2

 先の見えない黒に足を踏み入れる時、その向こうでは息ができないような気がして、向日は呼吸を止めていた。そうして瞳も閉じていたが、指先で、ここには空気があると感じて、恐る恐る息を吸う。…大丈夫、肺を膨らませられる。瞑っていた瞼をそっと、持ち上げる。

 そこは、そらのような漆黒の壁面に覆われた立方体の小部屋だった。中央に、壁と同じ材質の円卓と、円柱形の椅子がいくつかあって、青年たちが腰かけている。光源は、机と椅子の底から洩れる青白いひかりだけだ。彼らは何かたわいもないことを静かに話していたが、ふと生駒に気づいてそれを止めた。

「…いらっしゃい。それじゃ、行こうか」

「えっ、行く? この中にいらっしゃるんじゃないんですか?」

 アレイダ先生、と少女は呟く。春㫤が首を振った。

「先生は先生の家にいるぞ。ここはなつのCaratの中」

「あ、ああ…なる、ほど…? これがCarat…」

 この部屋は静かで綺麗だと、少女は思う。澄んだ空気を感じさせる、この冷ややかで、見通せないのに奥行きを感じさせる宙には、星がよく似合うだろうとも。

 少女の瞳に瞬く感嘆の色を見て、甘夏がすこし笑った。彼は円卓の上の空間を、何かを起こすようにこんこんとノックする。するとそこに、ふ、と青白いひかりの点がふたつ浮かんだ。それは、さらに細かい流れ動く粒子で構成されているらしく、仄かに光る外縁を不規則に波打たせている。

 しなやかな指先が、そのうちのひとつをゆるく転がして、もうひとつに寄せる。それから彼は、ふたつをひとつにするようにきゅ、と手を握った。…次に彼が、そっと指を開いた時、そこにはもう何もなかった。甘夏は、観客の視線を奇術の結果へと誘う様に、生駒が背にした壁面へと指先を向ける。──そこは白い光に、枠のように縁どられている。

「──はい。その先が先生の部屋」

「…え、……あっ、はい…?」

「幻覚見たみたいな顔してるな」

 大丈夫、詐欺じゃないぞ、と春㫤が勇気づける様に頷いて、生駒の隣に並んだ。

これが詐欺だとしたら、私は気づかないうちに大量の薬を盛られて幻覚を見せられた上でこうされているんだろうと思ったが、それにしては連続性と理論性がありすぎるし、少女を連れ去って出来ることなんて臓器売買くらいだ。…そんなことのために、こんな手間のかかる演出をする必要はない。手法としては宗教勧誘にも似ていたが、このクオリティの”奇跡”なら、知るだけ知るのも面白いかもしれない、と生駒は思った。

 …そうして、そんな風に、ここまで真摯に接してくれた青年たちに疑念を抱いてしまうのがひどく苦しくて、悪意のない現実であってほしいと、眉を下げて笑う。

「…わかってます。それに」

 そんなに嫌じゃないので、幻覚でもいいです、と少女の喉は言った。

 む、と春㫤が口をすぼめる。

 彼は生駒の手首を捕まえて、出口の方へ歩を進めながら、幻覚じゃないってば、と拗ねる様に言った。その声と肌の温度だけを感じながら、少女は黒い部屋の向こうへ手を引かれる。

 ──足が、フローリングの床に触れた。そこは広く、照明の落とされたダイニングルームだった。左手にカウンターキッチンと、その奥に食卓があって、植木に仕切られた右手にはイージーチェアとソファが低いデスクを挟んで向かい合っている。…そのソファの上に、見覚えのある長身の女性がぐったりと、横たわっていた。その人は闇に紛れてしまう身体の色をしていたが、ソファが背にした掃き出し窓を覆っているのは薄いレースカーテンだ。月明りはほとんど遮られずに、その美しい輪郭を映し出している。

 彼女は右腕を投げ出して、左手で額を抑えていた。その目元はフェイスタオルで覆われていて見えなかったが、呼吸のために腹部が上下しているのは、遠目の生駒にも視認できる。

 ふ、と春㫤が少女の腕を離した。彼がソファの方へ寄っていくので、少女の足も一歩、二歩とつられるようにそちらへ向かう。生駒は、イージーチェアの後ろで歩を止めて、青年がアレイダの傍に膝をつくのを見ていた。

