3

 生駒は黒いベースボールキャップのつばを片手で抑えながら、車席から立ちあがった。腰でくくったチェックシャツが、黒いパーカーワンピースの下の尾のふくらみをちゃんと隠せているか、振り向いて確認する。たぶん、大丈夫だ。赤いシャツを捲られたら流石に気づかれてしまうけれど、今日はほとんど風も無いし、そもそも夜笠は人自体がほぼいない。不埒ふらちな目的のために人に紛れて人に近づく、などということは不可能だし、金曜日の正午付近に銅裏あかうら駅で降りようという人間も生駒しかいないようだった。

 運転席の車掌に切符を手渡して、ホームへ降りる。ここちいい春のあたたかさが少女の肌に触れた。形だけの改札を抜けて、銀髪を鎖骨の上でくくった彼か、ふわふわの金髪を帽子で押さえた青年の姿がないか、少女はあたりを見渡す。

 その人は、ナイルブルーの薄手の長袖に象牙色のテーパードを合わせた姿で、ひらひらと生駒に手を振っていた。駅の出入り口の向こうに甘夏がいる。少女はショルダーバックのベルトをきゅ、と両手で握って、彼の方へ向かった。

「おはようございます」

「おはよう」

 霞川先輩は? と尋ねると、うちで寝てる、と答えられる。その「うち」というのは集合場所である甘夏の家のことだろう。春㫤は友人の家へ向かうのにこの駅を使わないらしい、と生駒は自分の中に新しい情報を加えながら頷いた。

 そうしていると、朝ごはん食べた? と、甘夏が彼の喉元に手を触れて見せながら生駒に尋ねる。少女は少し返答に詰まった。

「…えっと、さっき起きたので…水と」

 ドッグフードを少し…? と青年から眼を逸らしながら言う。彼が困惑する気配がした。

「えっ? なんでドッグフード?」

「いや…ラッガさんに、人のもの食べさせて大丈夫なんだろうかと思ってしまって」

「ああ…それは気にしなくていいよ、何食べても大丈夫」

 その声音は、患者に病状を説明する医者のように穏やかで、落ち着いている。そっと視線を向けると、彼は微笑んだ。

「例えば、俺のパートナーはからすだから、チョコレートとかアボガドは食べられないはずなの。でも融合してる時にそういうものを摂取しても、彼女も俺も特に体調に変化はなかったから。食事は自由で問題ないよ」

「なるほど…もう確かめて下さってるんですね」

 流石です、と感銘のまなざしを向けると、しかし彼はぎこちなく目をそらした。通りを歩き始めながら、黒子をひとつのせた薄い唇が、いや…と呟く。

「…何も考えずに甘い物食べちゃっただけというか……」

「……先輩」

「しょうがないだろ…机の上にいつもの甘味の籠がおいてあったら、何も考えずに手に取るって…」

 飲み込みながら、あ、って思ったけど…と、彼は心底反省していますという表情で言った。そういう人をこれ以上責めようとは思わなくて、まあ、そういうこともありますね、と少女は彼の隣に並ぶ。

 明るい陽の下で見る彼の蒼い瞳は昨夜よりも透き通って見える。それがちら、と少女を見下ろして、ごめんなさいとありがとうを混ぜた複雑な表情をつくった。

「──遠能先輩、意外と表情が豊かなんですね…?」

「…いや。いつもはこんなに動かしてない、はず…」

 ぎゅ、と自分の頬を戒める様に抑えて、それから彼はため息とともにその手を放す。

「はい。俺の話は終わり。…生駒ちゃん、人の手料理食べれる人?」

「? 大丈夫ですけど…」

「ん。お昼一緒にどう? って思って。俺が作ったやつだけど」

 はわ、と少女は口元を手で覆った。

「先輩、料理するんですか」

「毎日じゃないけどね。口に合わなかったら残してくれていいから」

 ふるふると濡羽色の頭が横に振られる。量を出されるとちょっとわからないが、人の家で出されたものを口に合わないからで残すのは失礼だと、彼女は思っていた。好き嫌いやアレルギーもほとんどないし、体内のラッガさんのことも大丈夫だと言われたし、炭を出されない限りは問題ないだろう。

