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「はい、春㫤。トマトとボウルと包丁は用意した?」

「ばっちりだぞ、なつ!」

 OK, それじゃ、始めようか、と甘夏はナイルブルーの長袖をたくし上げた。…それから、なんで自分はそんなことをしたんだろうというように袖を降ろして、咳ばらいする。灰青の瞳が、広い畳の部屋にぺたりと腰を下ろした少女を見る。

 そこは、風呂場の隣に位置する開放的な和室だった。庭に接する面は欄干付きの縁側になっていて、そのまま池に連なっている。奥は仏壇で、その少し手前のちゃぶ台に、春㫤が用意した真っ赤な野菜その他が置かれていた。

 名前を呼ばれて、少女は本日の先生を見上げる。

「まずは俺が融合のやり方を見せるね。そのあと春㫤のCaratの特徴を知ってくれる? 今夜からの君の相棒だから」

 生駒は従順に頷いた。

「ん。それから君のCaratを確かめよう。…実はちょっと、どんなかわくわくしてるところはある」

 ね、と甘夏が春㫤を見る。金色の青年は胡坐をかいた身体をうずうずと揺らした。

「…ふふ。先輩たち、警戒心が好奇心に負けてますよ」

「それは生駒もだろ」

 少女と黄金の青年は目を合わせて、同じことを思いついた子どものように悪戯っぽく笑いあう。それに肩をすくめて、甘夏は庭に向けて開け放たれた縁側の方へ向かった。

 彼は、広い庭園の木陰に何かを探すようにして、それから指笛を数度、鳴らす。

 その音に、水場の奥の木が揺れた。がさ、ごそ、とうごめいた枝葉の下から、とっ、たた、とそのひとが飛び降りる。

 彼女はすい、と屋敷の方へ小さなあたまを向けた。そのまま動かずに、考えているような、今聞いた指笛の音も忘れているかのような沈黙があって、それは、風に乗るために走り出した彼女の細い脚に掻いて、消される。

 飛び立った黒い肢体は、青年の傍の欄干に降り立った。彼女は特に鎖や紐をつけられているわけではない。ただ、その細い足首に何か小さくて黒いものを括られている。

 小首を傾げた知性を感じさせるひとみが、甘夏を見上げた。そうして、身を屈めて差し出された彼の腕に、ぴょん、と乗り移る。

「…ごめんね。ちょっと一緒にいてくれる?」

 ね、と彼は艶めく羽を持つ相方と視線を合わせて、それから、その甘さをぱっと片付けたいつもの表情で生駒と春㫤を見た。

「…生駒ちゃん、なんでそんな感極まったみたいな顔してるの?」

「い、いえ…お似合いだなと…」

 それは絵画的な意味で、というつもりだったのだけど、そういう表面だけに美しさを感じたわけではない気もした。人間ではないものを──それがどんな意味であれ──愛している人の視線を見るのが好きなのだ。

 ただ、そういう嗜好は、彼女の喉から言葉としては吐かれなかった。甘夏は生駒の言った「お似合い」の意味を少し考えているようだったが、単純な称賛として受け取ることにしたらしい。どうも、と穏やかな声が応える。

 そうして彼は、黒い肢体を自分の胸元に寄せた。

「それじゃあ、融合ね」

 手順は簡単、と甘夏が向日に言う。

「身体のどこかに鉱石を埋め込んだみたいな痕あとができてるはずだから、その上か、直にパートナーの身体を触れさせる」

 レイが嘴の先で、青年の心臓の上に触れる。

 ──その黒く艶めくケラチンのさきから、彼女の身体が氷を張られるように青い鉱石に変じていくのを、少女は見た。それは烏の全身を造りなおした後、一瞬、静止する。

 きぃん、と冷えた洞にひとり、佇んでいる感覚がした。

 …しかし、美しさに開かれていた瞳は、その青が彼の心臓に喰い込むように雪崩れ込むのをみて、びくりと、震える。数秒のことだった。それでも甘夏は、その眉間を歪めて、腕で表情を隠すようにしている。若干強張った指先を、ゆっくり握って、青年の身体がふう、と息を吐く。

