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 春を冠していても雨であることに変わりはない。薄暗い、遠くのそらで、落雷が震えている。飛沫しぶきに視界がけぶるような雨足ではなかった。波紋のひとつひとつがわかる程度の強さだけれど、空気が、重い。

 その浅い湖面を踏んでいく自分の足もとをレンズの向こうに見ながら、何から話そう、と少女は考えていた。

 黒いブーツが、レンガだたみの隙間に茂った若草をおしつぶして、彼女の素足までじわりと水を含ませる。その感触は一瞬だけ、この胸を高圧にするような不穏をひやりと和らげたが、すぐにぬるんでわからなくなってしまう。──こんな子供騙しの感覚では、駄目なのだ。そうではなくて、私のことを真摯しんしに見やってくれる、あの蜂蜜色の瞳に話さなくてはならない。

 激情に凍える息を吐いて、肩にかかるくらいのまっすぐな濡羽色の頭が、講堂の入り口を向いた。

 そこは教室棟とは別に建てられた、大講義室のためだけの屋舎だった。十六時八分。家からここへ来るまでに何度も確認した腕時計の文字盤は、あと二分すれば講義が始まると言っている。

 それなのに、何故だろう。中から人が、ゆるやかな雪崩のように屋根のある通路へ出て、次々と傘を広げていた。前の講義が今、終わったとでも言うのだろうか? しかしそれにしては、講堂へと入っていく人間が、誰も、いない。

 生駒いこま向日かなたは、肩にかけたトートバッグからスマートフォンを取り出した。画面下に赤いバッジが一件、家で開いた時には無かったものが届いている。ひえた指先が、青と白の手紙のアイコンをタップする。

 そうして、ほんの数秒前に決まった休講の知らせを確認するや否や、少女はバッと頭を上げた。赤みがかった黒の瞳が、滲みそうな涙を抑えて、流れていく学生たちの合間に淡い金髪の青年を見つけようとする。彼はいつも何か帽子を被っている。ハイネックの首元と、白い肌と、背は高すぎるというほどではなくて、──きっと、この中にいるのなら、少女よりも先に少女を見つけて、声を掛けてくれる人だ。生駒の友人はここでは彼くらいだし、自分といる時の彼が、他の誰かに声を掛けようとするのは見たことが無かった。だから、その人がこの雨の中にいたのならきっと、休みになったみたいだぞ、と少女に笑いかけてくれる、はずだった。

「──かすみがわ、先輩…?」

 どこにいるんだろう。自分に声を掛けてくれるはずだ、などというのは思い上がりだったのかもしれない。でも、生駒よりずっと真面目で丈夫な彼が、講義を休むところなんて今まで見たことがない。いつだってはちみつ色の青年は、霞川かすみがわ春㫤はるのは、教員が壇上に立って話を始めるまで机に突っ伏している。くうくうと、子どもみたいな寝息を立てているのに、講義が始まればぱちんと目を覚まして、ちょっと喉を鳴らしながらノートを用意するのだ。そうして、いつの間にか隣に座っている生駒に気づいて、ぱっと目を輝かせる。今日も隣に来てくれたんだな、嬉しい、と。

 その瞳のやさしい煌めきを思い出して、生駒ははっとした。もしかしたら、と思って、屋根のある場所まで駆けこんで傘をたたむ。もう、そこから出てくる人間はいなかった。誰を押しのける必要もなく、講堂の中へ入って、…そこにも、誰も、伏していないことを知る。キャップに押さえられたハニーミルクの頭が、まわりの喧騒にも気づかずそこにあることを、期待していた。だから、へたりと。少女の身体から力が抜けていく。座り込んだ床は、水と泥を彼女のスキニーに含ませた。だがそんなことは、もう、どうでもよかった。

 一体どうしたらいいのだろう、と彼女は茫然と思う。昨晩から、生駒が何よりも大切に想っている犬が、ぐったりと伏せこんでいるのだ。彼は何も食べず、何も飲まず、何にも反応せず、ただ朦朧もうろうと横たわっている。だが、私設の動物病院にも、この大学に併設されている病院にも連れていくことはできない。

 ──何故なら、少女は、その犬が犬ではないと思っているのだから。

 彼は、少女以外の誰の目にも映らなかった。母親と妹弟のいる家にいた時も、父親とふたりの家にいた時も、この夜笠やかさの地に越してくる車の中でも、都心へ出るためのバスの中でも電車の中でだって、誰も、そこに銀と白の毛並みを持つ美しいけものがいると、気づかなかった。彼の体躯は百六十センチに届きそうな生駒の身長とほとんど変わらないくらいなのに。雪国の空気のように刺し澄んだ白銀の瞳が、少女が全身を預けても揺らがない確かな生命の鼓動が、そこにはあったのに。

 だからもしかしたら、彼は幻覚なのかもしれないとも思っていた。そうなのだとしたら、それを突き付けられるのは、この学び舎で出会った、春のような青年がいいとも。今日この日まで少女の傍にあった温もりを、空想だと、お前の弱さが生み出したものだと、そう吐き捨てても私を壊してしまわないのは、彼しかいないと。そう、思っていたのだ。

