はじまりのお話
赤川ココ
第1話
目が覚めると、見慣れない場所だった。
古く脆そうな床だが、小ざっぱりとした家内だ。
セイは、身を起こしながらどうしてここにいるのかを、ゆるゆると思い出していた。
昨日の朝方、カスミはとある山にある小屋に、自分を連れて来た。
そこにいる若者を、セイの思う慰め方で慰めてやれという、無茶な頼みを無理やりと言ってもいい流れで、押し付けて来たのだ。
慰める相手である若者は、確かにおかしかった。
別れた時には感じなかった落ち着きのなさが、慰めなければならない理由だろうとは思うのだが、どう慰めればいいのか、欠片も分からない。
カスミが立ち去った後セイは、取りあえず何故か木に自分の頭を打ち付けて、どくどくと血を流して倒れてしまった
いつの間にか変えられていた体には妙に力が入らず、おまけに重いものが胸元に二つもぶら下がっていた。
「……ランやジュリのがあんなに小さいのは、こんな苦労をしたくないからなんだな」
そんな感想を呟きながら、蓮を背中に背負ったセイは、何とか小屋の中に運んだ。
襟を整え、勝手が分からない家内を見回していると、蓮が目を覚ました。
頭についた血を拭いながら、奇異なものを見る目で自分を見る。
居心地悪い思いをしながら、セイは尋ねた。
「朝餉を作ってたのか?」
「……さっき、米を洗ったところだ。火を起こしてから竈にかける」
木蓋を被せた鍋を指さして言った若者は、咳払いして続けた。
「
「そうか。生憎、土地勘がない私には手伝えないから、留守番するしかないな。米の固さが決まってないなら、私が今朝は炊いておくけど?」
落ち着きのない蓮にそう切り出すと、若者はこれ幸いと頷いた。
「助かる。すぐに連れ戻してくるから、頼む」
セイの返事を聞く間も惜しいのか、言い捨てるように小屋を飛び出してしまった。
葵というあの大きな鬼がいなくなったのが、いつごろからなのかは分からないが、蓮にかかればすぐに見つかるだろう。
自分一人ではもて余す頼みでも、あの方向感覚のおかしい鬼と一緒ならば、何とかなるかなと思いながら、セイは引き受けた朝餉の準備をしながら帰りを待ったのだが、日が上の方に昇っても戻って来ない。
流石に冷めそうな気配が気になって、すぐに釜からおひつに移し、先程食べた物を思い出しながら拳大の玉を数個握って、近くにあった器に並べて木蓋をする。
「塩がついてたけど、傷まないようになのか? 梅干しとかいうあの酸っぱい実も」
それなら、探し出して後付けした方がいいだろうかと、真剣に悩んでいた時、蓮が戻って来た。
げっそりと疲れた顔の若者は、一人だった。
「見つからなかったのか?」
つい、咎めるような声になってしまったらしい。
詰まった蓮に気付き、慌てて笑顔を向ける。
「お帰り。あまりに遅いから、忘れられたかと思った」
おどけたようにを心掛けたのだが、矢張り失敗した。
セイの顔を見つめた蓮が、露骨に目を逸らす。
「……ただいま。悪かったな、留守番させちまって。しかも、無駄足だ。あいつ、そんなに遠くに行くほど間を空けてねえのに、近くにいなかった」
「そうか。どこで迷ってるんだろ」
この人が探しきれなかったという事は、葵がそれだけ遠くに行ってしまっているからなのか、蓮の調子が悪いのかのどちらかだろう。
どちらにしても、一度戻って来たのは客人である自分がいたせいだ。
「……一応、ご飯を炊いて握って置いたんだけど、包んで持って行くか?」
再び送り出すつもりのセイの問いに、蓮は肩を落とした。
「明日、もう一度探してみる」
そう言って差し出された器を見下ろし、目を丸くした。
「お前、握り飯も知ってんのか」
「さっき、カスミに貰った。塩と梅干入りの奴を。これはどちらも使ってないから、傷んでるかも」
「ああ、この時期の山の中だ、大丈夫だろ。それに、多少傷んでても大丈夫だ」
そんな言葉を交わしながら、蓮は素早く動いて水を汲んだ鍋を、囲炉裏の方に運び込んだ。
火種を探って火を起こし、笊に集めていた山菜を鍋に無造作に入れていき、湯が湧き出る所を見計らって適当に味噌をぶっこむ。
興味深く見守るセイに、若者は器に盛った汁物を、箸を添えて差し出した。
「長く待たせて悪かった。不味くはねえはずだから、遠慮するな。箸は、使えるんだよな?」
囲炉裏を囲むほどの人数ではないが、食べ物を一緒に誰かと食べることで、二人の間にあったぎこちなさが、少しだけ和らいだ。