「…こんな感じ」

「せ、先輩、痛そう、でしたけど…」

 彼は緩慢な動作で首を傾げた。

「痛い…っていうよりは苦しい、だな。場所が場所だからかも?」

「なるほど…?」

 春㫤は痛いのだろうか、と少女は右前の青年を見る。しかしその人は、何を尋ねられているんだろう、という顔で生駒を見つめ返した。

「えっと、霞川先輩は…融合する時、どんな感じがするんですか?」

「…ああ。俺はずっとしてるから、わかんないぞ」

 最初のやつは覚えてるけど、と彼は自分の頭に目をやって、ひょこひょこ耳を動かす。

 そういえば、と生駒は思った。確かに彼は学校でいつも帽子を被っているし──それはこの耳を隠すためのものだろう──、いつも、眠っている。必要最低限の時間しか、起きていられないとでもいうように。

「どうしてです? あの…起きていられないのは不便、だと思うんですが」

 無論それは春㫤の自由だ。だから、少女の声は純粋な疑問という無垢な音をしていた。

「うーん、でもこうしてないと俺の相方死んじゃうからな」

 答える声も、あっけらかんとしている。死んでしまう、と少女が繰り返すと、そ、と春㫤は頷いた。

「もともと身体が弱くて、初めてくっついたときは危篤だったんだ。だから多分…離れちゃうと、持たないんじゃないかと思って」

「…なるほど。先輩の中にいる間は…ええと」

「ミトン」

「ミトンちゃん…は存命される、ということですね」

 春㫤はそういうこと、と頷いて、それから甘夏にぷく、と頬を膨らませて見せた。

「なつより生駒の方がずっと物分かりがいいぞ」

 彼はその言葉に苦々しく目を細めて、…どうかな、と返しながら畳に腰を下ろす。

「俺は、明日の朝にはお前が生駒ちゃんからつつかれてる方に賭けるけど」

「? なんで生駒がそんなことするんだ?」

 なんでだと思う? と甘夏は黄金の友人にうんざりした顔で、生駒の方に問いかけた。

「それは──霞川先輩が大切、だからですかね?」

 少女は自分の感覚ではなくて、甘夏の感覚を言葉にするように答えた。灰青の瞳が、何か自分が求めていたものとは違うことを答えられている、でも、何を、と思考を巡らせるように瞬く。

 そうして彼が辿り着くかもしれない羞恥は見ているべきではないと思って、少女は春㫤を見た。が、彼はそのしろい耳をしおしおとへたらせて、う、と生駒の後ろに隠れたがるように身を寄せる。

「……それは、知ってる…」

 でも他の方法を知らない、と彼は許しを乞うように言った。それは生駒というよりは、甘夏に向けられているようだった。少女は、すっかり自分の後ろで身体を丸めてしまった、紺と白の背中を見た。

「…いや、知ってるならいいよ」

 甘夏が机の向こうから春㫤に言う。

「俺は…取り返しがつかなくなってから、お前が気づくのは嫌だから、言ってるだけ。…誰にも言われないと、考えもしないでしょ」

「…何を?」

「お前が自分の時間犠牲にしてること」

 その言葉がどういう形で彼に刺さったのかは生駒にはわからないけれど、春㫤がぐう、と身を強張らせたのは確かだった。少女は、あ、と瞳を開いて、その人の背に手のひらを触れさせる。その温度を、そのままそこに引き留めるように。

 しかし甘夏も、それ以上踏み込む気は始めからなかったようで、すぐに両手を上げた。

「わかってる。犠牲じゃないんでしょ。…いいよ、そのままで」

 ただしつつかれると俺も言い返したくなるから、挑発しないで、と努めて静かに抑えられた声が言う。

「……いや。挑発してるつもりもないんだろうな…俺がそう感じるだけで…」

 あー…、と彼は天井に目をやって、深く、息を吐いた。その震えは、こんな会話を彼としたいわけではないのだと、苦しんでいるようだった。多分、そうではなくて、甘夏はなんでもないことを友人と言い合っていたいのだ。それなのに今はどうしてもその話題に行きつくしかなくて──自分たちに残された時間をどう使うかという話だ──、しかもその点について二人の価値観には相いれないものがあるようだった。

