第3話

 大木のごとき巨体の男は、険しい目を泳がせながらぼんやりと呟く。

「何処だ、ここ?」

 蓮に気遣わせないよう、葵はこっそりと山を下りたのだが、見つけられないように遠くへと足を向けすぎて、己の住処の場所どころか、ここか何処なのかも分からなくなったと気づいたところだった。

 山を下りてから二度目の夜が来るのは、何とか数えていたから、そこまで遠くには来ていないはずだ。

 少なくとも、島国を出てはいない。

 何とかそう気を奮い立たせ、葵は前を向いて歩き出す。

 まだちらほらと人が歩いている時分は、下手な動きをしてはいけないと、長年の経験で分かっている。

 例え道を尋ねる為の声掛けでも、見下ろす大男の険しい目は、女子供どころか男すらもはだしで逃げ出させてしまう。

 いや、逃げるだけならいいが、妖物や化け物と言われて大勢で追いかけられてしまう事もあるので、特に暗くなる時分はどんなに心細くても、人に話しかけないと決めていた。

 だが、そう分かっていても寂しいのは好きではない葵にとっては、苦行だった。

 出来るだけ、不安を顔に出さないようにしながらゆっくりと足を歩め、せめてこれ以上住処から遠ざからないように心掛けながら、夜が更けきるのを待っていた。

 人通りが完全に無くなり、薄く欠けた月が輝き始めた頃、葵はようやく足を速めてどことも知れない山に登った。

 頂上まで一気に登り、更にその上にそびえる大木の頂に立つ。

 母親を弔った五輪塔は、方角が分かるような仕掛けがあるようだが、見方を教わっても住処以外で迷っては、役に立たない上にそもそも住処が五輪塔のどちらにあるのかも、いまいち分かっていないから、墓としか思っていない。

 だから、一人の時に戻ろうと思うのなら、こうして高い場所から見下ろして探すしか手はないのだった。

 まだ早いかとも思うが、自分の心細さが限界に近い。

 こういう時は、怒られるのを覚悟して戻った方が、逆に蓮も元気になるかもしれない。

 自分で逃げるように山を下りた癖に、そんな勝手な事を思いながら、葵は住処の山の場所を探した。

 そして、首を傾げた。

 今は自分と蓮しかいない住処が、妙に赤々と明るい。

葵は、不意に気になった。

いつもならまだしも、今の蓮がうまくあしらえるだろうか。

賊ならば簡単にあしらって、鬱憤も吹き飛ぶかも知れないが、近くの村の衆の山狩りだったら……。

少し前に、山腹の辺りで女が男に手籠めにされそうになっていたのを、助けた事があったのだ。

山に近い村の者達だったから、自分を目当てに山狩りを決めたのかもしれない。

燃えるような明るさではないのが気になるが、兎に角早く帰ろうと、葵は一気に山を駆け下りた。

全く別な驚きで、朝まで動けなくなるのは、その僅か一刻後だった。


 これはもう無理だと、蓮は天井を見つめながら思った。

 昨夜、微笑んだセイを抱きしめた腕は、そのまま離せなかった。

 一気に熱を帯びた体を持て余し、その全てをぶつけてしまった。

 そんな頭で、寝床にまで行けたのが不思議な位だ。

 時々、我に返っては女のぬくもりを感じ、その幸せな時を噛み締めながら、他愛ない話や昔の話をぽつりぽつりと話し、再び我慢が切れて溺れるという事を、朝の気配が訪れる今迄繰り返していた。