口数は少ないまま夜を迎えたのだが、蓮は夜具を出してセイの方へと押し付けた。
「夜は冷えるから、しっかりと被って寝ろ」
「……あんたは?」
「下で寝る」
下とは、土間に地べたという事らしい。
「何で? 夜は冷えるんだろ? 葵さん程大きくないから、そう場所は取らないぞ」
いくら狭い小屋の中とは言え、人一人しか横になれないという程ではない。
そう言うセイに、蓮は目を合わせないようにしながら、溜息を吐いた。
「人と隣り合わせは、熱くなりすぎんだよ。だから、気にすんな」
何やら言葉を慎重に選んでそう答える若者は、無理しているように見えた。
「でも、寒いんじゃないのか? 震えてる気が……」
「気のせいだっ」
近づいたセイを振り払おうとした手を逆に掴むと、蓮は固まってしまった。
構わず自分の額に、若者の掌を押し当ててみる。
熱があるかと思ったのだが、やはり分かり辛い。
手ではなく、額同士がいいかと顔を上げると、夜目にも真っ赤な顔があった。
熱の有無を、確かめるまでもなかった。
「っ」
息を詰める若者に構わず、セイはその体を抱きしめていた。
「ほら、無理するもんじゃない。人探しで走り回って疲れてるのに、体を冷やすなんて、いくらあんたでも、無茶だ」
固まった蓮の体が、身を固くして震えているのに気づき、更に強く抱きしめて、何とか体を温めようと試みる。
熱が下がるまではと若者を抱えたまま横になったのだが、そのまま眠ってしまったらしい。
途中、何やら体がむずむずとこそばゆく、妙に痺れた感じがあったものの、殆ど気にならなかった。
気になったとすれば、少しだけどこかがこすれた痛みが走った事だったが、それに気づいて蓮の身を離そうとする前に、何故か眠り込んでしまった。
そして朝。
身を起こしたセイは考える。
眠り込んだせいか、その裂けた場所は既に塞がっているようで、何処だったのかが分からないものの、そこにじかに触れていたらしき蓮は、何か触りがあったのではないだろうか。
昔、まだ小さくて力がなかった頃、とある場所に連れて行かれた先で、同じような事があった。
目覚めた時、男の一人が半狂乱で喚いていた。
どうやら、体のどこかが使えなくなったと混乱したらしい。
既に殆ど動けなかったセイには訊くことは出来なかったから、何処の事であったかは分からなかったが、蓮の体のどこかも使い物にならなくなっているかもしれない。
いや最悪、死んでいるかも知れない。
そこでようやく、目がはっきりと覚めた気がした。
軽く頭を振り、薄暗い中で目を巡らす。
いつの間にか敷かれた夜具の上にいたセイは、そこにいるのが自分一人だけで、一緒にいる筈の蓮がいないのを見止め、膝立ちになった。
どこで冷たくなっているかと、内心焦っていたのだが、すぐ傍に蹲る影に気付いた。
小さな縁側に座り込み、頭を抱え込むその後姿が探し人と気づき、セイは思わず声を出す。
「あ、いた」
その声は静かな中に響いてしまい、頭を抱え込んでいた蓮が飛び上がるように振り向いた。
蓮は蓮なりに、我慢した。
つい少し前に別れた、一時期命のやり取りをしようとしていた知り人が、ただ単に女体の姿で現れたからと、おかしな気持ちになる物ではないと思うのだ。
あの性悪の爺さんの思惑に、あっさりと乗りたくない、そんな気持ちもあった。
なのに、完全にやってしまった。
こちらを心配して抱きしめたセイに、抗いきれなかった。
相手にそのつもりがなかっただけに、尚更不味い。
なし崩しに押し進め、我に返ったのはセイの体が不自然に固まった時だった。
そこで思い出す。
元々は男であるのだから、女体の姿でこの行為は初めてだというのは、あり得る話だ。
だが、ここまでやってしまったからには、蓮ももう止まれなかった。
早く楽になってもらおうと、禁断の手を使ってしまった。
全てを終えてから朝方まで、罪悪感で押し潰されそうになっていた。
気を紛らそうと始めた朝餉の支度の合間に、静かに眠っているセイを覗きこんで安堵した後、昨夜の事を思い出して一人考える。
女と情を交わしたのは、いつぶりだろうか。
久し振りの事とは言え、中々うまく相手できたとは思う。
相手も極上で、初めての事だったはずなのに妙に愛らしく、特に禁断の手を使った後の仕草は……。
「っ、じゃねえだろうっっ」
蓮は頭を抱え込んで、髪を掻きむしった。
相手が何も分からないのをいいことに、自分は何てことをやらかしてしまったのか。