 余命を前にした人間そのものだと、生駒はその時ようやく自覚した。この現状が人為的なものにせよ、超自然的な病にせよ、その椅子に強制的に座らされたことには違いが無い。括りつけられた椅子の底が開いて首をつられるまでの間を、どう生きるか、私たちは突然に襟首を掴まれて目の前で叫ばれている。脅迫されている。…音のない、虐待だ。意識して考えていなければ、すぐに取り返しも後悔もできなくなってしまうぞ、と。

 しかし少女には、覚えのある感覚でもあった。それを追憶することは意図的にやめて、彼女は、口の内側を食んだ。

 瞬く。命に限りがあることは、こんなあからさまな椅子に座らされずとも知っている。彼女はずっと、家の食卓に座っている時から、…ずっと、そう言われて生きてきたのだから。血のつながった他人の采配一つで食事を、寝床を、居場所を奪われるお前は、一体何のために生まれてきたの、と。

 ──だから、そう言われた時には、脅迫された時には、ただその時自分に出来ることを、自分の生きる意味を探しているしかない。それは大層なものでなくていい。むしろ、そうやって他人に己の意味を求めるのでは、自分として生きていることはできない。例えば、まだ息をしていたいとか、ただこの空腹を満たしたいとか、そういう生命体的な感覚だ。あるいは。まだ自分はこの人の傍にいたいと思っているとか、その人を悲しませるようなことはしたくないという、身の内から湧いてくる思考体的な感情だ。

 そうやって、自分を壊さずにいれば、脅迫の先のものは見えてくるはずだった。きっと、甘夏と春㫤が探している、彼らのどちらも苦しまなくていい道だって。

 …少女は、白い線のくじらが泳ぐ、春㫤のパーカーをすこし、引いた。

「…先輩。続き、しましょう。私に、先輩たちのこと教えてください」

 私も、ふたりのことを考えたいので、と淡い唇が言う。

 今、少女がしたいと思っているのはそういうことだった。まずは目の前のものを知りたい。それから自分のことを。そうすれば彼らのために何ができるかを考えられるはずだ。

 先に思考を切り替えたのは甘夏だった。彼は少し恥じるように口元に手をやって、息を吐く。

「…春㫤。怒ったりしてないから。…動揺させてごめん」

 生駒の傍の青年は、細い息を漏らした。彼はふらりと身を起こして、何の感情も浮かんでいない顔で甘夏を見る。ぱちり、とガラス玉のような瞳が、友人の表情を自分の中に映すようにして、本当に怒りの色を見つけられないことに気づいたらしい。彼はほっと表情を緩めた。

「…びっくりした」

「……なるほど。びっくりしてたんですか、先輩」

「あと、どうすればいいかわからなくて」

 少女は頷いた。大衆的な思考回路からすると、春㫤の行動は怯えにも見えたが、本人の感覚としては驚きと困惑だったらしい。それから、何かの板挟み、だろうか。

「でも…うん、うん。大丈夫。…生駒」

「はい」

「傍にいてくれてありがと」

「…はい」

 彼女はそっとわらった。この人は何かを貸したとか借りたとか、そういうことは気にしない人なのだ。ただ、与えられたものに報いようとしてくれる人だった。勿論生駒も、その報いがほしくてやっているのではないけれど。

 ちゃぶ台の方へ戻っていった彼は、トマトの入ったボウルを引き寄せる。何を見せてくれるのだろう、と少女は机に腕をのせた。

「…何から見せればいいと思う?」

「鼠からじゃない?」

 なるほど、と春㫤は頷いて、左手のトマトを、それから空の右手を生駒に見せる。

「何もないよな」

「ないですね」

 見たままを答えると、彼はふふ、と笑って、右手をく、と握った。──次に開かれたそのてのひらには、透明な、ダイヤモンドの子ネズミがのっていた。それはひくひくと鼻先を震わせている。まるで生きているかのように。

「……き、れい、ですね…?」

「だよな。可愛いし」

「触れるよ」

 そう言いながら、甘夏の指先が子ネズミのあたまをうりうりと揺らす。きゅー、とそのちいさい生き物がされるがままになっているのを見て、触りたい、と少女も春㫤を伺う。いいぞ! と青年は快諾した。