 愕然と顔を覆った指の間から、しかし、涙は一粒もこぼれてはくれなかった。虚ろなまるい瞳が、ゆっくりと講堂の椅子の足をたどる。その無機物の形を理解できずに、生駒は何度かそれを繰り返して、それから、ぽっかりと開いていた唇を閉じた。

 …帰るしかない。ひとりで。そうして彼が死んでしまうかもしれないのを、見ているしかない。…ひとりで。

 何かを考えたいとでも言うように赤の滲んだ瞳が宙を彷徨う。しかし、やはり何もその頭蓋には浮かんでこなかった。…彼女は、硝子の人形のようにかくりと立ち上がって、家路を辿ることにした。たった数分、何も考えずに、彼の毛並みのあたたかさだけを思い出していよう。そうしていれば彼と自分だけの部屋にたどり着いて、ただいまを言って、その異様に熱い身体を宥めるための氷を換えてやれる。そうして、傍にいるのだ。彼が死んでしまうというのなら、私も一緒にそうしてしまったっていい。

 そう思うと何も怖いものなどないような気がして、少女の淡いくちもとが震えるような弧を描いた。



 ──あれは、だるように暑い、夏の夜のことだ。

 白と浅葱あさぎ色の学校指定のセーラーを着たまま、生駒は知らないマンションの階段に腰を下ろしていた。繁華街と、商店街と、公園を抜けた先で辿り着いたそこは、薄暗くざらついている。ひとつめの階の電球は切れたままで、ふたつめの階の電球も埃をかぶってくすんだままだった。それでもまだ、どうしようもなく人間たにんの気配が恐ろしくて、階段の内側の壁に縋るように身体を寄せている。

 少女には、家に帰ろうと思えない日があった。そうしても鍵を開けてもらえないだろうから、夜遅くに帰ってくる父親がそこを開けてくれるまでは、どうにもならないと。だから、通学路をふらり、ふらりと人のいない方へ外れて行って、暗がりに座り込んでは人が通ると立ち上がって、もう誰も、本当に誰も来ない場所を探している。

 淡い浅瀬色のスカートを抱える自分の腕を、朦朧もうろうと見つめていた。そのうなじを、脇腹を、汗がつめたく伝っていくのを感じていた。厚いコンクリートのむこうで、虫が鳴いている。そのくぐもった音を聞いていると何かを考えてしまいそうになったが、そんなことをすれば何処へも帰れない惨めさに泣いてしまうのはわかっている。だからまた、ぼんやりと唇をあけて、通路に淀んだ湿気のおもさを、舌に、感じていた。

 その時、こつりとコンクリートの地面を鳴らした革靴の音を、まだ、覚えている。その男にんげんに見上げられながら、…あ、と少女は思った。ここをどかないと、と。つっかえるような、ぎこちない声が、細く白い喉から洩れた。ごめんなさい。そんな音が。その暗い瞳は男の方へは向けられていなかったが、幼い言葉がその生き物に向けられていたのは確かだった。

 …だから、そうされたとでも言うのだろうか? 自分があの時無言で去らなかったから、そうなったのだと。──そんなことは今でもわからないけれど、その背の高い人間は、横をすり抜けようとする少女の腕を強く、掴んだ。

 あれ、と十四歳の子どもは思った。何故引き留められているのだろう、と。そういうまっさらな疑問を浮かべる瞳を上に向けて、向日かなたは息を止めた。そこに浮いていたのがどういう表情だったのか、思い出せない。だが刺すような、身が竦むような衝撃だけは覚えている。そうして思考が止まっている間に、荒々しく腕を引かれたことも。

 彼は生駒よりもずっと、暗くて誰も来ない場所を、よく知っているようだった。少女の喉は震えもしない。ただ、男に腕を引かれる方へ、マンションの階段を降りて、狭い駐車場の奥へ、コンクリートの壁と建物の間の細く、くどく甘い油のような空気が重く息を吐く暗がりへ、自分の身体が引き摺り込まれるのを、知覚だけ、していた。

 その意味を、その時の自分が知っていたのか、知らなかったのかもわからない。男は呆けている子どもの身体をゆっくりと、蛇が獲物を締め上げるように、建物の壁面に押し付けた。そうされても、少女の脳味噌は言葉を吐くことなど一向に思いつかなかった。ただこの困惑を、どう理解すればいいのだろう、と視線を男に向けようとして──その頭の向こうに、月の化身のような美しい生き物を、見た。

 真空の瞳に、ぎんいろの光がゆるりと反射する。彼は生駒のことを、見ていた。その丸く透き通った瞳には少女が理解できる感情など何も浮かんではいなかったが、そんな、なんでもない視線を自分に向けてくれる生命がいるだなんて、思ったことが無かったのだ。それまで、一度だって。

 …この天啓を、信じてもいいのだろうか、と少女は思って、彼がゆっくりと瞬いた時に、これは幻などではないと確信した。

 だから、手を伸ばす。どんな暴力にも抵抗したことはなかったけれど、今この時だけは自分を戒めている肉塊なんかではなく、白銀の狼にも似た彼のことを求めたかった。この震える指先を掴んでくれるのは、その牙をおいて他にない。もうそれ以外には縋れないのだという感情などでは、決して、ない。そうではなくて、彼は、この腕の骨を噛み砕いてでも私のことを離さないひとだという、いかづちだった。

