第2話

金色の髪を後ろに流した後姿は、すぐに見つかった。

 小屋より少し下りた所の開けた場所に、セイは立ち尽くしていた。

 足元に、木の実や山菜が入った籠が置いてある。

 安堵の溜息を吐いて、蓮が声を掛けようと口を開いたが、その先にある物に気付いて声が消えた。

 そうだ、ここにあったんだった。

 足を運ばないようにしていたから、思い出すのにしばらくかかってしまった。

 セイが立ち尽くしたまま見つめているのは、背と同じくらいの高さまで積まれた、石でできた五輪塔だった。

 葵の母親が世を去った時、それを知らされた蓮の主が、正式に弔ってやれと金を出してくれた。

 五輪塔という立派な墓石になったのは、迷い癖のある葵が、山の中くらいは迷わぬようにと言う心遣いだったが、正直役に立っていない。

 セイは、その五輪塔の汚れを払い、昼飯に作ってあった握り飯を二つ、供えてくれている。

 どうやら、これから自分なりの拝み方で故人を偲ぶつもりでいたようだが、そこで立ち尽くしてしまっていた。

「……」

 どう偲べばいいのか、分からないのだろうなと、蓮はつい小さく笑ってしまった。

 その笑い声で体を跳ね上げ、セイが振り返る。

「あ、お帰り……やっぱり、葵さん見つからなかったんだ」

「……ああ」

 居心地悪い気分で頷くと、セイは小さく笑った。

「済まないな。私がいるせいで、長くここを空けられないんだろ? 夜も留守番位できるから、見つけてやってくれよ」

 申し訳なさそうに言われ、蓮は思わず言っていた。

「お前のせいじゃねえよ。あいつが、逃げてんだ」

「何で?」

 きょとんとした顔が、物凄く眩しい。

 目を逸らしながら、先程考えた事を言う。

「オレを一人にして、そっとしておいてくれようと、してたんだと思う」

「……そうか。それで逆に、迷ってなきゃいいな」

 答える声が、若干沈んで聞こえた気がして顔を上げると、俯いた女の姿があった。

「そうだよな。弱っている所を、見せたくないよな。そっとしておくのが、正しいよ、確かに。……本当に、あいつも余計な事をしたもんだ」

 それに答えようとしてしまった自分も自分だと、セイは苦く笑った。

 そして顔を上げ、何も言えずにいる蓮に切り出した。

「私が、山を下りるわけにはいかないから、適当に外でぶらついてもらうしか、今は方法がないな。明日カスミが来た時に、きっちりと文句は言うから、今日一日だけそうしてくれ」

 頷こうとした蓮だったが、寂しそうに微笑んだセイが五輪塔を振り返ったのを見て、固まってしまった。

 憂いを含んだ顔など、初めて見た気がする。

 ずっと感情を出さないセイが、自分に少しだけでも気を許している事が伺え、場違いながら顔を緩ませそうになる。

 そんな蓮と顔を見合わせ、女は首を傾げた。

 無言でのその仕草にも、見惚れそうになりながら、若者は咳払いする。

「……それが、墓だってよく分かったな」

 目を丸くしたセイは、素直に答えた。

「ここの国は、お偉い人を大きな墓に収めると聞いた」

 どこぞの国もそうらしいが、この国も力を見せつける為にそうしていると聞いていたセイは、これも聞いている物よりは小さいが、そうなのではと思ったのだと、無感情な声で言った。