 鼠はどこを触られるのが気持ちいいのだろう。なんにせよまずは挨拶だろうか、とその小さなてを指ですくう。てち、とひんやりとした両手がおかれるのを感じて、少女の口から思わず、か、かわいい…と音が漏れた。

「な、なんで、こんな…可愛い……」

「生駒のIQが…」

「溶けてるね…」

 でも可愛いだけじゃないぞ、と春㫤がちょっと右手を上げる。甘夏と向日は大人しく手を引いた。

 彼は、トマトの上に透明な小動物をのせる。

「ほい。3、2、1──」

 とぷん、とそれは赤い果肉の中へ溶けて消えた。まるで沁み込むように。

「あ、え…?」

 春㫤がトマトを振って見せる。何かが滴ってきたりはしない。振り落とされるようなことも。そうして見せてから、彼は困惑する生駒の手にそれをのせた。

「なつー、包丁」

「どうぞ」

「ありがと」

 それじゃあ、真ん中空けて両手で持ってくれるか? といつもの声が言う。は、はあ、と少女は従うしかない。

「切れ味いいかな…」

「この前研いだから綺麗に切れると思うけど」

「さすがぁ、なつ」

 そのまま彼は、下はまな板ではなくて、シンクでもなくて、ちゃぶ台だということも気にせずにさっくりと果肉に刃物を入れた。何も滴りはしなかった。…この、野菜は、かなり水気が多かったはずだと、少女はふたつに断たれたそれの断面を見る。何か、透明で、艶めく膜のようなものがそこには煌めいていた。

 まったく汁の付着していない包丁を卓上に置いて、春㫤が少女の手から赤を持ち上げる。彼はそれを、またぶんぶんと振った。やはり何も、雫が、中身が飛んだりはしなかった。

「こんな感じ。細胞…体組成? の保存…? みたいな」

 だから、元にも戻せるよ、といいながら春㫤が切ったトマトをかみ合わせる。切断されたことを示す線が、すう、と閉じていくのを少女はただ見つめていた。

「こ、れは…」

「医学の敗北だね」

「そんなことないだろ。俺にできるのは現状の保存だけ。病気はよくわからないんだよな」

「…それってどう違うの? 感覚的に」

「なんか…ごちゃごちゃの糸はそれ以上絡まないように、動かさないようにできるけど、解き方はわかんないって感じ」

 ふう、ん…? と甘夏は口元に手をやった。春㫤がへたを摘まんで、赤い果肉をボウルの上へ持っていく。

「それじゃ、続き。さっきのは攻撃にはならないから」

 特に、彼が指先に力を入れたわけでもなかった。ただ、ぷしゅう、と萎むように、薄皮の内側からどろどろと中身だけがボウルへと零れ落ちていく。それはまるで、毛穴から、血と肉と膿のような細胞液と、液状化した骨が、どぱりと押し出されるようだった。

 春㫤の指先には、乾いたへたと果肉の一番外の薄皮だけがぶら下がっている。最後の一滴が落ちるのを見守ってから、透明度の高い瞳が生駒を見た。

「こんな感じ。保存するときには中の流れを多少弄ってるわけだから、それを全部外に出す方向にするとこうなるってわけ」

「と、とおの、せんぱい」

「うん。結構恐ろしいこと言ってるけど、大丈夫。まず間違いなくまともな生き物にこんなことしたりしないから、春㫤は」

「…いや、怖いこと言ってるのお前じゃないか? そんなことするわけないだろ…」

 春㫤がただただ困惑を浮かべているのを見て、甘夏は、ね、と生駒に視線を返した。

「それに、こんなことしても獲物には意味無いしな。中身出しても、溶かしてもすぐにむくむく元通りだし」

「…な、んですか、その生き物は…?」

「なんだろ…。なんか肉を継ぎ接ぎした動物みたいな見た目だけど」

 ああ…と銀色の青年が目元を手で覆った。

「…生駒ちゃんスプラッタ映画大丈夫?」

「見ようとも思いません…リアルなのはちょっと…」

「……春㫤、一人で頑張れる?」

 心臓が…、と黄金の青年は少し苦しそうに目を細めた。

「…例えば、呼ばれた場所が建物の中とか、山の中なら」

 身動き取れなくするまではできる、と彼は言う。

「でも、そのあと身体から心臓出すのは、結構難しいよ。腕で届くくらいの大きさならいいけど、大体もっとおっきいし、動くし…」

「……なる、ほど。狩り、ですね…」

 ということは、自分が何かその身体を裂くようなことをする必要があるのだろうか。少女は、ワンピースをまとった自分の身体を見やった。体力も運動神経もほとんど無い方だ。できれば甘夏のように、何か遠目からできるようなことがあれば性に合っているのだけど、と少女は眉を下げる。