 彼が瞳孔を開くのを見ていた。白いセーラーの裾から、肌着越しに人肉が這い上がっている感覚なんかではなくて。そんなものは掃き溜めに捨てたように遠い。ただ、彼の毛並みが、肉の筋が、羽化するように美しく膨れ上がるのを、見つめていた。

 何か細く、長く、銀に煌めくものがしなるように空を切った。それに貫かれたのか、神経を断たれでもしたのかは知る由もないが、少女とよく似た形をした、身の傍の生き物がぷつりと力を失って地面にくずおれる。肉塊が脱力する運動だけを目で追って、向日はぱちりと瞬きながら、コンクリートの壁の上に、よっつの脚を置いた生き物を見る。

 そうして、自分の胸に震えるような興奮が湧き上がってくるのを、感じた。

 衝動のまま、子どものように彼の方へ両腕を伸ばす。これは、嬉しい、だろうか。それとも、あいしている、だろうか。いいや、そんなものはなんだっていい。どうだって。ただ、彼に抱き上げてほしくて──犬に人間を抱き上げろだなんて無理な話なのだけれど──少女は細い腕を懸命に伸ばしていた。

 それを見つめて、彼は精悍な鼻先を一度だけ、かふりと沈ませた。しなやかな白銀が、少女の腕の中へ飛び降りる。

『あ、ぷ』

 自分よりもずっと大きな、ふさふさな毛並みが顔に押し当たって、その重さに少女は一歩、二歩と後ろへ下がる。そうして壁と、彼の身体の間に閉じ込められて、向日はぱちぱちと瞬きした。…あたたかい。その前脚は壁にかけられていて、少女の肩には安心させる分の体重しか乗せられてはいない。重みのある頭が、何をすることもなく静かに、濡羽色のまるいあたまを抱いている。

 そうされる何かが自分にあるのかはわからなかった。ただ、彼は応えてくれる、彼に、応えてほしいと思って、その直感をこの生き物が蹴って捨てなどしなかったことが、胸を震わせている。

 少女は凍えるような腕を、厚いダブルコートの背中へまわした。そうして、その温度を感じていた。

 …彼との邂逅が一時のことだなんてちらりとも思わなかったのは、自分が幼かったからだろうか。それとも、あの時はまともな精神状態ではなかったからだとか、彼が人の形をしていなかったからだとか、そういうことなんだろうか。…どれもそうなのかもしれないけれど、彼が、掴んだものを離しはしないひとだという直感のことを、何よりも信じていたい。

 ──今も。そしてこれからも。

 十九になった少女は、自分の敷布団の隣に敷いたラグの上で、息も絶え絶えに横たわっているそのひとのことを見つめていた。シーツのつめたさに素足を時折泳がせながら、両手の指先を彼の方へ投げ出して寝そべっている。その毛並みに触れたかったけれど、苦痛のさなかで人に触れられるのを、彼がどう感じるのかわからなかった。

 照明は全て落としている。音も。彼を煩わせるものはこの部屋には無いはずだ。私が邪魔だというなら出ていくけれど、そういう仕草もできるような状態ではないようだった。

 ラッガさん、と彼の名前を唇のかたちだけで呼ぶ。そういう音をしているひとだと思ったから、向日は彼のことをそう呼んでいる。…だがその名前を、黄金の友人にも呼んでもらえたらどんなに嬉しいだろうかと、そんなことを考えたのは少し傲慢だったらしい。この狼犬のことを知っているのは、私だけで十分なのだと、少女は自分に言い聞かせるように枕へ頭を押し付けた。彼がどんなに美しくて、強くて、今、苦しんでいて、でもきっとどこの病院に行ったって見つけてはもらえずに、このまま消えてしまうかもしれないのを知っているのは、自分だけなのだと。

 彼が自分を見つけてくれただけでお前は満足していたのではないのかと、少女の中の少女が言った。その通りだ。自分についてはそれで構わない。でも、私だけが彼を知っているのでは、彼を掬えないのだ。そんなことに、どうして今になって気づいたのだろうと、ラッガが自分だけのものだという、痺れるような嬉しさにお前は浮かれていたのだと、そう思う少女のくろい瞳から涙が伝う。

 しずかに、唇をかみしめて、唾を飲む。…頭のおかしい奴だと思われてもいい。明日はこの身が行ける限りの動物病院に片っ端から彼を連れて回って、彼のことが見える人を探そうと、思った。わかっている。そんな人間はいない。でなければどうしてこの五年間、誰一人として彼に視線を向けず、彼の毛並みが触れても反応せず、犬がリードなしに室内を、屋外を自由に歩むことを咎めなかったというのだ。…わかっている、と噛みしめる様に喉の奥で唸りながら、最早この瞳からあふれる熱を抑えることはできなかった。それでも声だけは、殺して、いたかった。


