで、なにか光の刻印が破壊されたような光を放った。







 ……なんだ、今の光は?







 明らかに怪しい光を感じだが、今はそれどころの話ではない。






……くそっ、やっぱりダメか! 片方の翼を破壊したところで、ドラゴンが死ぬわけがない。






 ドラゴンの左翼は抉れ、血が吹き出しているが、だからといって致命傷にはならない。





ドラゴンは、怒り狂った体をこちらに向けて、砂煙をあげながら迫ってきた。








「ギルゥァァアァァァア!!!!」




「そうだ! こっちに、来い! 地面を、這い、ながらな!」






ゴブリンはそう叫ぶと、より森の奥の方へ走り出した。先ほどの尻尾の攻撃で俺を持つ左腕が折れたのか、右手に俺を持ちかえている。






一連の流れを見て、なんとなくゴブリンのしたいことが分かってきた。




なるほど、これが新人ゴブリンの狙いか……





あのドラゴンは見るからに気性が荒い。もし攻撃をすれば、こちらが死ぬまで追いかけて来るだろうと考えたわけだ。





さらに、左翼を破壊することで、ドラゴンは飛べないまま追いかけてくるというカラクリだ。







ドラゴンの地面を進むスピードはさほど早くない。それを利用して山の方まで逃げ切れば……ドラゴンを集落から遠ざけることができる!!





なかなかやるじゃないか、新人ゴブリン!







だが……






この作戦には問題もあるはずだ。





ひとまずの危機を乗り切り、俺はなるべく冷静に考える。





問題の一つ目、まず、このゴブリンの体力が山まで持つかということだ。





山は遠くに見えており、走っても三時間以上はかかるだろう。すでに満身創痍な状態の彼が、三時間も走りきれるとは思えないし、走り終えたところでどのみち彼はドラゴンに殺される道しかないと言える。




次に、山までたどり着いたとして、ドラゴンがそこに居続けてくれるかだ。




まぁ、どちらにせよこのゴブリンの目指す、彼の集落からドラゴンを離すという目的には叶うわけだが……





新人ゴブリン……いや、戦士は走る。ひたすらに走る。後ろから飛んでくる炎をかわしつつ、ひたすらに走る。





その顔は初めの頃の恐怖に歪んだ顔ではない。自らの命をかけて故郷を守ることへの、やる気と満足感を感じさせるものだった。





左腕は使い物にならない、身体中は傷だらけで、火傷の跡も見て取れる。いつ倒れてもおかしくない。それでも彼はドラゴンを故郷から遠ざけるため、仲間のゴブリンを助けるために走った。



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