「…あの。遠能先輩は途中からでもこれたり…しないんでしょうか…」

「俺もそうしたいんだけど、狩り場に呼ばれるときは見つけられないんだよね」

 それ以外だったらどこにいても見つけてあげられるんだけど、と彼は呟いた。見つけられない、という言葉を、生駒は脳裏でなぞる。

「…先輩は、どうやって人を見つけるんですか」

「──多分、物体内の電子パターン」

 ふ、と花を開くように、天井へ向けて開かれた彼の右手の上に、黒く薄い円盤が現れる。それは昨夜見た、彼のCaratの室内と同じ色をしていた。

 彼が灰青の瞳を円盤に向けると、ぱっぱ、と白い光が三点宙に浮かぶ。

「奥が生駒ちゃん。その隣が春㫤で、手前が俺」

「私には全部同じに見えますけど…、先輩には違いがわかるんですね」

「そういうこと。俺には全然違うものに見えるし」

 その言葉は…少女の心を酷くくすぐった。同じはずのものが、人によって全く違うものに見えている状態というのは。そういう時はいつも、その人には何が見えているのだろうと心が躍る。

 甘夏はその無邪気な色に、仕方なさげに口元を緩めた。

「今はこうやって捕捉できてるけど、狩り場にいる間は見えなく…なるんだよね。俺たちだけ。周囲のもののパターンは出せるんだけど」

 少女は頷いた。だから甘夏は、春㫤と生駒のことも見つけられないだろうと言っているのだ。

 春㫤が横から手を伸ばして、彼を示す光を掴もうとする。しかしそれは実体ではないのか、あるいは人の手に掴めるものではないのか、その肉をすり抜けた。青年自身もそれで何かが害されるわけではないらしい。彼は、何も掴めなかった自分の手を握って、開いている。

 甘夏はそれを見て、俺には掴めるよとでもいうように、春㫤の光を指先に転がした。少女はぱっと、きんいろの青年を見た。

「だ、大丈夫ですか?」

「え? ああ、今はなんとも」

「…ふふ。何もしないよ。何か見たかったらするけど」

 ──その言い方は、ずるい。見たい、と向日は思った。でもそのためには彼に強請る形をとらないといけないらしい。ほら、と甘夏が少女に光を翳して見せる。

「くっ…先輩……見せて、下さい」

「いいよ。…まともな羞恥心持ってる人と話すの楽しいね」

「……しっぺ返しは霞川先輩から受けるといいです」

「あー…、もうちょっと受けたんだけど。返ってくるのが早」

「何? 俺、なつのこと引っぱたけばいいのか?」

「──ちょっと、来ないで。いやなんでそんな生駒ちゃんに従順なの?」

 少女はにっこり笑って見せた。

「それは私が先輩にいじわるしないからですよ、ね、遠能先輩」

 …はい、と甘夏は瞑目した。

「…俺が悪かったです。…分も悪いし…」

 ひとつ、息をついて、彼は春㫤に尋ねた。

「お前の視界借りてもいい? 生駒ちゃんに繋いで見せてあげたいから」

「いいぞ。目だけ?」

「目だけ。生駒ちゃんの方見てて」

 さて、と甘夏が少女を見る。

「今から春㫤の視界で君の視界をジャックするけど、それ以外の感覚は弄らないから。だから、やめてって言えるし、そしたら俺もすぐに止める。そうじゃなくても繋ぐのは十秒くらいだけど。…大丈夫?」