 そうして少女は、その歪んだ視界のさきで、しなやかなからだが、ばくりと跳ねるのを見た。


 生駒はがばりと身体を起こした。唇を慄かせながら、彼に這い寄って、その身体のどこに苦痛があるのかを見定めようとした。

 そうしようと、思って、彼のひとみが虚ろに開いているのを見る。

 呼吸が、止まったような気がした。

 ──だがそれは、死の瞬間などではない。

 ばちり、と厚い毛皮の内側で、何かが火花を散らして擦れあうような音がする。ばちり、ばちり、ばち、がち、ち、ちちちち。──ぼこりと、彼の脇腹から多角柱の突起が突き出す。血のように赤く、鮮やかに輝くレッドスピネルが。それはまたたくまに量を増やし、彼の外皮を鉱石の内側へとめくり返しながら、膨れ上がった。

 …その音が静かになった時、少女のワンルームには冷えて澄んだ鍾乳洞のような空気だけがあった。吐く息が白い。眼前に透明度の高い巨大な赤が、露出している。それはラッガの体内に収まるような体積では到底、なかった。だが、確かにラッガの身の内を食い破って出て来たものだ。

 彼は、どこだろう。誰が、どこへやってしまったというんだろう? この赤い尖晶石の中に溶かされてしまったんだろうか。でも、こんな、こんな瞬くような合間に?

「な、んで……?」

 考えるよりも先に、少女の淡い指先がその赤へ縋りついた。この石塊のどこに、私の愛するひとがいるのだろう、と。震える手のひらが、冷たいスピネルの肌に触れる。

「───ア、」

 …そうしてその赤い鉱物は、彼女の肉の中へもりのように、濁流のように流れ込んだ。手のひらの薄い皮を突き破って、その腕の骨を削そぎあげるようにして、肺の近くで全身を裂くように爆はぜて散る。…いだ、い。ああ、それは、非常な、痛みだった。神経一本一本を凍らせられる感覚が、何度も、何度も、肌の上を、肉の中を内臓の形をじぐざぐに侵す。雷鳴のように、走炎のように。そんなはずはない、ころさないで、いやだと喉が悲鳴を上げた。殺さないで? 死んでもいいなどと言っていた人間が? でもこんな、全身に針を流して縫い直されるような痛覚を、求めていたわけではない。何をすることもできず、身をのたうち回らせることもできずに痙攣する指先が宙で震えている。

 ──その、もう何にも触れていない指の間に、誰かの肌が絡むのを、少女の瞳は見た。

 その人は、指の先からそこに粒子を組み立てられるように、砂塵で形成される蜃気楼のように、生駒の目の前に現れた。だが合わせられた手より上に眼球を向ける余裕も、彼が何を纏っていてどんな色をしているのかを理解する脳の空白も、少女には無い。

 あー、ああ、あ、と身を縮ませた身体から、髄液ずいえきが漏れるような軋んだ音が発せられている。それは最早、少女の意志では止められなかった。だって、壊されそう、などではなくて、壊されている、のだから。

 そうしていると、不意に、意思なく絡んでいただけだったその人の手に、力が宿る。

 それは生駒よりすこし大きくて、少女の肌よりも色素の薄い、青年の肌だった。その色をしっていると、黒曜石のひとみが朦朧とするような痛みの中でゆれる。その人が、くるしく微笑むように息をはくのを感じた。

 少女の手のひらに、溶け込むような熱が伝う。それはあたたかい誰かだ。そのままずたずたにされた内側へ沁み込むように回っていって、少女は、その透明な温度が痛みを弾いて、身体の外へ連れて行ってしまうのを感じた。

 …ぱちり、ぱち、と淡い肌の上で線香花火のような青白い電位が散る。少女の脳へ痛みを送っていた生体信号だ。それが、こんなに美しい色をしているのか、ひかりをしているのかは知らない。むしろ今の今までこの魂を引き摺り倒して足蹴にしていたのに、どうして、いまはこんなに、幼気いたいけな爆ぜ方をしているのだろう?

「……生駒」

 無垢な子どものような、しかし揺らがない強さも感じさせる声が、名前を呼ぶ。その音に導かれて、少女は顔を、上げた。

 彼は、──霞川春㫤は、いつもの幼い表情をすこしだけ抑えて、生駒のことを見守っていた。

「…うん。わかるか? 俺のこと」

「……か、すみがわ、せんぱい」

 彼は頷く。ゆるい癖のあるハニーミルクの毛先が揺れた。ぱちり、ぱちりと少女の体表を弾いていた火花が、すこしずつ収まり始めている。彼女が背にしたカーテンの向こうから差し込む月の光が、仄かに青白くひかる空気を、青年の肌にのせている。

 それをただ、見つめることしかできないでいると、…何から話そう、と春㫤が向日に問いかけた。

「──らっが、さん」

 何を考えるよりも先に、少女の唇はそのひとの音を零した。それを聞いても彼の、光を散らしたような瞳が自分から逸らされないのを見て──この人は、耳を傾けてくれるのだと、そう思う。

「……いぬ、と、すんで、いるんです。でも昨日から、すごく…体調が悪くて、それで…そしたら、いま」

 今、どうなったと説明すればいいのだろう。どうなったんだっけと記憶を辿ろうとして、真っ赤な鉱石が吐き気を催すほどの密度で敷き詰められていくグロテスクなイメージが少女の網膜を覆った。浅くなる呼吸に、黒の瞳が焦点を失いかける。そうして脱力しそうになった指を、支える様に握り直されて、細い肩がひくりと強張った。春㫤の黄金の瞳が、少女のまるい目を見つめている。彼は、生駒の言葉の続きを音にした。