互いに好き嫌い云々を考えるような相手でもないのに、考える暇もなく一線を軽々と越えてしまっていた。
単に、体が同性じゃなくなって、好みの女となったというだけで、どうしてそこまで関係を深められたのか、自分でも分からなかった。
「……もしや、男と言うのは、そう言う生き物なのか?」
自分はそうではないと思っていたのだが、本当はそうなのだろうか。
女なら好みだよなと、心の底で思ってはいたが、ここまで強引に事を進めてしまう程に、男と言う生き物は強欲に出来ているのかもしれない。
だとすれば、昨夜使ってしまった禁断の手も、使うべくして使ってしまったという事か。
そんな風に無理やり、自分の行いを悪くはないと落ち着かせていた蓮は、背後に気を配るのを忘れていた。
いつの間にか背後の女が起き出して、自分を見つけた事に気付かなかった。
「あ、いた」
呟いたセイの声で、蓮は思わず体を跳ね上げて振り返った。
膝立ちの姿勢で目を丸くしている女に、勢いよく近づいて真顔で問う。
「痛い? 何処だ? すまねえっ」
「え、いや、あんたがいたって言ったんだけど」
その勢いに驚いたセイは答え、それを聞いて力を抜いた若者に、逆に尋ねる。
「あんたこそ、どこか使い物にならなくなった所は、ないか?」
「?」
何の話だと眉を寄せる蓮に、女は無感情に首を傾げた。
「夜中、何処かがこすれたような痛みがあったんだ。どこを怪我したのかは分からなかったけど、あんたはずっと触れてただろ? 見た所死んではいないから、体のどこかが使い物にならなくなってるかも知れない。……どこか、駄目になった、のか?」
無感情なままに、思った不安を口にしたセイは、話している途中から再び頭を抱え込んでしまった若者に、伺うように尋ねた。
「……もしそうなら、済まない事をした。何がどうなって怪我したのか、分からないのが更に不甲斐ない」
申し訳なさそうにしている女に、蓮は力なく首を振って見せた。
「いや、何処も何ともねえ。言ってなかったか? オレは、薬の類にゃあ、めっぽう強いんだ」
「そうなのか。だから、酒にも強いんだな」
頷きながら言ったセイは、安堵して微笑んだ。
「良かった。急に訳分からなくなって、いつの間にか眠ってしまってたから、どうしちゃったのか気になってたんだ」
「そ、そうか」
蓮は相槌を打ちながら、心の中で土下座していた。
その、裂けた部分の痛みを和らげるという言い訳で、セイに禁断の手を使ってしまった。
普段は使わない母方から受け継いだ力を、痛みを快楽に変えてしまえば、痛がられず且何も考えなくなってすぐに満足して眠ってくれるだろうと、完全に久し振りの女の体に埋もれた頭で考えて。
こんな罪悪感にまみれるのなら、もう二度とこいつには薬を使うまい。
遅い覚悟を胸に秘め、蓮は目の前の女に夜具を頭から被せた。
「向こうに滝があるから、汗流して来い。着替えは、用意しておくから」
「あ、ああ。有難う」
セイを夜具で巻き付けたまま外に放り出し、蓮は色々な思いを振り払うように立ち上がった。
今日も、夕方まで帰らないつもりらしい。
用意された古着を着たセイは、小屋に戻って囲炉裏の前に置かれた朝餉と、別な器にある握り飯を見つけて、そう察した。
置手紙には、すぐ戻ると書いてあったが、そう簡単に見つかるようならば、昨日の内に見つかっているだろう。
一晩間が空いた事で、葵を探す場所は更に増えたというのに、客と言う自分が居座っているせいで、苦労が明らかに増えていた。
手伝えない自分が、歯がゆい。
溜まった息を、残さず吐く勢いで吐き出してから、セイは気を取り直して動き出した。
用意してもらった朝餉を平らげ、外に出る。
何もできないなりに、着替えた後の衣服を洗って干し、夕餉のおかずになりそうな物を探してみようと、思い立ったのだ。
昨日の時点で、小屋の周囲には焚き木となる木枝も、まだ豊富に残っているのは見ていたので、これは無理に拾ってくることはないと感じたから、明日までの食べ物位は、自力で何とかしてみようと思う。
「今日葵さんを見つけられたら、今ある分では足りないよな、きっと」
強面の大男である葵を思い浮かべ、一人頷いてから蓮と自分の分の古着を抱え、先程行った滝の方へと向かって行った。
出来れば腹持ちしそうな、風邪気味でもすんなり食べられる物がいいなと、遅ればせながらに昨夜の蓮を思い出して考えながら。
敵前逃亡、まさにそれだった。