 ふたりは駅前の道を大通りの方へ抜けて、その向こう側へ横断歩道を渡る。昇條までの中途にこの駅があることは知っていたけれど、降りたのは初めてだった。少女は周囲の風景に目をやりながら、甘夏の半歩うしろをついて歩く。青年は向日の興味津々と言った瞳にひとつ、瞬きした。

「そんなに真新しいものもないんじゃない?」

「いえ…でもやっぱり、初めてなので。新鮮です」

「そう? 例えば…何が?」

 うーん、と少女は喉を鳴らす。甘夏の声音は穏やかだった。生駒が、何でもない田舎道に胸を擽くすぐられているのを嗤うような調子ではない。だから、何を疑懼ぎくすることもなく少女は自分のこころに耳を澄ます。

「色と…空気…。色は家の屋根とか、道端の花の色とかです。空気は…その場所の雰囲気…どんな人がいるのかとか、どれくらい人がいるのかとか…風と空の温度とか」

「それじゃあ…生駒ちゃん、どこに行ってもこうやって楽しめるね」

 少女はぱちりと瞬きした。自分がこうしていることを、楽しいと認めてくれる人にはあまり、出会ったことが無かった。それで、少し浮足立ってしまって、彼女は甘夏の顔を横から見上げた。赤茶の眼鏡の奥のまるい瞳が、光をはじいている。

「先輩も、楽しいんですか?」

「うーん、俺は…あんまりそういうの気にしないんだけど」

 でも、そうやって目を輝かせてる人を見てるのは好き、と彼は答えた。その声音は山の四季を愛でているようで、心を揺らせるのが羨ましいという音ではあまりなかった。だから向日も、そういう風に人を愛でる人もいるのだなあとだけ思って、頷く。

 それから少しだけ、なるほど、と思った。少女は霞川春㫤のことを、もしかしたら自分よりも心を揺らせる人かもしれないと思っていた。そして今、甘夏の趣向を聞いて、そういうところが二人を友人たらしめているのかもしれないと思う。趣向というよりは指向と言ったほうが適当かもしれないが。

 少女は、すこしだけ悪戯っぽく甘夏に笑いかけた。

「──だから先輩、霞川先輩と仲良しなんですね」

 彼は瞑目して生駒から顔を逸らした。口元を手で押さえて、なんでこの少女はそんなことを言いだしたんだろうと動揺している青年を見て、向日も唇に指先をあてながらにこにこと前を向く。私も、誰かが誰かを大切にしているところを見るのが好きなんです、と彼に言いたくなって、でもそれは今じゃなくていいなと胸に仕舞いながら、二人はしばらく、言葉なく住宅の間を進んだ。それは気まずい沈黙というよりは、甘夏が平静を取り戻すための時間であり、生駒が弾む気持ちを宥めるための時間でもあった。

 やがて彼らは山の手前の神社をひとつ横切って、その隣の、寺院によく似たつくりの屋敷にたどり着く。生駒は、甘夏がその門をくぐるのを見て、え、と思わず足を止めてしまった。ここは──車窓からも見えるここを、少女はてっきり寺院だと思っていた──お寺ではなかったのか、と。振り向いた青年が、少女の困惑に理解を示すように、頷いて見せた。

「うん。よく寺に間違われるんだけど…家だよ」

「お、おじいさまの…」

「そう。好奇心旺盛な君のお眼鏡にもかなうんじゃないかな」

 そう言いながら、彼は指先で眼鏡のフレームを上げる仕草をした。それは、大人びて見られたい年頃の少女への意趣返しも含んでいるようで、彼女の唇がきゅうと寄る。彼はそれに満足するようににっこり笑って、それから、どうぞと生駒を中へ促すように手を動かした。

 白と黒のスニーカーのつま先が門を越える。彼女はそっと、高めの壁に閉ざされた内側を覗いた。門の正面には二階建ての和風建築が、右手には屋敷の側面に接する巨大な池と、庭が広がっている。池の中央には鳥居を冠した小島があって、そこに、庭の手前と右奥の二方向から赤い橋が渡されていた。わ、と少女の黒い瞳が煌めく。生駒は甘夏に、すごいですね、という視線を向けた。