 蓮が眉を寄せる。

「いつの話だ? 今は、そこまで大きくはしねえ筈だが」

 主から、そんな話を聞いたことはあるが、それは武士となる荒くれ者が公に出て来る前の、大昔の話だ。

 だが、間違ってはいない。

「農家や商人は、ここまでのは作らねえけど、まあ、これは確かに墓だ」

 再び五輪塔を振り返ったセイに、蓮は静かに言った。

凪沙なぎさが、眠ってる」

「……」

「こいつも、何を崇める事もなかったから、どんな祈り方でも大丈夫だ」

「そうか。分かった」

 短く答えて頷き、セイは躊躇った後おずおずと両袖を合わせた。

 暫く黙祷して顔を上げた時には、いつもの無感情に戻っていた。

 ぎこちない仕草からのその変わりようを、蓮は静かに見守りながら、ひたすらに耐えていたが、顔を上げた女に取り繕うように尋ねる。

「夕飯の分は、まだ残ってるか?」

 朝も大目に置いて来たから大丈夫だとは思うが、暇を持て余して食べ過ぎているかもしれない。

 そう思っての切り出しだったが、セイはすぐに頷いた。

「元々、昼は軽く取るんだ。あんたや葵さんが戻って来たら、作る間が大変だろ?」

 小腹を落ち着かせるつもりで、握り飯は残してあると言いながら、女は足下の籠を抱え込んだ。

「やっぱり、握り飯には塩か梅干しなんだな。昨日の私が作った物より、すごくおいしかったよ」

「そんな楽なもてなしで喜んでくれるとは、安上がりな奴だな」

 僅かに弾ませた声に、少しだけ胸が苦しくなったが、気づかない振りをして蓮は笑い、セイと並んで小屋の方へと戻った。


 一人になったセイは、囲炉裏の火を灰で消し、火種も灰に押し込んでから、縁側に腰かけて空を見上げていた。

 無数の星の中に、細く欠けた月が光っている。

 三日月と、この月は言うらしい。

 月と言うものは、そんなに沢山浮かんでいるのかと訊いたら、物知りの大男は笑って答えた。

「お日様の光の当たり方で、そう見えるのよ」

「? お日様? 夜はないのに?」

「こちらが夜の時には、別な場所を照らしてるのよ。その光の当たり方が、お月様を丸く見せたり、ああやって欠けて見せたりするの」

 実際の月は、丸いのだという。

「丸……木の実みたいに?」

「そうよ」

 こうして見上げていると、丸い影に細く光が当たっているようには見える。

 あの頃は、今よりも小さく、じっくりと空を見上げた事はなかったから、気づかなかった。

 いや。

 セイは小さく息を吐いた。

 つい笑ってしまう。

 今日よりも空をじっくりと見上げた事はあるが、夜ではなかったから分からなかっただけだ。

 青い空に白い雲。

 そこに立ち上ってく煙。

 それしか見えなかった、幼い頃見上げた空。

 ゆっくりとしているせいか、久し振りに幼い日の事を思い出した。

「最近、バタバタとしてたからな……」

 それだけが理由ではない。

 思い出して不意に口にしてしまった言葉が、周りを動揺させるのに気づいて、思い出さないようにしていた。

 それが、この間から妙に思い出される。