「…ちょっとよくわからないんですが、大丈夫…だと思います」

「OK. ちゃんと止めろって言うんだよ」

 そういうところは丁寧なのに、浅い加虐心は抑えられないらしい。いや、浅いからだろうか、と思いながら少女は、甘夏が光をふたつ、手の中でかけ合わせるのを見ていた。

 ぱちりと、自分のものではない瞬きが視界を遮った。あれ、と少女は何度か瞬きして、──そうして、目元に手をやる自分の姿を見ていた。手のひらには自分の頬の感触がある、しかし視点が違う。胸元と足ではなくて、困惑する全身が見えている。

「生駒、何か見たいものある?」

 春㫤の声は前方から聞こえた。そこに彼はいるはずだ。今そこに見えるのは自分だけれど。

「──っ、め、目を、つむってください、ほうこう、が」

 少女は自分の目を覆いながら言った。しかし何も、何も映像が消えてくれなくて、あ、ああ、と不穏な音が喉から洩れる。その瞬間、視界は暗く閉ざされた。それが、春㫤が瞼を閉じたからなのか、自分の目蓋が閉じているからなのかわからない。ただ、恐ろしくて視界を開けずに身を固めていると、甘夏に声を掛けられる。

「…戻したよ。大丈夫、ちゃんと見えるから」

「……けっこう怖い、ものですね」

「…だね。他人ひとにされてるから、それも怖かったかも。…大丈夫?」

 黒い瞳が瞬いて、それから小さく、何度か頷く。

「びっくりしました…今のは、何だったんです…?」

「二人の神経の距離、無くしてたの。概念的にだけど」

「また…突拍子もないことを……なる、ほど…」

「そんな感じだったのか…」

 え? と生駒は春㫤を見た。

「先輩、知らなかったんですか?」

「まあ…なつも自分がしてること、よくわかってなかったんじゃないか? 俺も別に何されても構わないし」

「それは構って。人の倫理に委ねないで…」

 春㫤は、なんで? と尋ねようとして、先ほどの会話を思い出したのか、口をつぐむ。そのある種の無表情からするに、不味いことを聞きそうになったというよりは、なつがさっきと似た顔をしている、という判断の仕方を彼はしているようだった。

 少女は、春㫤が、「何故他人の倫理に自分を委ねてはいけないのか知りたがっている」という部分だけを、記憶に留めるように瞬く。それは、彼が彼のために知りたがっていることだという気がした。ただ今はまだ、自分が踏み込むときではない。少女の中にも。「何故他人の倫理に己を委ねてはいけないのか」という命題の答えが、まだないのだ。

 それは何故か? 単に、他人への依存を止めろということなのだろうか。自分の頭で考えろと? そうでなくては自分を守ることが出来ない、他人の倫理に蔑ろにされてしまうぞ、と?

 ──わからない。しかし、人を──たとえその人のためであったとしても──暴くときには、自分がなんらかの答えを持っていなくてはいけないと、生駒は思っていた。でなければ、彼は他人と自分の齟齬に気づくことができないし、少女も、彼の魂に真に相応しい言葉を見つけられない。

 そもそも、春㫤が、どういう状態でそう言っているのかという前提条件も、彼女はまだ知らなかった。彼が今まで、何を考えて、どういう風に生きてきたのかということだ。それはきっと、彼の命題に通じているはずだった。