 隣で寝息を立てる女の頭に腕を明け渡したまま、蓮は思う。

「帰したくねえ」

 それは既に、切実すぎる願いになっていた。

 今日の夕方には、祖父であるカスミが迎えに来る。

 それまでにどうにか、この女を隠せないだろうか。

 興奮の余韻が残った頭で、混乱気味なまま悩みながら、そっと身を起こした蓮は、それまで気づかなかった。

 狭い小屋の中に、もう一つの気配がある事に。

 思いのほか大きな気配を感じ、飛び起きて身構えた若者は、戸口傍の土間に立ち尽くす人影を見つけた。

 思わず、音を立てて息を呑んでしまう。

 その緊迫した気配に、セイも敏感に目を覚ました。

 目を上げた先にある蓮の表情で、切羽詰まった様子はあるが、殺意を感じるほどではないと察したらしいが、心なし引き攣った顔が気になったらしい。

もぞもぞと起き上がろうとする頭を抑え、無言で首を振って夜具を被せる。

「どうしたんだ?」

「い、いや……」

 何とか誤魔化したいのだが、こんな事態を想像していなかった若者は、恐ろしく歯切れが悪い。

 頭の中も真っ白になっている蓮を見上げ、セイは何とか夜具の隙間から目だけをそちらに向けた。

 引き戸の前に、大きな男が立ち尽くしていた。

 それが見覚えのある男だと気づき、飛び起きる。

「あ、葵さんっ?」

「こらっ、被ってろっっ」

 身を起こしたセイに夜具を頭から被せながら、蓮が喚く。

「いや、でも……」

「いいから、こんな姿見せちまったら……」

 焦る若者の声に、大きな音が重なった。

 振り返ると、立ち尽くしていた男が、土間に腰を落としたところだった。

 目を見張るセイを見つめ、大男は呆然と呼びかけた。

「何で、お前がここに?」

 混乱しているのが丸分かりの、掠れた声だ。

「船が出るのも、見送って来たんだぞ? 何で……」

「あ、これには、色々と……」

「それに、何で、蓮と……」

「っ」

 呆然と口走る葵の言葉で、蓮がようやく我に返った。

 焦っているセイを夜具ごと引き起こし、縁側の方から外に出す。

「目が覚めて気が落ち着くまで、水に浸かってろっ」

 昨日の朝と同じだった。

 気まずさだけの昨日とは違い、色々な危機も感じての動きだったが、セイも見た目以上に混乱していたのか、すぐに滝の方へと走り出した。

 呆然と座り込んだままの葵が、その後姿を見送っている間に、蓮も素早く衣服を身につけ、大男の傍に駆け寄る。

「お前、何処に行ってたんだっ? 探した時は見つからなかったくせに、どうしてこんな……」

 こんな、まずい場に戻って来たのか。

 我に返りはしたが、混乱は消えてくれない。

「い、いつ戻ったんだっ? 昨夜の内かっ?」

 仁王立ちする若者を見上げ、呆然としたままの葵は深く頷いた。

「火が、ついてるのが見えて、可笑しいと戻って来たら、お前が……山に、登っていくのが見えて」

 それについて戻ったら、そこに女がいた。

 見慣れた顔をした女だったので混乱してしまい、そのまま蓮との会話を聞いていたのだが、どうも湿った雰囲気が漂い始め、邪魔しちゃ悪いと思いつつも気づかれると動かなかったら、二人が奥に行ってくれた。