「今度、時間があるときに見て回ってもいいですか…?」

「いいよ。池に落ちないようにだけ気を付けて」

 少女は頷いて、青年の方へ歩を進める。彼は向日がひなのように自分の後を付いてくるのを確かめてから、玄関の方へ向かった。その指先がズボンのポケットから銀色の鍵を取り出して、引き戸の錠に差し込む。この人も扉の鍵を開けるということをするのだなと、少女は感動というか、安堵のようなものを覚えた。

 生駒の視線には気づかないまま、甘夏はガラガラと戸を開く。広い玄関の正面には棚と壁が、左右にはそれぞれ奥へ続く通路があって、紺と白の暖簾で仕切られている。銀色の青年は、左手の奥に向かって春㫤の名を呼んだ。

「ただいまー。生駒ちゃん連れて来たよー」

 その声に、がたっ、と椅子を揺らして誰かが身を起こす音がする。少女はその振動にちょっと笑いながら、戸を閉めた。

「っと、ありがと」

「いえ。靴はここに並べておけばいいですか?」

「ん。それでお願い」

 ふたりはそれぞれスニーカーを脱いで、フローリングの床に足を上げる。そうしていると、暖簾の間からもぞもぞと春㫤があたまを出した。んー、と彼は黄金の瞳を閉じたまま、おかえり…と呟く。そのまま首元の布にくるまって眠りなおしてしまいそうな調子だった。

 生駒は少し首を傾げた。学校での彼はいつもぱっと目覚める人だったから、寝覚めの悪い印象があまりなかったのだ。

「先輩、今日はおねむなんですか?」

 うーん、と彼はまどろむように喉をならしながら蹲る。生駒は彼のつむじを覗き込んだ。…控えめな厚さの白い耳がくたりと伏せられている。触ってもいいだろうか、触りたいなと思って甘夏を見ると、いいんじゃない? とでもいうように肩をすくめられた。

 少女のあわい指先がハニーミルクのあたまに伸びる。耳の付け根をそっと覆って、くすぐるようにすると、青年はここちよさそうに身体の力を抜いた。しかし、その呼吸が穏やかに、今にも寝落ちてしまいそうになるのを聞いて、少女はハッと彼の頬を両手で掬い上げる。微睡から引き揚げられた春㫤は、う、と身を強張らせて、それからゆっくり、目を開いた。

「………へ」

 彼が呆然と零した音に、少女は、はてなを浮かべるように瞬きした。あ、わ、と青年は次第に頬を紅潮させて、バッと床の上で頭を抱える。

「なっ、なん、う…うう~~なつじゃない…っ!!」

「そうだよ、俺じゃないよ」

 俺だったら、そこ邪魔だからどいてって言ってるよ、と甘夏が冷静に言った。春㫤はその言葉に、ひい、と身を竦めて通路の端へ身体を寄せる。そのまま床に額を押し当てて彼は生駒に謝罪した。

「すみませんっ…寝起きで、ぼんやりしてて…おれっ…」

「き、気にしないでください。私も全然気にしてないというか…先輩の耳、毛並みがよくて気持ちよかったというか…」

「へへ、俺も耳撫でられるの好き……、っじゃなくて、えっと、人違いは…どっちにも失礼……すみませんでした…」

 許してください、と春㫤がフローリングにぐいぐい頭を擦りつけるので、少女は猫を抱き上げるように彼の脇を抱えて引き起こした。脱力したラッガよりは軽い気もする。わ、わあ、と青年はされるがままにされて、ちょっと涙の滲んだ目で生駒を見た。少女はその蜂蜜色の瞳を、空の調子でも確かめるように見つめて、いつものように口元をゆるめる。