 まあ、一人きりで思い出す分には害はないだろうと、セイは空を見上げていた。

 立て続けに知人を亡くしたのは、蓮だけではなく自分もだ。

 今迄、その感傷に浸る間もなかったが、可愛がってくれた祖父と姉貴分を、時を置かずして立て続けに亡くした。

 この稼業は、静かな死を望めないのは覚悟していたが、どちらもあまりに衝撃的な最期だった。

 祖父の死を知ったのは、この地に向かっていた船の中だった。

 仲間の一人が残して来た伝達係が、海を渡って船にそのことを伝えて来た。

 戦で負った傷の為に発熱し、そのまま起きなくなったのだと、簡単な知らせだったが、その報告を受けた兄貴分の顔で、言わなかった最期も予想できた。

 最近鉛を使った武器が国々に出回っていて、その弾を受けたという話は聞いていた。

 鉛が、とんでもなく厄介な害をもたらすという事も、弾を取り出すにも場所が悪く、年の割に頑丈な老翁も、取り出すまでで弱ってしまっていたことも。

 看取ってくれたあの国を祖国とする仲間たちにも、苦しい思いをさせてしまった。

 この国で逝ってしまった姉貴分も、そうだ。

 その傷の元が、先程まで一緒だった蓮による刃だったこともあるが、相当の深手だった。

 それなのに……あの女は、本来の姿に戻ろうとはしなかった。

 そして、弱音を吐きはしたが、最期までいつものように笑いながら見守る二人の弟に語り掛けて、息を引き取る間際、静かに吐き出す声と共に呟いた。

「今迄、有難うな」

 囁くような声が、今も耳に残る。

 あの人は、いつもそうだった。

 他の仲間たちや、兄貴分と祖父と違い、いつも明るく話しかけてくれる。

 手のかかるセイを、辛抱強く見守っていてくれた。

 素直な問いにも、他の仲間たちのように爆笑せず、真面目に答えてくれた。

 それだけでも、セイにとっては居心地のいい人だった。

 いずれ、あの二人の声も忘れてしまうのだろう。

 だから、せめて姿だけは目の奥に留めていよう。

 欠けているのに、細くとも輝く月を見上げながら、セイは目を細めていた。

「……どうした?」

 静かに、若者の声が呼びかけた。

 我に返ったセイは、出かけたはずの蓮が木々の間から姿を見せるのを見つけ、目を丸くする。

「お帰り? あれ、まだ、朝じゃない、けど?」

 物思いにふけって深みにはまっていた女は、突然の若者の帰宅に頭がついて行かず、しどろもどろになって立ち上がった。

 そんな様子に慌てた蓮も、慌てて言い訳する。

「いや、振り返った時に火が消えたのに気づいて、何かあったかと……」

 ただ、消しただけだろうとは思ったが、山を下りたものの万が一と心配になり、戻って来たと言う若者に、セイも慌てて答えた。

「そうか、それは済まない。火の始末はしないと、怖いだろう? 眠る前だと忘れるかも知れないから、すぐに落としたんだ」

「そ、そうか」

 安心した蓮は、その慌てようを気にしながら、先程の問いを繰り返した。

「どうした? 妙に悲しい顔で、空見上げてたじゃねえか」

「そう、か?」

 悲しい顔?