「──そうしたら、目の前で宝石になった?」

 …そう。そうだ、と頷く。彼も見ていたのだろうか? それとも、彼も、見たことがあるのだろうか。

 何であれ、この人はその意味を知っているのだと思って、少女は教えを乞うように、縋るようにきんいろの瞳を見た。彼は、自分よりもひとつ幼い友人を安心させるように、すこしだけくちもとを緩めた。

「…大丈夫。生駒の家族はちゃんと戻ってくるぞ。──体調が悪そうだって言ってたけど、もともと悪かったわけじゃないんだろ?」

 昨日だけだよな、と確認する声に、少女は小刻みに頷いた。

「ん。それじゃあ、帰ってくるよ」

「…でも、何処にいるの?」

 何処にもいないよ、と、敬語も使えずに幼く震える声を、漏らしてしまった。うーん、と春㫤は眉を下げる。どう言葉にすればいいのだろう、という顔だ。それから、何かに思い当たったように瞬きして、彼は繋いだ両手を生駒の頭の上へ持っていった。

 困惑に、されるがままになってしまう。あ、わ? と少女は喉から音を吐いたが、その手の甲に、なにかやわい、覚えのある毛並みが触れた時、あ、と目を見開いた。自分のあたまのうえに耳がある。犬の耳、シベリアンハスキーの大きいさんかくのふさふさが。

 えっ? と春㫤を見て、──そうして、今初めて、彼のひよこみたいな頭が何にも覆われていないことに気づいた。そこにはしろい猫の耳がふたつのっていて、音がする方へ器用に動いている。

「…は、え…? み、耳……」

 半ば無意識に、自分の人の耳を確かめようと下へ降ろしかけた手を、春㫤に止められる。

「ちょっと衝撃的だからまだやめた方がいい」

「え……あ、ああ…無くなってるってこと、です、か…?」

「そんな感じ」

「せ、先輩も、耳…」

 うん。俺も生駒と同じ。そう、いつものまっさらな声が言った。

 …同じとは、どういうことだろう。ラッガの場所を尋ねて、自分の頭頂部に生えた彼の耳に触れさせられたというのは、一体、何を意味しているんだろう。その答えは──少女の中で、形になりつつある。

「こ、ここにラッガさんがいるって、ことですか…?」

 生駒は頭の上の耳に触れて見せた。青年は首を振る。

「そこって言うよりは、全身に溶けあって一緒になってるって感じだな」

「あ、わ……」

 その、言い方は、多感な年ごろの少女の頬を真っ赤に染め上げた。わかっている。そんな意味ではなくて、ある種の事実のようなものなのだろう。でも、少なからず想っているそのいきものとひとつになっているという表現は、少女のぎこちない表情筋を切なく歪ませるのに十分だった。

 ただ、目の前の青年は、その表情の意味を読み解くことができなかったらしい。えっ、と彼は生駒の顔を覗き込んだ。俺は何か不味いことを言っただろうか、と。

 少女はひゃ、と声をあげた。こんな紅潮したかおをまじまじと見られるのは、恥ずかしくて耐えられない。

 そうして後ろに逃げようとして、ふたりの力のバランスはあっけなく崩壊する。背にあるのは布団だけれど、そんなに上等なものではない。勢いよく倒れたらある程度の痛みは避けられないと、少女は身と目蓋を竦めた。

 ──しかし、衝撃はいつまでたってもこなかった。

 あ、れ、と薄く目を開いて、自分の背が春㫤の腕に支えられているところまでは理解する。だが彼の紺色のワイシャツの首根っこというか、背中というかを掴んで引っ張っている腕が、誰のものなのか、わからない。

 その人はいつの間にか春㫤の後ろにいて、血の気のない顔で、ふたりのことを見ていた。細く長い銀髪を鎖骨の上でゆるく結った、美しい顔立ちの青年だ。彼の灰色がかった青の瞳は透き通るようで、銀糸の内側を染めた淡い水色が、薄暗い部屋の中できらきらと光をはじいている。

「……っ? じ、事故、だよな…?」

 ピアノ線のような声が、春㫤に確認するように問いかけた。音域として高いわけではない。しかしあのやさしく冷えた高さを引き出す、金属の静謐せいひつさを帯びている。彼は、この状況に驚愕と困惑の表情を浮かべていた。

「? わかんないけど、ちょっと、起こしてほしいぞ、なつ」

「……。…ほら」

 白系統の薄いカーディガンを纏った腕が、春㫤の身体を引いて体勢を安定させる。それに合わせて身体を起こされながら、この銀色の青年をどこかで見たことがある、と生駒は瞬きした。そっと身体を解放してくれる春㫤に、すみません…、と頭を下げて、そこに立っている人を見上げる。