「これ以上迷うのもなんだし、どうしてセイがここにいるのかも気になったんで、こっそりと家の中に入ったら、もう凄い事になってたもんで、今迄動けなかったんだよ……」

 膝から崩れ落ちて、頭を抱え込んだ若者を見つめ、葵がぼんやりと言った。

「米はあるよな? 小豆は? あったっけ?」

「どちらもあるが、小豆を何に使うんだよ?」

「いや、一緒に炊こうかと……」

「下準備なしで炊いても、小豆が固くなりすぎちまうぞ」

「そ、そうか」

 一部始終見られていたと知った蓮は混乱しながらも、ぼんやりと尋ねる葵に正しく答える。

「赤い飯を食わせてやりたいと思ったんだが、ちと朝飯には難しいか」

「赤い飯? 色染めるなら、赤紫蘇でいいんじゃねえのか? 壺の中の梅干しを炊き立てに混ぜても、赤くなるだろ」

「そうだな。よし、そうしよう」

 ようやく、葵の声がはっきりとした。

 改まった声で、若者に呼び掛ける。

「蓮」

「……何だ?」

 腹をくくって顔を上げた蓮は、真剣な大男の眼差しを受けた。

「おめでとう。あいつと所帯を持つんだな?」

「……あ?」

 目を瞬く若者を前に、葵は涙目になっていた。

「お前も苦労してるんだしよ、もう幸せになってもいい頃だと思ってたんだよ。その相手がセイだってのが驚きだが、あいつも、めんこい奴だし気立てもいいから、似合いだぜ」

「あ、葵?」

「こうなりゃ今日は、出来る限りの御馳走を作らねえとなっ。腕を振るうぜっ」

 その前に、床の間の片づけだと、葵は土間から床の間に駆けのぼった。

 蓮が固まったまま見送った先で、葵は敷布を引っ張り上げた。

 そして、悲鳴を上げた。

「っっ、腕があっっ?」

 狭い小屋の中に響き渡る太い声に、蓮は思い出していた。

 初めの夜に、柔らかい体の中に固いものがあるのが邪魔で、セイの義手を両方取っ払っていたことを。


 それは、本当に一部始終だった。

 だが、葵にはそれを、声高に言えない理由がある。

 あの時、久し振りに住処に戻った安堵のせいとはいえ、情事の真っ最中に家内に入ってしまったからだ。

 だが、同時に不思議だった。

 あの時確かに、蓮の祖父であるカスミは、気配すらなかった。

 なのになぜ、こんなに生々しい会話と風景を、台本に立ち上げられたのだろうか。

 義父母が営む喫茶店で、現役の役者と引退した二人の役者が、ある日の目を見る事がなかった台本を、キャラになり切って読み合わせている中、葵は生きた銅像化していた。

 少し前の話で、一人の若者が真っ白になっているが、他の客はその話に飲み込まれながらも楽しんでいる。

 こんな所で、葵一人が動揺をして、墓穴を掘るわけにはいかなかったのだ。

 あの会合の後、真面目に台本を全て読んだエンは、凄みのある笑顔で言い切った。

「これは、早く処分してもらった方が、いいです」

 葵も、ちらっと読んだあの文面だけで、そう感じた。

 これは、世に出してはならない。

 出したら、少なくとも蓮が、立ち直れなくなる。

 ごく最近、蓮はとある狐に弄ばれた。

 その時、心底反省したらしいのだ。

 あの時の自分は、子供だったセイに対して、とんでもない悪党だったと。

「合意らしい合意もなく、オレ自身の欲求の為に、あいつを襲っちまったんだ」

 しかもと、若者は顔を引き攣らせて言った。

蘇芳すおうをあいつと思い込んですり寄られた時、興奮した。オレは、あいつに、襲われたいという願望があると、分かっちまったんだ」

 それはないだろうと思うのだが、あの件で蓮は改めて、セイをそう言う目で見ないと心に決めたらしい。

 セイがその素振りを見せればその限りではないだろうが、これまでの様子からは難しそうだし、この話題は早めに封印した方がいいと、その為にはこの読み合わせで反応せずにやり過ごすのがいいと、葵は表情も固めたまま、黙って聞き入った。

 実際、やり過ごせたと思っていた。

 まさかその話題を、数年後に掘り起こされるとは、思わなかった。

 忙しい年末年始を終え、余り接点のない伯母や娘が巻き込まれた事件が落ち着いた頃、同僚と共にセイが住処にしている山の家を訪ねた葵は、あの時の読み合わせの時にいた女に、不意に問われた。

「そう言えば、訊こう訊こうと思ってたんだけど……」

 優しい声音に目を上げた葵に、みやびがそのまま尋ねた。

「赤飯で祝い事する風習って、そんなに昔からあったかな?」

「へ?」

 話が見えずに間抜けな声を出す葵に、女は優しく続ける。

「ほら、前にライラさん達が、どこかで没になった映画の台本を、読み合わせてくれただろ? あれ、実話だよね?」

 接客をしていたエンが、湯飲みを置く手を止めて、葵を見た。

「葵さん、あれ、処分したんじゃあ……」

 引き攣らせた顔を見返し、無言で何度も頷いて見せた。

 驚きで声が出ない葵の横で、同僚が首を傾げている。

 その前で雅も首を傾げながら、優しく尋ねた。

「あの話の一つ、蓮とあの子の事、だよね?」

「……」

「小豆よりも、米の方が少ない時勢だったから、赤飯なんて贅沢なもの、まだ地域では本当に裕福な所の祝い事でしか、見られなかったはずだよね? どうして、赤飯を炊くという考えが浮かんだのかなって、そこがずっと引っかかってたんだ」