 きょとんとしてしまったセイは、不意にそうかと頷いた。

 いつもよりもぼんやりしていたのは、悲しかったからなのかとようやく気付く。

 何が悲しかったのかにも気づき、セイは顔を伏せた。

「……」

 そんな様子を、蓮は真顔で見つめている。

 視線に居心地が悪くなり、セイは慣れない笑顔を浮かべた。

「もう寝る。今日も寝床を借りるよ」

「ああ」

 短く返事したと思ったのだが、蓮は溜息を吐いた。

 どうやら返事ではなく、何かに気付いての合いの手だったようだ。

 含みのある溜息に眉を寄せたセイに、若者は静かに言う。

「お前も、爺さんを亡くしたんだったな」

 目を丸くした女に、蓮は咳払いをして続けた。

「ラン達に聞いた。残して行くしか手がなかったとはいえ、看取れなかったのは心残りだっただろう?」

 気遣う声に小さく笑い、セイは首を振った。

「私が一緒に残っても、爺さんが気にするだけだった。残るという道はなかったけど、あったとしても、あの人はそれをさせてくれなかったと思う」

 だからこそ、解放させるという目的もあって、老翁の弟子の男に後を頼んだのだ。

 今思い出しても、色々と悔やみたくなる。

 もう少し早く、先に行った仲間と合流してあの場を去っていれば、残して来た弟子の男が先回りして待っているという、予想外の事にはなっていなかったはずなのに。

 足の長さがモノを言ったのではないと、そう思っていたいものだ。

「ランが初めてだ。すぐ傍で、息が止まって脈が無くなるのを見届けたのは。あんな静かな死は、今迄見てない」

 今迄見たものは、ほぼ形の残らない死だった。

 そう言ったセイに、蓮が苦笑する。

「そっちの方が、稀な死にざまなんだがな」

「らしいな」

 自分が死にかけた時もそうだったが、祖母も火に囲まれていたから、人の死にざまなのだと思っていた。

 祖父の死後は、土葬したと言われてピンと来なかったのは、そのせいだ。

「国によって、死んだ人を弔う方法も、色々あるんだってその時に教えてもらった。墓という物の事も」

 だからそれまで、全く疑いもしていなかった。

 他の生き物と同様に、人間も死ぬときは形が残っていると。

「……」

 黙ってしまった若者に、呆れられたかと顔を向けると、いつの間にか目の前に立っていて、驚いた。

 目を丸くして見上げる女を見下ろし、真顔で手を伸ばす。

 そのまま固まる薄い色の頭を、蓮はぎこちなく撫でた。

「? ?」

「……?」

 暫く撫でていた手が止まり、若者は首を傾げながら頭から手を下ろす。

 離した手の平を見つめ、小さく唸った。

「何の意味があんだ、これ?」

「あんた、私を小さな獣と間違ってるか?」

「それはねえと思う。どちらかというと、小さなガキ……ああ」

 失敬な事を言われて顔を顰めたセイを見下ろし、蓮は再び短く声を上げた。

「何も知らねえガキが、初めて身内の死をはっきりと見たんだ。その衝撃を思って、褒めるつもりだったんだな、きっと」

「褒める?」

「ああ。オレみたく、無気力になる間もなく、国を出ることが決まっちまったもんな。ここで一人になった時に思い出して、しんみりするのも無理はねえよ」

 言われたセイは首を傾げた。

「しんみりと言うか、どんな顔だったか思い浮かべてたんだ」

 ランの方は、そう難しくない。

 姿を継いだ者がいるからだ。

 だが、爺様の方はしわしわで背が高かったというだけで、そこまで特徴がない。

 余り思い出さないと、忘れてしまいそうだと思った。

「……お前に限って、そんな事なさそうだがな。死んだ仲間の事、名前も姿も全て覚えていそうだ」

 蓮の言い分に確かにと、セイは笑ってしまった。

 後ろめたい気持ちが、死ぬ迄忘れさせないのだろう。

 なのに、わざわざ思い浮かべようとするとは、変な話だった。


 小首を傾げるセイは、無邪気な獣の様だった。

 見下ろした蓮は、しばし考えてから女の隣に腰を落とす。

 目を瞬く気配を感じながら、夜空を見上げた。

 正直、自分を抑えられるか不安なのだが、このままセイ一人残してはいけない気がした。

 普段したことのない、感傷に浸ることをしていたのならば、尚更だ。

 幼い頃から苦労していたセイの事だから、浸っている内に後ろ向きの考え方を始めてしまいかねない。

 こちらは充分慰められたというのに、逆に落ち込ませるのは癪だった。

「……爺さんか。優しい爺さんだったのか?」

 うちの爺さんと違って。

 心の内で付け加えたのを、セイは正しく察して小さく笑った。

「あんたの所は、優しい云々の話じゃないだろ。でも、そうだな、うちの爺さんは、優しかった。今迄優しくなかったのは、城で会った人たち位で、今世話になってる人たちも、全員優しい」

 それ以上の答えを持ち合わせていないようで、言葉が続かない。

 だが、それだけでよかった。

 蓮は頷いてしみじみと言った。

「お前は、二親や爺さんのことを、好いてたんだな」

「……」

 首を傾げる女に、何でそこで不思議がるのかと首を傾げ返すと、セイは無感情に尋ねた。

「……それは、食べたいという気持ちと、同じような気持ちを持っているかという事か?」

 若者は、大きく唸ってしまった。

「生憎、共食いしようと考えた事は全然ないから、好いてるとは違うと思う」

「……そうか。お前、食べ物以外で好き嫌いを考えた事が、ねえんだな。人間同士でも、獣と人間の間でも、深さに差はあれ好き嫌いはあるもんだぜ」

 真顔で言うと、セイも真顔で見つめ返した。

「そう言えば、誰かにもそれ、言われた気がする。身近な奴だった気が……」

 余り覚えがないという事は、眠たい年齢の時だなと、セイが呟くのを見ながら、蓮はしばし考えこんだ。

 そんな若者に気付かぬまま、女は無感情のまま呟く。

「思い合う間柄の二人が、伴侶という物になって、やがては子を育むとか、育むことは出来るけど、作るのは男と女の間でしかできないとか……だから、あの二人には子が出来ないのかと、残念に思ったんだよな」