「……あ。たまに…先輩と一緒に、食堂でご飯を食べてる方…?」

「…そういう君は、春㫤がよく話してくれるひとつ下の学友ちゃんかな?」

 黒髪と、赤茶の眼鏡、と彼は流れる様にジェスチャーした。なるほど、私は先輩からまあまあ話題に上げられているらしい。そう思うと、なんだか心がくすぐられるようだった。嬉しさを逃がすように、右の頬をすこし膨らませていると、あっ、と春㫤が声を上げる。

「なつ、ブーツ! 人の部屋だぞ」

「えっ、…しまった。ごめん、慌てて出て来たから…」

 訪問とはチャイムを鳴らしてドアから入ってくれるものだという概念が、生駒の中で壊されつつある。この人も、先ほどの春㫤のように、砂塵を組み立てるようにして此処へ来たのだろうか。そう思いながら、片足ずつ靴を後ろ手に抜いている彼を見て、…その後ろに、扉の枠のような長方形の真空が開いていることに、気づいた。

 先ほどまでは無かったはずだ。ラッガの傍に寄り添っていた時には。生駒は困惑と、少しの怯えの表情でふたりに尋ねた。

「あ、あれ、何ですか…?」

 銀色の青年はその瞳を見て、それから、パネルのように薄く、光を一切通さない黒を見やった。彼は動じたりしなかった。そこにあることは知っていたという表情で闇の中を見つめて、肩をすくめる。

「…さあ」

 その答えに、ラグの上の春㫤が彼の脚を小突く。

「さあってことないだろ。あの中からここに来たんだって言えばいいじゃないか」

「…そういう意味じゃないよ」

 確かに俺はあれを使えるけど、あれが何かは知らないんだから。そう、冷たい声音で彼は言う。

 …その声は、怒いかっているようでもあった。どうして彼がそれを睨むようにしているのかは、生駒にはわからない。ただ、この人はここにぽっかりあけた闇に、不快なものを、それも、己の意志を踏みにじられて強制されるかのような耐えられない吐き気を、感じているように見えた。

 しかし青年は口をつぐんで、自分の中で整理をつけるような息を吐く。それから、その暗闇の中へとぷんと自分の靴を預けて、ふたりを振り返った。その瞳に剣呑な光はもう無い。浮かべ慣れたような、これが自分の役割だというような責任感が乗っているだけだった。

「…生駒ちゃん、だったかな」

「……は、い。向日かなたです」

「そっちが名前?」

 首肯する。黒子をひとつ、下唇に乗せた彼の口が生駒の名前を確かめるように呟いた。

「よし、覚えられそう。…俺は、遠能とおの甘夏あまなつ」

「遠能…先輩?」

「こいつと同い年だから、そうなるね」

 それで、自分のことはどこまで把握してる? と、青年は尋ねた。少女は両手を頭上にやって、そこにある耳をやわく捕まえた。

「…ええと、私はこのひとと同化してしまったと…」

「ああ。…でもそれだけじゃない。君は、人間じゃなくなってしまったんだよ」

 人間ではない。その言葉を口の中で確かめる。だが、それを聞いて、少女の中で何かが揺さぶられたりはしなかった。ただ、”人でなくなる”とはどういう意味だろう、と考える。

「それは…私に何か害があることなんですか?」

「そうだな…君が君のパートナーと身体を共有していることに関しては、俺が意見できることじゃない。でも、俺たちの意志に関係なく強制されることがあるから、それについては知っておいた方がいい。…そんな感じ」

「強制……何を?」

「──狩りを」

 ぱちり、と黒い瞳がまばたく。少女は、それは何? という視線を春㫤に向けた。大人しく片膝を抱いて、友人に説明を委ねていた彼は、しかしすぐに生駒の視線を受け止めた。

「週に一度くらいの頻度で呼び出されるんだ。さっき俺が生駒の前に連れてこられたみたいに。大体人がいない辺鄙な場所だけど、そうじゃない時もある」

 そこに放されてる肉塊を狩って、食べたら解放されるぞ、と彼は穏やかに言った。

 …それは、午睡ごすいに微睡まどろむような声で言うようなことではないと、少女は思った。それでこの、危機感がなさそうな青年ではなくて、つい先ほど怒りを浮かべていた彼の感情の方が理解できると思って、その灰青の瞳を見上げる。甘夏は、春㫤から自分に視線を移した少女を見て、その気持ちがよくわかる、というように頷いた。

「…まともじゃないよ、こいつも、このよくわからない身体もね」

 む、と春㫤が眉を寄せる。

「なんでそんなこと言うんだ?」

「俺はそう思うからだよ」

 甘夏は半ば吐き捨てるように言った。それから、あ、と瞳を凍らせて、…己のことを嫌悪するように目元を歪める。

「……いや。…俺が、そう思うだけ」

 …あてつけて悪かった、と甘夏は友人の方を見ないまま言った。その謝罪の言葉は本物のようだったけれど、彼の瞳は何かを諦められないように床を睨んでいる。…睨んでいるというよりは、刺すような感情を誰にも向けられなくて、そこに落としているという方が的確かもしれないと、少女は思う。

