【3】雑思考


「え?明日から?」

「はい。君には適正以上に家で働く素質がありそうです。それを存分に生かしてもらいますよ」

「…はぁ」


 面接はその意味深な言葉だけで終わりを告げていた。明日から急に来てほしいと言われても、掛け持ちしているバイト先にはまだ、転職の相談すらしていない。この店長が一方を入れたところでどうにかなる問題なのだろうか。


「明日、朝八時に出勤して来て下さい。開店までの時間、店の概要と仕事の内容をご説明します。制服貸与、食事補助付きです。予定的には週五日勤務、木曜日が定休日でお休みとなります」

「わかりました、じゃあ、財布と携帯だけ持って来ればいいですか?」

「いえ。今の勤務先の制服も持ってきてください。こちらからお返ししますので」

「…? 解りました。明日から、よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いしますね。新人くん」


 新人くん、て。俺にはちゃんとした名前があるのだが。帰り道、自転車を押しながらそんな事を考えていた。

 家に帰る途中にある駄菓子屋に寄るためだ。来るときに見掛けたぼろっちい店。この夏の暑さはそこそこに堪えていた。彼は暑いのに弱い。自分の出身地が雪国のせいもあるだろう。まともにこの日照りを食らうのは辛いものがある。おまけに夜も暑いのがこのコンクリートジャングル。大学で一年、別のキャンパスで養豚をやっていた時の方が遥かに涼しく感じる。

 おまけに彼の家にはクーラーが無い。八畳の部屋は蒸し風呂状態で、こうして出歩いている方が遥かに楽だった。

 そう言えばあの店、すごく涼しかったな。そんな事を考えながら駄菓子屋に到着した。


 ラムネの瓶を開けると、ビー玉が抜ける小気味のいい音がした。

 炭酸が効いたそれを喉に流し込むと、ぷはっと息が出る。美味い。昔からの硝子の瓶製ラムネは冷え切って居て、控えめに言って最高だった。

 ここから家までまだ距離がある。全く免許があるというのに車を持てないのは不便でしようがない。

 車の維持費が有ったら生活に充てたいし、買う金があっても生活に充てたい。

 生来ケチな所があるのは知っている。だがそのケチも使う暇もないほど貧乏暇なしなのだ。

 明日から働けば少しは変わるのかな。そんな事を考えながら、残りのラムネを口に運ぶ。

 明日から。――明日から。本当に良いのだろうか?店長の、何と言うか圧に負けてしまったが一応職場に連絡は入れておいた方が良いだろう。彼は携帯電話を取り出して、職場に連絡しようと試みた。


『はい、○○運輸です』

「もしもし?お世話になってます、バイトの小日向こひなたですが」

『こひなた?』

「はい、引っ越し業務の方に携わってる…」

『少々お待ちください。確認いたします』

「え?」


 数分の後、弊社にはその様なお名前の従業員はおりませんと言う返事が返って来た。

 どういう事だ?なぜ今月末までほぼ休みなく入れられていたシフトが消えた…どころか、誰も自分を知らないと言ったらしい。ゴリラのせいか?一瞬そんな言葉が頭をよぎる。

 ゴリラとは彼が働いていた職場の先輩だった。体が大きくて、筋骨隆々で、顔はあだ名通りゴリラに似ていた。

 そのゴリラより自分の方が重い物を運べたし、細かい気遣いや職場での決まりごとを守れていた。故にゴリラから彼は疎まれていたのだ。自分より仕事ができて若い。何より容姿が良い。

 ゴリラに比べれば誰でも容姿なんていい方だろうと思って居たが、ゴリラは自分の顔にコンプレックスがあった。当然だ、ゴリラにそっくりと言われて喜ぶ人間など居ない。

 だから彼はちゃんと名前で呼んでいたし、挨拶もした。だがゴリラはいつも陰湿な、汚いものを見る目で自分を見下していた。無茶な仕事も押し付けて来たし、なんとか派閥も作ろうとしていた。

 実に愚かしい事だ。いつも休憩中、缶コーヒーを飲みながらそんな事を考えていた。

 だが、一介のリーダーに自分が出勤していたと言う事実を揉み消す事などできはしない。


 彼はしばらく駄菓子屋の軒先で首を捻っていたが、考えるのをやめた。


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