 だから今は。その問いを脳裏に刻むに留めて、元の話題を続ける。

「…遠能先輩。今のは概念的な距離、みたいですけど…昨夜のは物理的な距離、でしたよね」

「そう。…物分かりが良すぎない?」

「だといいんですが…」

 生駒は卓上に視線を落としながら、応えた。褒められるのは嬉しい。でも同時に、弾むような気持ちは抑えておかなくては、足元を掬われてしまう。

 甘夏はくるりと、人差指で宙の円盤を回した。

「こっちで概念距離、部屋の方だと物理距離を弄れるの。俺も最初にあの部屋に放り込まれた時にはさっぱり意味がわからなかったけど」

「はい…よくここまで。先輩も相当ですよ」

「…どうも」

 すごいと表現すればいいのか、賢いと表現していいのかわからなくて選んだ言葉だったのだけど、甘夏には齟齬なく伝わったようだった。

「それじゃあ、俺たちの基本的なとこは話したから。次は生駒ちゃんの番」

 彼の指先が円盤をスワイプするように弾く。真空のような黒が跡形もなく消えた。少女は、自分の番、と胸元を手で押さえる。

「…どうすればいいんですか?」

「そうだな…何か形にできるなってものが身体の中にない? 今までは出来なかったけど、今は出来るなって感じる、一見笑っちゃうくらい突拍子もないこと」

 そう言う灰青の瞳に、淡い好奇心が煌めくのを、生駒は見た。



 ──端的に言えば、何もなかった。

 いつもより鼻が鋭くなっているわけでもないし、腕力とか、脚力だとかが強くなっている感じもしない。自分の体感覚や感情のかたちを掴むのは得意なはずなのだ。だから何か、この身の内に昨日までとは違うものがあるのだとしたら、自分は間違いなく気づけると思っていた。

 しかし何もない。いつもの自分の身体だ。甘夏のように何か部屋のようなものを組み立てられたりはしないだろうかと、その骨格を探してみても、手は空をかくだけだった。ある種当然のことではある。そうしながら、自分は、何かをつくりたいわけではないらしい、ということだけは感じられた。

 少女が困惑しながら、その肢体をぺたぺたと確かめているのを、青年二人がなんとも言えない表情で見守っている。やがて、生駒はもう一度、甘夏と春㫤に尋ねた。どうすればいいんですか、と。

「…どうすれば、いいんだろう。…ええと、最初ってどうやったかな…」

「うーん…そうしないとって思った時にはそうしてたからなぁ…」

「かすみがわ、せんぱい……」

「…生駒ちゃんが参考にならないってさ」

 そうするも何も、人間以上の何ができるというのか? と思っているのだ、少女は。しかし多分、どんなことにもヒントは隠れているはずだった。生駒は、春㫤の言葉を脳内で反芻はんすうする。

「…その、先輩は、何をしないとって思ったんですか?」

「──なつに、悲しまないで欲しいと思って」

 …ああ、と甘夏が思い出すのも恥ずかしいという面持ちで頭を抱えた。それ以上は言わなくていい、という顔と、後輩のために必要な話かもしれない、という複雑な表情だ。

「俺はこうなったこと、特に悪いとは思ってないんだよな。でも、なつは違うみたいだったから。大丈夫だぞって言いたくて…そうだ、かわいい鼠が出せるって思ったんだ」

「なんでそうなるの……? むしろ部屋中鼠まみれにされて困惑したんだけど…」

 その言葉に、春㫤はぱっと表情を明るくする。

「悲しくなくなったってことか?」

「…まあ、そういうのは吹っ飛ばされた、かも」

 吸った息を止めて、黄金の青年はこの喜びをずっと留めておきたいとでもいうように、瞬きした。でも彼のそれはすぐに喉からこぼれてしまって、それならそれで構わないらしい、春㫤は幸せそうに笑う。

 それから彼はやったぁ、と生駒にハグを求めた。中型犬相当の重さを受け止めながら、少女も笑う。

「遠能先輩は?」

「俺は…最初に融合してからすぐ、──自分のこと隔離しないとって思ったんだよね」

 とにかく何処でもいいから誰もいない場所へ行きたいと思って、そこへ落ちたのだと。

 その声も、瞳も淡々としていた。少女は、首元の春㫤の腕を抱いたまま、隔離、と呟く。

「そ。レイさんと癒合させられた時の衝動が…耐えられなくて。俺は人のこと壊したくないのに、壊したがってる自分がいるっていうか」

 壊したい、と表現しながら、彼はそれが真に自分の感覚を表す言葉だとは思っていないように、視線を二人ではない場所へ向けていた。それは彼の柔い部分を守るためでもあったかもしれないけれど、人を怖がらせたくなくてその言葉を選んでいるようにも見える。