 そうして少し黙ってしまった彼を見て、春㫤は話を変えるように生駒を見た。

「まあ、狩りの方はなんとでもなる。パートナーと融合している間は死なないからな」

 勿論、生駒にはそんなことさせないけど、何度もリトライしてれば狩れない獲物なんかいないぞ! と、明るい声が言う。

「…でも、それ…い、痛い、ですよね…?」

「はは、痛いのは消せるから問題ない」

 …ああ、それなら耐えられるかもしれない…? という気持ちと、でも、痛みなく身体を壊される感覚とはどういうものなんだろう、という不穏が少女の胸に湧く。やはりまだ、春㫤のようには笑えそうにない。

「あとは…Caratカラットとか融合の話じゃないか、なつ」

 青年は衒てらいなく甘夏に話を振った。まるで、どんなに感情を害していても、彼は自分の言葉に応えてくれると無邪気に信じているように。銀色の青年は、もう、静かに落としているだけだった視線を春㫤に向ける。金色の瞳がそれを受け取って、…しかし彼は、友人の憂慮など無かったことにするように首を傾げたりは、しなかった。その人が苦しんでいるのは知っているけれど、自分はこうあることしかできないと示すように、ただそこに座っていた。

 甘夏は彼から視線を外して、生駒を見る。

「…Caratからにしよう」

 向日は頷いた。

「パートナーと融合してる間は……人智が、まだ追いついてないようなことが、できるようになるの」

「…それをCaratと、呼んでいるんですね」

「そう。俺たちの仮の呼称でもある。こんな身体にも、価値がありますように、ってね」

「なつ、生きてるものはみんな価値があるってば」

「それはそれ。俺も、大抵の人には価値があると思ってるよ」

 やはりふたりはどこか噛み合わないようだったが、互いについてそれでいいとも思っているようだった。すれ違う意見に確執が浮かぶことはもうなくて、なんでもないやりとりだったように甘夏は言葉を続ける。

「君のCaratとか、俺たちのCaratの話は今夜はやめておこう。それよりもまずは大枠を君の中に作って欲しい」

 意見は合うかな、と甘夏が確認するように生駒を見た。この人は、春㫤とは少し違う意味で真摯な人らしい。同意の首肯を返す。

「OK. それじゃあ、次は融合の話」

 この状態は最初の狩りと食事を終えたら、任意で解除したり融合したりできるようになる、と彼は言った。

「──だから、霞川先輩は”帰ってくる”って言ったんですね」

 うん、と春㫤が目を細める。その表現、優しくていいね、と甘夏も少しだけ口元を緩めた。

「…ってことは、君は君のパートナーに帰ってきて欲しいってこと? このまま一緒になっているんじゃなくて」

 少女は躊躇いなく頷いた。

「先輩たちは、一緒になってるって言いますけど…私、あんまりそういう感じがしないんです。耳は彼の形ですけど、この身体、やっぱり私しかいないというか…」

「生駒、尻尾もあるぞ」

 春㫤が手首を揺らして尾を振るジェスチャーをする。

 少女はえっ? と自分の腰を振り返って、薄手のショートパンツを押し上げて外へ出ている豊かな犬の尾を見た。手で押さえる。それは、彼が時折自分の身体にたふたふとはたきつける、優しい重さそのものだった。今は、ぴくりとも動かないけれど。

 そうして呆然と触れていると、甘夏からすこし控えめに、しかし訝しさをのせた声音で尋ねられる。

「…君しかいないっていうのは、どういうこと? なんていうか…俺は、腹の底に誰かがいる感覚がして、問いかけたらそれに対する返答みたいな意思を感じるけど…」

 お前は? と、灰青の瞳が彼の友人に向けられる。春㫤は、うーん、と首を傾げた。

「俺のはずっと寝てるからな…向こうから何かが返ってきたりはしないけど、まだ一緒にいるなっていうのは感じてるぞ」

「一緒…。…自分じゃない、体温みたいなものですか?」

 ふたりの青年はほとんど同時に首肯した。それを見て、少女は己の体感覚を掴もうと視線を宙に溶かす。…だがやはり、どこにも他人の温度は感じられなかった。口をつぐむ。その表情を見て、甘夏が若干の不甲斐なさを浮かべた。

「…ごめん。個人差だから大丈夫って言ってあげたいんだけど…如何せんサンプルが少なすぎて断言できないから…」

「……まあ、たくさんいるんだったら学会が大騒ぎになってますし…」

 生駒の返しに、彼はふ、と苦笑を零す。

「うん。俺も実験台には乗りたくないしね」

「もうすでに実験体じゃないか?」

「…身内で記録つけてるだけでしょ。俺は解体されたくないし、したくないよ」

 それで何かわかるんだとしても、と甘夏は春㫤を諭すように見た。そう伝えておかなくては、彼がそれを簡単に選んでしまうとでも思っているように。春㫤は少し鼻先をあげて、それから、それを引くようにして頷く。

「…そうだな。確かに、今はミトンの身体でもあるんだし」

 銀色の頭も首肯して、それで、どこまで話したかな…と記憶をたどるように呟いた。

「最初…? の狩りが終わったら、ラッガさんと分離できる、というところまで」

「ああ、そうだ。ありがと」

 いえ、と少女は首を振った。この青年との会話を楽しいと感じている自分がいる。そのテンポを心地よいと思っているのは相手も同じようで、彼の瞳に始めに感じた冷たさは、幾分とぬるんでいた。