「…せんせー、帰ってきたぞ」

 ひくり、と彼女の美しい指先が動く。そのひとは、…ああ、と少し安堵したような息を吐いた。

「──狩り場に、呼ばれたのか?」

「ううん、新しい子」

 その言葉を聞いて、彼女は糸を引くように、くう、と右手を動かす。そうやって何かを確かめた、タオルに視界を遮られているはずの頭が、生駒の方を向いた。

「…初めまして、だろうか」

「……いいえ。あの、紫染しのぞめ大の…人間社会の方の学生です、先生」

「生物学とってるぞ、先生! 生駒向日って言ったらわかるか?」

「せ、んぱい…!」

 それは言わなくていい、と少女は若干泣きそうになりながら思ったが、アレイダが、ああ、と穏やかな音を零すのを聞いて、は、う、と唇を閉じる。

「…春㫤の隣でいつも講義を聴いている、君だな」

「あ……は、い」

「休講の連絡が遅れただろう…すまない。君たちを振り回したはずだ」

 いいえ、と生駒は首を振った。

「先生、体調が悪いみたいだから…。仕方ないです」

 その声に、彼女はすこしだけ口元を緩めた。そんな表情を見るのは初めてだった。不真面目と捉えられても仕方ないような出席状況を恥じていた気持ちが、溶かされるように鳴りを潜めるのを感じていると、甘夏に横から声を掛けられる。そこの椅子に座ってもいいよ、と。

 彼は、飲み物の入ったグラスを四つのせた盆を持っていた。それをデスクにおいて、生駒の右前のチェアに腰を下ろす。その言葉に倣って、少女も硬めの厚いクッションの上に座った。長いプリーツスカートの下でふさふさの尾を敷かないように、手をやりながら。そうして少女が尻尾の定位置をさぐっていると、となりの青年がアレイダに話しかける。

「説明はしました。でも、方針は先生から話してもらった方がいいと思って。…大丈夫ですか?」

「夕方よりは。…まだ話せる」

 甘夏は静かに頷いた。それも…恐らく彼女は指の先で感じて、青年たちが心を鎮めていることを確認した。布の向こうの瞳が、少女を見る。

「──向日。私は…これを、感染症のようなものだと考えている」

 そう、応用生物科学の教員は言った。

「……精神疾患ではなく、感染症…」

「…ふ。そうか、君は…確か心理専攻だったな?」

「…はい」

 それにしては個人の幻覚で説明できないことが多すぎる、と彼女は穏やかに言った。

「今すぐに理解する必要はない。ただ、これは、我々の人としての身体を徐々に壊すものだということだけ、頭に置いておいて欲しい」

 進行に痛みが無いのだと、乾いた声が言う。

「だから、気づいた時にはこの有様だ。…これは、君を怖がらせるために言うのではなくて、君にも知る権利があると思うから、話すことなんだが──聞いてくれるか」

 少女は、はい、と肯定の音を返す。その瞳は鉱石のように無垢だった。

「…私は今、融合を解くことが一切できない。半年前から徐々に意識を保てる時間が短くなってきてはいたが、今日は…おそらく二時間覚醒していたか、していないかだ。この一呼吸後に失神したらすまない」

「いいえ…。でもそれは、最終的には…植物状態になる、ということですか?」

「おそらく。だが私も最終的にどうなるのかは知らない。私の前の感染者は消えてしまったんでな」

「…物理、的に…?」

「目の前で消失したわけじゃない。…行方不明か、失踪と言った方が適切なのかもしれないが…」

 彼女が目覚めなくなった次の日に部屋を訪れた時、そこからその人の身体だけが消えていたのだとアレイダは言った。

「…身寄りのない人だった。深い紺の長髪と、銀色の瞳の…十代半ばの少女だ。君、どこかで見たことは?」

「……すみません。知り合いには、いなさそうです」

 そういう答えが返ってくることはわかっていたのだろう。彼女はその口元にどんな感情も浮かべなかった。ただ、我々がたどる道はおそらくこういうものだと、静かに告げる。

 少女は特別な何かを浮かべないまま瞬いた。怖い、という感覚はまだ抱けない。アレイダが言う様に、この身体には苦痛が無い。自分がこのままこの身に殺されるのだという、感覚が。むしろ、何の苦悶もなく少しずつ目覚められなくなって、眠るように消えることができるのは、幸せのようにも思えた。