「……引っかかるところが、そこですか」

 力のないエンの声が、呟いた。

「というか、あそこ、作り話じゃなかったんですか」

「……一語一句、正しかった」

「オレはそれを、あなたが知っている事の方が、気になったんですが」

 それを突っ込まれたくなかった葵が深く詰まる代わりに、突っ込んだ事を言ったエンが、力のない声で説明した。

「確か、蓮の前の主と言う人の殿が、赤い物で縁起を担ぐ人だったそうですから、祝い事から赤い食べ物を連想したんじゃないですか? 梅干を混ぜた握り飯を土産に戻って来た時は、何事かと思ってたんですが、そう言う意味だったんですか」

「……どうしても戻るって、言うもんだから、土産に持たせたんだ。少し成長するぐらい、変わらねえのに」

「戻る約束も、してましたからね。申し訳ないです」

 少しも申し訳ないとは思っていない、そんな軽い謝罪だ。

 低く唸る葵の前で、雅は一応頷いて見せてから天井を仰ぐ。

 読んでもらった台本の内容を、思い出そうとしているようだ。

「……あの話とあの話が繋がってるとしたら、あの話のペンダントは蓮が持ってる奴だね?」

「ええ」

「そうか、私は、もっと浅い関係の話だと思ってたんだ。初心な二人の、色恋のほろ苦いお話。だから、あの時、君の表情が気になったけど、まさかそこまで本当じゃないだろうって、そう思いこもうとしてたんだ」

「……」

 リアルすぎる描写も、疑う理由の一つだったが、それでも台本の話は殆ど作り話だと、そう思っていた。

 だが、赤飯を炊こうと思い立つほど、葵が動揺するという事は。

「その動揺の仕方も、可笑しくないか?」

 こっそりと、葵の同僚がエンに呟くが、そんな事に構わず雅は真顔で言った。

「紛う事なく、完全にしっぽりと、出来上がってたんだね?」

「……それを、葵さんは一部始終、立ったまま見てしまった、と」

「それは、忘れてくれ」

 茶化すでもない真顔の付け加えには、葵も流石に反応する。

 そして、先の女の確認には大きく頷いた。

「なのに、再会はあの程度だったって事? 何で?」

 再会の場を目撃していた雅の、真剣な疑問だった。

 だが、それは葵も一緒だった。

「しかもあの子、過去の事ってはっきり言い切ってるんだよっ? 何で?」

「……実際、過去ですからね」

 したり顔で頷くエンを睨み、雅はつい肘鉄を繰り出したが、その肘は右手で受け止められてしまう。

 悔しそうに睨む女に、困ったように笑顔を見せながら、エンが言う。

「第三者たちが悶々しても、仕方がない話ですよ」

「そうだけど、これを思い出したら、余計に蓮が不憫で……」

 言いたい気持ちは分かるが、そっとしておいてやるのも、第三者の傍観者としては必要だ。

 だからこそ、雅と鏡月きょうげつに事情を話す時、色々と話をぼかしたのだ。

 ここに来て、公になるとは。

「……キョウさんは、あの話より前に何だか様子がおかしくなって、聞いてなかったみたいだったから、君の話と随分違うというのは、気づかなかったと思う」

 というより、あの話が蓮の過去話だと、分かりもしなかっただろう。

 だが、恐らくはあの現場で、思った以上に名優だった者たちによる読み合わせで、その話を聞いてしまった蓮は、相当の衝撃だったに違いない。

「……あの事件が収まった後、オキが言ってたんですが、キョウさんも蓮も、完全に役どころを忘れて、取り乱してたそうですよ。そんななか、セイだけが何事かと、無邪気にきょとんとしていたのが、猛烈に可愛かったと。画像で残せない状態だったから、本当に残念だったと、嘆いてました」