 どの二人の事か、蓮には全く分からないが、その表情の曇り具合から親しい二人の事だろう。

 言葉の節々で、これ以上深く聞くのはやめた方がいいと察し、一度咳払いをしてから話を戻す。

「食う食わぬの好き嫌いの他に、一定の人や生き物を好ましく思ったり嫌だと思ったりすることも、あるもんだ。その想い合うって話も、その先にある話だな」

「それって、何かきっかけがあるのか?」

 素直な問いだ。

 だから、素直に答えた。

「お前の言う、優しくされた事が嬉しくて、というのもきっかけになる」

 眉を寄せたセイに苦笑し、蓮は自分の話をした。

「オレは元々、大陸から来た人間だ。兄弟と共に」

 自分はその頃からこの姿で、この国にもすぐに馴染んだが、兄弟は髪色が燃えるような色で、目の色も草色に近かった。

「兄弟は何というか、育ちすぎちまってな。その上目出つ色合いだったもんだから、住み着いた山からは下りれなくなっちまった」

 早く大陸の父親の元に戻してやればよかったと、今でも悔いている。

 そうしていれば、あの山の奥に名声を得ようとやって来た侍に、兄弟の命を取られる事もなかっただろう。

 先に刺された兄弟に呆然とした蓮を、侍は数人がかりで串刺しにし、そのまま小屋ごと焼き払った。

 いつ、自分が息を吹き返し、そして再び気絶したのかは分からない。

 気が付いた時には、焼け野原の真ん中に倒れていた。

 混乱した蓮は、火事が収まった山を登って来た侍たちを、片っ端から襲った。

 ある荒くれ者の様な侍たちの中の一人に、あっさりと敗れ去るまで。

「あの時に、地の底の底まで落ちたと思っていた。捕まって刑罰を得ても、構わないと」

 勿論、刑罰でこの世から逃げることができるのか分からなかったが、あの時は本気で殺して貰えると、淡い考えを持っていた。

 それなのに、捕まえた侍の主は、自分を召し上げた。

 しかも、その侍を主と仰ぎ、仕えるようにと命じた。

 侍の方は嫌そうだったが、兄上らしき侍にも説得され、渋々蓮を召し抱えた。

「オレもな、あの頃は尖ってたもんだから、侍なんぞに仕えるくらいなら死ぬと、言ったんだが……」

 言った途端、主となった侍はたった一発、頭が震えるほどの勢いで拳を叩き込んだ。

「……カサネ、拳で殴る時は、何か布を巻けとあれほど……」

 父親らしき侍の呻きに構わず、侍が蓮に言い切った。

「死に逃げるのは、許さんぞ。小童のくせに、それは贅沢だっ」

 侍一同が頷く異様な様を背に、侍は続ける。

「逃げる前にすることがあるだろう、兄弟を見つけるの事の方が、死ぬよりも先だっ」

「どう見つけろってんだよっ、何も、残ってなんか……」

「だったら、生きておるやもしれんだろうがっ」

 気休めに聞こえる言葉だったが、蓮は詰まってしまった。

 黙った若者の前で手を打ち、侍の主は飯にしようと切り出す。

 ほぼ何も着ていなかった蓮が呆然としている間に、下女たちがこぞって井戸に連れて行き、数人がかりで人間の姿に戻してくれ、古着だったが着る物まで用意してくれた。

 屋敷の小さな床間に正座した若者の前に、膳に乗った質素な食い物が運ばれた。

「一人で食う力もないなら、口移ししてやるが?」

 そう脅されて、蓮は慌てて箸を取った。

 柔らかく口当たりがいいように炊かれた雑穀が、何かを口にするのが久し振りだと、思い出させた。

「……兄弟が、見当たらなくなってからは何も口にしてなかったし、それ以前も、殆ど食う物は育ち盛りの兄弟に回してたからな。余計に、美味しく感じた」

 人心地ついてから改めて侍たちを見ると、全員荒くれ者の様だったが、山を焼き払った奴らとは違い、優しい感覚が漂っていた。

 蓮は、兄弟を探している間ならばと前置きして、召し仕える事を承知した。

 どんなに山の中を探しても、兄弟の痕跡は見つからず、主になった侍にその理由を語ったのだが、そう思い込むなと窘められただけだった。

 そして結局、その侍とも死に別れた。

 戦でいく先々で、お前の兄弟がここにいるやも知れぬと、言いくるめられているのを察しつつも、蓮は主から離れなかった。

「兄弟の事は早い段階で、吹っ切れてたんだよな。だから、言いくるめられるふりをして、傍に居続けた。色恋のそれじゃねえが、オレは、あの人を好いていた」

「・・・・・・イロコイ」

 ぎこちない返しに少し笑い、蓮は続けた。