「はい。大丈夫ですよ。…おはようございます、先輩」

 ぱち、と彼はまばたいて、…お、はよ、と掠れた小さい声で応えた。二人の傍で甘夏が目を見張っている。

「き、君ら、いっつもそんな距離ですごしてたの…?」

 少女と青年は、そうだけど何かおかしいだろうか、という無垢な瞳で銀色の青年を見上げた。その視線から身を庇う様に腕をやりながら、甘夏が、いや、別にいいけど…と呟く。

「うん…気にしないよ、俺はね…。…春㫤、生駒ちゃんに洗面所の場所教えてあげて」

 俺はシンクでいいから、と彼は暖簾を潜っていく。春㫤の白い耳がひくりと震えた。

金色の青年は、少女の腕の中から立ち上がって、その細くて軽い身体を引き上げて立たせる。そのまま彼は玄関を横切って、対面する暖簾の方へ生駒の手を引いた。少女は、愛らしいクジラの柄が入った、紺と白と灰色の背中を見つめながら、ふと、その長めの裾から、白くて細い尾が伸びていることに気づく。それは、彼の歩みに合わせてバランスをとるように揺れていた。

 生駒は、自分の腕をゆるく掴んでいる彼の腕に手を触れて、その視線を求める。

「ん?」

「…先輩の尻尾、細くて隠しやすそうですね」

 ああ、と彼は少し笑いながら、暖簾を右端に寄せた。空いた空間をくぐると、正面に引き戸が、左手に廊下が続いていることがわかる。

「確かに、生駒のよりは勝手がいいかもだな」

 少女は頷いて、まるい頭からキャップを外した。帽子に押さえられていた厚みのある耳が揺れる。

春㫤がスライドさせた引き戸の先は、脱衣所でもあるようだった。奥の風呂場と洗面所を仕切っているすりガラスが少し開いたままなのが見えて、なるほど、人が住んでいるらしいと気まずさのようなものを覚える。春㫤は、友人の生活感なんて見慣れたものか、気にしなさそうだけれど、生駒にとっての甘夏はまだそんなに隙の見えない人だ。

 あんまり私生活を探るようなことはしないでおかないと、と自戒していると、彼の友人に視線を向けられる。

「自由に使ってくれていいぞ。あっ、カップとか新しい方がいい?」

 少女は首を振った。

「…でも遠能先輩は気にしますかね?」

「わかんない…人が来たの、生駒が初めてだし…」

 まあ、たぶん大丈夫、という春㫤は洗面所には入ろうとしなかった。少女のプライベートには踏み込まないでいてくれるらしい。手洗いうがいがそれに該当するのかは、生駒にもいまいちわからなかったが。

 それじゃあ、俺は居間にいるので、と彼は甘夏が入っていった方の暖簾を指さす。少女は頷いた。



 居間への暖簾をくぐりながら、いい匂いがする、と生駒は鼻先を上げた。少女が出たのはカウンターキッチンの角で、その向こう、生駒から見て右奥のテーブルの一席で春㫤がゆるく手を振っている。食卓にはすでに食事が並べられていて、し、仕事が早い、と思いながらそちらへ向かう。

「どこに座ればいいですか?」

「んー、どこでも。一応生駒のお皿はこれだけど」

 彼は自分の左隣を手で示した。頷いて、春㫤が座っている、奥の方の席へ向かう。キャップを括りつけたバッグを椅子の背にかけて、クッションの上にちょこんと腰を下ろして、少女は少し息を吐いた。人の家に御呼ばれしたのも数年ぶりだし、人の食事を食べるのも正月ぶりだ。

「…遠能先輩は?」

「食器片づけてる。出しすぎたって」

 客人の分を、ということだろう。確かに、普段使わない皿を引っ張り出してくると、料理と雰囲気が合わなかったり、大きさが合わなかったりということが起こるのだ。少女はそっと頷いて、大人しく室内のつくりを眺めていることにした。

 食卓の隣、玄関の裏側は階段になっていて、二階へ続いている。その横はおそらく吹き抜けになっていて、暖簾に閉ざされていた。居間の後方は右手が奥へ続く廊下、左手が扉になっている。