「それじゃあ、これが最後かな。融合している間は、それを始めてから二十四時間ごとに八時間しか起きていられない。強制的に意識がシャットダウンされるから、時間は意識して使って」

「それは……例えば、その二十四時間の間に何度も融合を解くと、どうカウントされるんですか?」

「バグみたいな抜け道は許してもらえないよ。一度でも融合すれば、何度解除と融合を繰り返そうが、始めの一回から二十四時間は三分の一しか意識を保てない」

 なるほど、と生駒は頷いた。その表情を確かめるようにしながら、甘夏が真剣な瞳で言った。

「…そもそも、意識が消えるってこと自体が、人体には悪影響だって証明してる。狩り場に呼ばれた時は強制的に融合させられるけど、それ以外の時はしないほうがいい」

 わかる? と問われて、少女はすこし、考えた。その深刻さはまだ感覚としては感じられなかったが、甘夏の言っていることは理解できる。──そう思っている自分がいて、向日はふと、己の思考に疑問を向ける。私の脳はもう、ラッガの腹から鉱石が突き出したときの恐怖を、自分の中に雪崩れ込んだ痛みのことを忘れている、と。…それは、生駒が生駒であるために忘れてはならない、感じていなくてはいけない感覚な気がした。

 そのはずだ、と脆く崩れてしまいそうな痛みの形を確かめながら、少女は改めて、甘夏に視線を返した。

「…はい、大丈夫です。私、ラッガさんと一緒になりたいんじゃなくて…私とは形が違う彼のことを愛していたい、ので」

 青年は頷くのではなくて、少女の瞳が確かなものをたたえているのをただ、見つめた。それからすこし苦そうに、しかし尊く思っているのは本当だという様に微笑む。…生駒は、彼が何に苦しんでいるのかを見つけたいと思って、その色を覗くようにする。それは、少女の習性のようなものだった。だが同時に、ついさっき出会ったばかりのこの人を大切にしたいという想いでもある。

 ただ彼は、数度瞬くうちにそれを瞳の内へ溶かして、消してしまった。はい、と甘夏がひとつ手を鳴らす。

「今夜俺たちから話せるのはこれくらい。質問は? それと補足」

 彼は生駒を見て、次に春㫤を見た。布団と、ラグの上のふたりはゆるく首を振った。

「それじゃあ、先生と会ってくれる? 今後の方針は全員で決めたいから」

「…全員」

「そう。この体質の人が他にもいるのかはわからないけど、俺たちが確認してるのは、今日加わった君を含めて四人だけ」

 正確に言えばちょっと違うんだけど、少なくとも今コンタクトを取れるのはそれだけだと、彼は続けた。生駒は、そういうものらしいと自分に覚えさせるように頷いて、春㫤を見た。

「先生、というのは?」

「アレイダ先生」

「……そ、れって、うちの大学の…アレイダ・ヴァーノン先生…?」

 うん、と彼は頷く。その人は──先刻、生物学の授業を急遽取りやめた人だった。スキンヘッドと、しなやかな暗褐色の肢体を持つ、長身の女性だ。白目を黒く染めた、彼女の灼熱の虹彩が愛想を浮かべることはない。そこには、不当なことに身を委ねない美しい強さだけが宿っている。そういうところや、彼女の適切で、適度に興味を惹く講義の内容は嫌いではなかったが、…少女にはすこしだけ、負い目のようなものがあった。なんてことはない。一年前に単位を落としたことがあると、ただそれだけのことだ。

「アレイダ、先生……う…」

「あれ? 苦手か?」

「いや…私が勝手に苦しんでいるだけというか。…大丈夫です」

 頑張ります、と少女は目元を歪ませながら言った。春㫤は、大丈夫そうな顔じゃない…という瞳をしたが、ひとつ瞬きして立ち上がる。彼は少女に手を差し出した。

「…先生、雰囲気はおっかないけど優しい人だよ。なっ、一緒に行こう」

 その手のひらを見つめて、少女は、ふ、と表情を和らげる。自分の手を重ねて、半分引き上げてもらって、それから綺麗に、笑ってみせた。

「部屋着、着替えさせてください」

 その声は美しかったが、夜分に自分のテリトリーへ突然上がり込んだ青年二人に、ほんの少しだけ怒っているような色を含んでいた。恥ずかしさの裏返しのような、深刻ではない怒りだったけれど。

 あ、と春㫤が口をあけて、…ご、ごめんなさい、と白い耳を震わせる。しかし、そうやって身を固めるだけでは耐えきれなかったように、彼はぴゃっと甘夏の後ろへ逃げ込んだ。ぎゅっと目をつむったまま、友人のカーディガンを握る。

「お、俺、どっかに行く、ので…っ」

「あ、いやそんなに怒ってないので…」

 ぴるぴる震える春㫤の代わりに、銀色の青年が頷いた。だが彼も、少し申し訳なさそうに眉を下げている。

「…うん。でも、土足で踏み込んでごめんね」

 準備、できたら入ってきてくれる? と甘夏が言う。中からは見えたりしないから、と。

 少女は頷いて、彼らが異質な暗闇の向こうへ沈むように消えるのを、見送った。


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