演繹法たちの帰納法


あの日に心をあの場所に置いてきた男は、何も考えないようにしていた。

毎日毎日その日暮らしの、目の前のことだけを明るく笑って楽しく過ごす。

それで充分だ。

負いすぎるものもなく、面倒やしがらみもなく、流れるように流れている。

いい生き方だ。

傷つかずに済む。

手に入らないものは諦める。

欲しがらなければそれは軽いのだから。


時折、あの日の感触を思い出す。

円い柔らかいあの心。

置いて少し形を変えたあの瞬間を。

あれはまだあの日のままあの場所に在るのだろうか。

男はその後を知らない。

崩れて跡となり痕になり染みのように混沌としたあの心の有り様を知らない。

ただあの殻が剥がれた時の柔らかい愛しい心地しか覚えていない。


男は彼の噂を知っている。

その心を壊しあの場所に置き去りにしたという噂を。

男はどこからともなく流れてくる噂を否定はしなかった。

別に正す必要もない。

わざわざ己がしたと名乗る必要も無い。

詮無きこと。

本当のことは当事者がわかっていればいい。

思い出すと少し胸が痛むがそれも過去のこと。



ひたひたとそれは男の後ろを着いてきた。

気付かないふりをしていたが、どうにも離れる気配がない。

男は大きく息を吐いてから、裏路地に入り、出てこいと声を上げた。

一人の少年が進み出た。その顔は笑っている。

体格が二倍ほどあるような二人はしばらく沈黙した。

そうして少年が唐突に口を開いた。


「戻りませんか」

どこに。

「その足が決してあの場所の近くを歩かないのは、負い目を感じているからでは?」

男は無言のまま少年を見ていた。

そうして、なんの事かさっぱりわからないね、と呟いて路地からでようとする。

「いつまで逃げますか?」

その巨体の足が止まる。少年は笑っていない。


「おまえさんが何者かは知らないが、俺を責めているならお門違いだ」

少し腹が立っている。

そしてその理由すら男は見ないふりをする。


言い当てられて自分でもそう思うでしょう?

少年は見透かすように真っ直ぐ見ていた。

だってあなた、

主語が無くともなんのことかわかっているでしょう?



あの後をご存知ですか、と少年は続けた。

知りたくもないし知る必要もないから目の前から消えろと男は背を向けた。

少年はその背を追いかけない。

暗い路地から大通りにかけて声が抜ける。


「見るも無惨な混沌の跡地になってますよ」


可哀想に。

無機質な声が言外にその言葉を含めていた。



男は彼のことが嫌いではなかった。

むしろ適度に声をかけ合うくらいには楽な関係だった。

彼は決して人付き合いが得意なほうではなかったが、

男自身は誰とでも気安く付き合うことができた。

その有能さで名前を知られる彼がその心に心酔していることは知っていた。

それを手に出来ずにいることも。

その対象に興味が芽生えた。


隣にいて一目置かれる存在の彼。

その彼がその有能さをもってしてもどうにも取り出せずにいるその心。

頑健なもので四方八方囲まれたその柔らかさの象徴。

彼とその心と。

何一つ変わることのないその距離をずっと眺めているうちに、

自分ならどうだろう、と思ってしまった。

その柔らかさを自分が手にしたらどうなるだろう、と。


それは容易く手の中に入った。

疑うこともなく、その全ての柔らかさでもって男を包んだ。

安らぎを得たはずだった。

そこは安息の家となるはずだった。

なのに。

男の中に小さく芽吹いたその疑念は、

古い童話のように空を突き刺すような巨木になった。

そう、自分は本当にそれが欲しかったのか?と。

ただその動機は、彼へのあてつけではなかったのではないか?と。



大変なことをしてしまった気がした。

これほどまでに深く絡め取られて、だがそれでも。

彼の手に渡せないだろうか。

ただほんの少し、彼が欲しがるものを手にしてみたかっただけの、

遊び心だったのだとは、もう言えない。

あの鉄壁は崩れ落ち、そのまろみが肌を滑り落ちる。

男は深く悔いた。彼に己にその心に。



彼女は心を見つめる彼が好きだった。

もうどうしたって自分の入る余地などないとわかっていても、

その真っ直ぐに一途に向けられた想いが、好きだった。

だから男がそれを取った時、どこかひどく許せなかった。

本気ではないでしょうあなた。

ただ他人のものが羨ましかっただけの好奇心でしょう?


男は心を置いて去った。

逃げたのだ、と彼女は思っている。

実際手にしてみたら怖くなって、怯えて手放したんでしょう。

彼は落胆した。

傷つき深みに堕ちていった。

自分がそれを助けられたなら。

けれど彼女は期待など持たない。

それほど彼を見てきたのだから。

彼女が一番許せないのは心だった。

どうせ崩れるなら男が置いた時に崩れ切ってしまえばまだ。

なぜ、彼の指が触れるまで持ちこたえてしまったのか。


彼女が過去のことを思い出しながら自室に入ると、そこに少年が立っていた。

不意打ちに声すらだせなかったが、少年は穏やかに笑った。

あなたは誰なの、と彼女は問う。

男に戻るよう説得して欲しいと少年は希望を述べた。

「彼にもう一度会いたくはない?」

その言葉が彼女を抉る。

少年は一度も座ることなく部屋から出ていった。


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