 生駒が椅子の背に両手を置いて廊下の先を見ていると、吹き抜けの暖簾を手繰って、甘夏が姿を現す。

「あ、ごめん。待たせてるな」

「いえ、食事を用意して頂いている身ですから」

「謙虚だね…」

 彼は春㫤の前に腰を下ろした。はい、と甘夏が手を合わせる。少女とはちみつ色の青年はその声に倣ならって手を合わせた。居間に三人分の食事の挨拶が落ちる。

 何から食べよう、と少女は自分の膳を見た。肉じゃがと白ご飯と、ほうれん草の胡麻和えと根菜のお味噌汁。なんてことはない和食だけれど、丁寧に作られたことを感じさせる色と温度をしている。寝床から身を起こしてから一時間たったかたっていないかで、まだ狭い感じがする自分の喉を思って、少女は緑菜の小鉢を掌にのせる。

 ひんやりとしたやわい口触りと、これはたぶん、みりんと醤油だけではなくて出汁も加えているのだろう。好みの甘さと風味の和え物だと思って、少女はおいしい、という瞳を甘夏に向ける。口をつけていた汁物の椀をそっと置いて、彼は微笑んだ。

「よかった」

「俺も久しぶりに甘い肉じゃが食べた! 美味しい」

「ふふ。先輩のおうちのは甘くないんですか?」

 春㫤が、俺の家? と首を傾げる。

「うーん、母さんのも甘いけど、普段沙苗さなえさんが作ってくれるのは控えめだから…」

 さなえさん、と少女は初めて聞く名前を口の中で転がした。

「うん。月曜と木曜は、ハウスキーパーさんが来るんだ」

 なー、なつ、と彼は友人に言う。少女はちょっと首を傾げた。

「えっと…、沙苗さんはどこに来るんですか?」

「ここ」

「…霞川先輩は、どこに住んでるんですか?」

 ここ、と彼は主菜を口に運びながら答えた。生駒は甘夏を見た。

「従兄弟…とかでしょうか」

 彼は静かに首を振る。

「いや、友達。たぶん…っていうかほぼ間違いなく血は繋がってないはず」

「でも家族みたいなもんだよな! 兄弟ってよりは双子って感じだけど」

「二卵双生児ですね…。でもなんでそんなに仲良しなんです?」

 実家がお隣さんなんだ、と春㫤の明るい声が言った。それは答えになっているような、なっていないようなだったけれど、彼の認識としてはそういうことなのだろう。少女はただ、なるほどと相槌をうつ。

 自分にはルームシェアを持ちかけるほど仲のいい人間がいなかったから、友人に同居を持ち掛ける感覚はいまいちわからない。しかし、赤の他人であるはずのひとに、家族以上の信頼や親愛を抱く気持ちは想像できた。それは確かに、魂の双子と表現しても間違いではないかもしれない。自分たちの道が近しい場所にある限りは、傍にいることが当然だという、そういう感覚だ。

 そうして少女は、今、自分の隣にその魂の片割れがいないことを感覚として思い出した。甘夏の隣には春㫤がいるけれど、私の傍にはラッガさんがいないと。

 それはこんなにも、寂しいというか、…惨めなものだっただろうか。ひとりでいるということは。

 淡い鼻先に、食卓ではないどこか遠い記憶の、鮮烈な夏の空気が薫った。それは熱く、湿っていて、思い出したくはない恐ろしい重さだった。思わず口を抑える。人に見られたくてしている仕草ではないのだ。ただ、自分の喉から音を出さないために必要な行程なのであってそれ以上ではないと、虚ろな視線をカモフラージュするように皿を持ち換える。自分が何をのせた皿を持っているのかわからない。だが、これを咀嚼しなければこの場に相応しい行動がとれているとは言えない、のだ。

 そう、思いながら、味も解らないまま咥内の塊を飲み込みながら、──これを作った人にすごく、とても酷いことをしていると、少女は不意に自覚した。ぐう、と目頭が熱くなって、堪える間もなく落ちていくそれに、茫然と瞬く。

「──す、すみません。わたし、ちょっと…いつも」

 …わたしが、おかしい、だけです、と彼女は二人から目元を隠すように腕を上げる。こんなことのために、彼らが会話の内容に気を使う必要は無いし、少女は元来、人が心から戯れるように交わしている言葉を聞くのが好きなはずだった。それなのに、たまにどうしても涙を抑えられない瞬間があって、自分をコントロールできない屈辱と、人に無為な時間を過ごさせる恐怖に思考が混乱する。

