素数の割り算
道はいつだって平坦とは限らない。
あまりにも少女が簡単に崖下に転げ落ちそうになるものだから、
彼は慌ててその手を強く掴んだ。
細い、自分とは違う手を。
出発した時とは逆に硬い大きな手が柔らかい手を。
ありがとうと少女は笑いずんずん進む。
何処に行くのかもよくわからないままに。
その感触を不思議に思う。
折れなかった。
壊れなかった。
あんなに細いのに、あんなに強く掴んだのに。
それはいつかの出来事とは全く違っていた。
柔らかい灯りが森に降る。
火の粉のように。
それは在るのと無いのとの狭間。
夜だけ見えるきらめき。
暗い夜の中、ほんわりと漂うそれらの淡い灯火たち。
少女はその灯りに手を伸ばして、掴もうとした。
そこに彼が待ったをかける。
それに触れてはならないのだ、と。
少女は理由を聞いた。
それらは夜にその姿でしか存在できないものたちなのだ。
触れると消える、消えてしまうのだと彼は答えた。
それはいつかの何かと同じ。
ああ、思い出してしまう。
だが、少女は触れた。
灯りは消える。
彼は一瞬何かを言おうとして噤んだ。
見て。
少女は指を向けた。
暗い森の中、ぼぅっとそれは灯った。
少女は触れて回り、その度に別の場所に灯りが降った。
笑う。
枝を踏んで落ちた葉を踏んで、暖をとる焚き火から少し離れて少女は遊ぶ。
彼は呆然と、ただその光景を見ていた。
彼は触れないぎりぎりの場所で、灯りの下に両手を差し出す。
掬い取るように。
少女はひとしきり楽しんで焚き火の傍に眠った。
その顔は満足そうに、安心しきった顔で。
焚き火以外の灯りは消えて辺りは真っ暗だ。
その横に座り、彼は溶けた心を想い出す。
あの日に形を変えてしまったあの心のことを。
自分は何か、大事なことを落としていないか。
相手の形が変わったからといって、それは罪だっただろうか。
相手の形を変えてしまったからといって、
相手が形を変えてしまったからといって、
自分を責め続けなければならないようなことだっただろうか。
あの時の正しさとは何だったのだろうか。
本当にそれはダメなことだったんだろうか。
己が元に戻さなくてはならないことだろうか?
少女と彼は、歩く。
答えのない道を、自分たちを頼りに。
彼は自分がこんな旅に出ることになるとは思っていなかった。
何も知らないただ少しばかり一緒に居た少年のために。
少女のために。
ほんの少し、自分のために。
状況を変えることになった、あの時、扉を叩いた少年を責めることなどない。
彼は目の前を歩く少女を見る。一つ消えて、一つ灯った明かり。
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