「その色恋の方は、また違う。好いている奴への思いとは裏腹の気持ちも、湧いてきちまうんだよな、これが」

「それは、嫌だと思ったり、見たくないと思ったり、気持ちを分かりたくないと思ったりするって事か?」

 素直な問いに頷き、付け加えた。

「賢い筈の人が、何故か好いた人に対して愚鈍になるのも、見た事がある」

「……」

 そう言った蓮を見つめ、セイは尋ねた。

「凪沙って人にも、そんな気持ちになったのか?」

 変わらない真っすぐな言葉に、若者ははっきりと頷いた。

「ああ。向こうは、連れ合いを亡くした代わりだったんだろうが、オレは割と、夢中だったな」

 この山にある墓だから、その凪沙と言う女が誰なのか、セイも察しているのだろう。

 深い謂れは横に置いて、訊きたい事だけを口に乗せてくれる。

 不躾ともいえるが、蓮にはそのくらいが丁度良かった。

 続く話が話だったから。

「……夢中になっていたからこそ、あいつの言い分以上の策に、思い当たらなかった」

 今思うと、時を稼ぎながら加勢を呼ぶことも出来たかも知れない。

 近場に、主と共に来ていたからこそ、自分も嫌な予感を感じられたのだから。

 なのに、頭に血が上っていた蓮は、そのことを全く考えられなかった。

「兄弟の時もそうだった。もしかしたらあいつも、すぐに探せば見つかったのかも知れねえ。生きているにしても死んでいるにしても。生きているのならば、近場の誰かの所に身を寄せていただろうし、死んでいたのならば獣に食い尽くされる前に、見つけられたのかも知れねえ」

 それなのに、蓮はあの場に止まって、片っ端から近づく無頼者に襲い掛かっていただけだった。

「生きている全ての者の凶事は、係る奴をも愚鈍にしちまう」

 再び見返したセイは、目を伏せていた。

「それを悔いながら逝ったのか、喜びながら逝ったのか。所詮は他人には分からねえよな」

 例え想い合っていても、それは分からない。

 分からない事が焦燥を呼び、更に想いがこじれる。

「……大変だな」

「ああ」

 ぽつりと言ったセイは顔を上げ、蓮を見つめた。

「あんたは、悪い方に思い込む癖があるんだってな」

「? 誰に聞いたかは知らねえが、そんな事はねえぞ。それを言うなら、お前だって……」

「あんたの実の母親の話も、ある人が教えてくれた」

 無感情な声のその言葉で、その事情を知る経緯が頭をよぎった。

「……つまり、あの女ども、そこまで人の痛い話を、お前にべらべらと話したってのか」

 異形の姉妹を思い浮かべながら毒づく蓮に、女は声をかける。

「私にだけじゃない。葵さんも聞いてた」

「なお悪い」

「それに、言いにくそうに言ってたから、べらべらとも違う」

「そこは、大袈裟に言っただけだ」

 怒りを噴出していた若者の気を、一々訂正することであっさりと削ぎながら、セイは無感情に言った。

「私は、あった事を覚えているからこそ、そうだと思っているのであって、うろ覚えのままの事を現と信じ込んで、そう思っている訳じゃない。あんたと、一緒にしないでくれ」

 怒りを削がれた挙句、言葉も詰まらせてしまった。

「……」

「その、ご主人の遺した言葉、もう少し真剣に考えてみたらどうだ? 本当の所を思い出したら、その人が言ったように、その鬱陶しい呪いも、憂いも消えるかも知れない」

 そう言いながらも、突き放しているように感じる言葉は、言葉を詰まらせた蓮を、妙に落ち着かせた。


 顔を顰めて黙り込んだ若者を、横目で伺う。

 このまま怒って山を下りて、葵探しに行ってくれないものかなと、セイは願っていた。

 このまま居られると、混乱がばれてしまう。

 先程、蓮が話した事の中で、妙に引っかかる事があった。

 確かに、大切と思う者に良かれと思って企んでも、それが裏目に出てしまう事が、何度もあった。

 幼い頃から今迄、何度も。

 嫌な事を知ったなと思った途端、おかしなことに思い当たったのだ。

 これまでは、付き合いが永くなってから起こる出来事だったのに、浅い筈の者たちの前でも起こっていたことに気付いた。

 そんなはずはないと混乱したまま、セイは若者を怒らせて何とか自分から離すことにしたのだ。

 この二人が優しいのは分かっているが、そこまで深く思う程の付き合いではないのだから、これは勘違いだと、そう言い聞かせる時がいると考えたのだが、蓮は暫く黙ってはいたものの、立ち去る事はなかった。