 ただやはり、そんなことを夢想するのは、その間際ではないからかもしれない。その時になれば、自分はまだ彼の──ラッガの傍にいたいと思うのだろうか。わからない。彼には死んでほしくないと思ったけれど、自分が微睡の中でも死にたくないと思うのかは、少女にはわからなかった。

 そこまで考えた時、あ、と思う。…やはり、私はこの身の内に彼を感じていないと。アレイダは融合が解けなくなるといった。そのまま消えるということは、つまり、ラッガも自分と一緒に消えるということを意味するはずだ。

 少女の黒い瞳が、わずかに見開かれる。

 それは、…嫌だ、と。あの美しいけものが何かに殺されてしまうのは。この世界のどこにもいなかったことに、されてしまうのは。

 彼女は震える息を吐いて、アレイダを見た。

「…病気なら、治せますか?」

 その声を聞いて彼女は、おそらくやさしく、微笑んだ。

「──その方法を、私たちも探している最中なんだ」

 君も力を貸してくれるか、とすべやかで芯のある声が向日に尋ねる。その言葉は、少女の肉と、骨と、…魂のようなものを震わせた。ここで必要とされているのは”私”だし、ここには”私”の心を揺らすものがある、と。

「──はい。私も…探したい、ので」

 彼女がすこし、瞼を閉じるような気配がして、枕元の春㫤がひくりと頭を動かす。アレイダはその緊張を宥めるように、金色の頭へ指先を触れさせた。

「…春㫤、大丈夫。まだ起きていられるよ」

 幼い子どもを安心させるような声音だった。青年はその音の確かさをはかるように沈黙した後、ゆっくりと身体から力を抜く。彼がそうするのを待ってから、アレイダは少女の名を呼んだ。

「私に出来ることは少ないかもしれないが、協力は惜しまないつもりだ。ただ、実働のほとんどは君たちに任せることになる。…甘夏と春㫤と、一緒に行動してくれるか」

「…はい。先輩たちとも、気が合いそうですし」

 ぴん、と白い猫の耳が立てられる。嬉しい、のサインだ。彼は生駒を振り返って尻尾を振るように笑った。少女もそれに微笑みを返してやる。

銀色の青年はそれを見ながら、デスク上のグラスをふたつ手に取った。その片方を少女に差し出しながら、甘夏は穏やかに言う。

「俺も、君のこと嫌いじゃないよ」

「…はい」

 少し気恥ずかしく思いながら頷いて、ひんやりと結露したガラスを受け取る。

しずくは指の腹をつたって、てのひらで少しの間受け止められて、…それから、パーカーの手首に濃い灰色を滲ませた。そのつめたさと、いずれ乾いて気にならなくなるはずのしめっぽさを、少女はしばらく感じていた。

そっとグラスに口をつけて液体を含む。喉の内側の熱が心地よく奪われていくのに、黒い瞳が伏せられる。

 先生、お茶飲む? と春㫤がアレイダに尋ねる声がする。今はいい、と彼女は答えて、それから少し、おかしそうに笑った。グラスを取るために身を起こすのも苦痛な日が来るなんて、と。その音は、己の身体が重く動かなくなっていく現実に心だけ取り残されて、当惑しているようにも聞こえる。

「ストローあるよ。グラスは俺が持つし」

「いや…、何か飲みたいわけじゃない」

 ありがとう、と彼女は手の甲で春㫤の金糸を撫でながら、甘夏に話しかける。

「明日の狩りまでに、向日とCaratの練習をしてやってくれるか」

「そのつもりです。…言ってなかったけど、明日って時間作れる? 平日だけど…」

 問題ないです、と少女は頷いた。

「八時間しか起きていられないんですよね。…それなら流石に、血なまぐさいこと…の準備に使いたいというか…」

 むしろ、教えていただけると助かります、と少し身を縮める。人に教えを請うということは、その人の時間を割いてもらうことだと少女は考えていた。だからいつも、対価を払えているかわからない教導には申し訳なさを覚えてしまう。