 壊す、よりも彼が歪だと思っていることは何だろう、と少女は思った。

「ってことは、何か形に出来るものがあるっていうよりは──何か、したいことがある、の方が適切なのかな」

「…えっ?」

「君のCaratがどうすれば発現できるかって話だよ。…別のこと考えてたでしょ」

「えっと…は、い。少し…」

 したいことかー、と頭に春㫤の顎をのせられる。

「何かある? 生駒」

「何でしょう…今は特に何も…」

「まあ…平和だもんね。…だからかな」

 そんな気がしてきた、と甘夏は頷いた。

「それじゃあ…今夜は春㫤に頑張ってもらおう。何かのはずみに生駒ちゃんのCaratも見つかるかもしれないし」

 はーい、と暢気な返事があたまの上からして、少女は何とも言えない表情を浮かべる。

 この腕の中も、彼らとの会話もただひたすら穏やかで優しい。しかし、この温度に報いられるものを、自分は見つけられるだろうか。持っている、だろうか。今夜は春㫤に頼るしかないのだとしても、このままずっとそうしていたいとは思わない。そういう風に、人に自分の命を全て預けているのは恐ろしかったし、そういう生き方をしたくはなかった。…でも。

「──あの、何も……なかったら、どうしましょう」

 …ここにはいられなくなるだろうか。自分がただの人間だったら。少し耳の位置と形がおかしくて、尻尾が増えただけの生き物だったら。

「どうも…しないんじゃないか?」

 違うっけ、と春㫤があたまの上で首を傾げる。

 少女の肩を抱える腕も、彼の声も、さっきから少しも、変わりはしない。

「生駒のCaratが見つかっても、見つからなくても、傍にいる。だよなっ、なつ?」

「…結構、恥ずかしい言い方してるけど、まあ…俺も同じ気持ち」

 利害関係よりは友達って表現の方がずっと好きだし、と甘夏はそっと、しかし確かな重さをこめた言葉を落とした。

 その音を、信じられる自分でいたいと、少女は思った。

 だから、伏せていた視線を上げて甘夏を見る。彼もおそらく、友人という概念が、時に他人から利害だと揺さぶられる瞬間があることを、知っている。それでも、損得だけではないと感じる自分のこころを信じているのだ。

 少女は、そういう人を支えていたいと思う、生き物だった。

「…はい。探し物は…得意なはずです。──できるだけ頑張ってみます」

 その瞳の色を認めるように、甘夏は頷いた。

「俺の方は…そうだな。夜が明けても音沙汰が無かったら、虱潰しにでも探し出してあげるから」

 その時は、春㫤と二人で頑張って待っててくれる? と青年は少女に言う。

 …誰かに、苦痛の中から助け出して見せると、約束されたのは初めてだった。本当に、何でもない言葉だ。でも、甘夏が口から吐いたそれは決して、軽くはない。少女が鼻で嗤ってしまえない、そんなことをしようとは欠片も思えない、温度をしている。

 彼女は、唾を飲んだ。それから小さく頷く。

「……はい、頑張れます」

「OK. 春㫤、生駒ちゃんが痛くないように気にかけてあげて」

「もちろん」

「ん。お前も無茶しないようにね」

 背に触れた身体から、くすぐったそうに笑う震えが伝わってくる。

「それじゃ、今日は終わり。何か言っておきたいことがある人?」

 少女と春㫤は首を振った。俺もない、と言いながら、甘夏は自分の背後に黒い扉を開く。

「融合ついでに家まで送るよ。構わない?」

「はい、助かります。電車の本数、少ないので…」

「それは…確かに。一時間に一本だしね」

 だからといってそんなに困ることも、少女にはないのだけど。彼女は少し目を細めて、後ろ手に春㫤のふわふわの頭をつかまえる。それを、ゴールデンレトリバーの毛並みを愛でるようにわしゃわしゃと撫でてから、抱擁から解放してほしいな、とそっと身体を前へやった。彼は意思を取り違えずに、ぱ、と腕を解く。

「霞川先輩は、時間まで何をしてすごすんですか?」

「うーん、寝てるかなぁ。あとは家事」

「偉いですね。…私も寝てようかな」

 少女は立ち上がって、腰に巻いたチェックシャツの裾をなおした。

「それじゃあ、先輩。また夜に」

 畳の上の彼に手を振ると、んー! と手を振り返される。生駒は、バッグを肩にかけながら笑った。そうして黒い扉に向かいかけた足が、あ、と止まる。

「…スニーカー」

 忘れてた、と甘夏が手を打った。


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