 代わりに、低く声を出す。

「ガキの時分での出来事を、はっきりと覚えてるってのか? お前は?」

「……」

「それこそ、夢だったんじゃねえのか?」

「違うよ」

 低いが落ち着いた声に戸惑いながら、セイははっきりと答えてしまった。

「私は、生まれた時から、周囲の出来事を覚えてる」

 言ってから、慌ててしまった。

「あ、いや、物心がついてからの話だけど」

「へえ、その物心は、いつから付いてたんだ? 何歳の頃から?」

「な、何歳……」

 答えに、窮してしまった。

 訊かれた事がないから、分からなかった。

 人間の子供が、物心を付けるのが、何歳なのか。

 何故そこで、言葉を詰まらせるのかと、眉を寄せる若者から目を逸らし、小さく唸って見せた。

 こうなったら、いい加減な所を狙って、答えよう。

「三歳くらい、だったかな」

「……ほう」

「すまない。生まれた時は、大袈裟だった」

 珍しく笑って誤魔化すセイを、蓮が胡散臭そうに見つめているのが、とても居心地悪い。

 その疑いの眼差しに負けないように見返していると、蓮は頷いた。

「うろ覚えじゃなく、両親との別れも覚えてるってのか?」

「ああ。はっきりと、覚えてる」

「その上で、恨まれてると?」

「……」

 何で、この人がそれを、そんな顔をしてしまったらしい。

 見返した蓮が、あっさりと答えた。

「お前んとこの奴らから、その辺りは聞いた」

 主にランが、出所だという。

「お前がそう思って気に病んでるのは、ランから聞いた。その両親が、本当の父母ではない事も」

 それだけ、信頼されていたらしい。

 小さく唸ったセイに、蓮は更に言った。

「葵にも話したそうだな。余りにあっさり言われたんで、泣きそうになったと言ってたぜ」

「本物云々は、話してない」

「ああ、それは、お前と籠る前に、ランに聞かされてたんだ」

 口が軽すぎる。

 死人に文句を言いたくはないが、これはひどすぎるのではないだろうか。

 そんな気持ちになったのを察したのか、蓮は再び強く言った。

「それだけ、お前を気にしてたんだ、あいつは。だから、オレを巻き込もうとしてた」

「……」

「お前に、あいつらと自分の自由を、天秤にかけて欲しくねえと、そう言われた」

 全てがぶち壊しとなってしまったが、その想いは他の奴らも同じだろうと、蓮はきっぱりと言い切った。

 セイは苦い溜息を吐く。

「私は、今でも全く、不自由はない。なんで信じてくれないんだろう」

 こんなこと、この人にぼやいても仕方がないとは思う。

 だが、ついつい嘆いてしまった。

「小さい子供なら分かるけど、今はもう十歳も半ばなんだ。嘘なんかついてないのに」

 蓮が小さく笑う。

「家族みてえだな。旅立つ子供を、心配しながらも見送る心算なんだろ。なら、お前が嘆いてもどうしようもねえ。気にするに任せとけ」

「そうすることで、あいつらが幸せと思う事を見逃したら、どうするんだよ」

 実際、一人見逃させてしまった。

 爺さんである師匠を看取った後、弟子の兄貴分は自由になれたはずだった。

 なのに、あの男は看取る事すら放棄して、セイの元へと戻って来てしまった。

「ランが死んだ今、私が足を洗った後に頭として持ち上げられることになるのに、そうなる前の、最後の機会だったのに」

「……すまなかったな。それは、オレが悪い。もう少し浅手で済ませていれば、あんな事には……」

 静かに謝る若者を見据え、セイは言い切った。

「そう言う話じゃない。それに、あんたの事だから、あの傷位なら、ランは治せると、そう思ってたんだろ?」

「……」

「まさか、あのカスミの娘が、あんなに簡単に逝くとは、思っていなかったんだろう? 私も、驚いたよ。前にもっと、深い怪我を負った事があるんだよ。すぐに元気になって走り回ってたから、今度もそうならばいいと思ってたのに」