 しかし、生駒のその表情を見て、青年は気にしないでと言った。

「君が加わることでできることも増えるはずだし。…サークル活動みたいなものだと思ってくれてもいい」

 先輩は後輩に色々教えてあげるものでしょ、と。

 その言葉に、何故か春㫤が瞳をきらきらさせる。

「俺も教える側?」

「そうだよ。…これを機に練習してくれる? 俺に何でも説明任せない練習」

「あっ……う」

 彼は、はちみつ色の瞳をぎゅ、と閉じた。苦しそうに眉根を寄せるのを見て、甘夏がぎく、と肩を強張らせる。銀色の青年はすぐに手のひらを返した。

「いや、いい。ちょっと任せたりはするけど、そんな苦しませたいわけじゃない」

 少女は、甘夏の方を見た。あ、甘い、と。その視線に、青年はうっと身を引く。線の細い銀髪がさらりと揺れた。

「…わかって、るってば。でもああいう顔されると強く出れなくて…」

 気持ちはわかると思って、少女はこくりと頷いた。…ただ、次に甘夏が耐えられなくなった時には、それを静かに止めようとも思う。生駒には、春㫤がただ苦しんでいるだけのようには見えなかったのだ。彼は何かに耐えて、それを越える努力をしているように見えた。

 だから、それを甘夏の言葉に散らされた彼は、困惑するように、途方に暮れたように眉を下げていた。自分はこのままがいいんだろうか、それとも、頑張ってみた方がいいのだろうか、と。少女は、その視線を捕まえて、そっと目を合わせる。

「…先輩、頑張りたいんですよね」

 ぱちり、と春㫤が瞬く。彼はすこし、自分の気持ちを探すようにして、それから胸の内にあるものを壊さないようにそっと、頷く。少女は、彼がそれを持っていることを認める様に、頷き返した。

「それなら、一緒に頑張りましょう」

 ──その人は、何か新しいものを見る様に生駒を見つめて、それから、瞳を煌めかせる。うん、と幼い笑顔が言った。それに微笑み返していると、となりでふむ…、と何かを考えるような声がする。

 灰青の瞳は生駒と春㫤のやり取りを見つめていた。彼は学びを得る様に瞬いて、それから、少女を見た。

「…そういう風にすればいい、のかな」

「…たぶん」

 もっといい方法があるかもしれませんけど、と続けると、彼はその音を好むように唇を笑ませた。それから、元の道へ話を戻す。

「…明日は、お昼くらいに銅裏あかうら駅に来て欲しいんだけど──生駒ちゃん、家どのあたり?」

「大学の近くです。徒歩十分圏内くらい」

「通学楽だね。ってことは、夜笠駅、から…十一時四十分、くらいに昇條しょうじょう行きが出てるはず」

 それに乗ってもらったら二駅目だよ、と彼は言った。都市的な昇條ではなくて、山と川と空が広がる夜笠周辺で練習とやらを行うらしい。確かに、そちらのほうが場所を確保できるし、人目もほとんどない。少女にも妥当なように思えた。

「山…にでも行くんでしょうか」

「いや、俺の家。正確には祖父の別邸なんだけど、ある程度広さがあるから」

 なるほど、と頷く。お邪魔します、と頭を下げると、青年はいいえ、とゆるく首を振った。

 んん、とフローリングの上で春㫤が伸びをする。それから彼は、子どもたちの会話に耳を澄ましていたアレイダの手に、白い手の甲を触れさせた。

「…せんせ。俺たちもうすぐ帰るけど、何かすることある?」

「…特には」

 気を付けて行っておいで、と彼女は静かに、しかし温度のある祈りをのせる様に三人に言った。

 そういう言葉を大人からかけられたのは久しぶりだった。少女は、ふと喉元をよぎった苦い懐かしさのようなものに目を細めて、頷く。その口元は、胸の内に生まれたほのかな嬉しさを折り潰して隅に押しやるように、すこしだけ歪んでいた。

 それがこの部屋の誰の目に留まったのか、誰の目にも映らなかったのか、視線を伏せていた彼女にはわからない。ただ、ここには、その表情にかける言葉を持った人間はいないようだった。

少女の脳裏にも、そうしてほしいという思いが浮かんでいたわけではない。彼女はいつものように自分の心を確かめていただけで、何事もなかったように右隣りの青年を見た。

「先輩、送っていただけますか?」

 甘夏は少しの間、生駒の表情を見つめていたが、やがて何もつかめなかったように視線を落とす。

「…うん。このグラスを空にしたらね」

 彼は、くるりと硝子のカップを揺らした。それは、波打った流体が外へこぼれてしまわないくらいの、ゆるやかな仕草だった。


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