 かたりと、誰かが椅子を傍に寄せる音がした。

 息を吐くように、少しだけ、青年のおもさを預けられる。細い尾が、身体を抱くように少女の腰のかたちに寄り添う。彼がむぐむぐと口を動かして何かを飲み込む振動が、肩に触れた背から伝わった。

「…な、たまになっちゃうよな、生駒」

 ──少女は知っていた。自分が何かの拍子に涙腺のコントロールを失ってしまった時、他の誰も立ち止まりはしないけれど、春㫤はいつだって立ち止まってくれることを。勿論それはふたりのタイミングが偶然合った時だけだ。誰かにそうしてもらうのを期待して泣いているんだろうと詰なじられるくらいなら、金輪際自分に構わないでくれていいとすら思っている。

 でもきっと、そうではなくて、この人はこの時間を無為だとは思っていないのだろうと、…わかっていた。

「…おかしくないよ」

 そう、甘夏の声が言った。

「そういう日もあるし、そういう時もあっていいんじゃない。…それに君、昨日一度も取り乱さなかったし」

 そっちの方が心配だな、と生駒に向けられた音は、必死に波を鎮められた湖面に、波紋があったっていいと石を翳かざして見せるようだった。そして彼はそれを、無暗に投げ込もうとはしなかった。

 少女は音を零しそうになった口元を両手で抑えた。ぱちぱちとまばたく瞳から、彼女の意志とは別に涙が溢れてやまない。その脳裏には何も、先ほど鼻先を掠めて、やわい脳を鷲掴んだ夏の温度ももうなくて、ただ、肺の奥でにぶく光るあたたかさだけが感じられていた。

 やがて彼女は、鼻を啜って、おぼつかない仕草で椅子に掛けた鞄の中からハンカチを取り出した。食卓に背を向けて、レンズと、目元とを拭いながら言葉を零す。

「…すみません。取り乱しました」

 その耳と尾に神経が通っていたなら、きっとそれらはしょんぼりと沈んでいただろう。でも、相変わらず何の感覚もない毛と皮は力なく重力に従っているだけだ。

 ううん、気にしてないよ、と甘夏が言った。

「食べ辛かったら、置いてていいから」

「じゃあ俺ももういいや」

「…はい? お前は元気でしょ。ちゃんと食べて」

「あ、ちが、後で食べるって意味! 今は生駒の傍にいるの!」

「もう傍だけどゼロ距離ってことね。…鬱陶しくない? 大丈夫?」

 少女は、背中に背中をくっつけられながら、涙を弾かれるようにして笑った。

「霞川先輩いっつもこうなので…私もあったかくて好きですし」

「そう? まあ…大きい猫みたいなところはあるか」

 春㫤はふたりの品評には特に反応せずに、それよりもぼんやりと生駒の体温を感じているようだった。背から背に伝わる熱を確かめていれば、少女の揺れを見逃したりはしないと信じているように。

「それじゃあ…箸休めに今夜の予定でも話す?」

 そう言いながら、甘夏はほろほろのじゃがいもを口に運んだ。少女は、それは箸休めになるような話題だろうかとまた笑って、はい、と椅子の背にかけた腕に顎をのせる。どんな内容であっても、堅実的な話は詰めていると安心できるのだ。その時間は誰にとっても無為ではないから。

「どこに呼び出されるかはわからないけど、時間は決まってるよ。二十二時。何してても、何着てても、黒いライダースーツみたいなのを着た状態で目が覚めるはずだから、安心して」

「それは…安心するようなことなんですかね?」

「少なくとも社会的な死は免れそうじゃない? まあ、なんでそんな恰好してるのかはわからないけど…」

「…誰かに誘拐されて、着替えさせられてるってことはないんですか?」

「コンマ一秒でそんな芸当ができる人間がいるんなら。…いないでしょ」

 でも、と生駒は思った。たった数秒で生駒のアパートの一室とアレイダの部屋を行き来できる人間はいる。

「──遠能先輩なら、誘拐はできそうじゃないですか?」

 勿論、先輩にはそれをする動機がなさそうですけど、と少女は続ける。甘夏がはたと、手を止めるのを感じた。

「…確かに? でも…俺が知らないうちにやってるってのはないはず…」

 俺がこんなことできるようになる前から感染者はいたんだから、と彼は自分の無意識のアリバイを確かめるように言った。それは、自分のはずはないと逃れるような声音ではなくて、理屈としてなりたたない、と慎重に検討するような声音だった。