 そうならなかったのは、自分の取り決めのせいだと、ランは言った。

 この故郷の地では、母親の望み通りの姿で動いて死ぬと、どんな死でも受け入れると、そう決めていたという。

 そうすることで、仕えている猫に機会を与えていただけではなく、自分の望みも叶えられる機会を、作っていた。

 これは、オレ本人のせいだと、ランは言い切った。

 誰も、責めるなと。

 だから、セイは責めない。

 その死のきっかけを作った蓮も、その死のきっかけを防げなかったセイ自身も。

 それが、遺言だったから。

 恨み事を言うために、ランの事を蒸し返したのではない。

 死を悼む気持ちはあるが、それよりも大事な事があった。

 自分は、老いて死ぬ。

 きっぱりと告げたセイの言葉に、何故か蓮が目を閉じた。

「……ああ、そうだな」

「エンは、私が小さい頃から、全然変わらないから、ランやロンと同じように、年を取れなくなってるんだろうと思う」

「ああ」

「私は、年老いて死んでいくから、そう割り切ればいい。足を洗うにしても洗わないにしても、楽になる事は決まってるから」

 黙り込んだ若者に構わず、続ける。

「いずれ楽になるから、あんな形での継続を引き受けたんだ」

 自分の後に据えられるのは、十中八九カスミの分かっている只一人の倅だ。

 そうなると、あの群れを完全に消さない限りは、あの稼業を辞めることができない。

「私が、あそこに引き留めてしまったのに、更に縛りつける事になりそうだ」

 そうなると、あの優しい兄貴分にまで、恨まれてしまう事になる。

 すぐに世を去る身としても、悲しかった。

「生んでくれた人や、育ててくれた人に恨まれたのは、仕方ないと思ってる」

 本当ならば、そのせいで爺さんに恨まれても、仕方がなかった。

「私を預かったせいで、お婆さんも……」

「……」

 ここまで身内に恨まれているなら、他の誰に恨まれても仕方ないだろうが、優しくしてくれた人がまた不幸になってしまうのは、そのことで恨まれることになるのは悲しかった。

 そこまで殆ど矢継ぎ早に話してから、セイは気づいて笑ってしまった。

「要は、これ以上恨まれたくないんだな。人を不幸にしたくないと言いながら、それが元で恨まれるのが、嫌なだけだ」

 何て我儘だと思う。

 本当に、嫌な奴だ。

「あんた一人を慰められたとしても、何が変わるんだか。馬鹿だよな、私は」

 自分の頭の方を、かち割りたくなる。

 情けなくて笑いが止まらなくなったセイを、蓮は横で黙って見つめていた。


 セイがようやく笑いを治めたと思しき頃、蓮は静かに声をかけた。

「もう、言いたいことはねえか?」

 ゆっくりと顔を上げた女を冷静に見つめ、続ける。

「今のうちに、言えねえ弱音は全部吐き出しちまうんだな。どうせ、他じゃあ我慢し続けてんだろ」

「弱音? 今の、弱音になるのかっ?」

 目を見開いたセイは、思いのほか無邪気だった。

 危うく吹きだしそうになりながら、蓮は重々しく頷いて見せた。

「中々、堂に入った落ち込みぶりだったぜ。良かったな、葵がいなくて。あいつがいたら、大騒動だ」

 珍しくセイの顔が引きつった。

 こちらは笑いで引き攣りそうになりながら、若者がしたり顔で言う。

「あいつが戻ったら、そんな顔すんじゃねえぞ。お前が笑う顔の方が、葵は喜ぶはずだ」

「……」

 心なし、恥ずかしそうに顔を伏せる女に、気恥ずかしくなりながらも蓮は続けた。

「オレも、お前の笑顔を見たいからな」

 言ってから、柱で頭をかち割りたくなった。

 何処の風来坊の言い分だっ。

 言われた女が、まじまじと見つめて来るのが、余計に恥ずかしい。

 だから、気恥ずかしいついでに、軽く言いつのった。

「お前は、確かに人に恨まれる生き方をして来たかも知れねえ。だが、お前と会えて幸せだと思った奴が一人はいるのを、覚えておけよ」

 きょとんとしたセイを見つめ、蓮は優しく笑いかけて言った。

「少なくともオレは、お前と会えて、こうして一緒に居られて幸せだった。少しの間なのに、そこまで感じられたのは、お前といた時が初めてだ。それだけは、覚えていてくれ」

 黒い目が、真ん丸になった。

 吸い込まれそうなその瞳に、みるみるうちに涙があふれて来る。

 思わず固まった蓮の前で、すぐに気づいたセイは袖で目元を抑えた。

「び、びっくりした。いやだな、私の方が、慰められてどうするんだよ」

 必死で笑いながら袖で目元を隠す女にすり寄り、蓮も笑いながらその身を引き寄せた。

「馬鹿。先に慰められたのは、オレの方なんだよ。有難うな」

 囁くように言いながら、袖をのけて目元を指で拭ってやる。

 震える瞼を開き、見返す瞳はまだ濡れている。

「お前は、どうすれば、笑ってくれる?」

「笑ってるつもりだけど、これじゃあ駄目なのか?」

 駄目じゃないが、蓮はゆっくりと首を振った。

 瞼に口づけながら、静かに答えた。

「もっと、笑ってくれ。そうすれば、オレはもっと幸せになる。慰められる」

「それは……安すぎる幸せ、じゃないか?」

 腕の中で見上げたセイが、綺麗な微笑みを向けた。

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