「そうか、それは、画像の確保が欲しかったね。三人共」

 脅すためではなく、揶揄うためのネタとして、それは欲しかったと、雅は残念そうだ。

「揶揄いながら、焚き付けるというのも、一つの手ではありますからね」

 エンもしんみりと頷く。

 葵は呆れて、同僚と目を交わした。

 二人同時に上座の方へと視線を流した後、同僚の高野信之たかののぶゆきが切り出した。

「そちらを焚きつける前に、どうにかしなきゃならんカップルが、目の前にいる気がするんですがね」

 前に座る二人が同時に振り返り、不思議そうに首を戻す。

「君、何か視えるんだった?」

「……そう言うボケで、誤魔化さないでくださいよ」

 信之が苦笑しながら返し、溜息を吐いた葵が続ける。

「先に姐御とエンが、いい具合に収まってくれねえ事には、本腰を入れて蓮たちの事には協力できねえんです」

「どうして? 先にあの二人をくっつけても、問題ないだろう?」

 全く狼狽えずに、平然と首を傾げる二人に、正面に座る男たちはすぐさま首を振った。

「問題ありです」

「だから、どうして?」

「そりゃあ、先約があるからです」

 目を瞬いた二人は、こういう時にも息があっている。

 果たして、似た者同士でくっついたとして、長続きするのか。

 そう言う不安はあるのだが、熟年夫婦のような二人だからこそ、似て見えているだけなのだろうと刑事の二人は思っていて、それは今上座に座っている若者も、同じだった。

 葵は目を細めて上座の方を指さしながら、言った。

「姐御たちが再会した後比較的早い時期に、高野たち側近を始めオレ達にも、そいつから相談が来てるんです」

 二人が同時に、小さく声を上げた。

 接客側の二人は忘れていたらしいが、今日二人の刑事がここまで登って来た理由は、事件に関係した若者への、簡単な報告のためだ。

 気配が妙に薄いから仕方がないのだが、最側近の二人が存在を忘れた挙句、当の若者たちの色恋を真剣に話題に乗せるのは、どうなのだろうと呆れてしまった。

「……」

 静かに茶を啜っていたセイは、話が途切れたのを機に顔を上げた。

「もういいのか?」

「あ、ああ」

 気まずい空気で目を泳がせる兄貴分と姉貴分を一瞥し、若者は無感情の目を二人の刑事の方へ向ける。

 無言の促しを受け、二人は交互に事件のその後を簡単に語った。

 一通り報告を受けてい頷いたセイは、黙ってしまったエンと雅を見る。

「……蓮の事は、私も気にはなってるよ」

 弾かれたように顔を上げた二人の顔は、それぞれ別の心境があった。

 期待を乗せる柔らかい表情の雅と、意外そうに顔を強張らせるエンの、対照的な反応だ。

「そうなのか? そうだよね。君も、あの子の事を気にしてるよね」

 意外に成長したのかと安心する女に、セイは無感情に頷いた。

「好きになった人が既婚者じゃあ、色々と段取りがいるだろう? 相手の方は連れ合いの事も大事らしいし、多情な奴だからな。あんたたちと同時進行では、進められないだろう?」

「……どこの既婚者の話?」

 思わず尋ねる雅の前で、葵は頭を抱え込んでしまった。

 ああ、本当にそう思ってたのか。

 蓮の勘は本当に鋭いが、こういうところまで当てなくとも、良くないか?

 答えるな、と大男の心の声は、虚しい願いだった。

「あんたの親戚の、既婚者。葵さんの親戚の連れ合いだから、簡単に片付く問題じゃないんだ」

 無感情な声での答えに、雅が流石に目を剝いた。

「え? ちょっと、待って? その縛りで考えると、当てはまるのは、一人しか……」

 隣で目を丸くしているエンが、頭を抱える葵を見やり、その隣の信之も見る。

 元相棒の若者の、不憫な立ち位置が公にされてしまい、大男は頭を抱え込んで秘かに涙してしまったのだった。

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はじまりのお話 赤川ココ @akagawakoko

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