「…というか、こんなこと強制して何の意味があるんだっていうか…」

「狩りと食事、でしたっけ」

 生駒は、甘夏に尋ねながらそっと振り向く。ん、と春㫤が自分の身体を起こして、少女の方を振り返った。それに、…ありがとうございます、と目を合わせると、彼はこっくり頷く。

 その黄金の瞳と、甘夏の灰青の瞳に言う。

「…経済的ではないですよね。見世物にされてるなら、特殊な市場で非公開なんでしょうけど」

「あるいは…実験? でもそれにしてはサンプルが少ないし、正式に発表できるような倫理状況じゃない」

 この種の非人道的実験を、現代日本で秘密裏に行うメリットもわからなかった。しかし人為的な理由としてはそのくらいしか思いつかない、とふたりの学生は口元に手をやる。それに、たとえそんなものの尻尾を掴んだとしても何になるのだろうという虚しさはあった。警察に突き付けたところでという感じもするし、大抵の身体改造は不可逆だ。決して、元の形には戻れない。

 そうして少女は、ああ、と思った。この灰青の瞳の美しい人も、そういう空虚さを抱えながら、今まで思考してきたのだろうかと。

「…先輩、難しいですね」

「…そう思ってくれる? …ありがと」

 それを傷の舐めあいにしたいのではなくて、この人が折れずに立っていることを、他の誰が知らなくても自分が知っているという、支えにしたかった。そういう意志を彼の瞳にも見て、ふたりは暫く見つめ合う。

「…なつ? 生駒?」

 はっとした。隣を見ると、まっさらな瞳が会話の続きを待つように二人を見ていた。こちらは、大抵のことを受け入れてしまう、あるいは絶望というものを知らない、二人とはかなり違う意味で折れない色だ。

「いえ…。それじゃあ今晩は、私たち三人で狩り…をするんですか?」

 これはただの確認だったのだけれど、甘夏は首を横に振った。

「多分、春㫤と生駒ちゃんのふたりだけ。感染順で一番新しい二人しか呼ばれないんだよね…今までの傾向からすると」

 っていっても、データは先生の前の人と、先生と、俺と春㫤の四人だけだけど、と彼は肩をすくめる。

「進行のステージが変わるっていうか」

「──それ、遠能、先輩」

「今すぐ先生みたいになったりはしないよ。…先生だって、あれだけ起きれなくなるまでに、一年半くらい猶予があったし」

 個人差があるかもしれないし。そう、彼は生駒の動揺に引き摺られないようにするように、ゆっくりと言った。その音を聞いて、少女は咄嗟に自分の感情を引き留めた。違う。この場で今、恐れの感情を抱くべきは私ではなくて、遠能甘夏だと。それを彼から奪うのは、彼がこの世にいる時間をその分だけ奪うようなものだと。

 だから、彼女も静かに、その動揺は嚥下した。

「…Caratの練習、でしたよね。どうすればいいでしょう」

「…生駒ちゃん。まだ、誰かのために焦らないで。まずは君が、君の身を守れる分だけ、出来るようになればいい」

 その方が俺も安心する、と甘夏は少女を宥めるように、しかしそれが自分の本心だというように言った。  少女はしばらくその瞳を見つめて、それから、ぎこちなく頷く。彼は少し、微笑んだ。

「それじゃあ、俺が食べ終わるまでちょっと待ってくれる? それから広間の方でやろう」

「…私も」

 食べます、とつい先ほど、合わせる余裕もなく投げ出した箸に手を伸ばす。

「…すみません。さっきは…失礼な、食べ方をしました」

「いいよ。むしろ堪えられなくてよかったかも」

 気づけなかったら、助けてあげられないでしょ、と彼は美しく口を開きながら言った。その音は、友人の苦痛に寄り添うのは当然のことだと、言っているようだった。

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