【2】出会い



 働いてさえいればまかないはほぼただ同然で食べられるし、尚且つ時給もいい。

 昼間は引っ越し屋で働いていた頃だったが、苦ではなかった。そんな生活を二年ほど続けた頃。


 『トラットリアAKUJIKI 厨房スタッフ募集』。


 真夏の日差しの下、たまたまとある街で、引っ越しの片付けを終えて帰る途中だった。

 やけに綺麗で洒落た洋館の様な建物の前の門柱に、そう貼り付けてあるのを目にしたのだ。

 時給を見て、彼は驚いた。引っ越し業者とアルバイト、足しても届かない金額が書かれていた。

 これは、良いかもしれない。本能がそう告げた。

 しかも正規雇用。その日のうちに連絡したが、電話は通じなかった。

 当たって砕ける精神で、彼は次の木曜日が店の定休日だったと知った。すみませんねぇと電話口で話す店長と名乗った男の声は、柔らかく日和っている様だった。


「あの、是非そちらのお店で働きたいんですが…自分、調理経験とはあんまりなくて。今、ファミリーレストランに勤めてるくらいなんですが…大丈夫ですか?」

「はいはい、大丈夫ですよ。主に調理前の仕込みが出来ればOKです。一度面接に来てください。履歴書とかは特に必要無いです」


 最初に調理経験の浅さを暴露したにも関わらず、男の口調は変わらなかった。

 履歴書も要らないとはこれはおかしな店だ。だが面接の日取りはあれよあれよと決まってしまった。

 ちょうど昼間の仕事を休みの日だった。二言返事で了承すると、日程の調整は済んだ。


 三日後、彼は自分のアパートからそう遠くなかった店の前に居た。漕いできた自転車の置き場に困る。

 面接時間の十分前になると、店内からひとりの男が出て来た。自転車は適当に店の前に置いていいと言われた。

 シャツ以外全て黒いギャルソン福に身を包んだ、柔らかい雰囲気の男である。

 一瞬見惚れる程、男の所作も面持ちも美しかった。弧を描いた瞳がそれを更に強調していた。それがこの店の店長兼オーナーであることを、蝶が刻印された名刺を見て知った。


 面接の内容は普通のも内容だった。名前、年齢、性別、住所、問われるままに答え店長が店側で用意したメモの様なものに記入していく。ひとしきり個人情報が求められた後、何故この店で働きたいのかと問われた。嘘を吐くべきか、事実を述べるべきか。少し迷って彼は本音を吐露することにした。


「子供の頃から悩んでる事があって、大学行ったんですけど…自分がやりたいことは結局できずじまいで。だったらもう居る意味ないかなって辞めちまったんです。それからずっとバイトの掛け持ちしてたんですけど、ここの貼り紙を見た時、自分のその悩みが解消できる気がしたんです」


 この、トラットリアで。レストランとは口にしなかった。店名をきちんと覚えるのもバイト先の相手に誠意を見せるため当然のことだ。だが彼は口から滑り出したその言葉に大変驚いていた。相手も同様らしかった。

 うちの店を丁寧にそう呼んでくれたのは君だけです、とにっこりと笑う店長。

 悩みが何かは言及されなかった。一度店長は、少しお待ちください言って席を立った。行先は厨房の様だ。

 店長を待つ間、バイトの掛け持ちで元々無かった脂肪が殆ど落ちて、身長に見合わない自分の身体に目を落とした。腹を撫でながら、自分の身体能力の事を考える。こればっかりは、何の役にも立たない上に倒れないか心配されそうだ。

 そう思うと、待っている数分がものすごく長く感じられた。


「お待たせしました。採用です」


 改めて厨房から帰って来た店長は、まるで当たり前の様にそう言った。それから先程から何か書き込んでいた紙をびりびりに破った。驚いて目を瞠った彼の前に落ちた紙切れには、【死亡届】の文字が躍っていた。

 

「君はうちの店に適性があると判断したので、『食材』にするのはやめました。今勤務している仕事を正式に辞めてもらってからでは面倒臭いので、明日から来てください。バイト先には私から連絡しておきます」


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