振り返ってセイの状態を確かめた後、我に返った蓮はその白い肌に目が釘付けになってしまった。
安堵で心が緩んだ所に、強烈な攻撃だ。
勢いで肩を攫んだその手を放してから、何とか別な動きで誤魔化し、そのまま外に理由を付けて追い出してしまった。
朝っぱらから、再びおかしくなるところだった。
これ以上二人きりでいたら、また間違いを起こす、そんな気がする。
それを、葵に知られた日には……。
そこまで考えてから、蓮はふと思った。
「……一蓮托生、か」
いつもいつも、よくこんな非道な事を考え付くもんだと、我ながら思う。
だが、悪くはないだろう、葵にとってもセイにとっても。
葵も強面の顔を崩す程に若者を気に入っていたし、セイの方も気を緩めて珍しい笑顔を浮かべるほどには、あの鬼の事を好いているようだったから、蓮相手の時よりも気楽な一夜を過ごせるだろう。
男が好みの女を見たらその正体が何であれ、ついつい邪な思いを抱く生き物なのなら、葵だって同じことをするだろう。
二人の仲が、そう言う仲になるのならば、蓮の罪悪感も和らぐのではと思うのだ。
幸い、滝に送り出したセイは、まだ戻って来る気配はない。
着替えだけあの辺りの木にでも引っ掛けて、すぐに葵を探しに行こう。
今日こそ見つけ出して……一晩、二人きりにしてやる。
朝餉と昼の支度をしながらそんな事を考え、蓮は着替えを置手紙と共に引っ掛け、包んだ握り飯を懐に、すぐに山を下りた。
昨日は、色々な混乱が邪魔して、集中できなかったが、今日はこれ以上ないほど真剣に、あの大きな鬼の行方を捜した。
が、何故か見つからない。
まさか、と蓮の頭に疑いが浮かぶ。
「あいつ、オレから遠ざかってんのか?」
自分から逃げているのであれば、姿を見ただけで一目散だろう。
これでは、全力で追いかけて捕まえるしかない。
しかも、捕まえた所で、家に戻る事を渋るかもしれない。
今の事情も、言う間を与えてくれないかも知れない。
自分の家だというのに、どうして蓮に明け渡して避けるのかと、呆れながら考えたが、すぐに溜息を吐いた。
「……オレが、そんなにおかしかったって事か」
顔に出したつもりも、態度に出したつもりもないのだが、山をから遠ざかって迷う事になってでも、葵は蓮を一人にしてそっとしておいてやろうと、考えているのだろう。
それをぶち壊したのが、蓮の祖父に当たる男だったのだが、悔しい事にその策はいい方向に向かっていた。
「……」
別な事が気にかかって、この間までの衝撃から、完全に立ち直ってしまった。
逃げ回るのは、もう意味がないと告げたいのだが、葵本人がそう察して落ち着いてくれない限りは、戻ってくる気にはならないだろう。
その時を見計らって、あの大男は迎えに行けばいいかと、蓮は諦める事にした。
とすると、またあのセイと、二人きりという事になる。
自分も戻らないという手もあるが、客一人を山の中に一人置いて置くのはどうだろうと思う。
それに、自分まで帰らない事で、セイが心配して山を下りて来ることも考えられた。
そうなっては、あまりに目立つ。
髪色も目立つが、それを隠していたとしても、全体が目立つ。
今は特に。
こうなったら、一度顔見世程度に山小屋に戻り、すぐにまた葵探しを口実に出て来るしかない。
一目でも見たら、また釘付けになりそうだから、視線を逸らしながら話すようにしよう。
それで辛抱できるかは、自分の忍耐次第だ。
辛抱できなかったら、今度は木ではなく、斧で頭をかち割ってしまおう。
真剣にそう覚悟を決め、蓮は山に戻ったのだが……。
小屋の中は、無人だった。
中は荒らされた様子もなく、ただ外の物干しに自分とセイの、昨日来ていた着物が干してあるほかは、変わった様子はない。
だが、待っているはずの女の姿がなかった。
遅かったのか。
肝を冷やした蓮が、元来た道を走り出す。
昨日は大人しく待っていたが、二日目ともなれば、暇を持てあましてしまったのだろう。
そんな事も気づかない程、自分は動揺していたのかと、苦い気持ちで山を下りきり、立ち止まった。
また、混乱する所だった。
セイは葵とは違って、そこまで考えなしに動く性格ではない。
もしかしたら、山の中を探索していて、迷っているだけかもしれない。
まずは、山の中を探してみよう。
蓮は、溜息を吐いて冷静さを取り戻すと、再び山の中を登っていった。
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