Alice in Sweetsland

峡 みんと

第1話

 僕は目の前の少女から目を逸らした。これは何か悪い夢だといい、と願いながら。

 賃貸マンションの1LDK。平穏、というよりもはや虚無だった僕の日常に、突然この少女は転がり込んできた。小さなダイニングテーブルの向かいに座り、短い足を浮かせてぶらぶらさせている彼女は海のように真っ青な丸い瞳を僕に向け続けていた。上等そうな生地の水色のワンピースの裾が、その無造作な足の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。窓から差し込む日光が当たったブロンドの長髪は星々をちりばめたように輝いていて、現実とは思えない程美しかった。白肌に頬は桃色で、唇も年の割に艶々としている。 きょとんとした無表情ですら画になるような、人形のように整った顔立ちをしていた。

「あのう」

 長い沈黙に飽きたらしい少女は、鈴を転がしたような声を発する。僕はぴく、と肩を跳ねさせて少女に視線を戻した。

「わたし、ナツキです。白兎ナツキ。ナツキは片仮名で書きます。名前で呼んでください」

 それだけ述べるとナツキは再び口を閉ざして、足をぶらぶらさせ始めた。おとなしそうな雰囲気と口調とその行動が持つ年相応の幼さのギャップに僕は困惑する。青い目は僕をまっすぐに捉えていた。愛らしい姿とは裏腹に、その気迫には圧倒されるものがある。

「……有栖川、琉生」

観念した僕が低い声で答えると、ナツキは勝ち誇ったかのように口角を上げた。

「一週間お世話になります。よろしくお願いします、有栖川さん」

 微笑んだままぺこりと頭を軽く下げるナツキを見て僕は、本当にこの子は小学五年生なのかとナツキを連れてきた彼女の親を疑い始めた。自分が同じ歳の時、知らない大人と一対一の状況でここまで物怖じせず丁寧に話せただろうか……と。

 元より僕は、表情筋が人より硬いのを自覚していた。毎日鏡を見ては、目の生気のなさに自分で驚くほどだった。目が死んでいて、髪はぼさぼさ。この上なく陰気臭い成人男性と泣かずに対話できているだけで褒められてもいいだろう、と心から思った。

 窓の外には彼女の瞳と同じ色の青い空が広がっている。夏休み中盤戦、蝉は命を燃やして大合唱を始めていた。


 数日前。誕生日のお祝いも新年の挨拶も寄越さない母親が数年ぶりに連絡を取ってきた時点で、いい知らせではないだろうということはなんとなく想像がついていた。とはいえ、「親戚の少女を預かってほしい」なんて要請が飛んでくるのは流石に想定の範囲を大きく外れていた。なんでも親が故郷であるイギリスに帰るとかどうとかで、一週間ほど面倒を見てほしいのだとか。どうしてその子供を連れていかないんだ、なんて無責任で冷たい親なんだ、と文句が心の中にいくらでも沸き上がったが、育ててくれた恩くらいはある母親の頼みを断りきることはできなかった。そもそも大学二回生の夏休みでアルバイトしかやることのない自分は断る理由も見つけられない。本心を押し殺しながら電話に向かって非常に曖昧な肯定の意を示したところ、その二日後にナツキは問題の親に連れられこの部屋にやってきたのだ。しかし当の本人がこれほど大人びているのだから、たった一週間の外出くらいなんとかなるような気がするが。


 会話が途切れた部屋には、とてつもなく気まずい空気が流れていた。元々口数の多くない僕に、大人しいナツキ。テレビもラジオも置いていない僕の部屋で聞こえるのは、遠くの蝉の声と時計の針が動く音だけだった。かちっという音とともに視線を時計にやると、三のところに短い針が届いていた。ナツキはダイニングテーブルからソファに移り持参した本を開いた。

 何か話した方がいいだろうという考えはあった。けれども、子供の相手をしたことのない僕にはあまりにもハードルが高かった。一人っ子の上、当然未婚だ。なにもしないままだと気まずくて仕方がなかったから、僕は意味もなくキッチンに行き冷蔵庫を開いた。中にあったのは飲みかけの炭酸飲料のペットボトルや、残り半分くらいの牛乳。そして、余らせていた小麦粉と卵だった。

 ……そうだ、これなら。

拳を握り、咳払いをする。親戚の子に話しかけるのにこんな儀式を行わなければならない自分に少し嫌気はさすものの、ソファに座り本を読んでいるナツキの背中に、息を吸い込んでからこう声を掛けた。

「君、お菓子は好き?」

 その言葉でゆっくり振り返ったナツキの顔には、確かに十歳の少女らしい柔らかさが見えた。


 できあがった生地を中にそっと入れると、ぱちぱちと音を立てて油が弾ける。いつの間にかフローリングに寝そべってくつろぎながら読書に勤しんでいたナツキも、その音でキッチンの方をちらりと見た。冷房をかけているとはいえ、キッチンに立って火を使うと少し暑い。。僕はハンカチで汗を拭いながら色の変わった生地を裏返す。両面ともいい色に揚がったのを確認すると、火を止めて菜箸で生地を掴む。油をきって皿に移し、粉糖を振りかける。

「紅茶は飲めるかな」

「はい」

 返事を聞くと、エプロンを外しながら赤と黒のマグカップにティーバッグを二つ突っ込み熱湯を注ぐ。ナツキはいつの間にかこちらをじーっと見つめていた。僕は紅茶とお菓子をダイニングテーブルに運ぶと、向かいの椅子を引き、「座って」と促した。そして僕自身も椅子に座り手を合わせる。

「牛乳は?」

「できるだけたくさん」

 黒いマグカップには、いつもの量を。赤いマグカップには、並々牛乳を注いだ。

「いただきます」

 皿に乗ったものの一つを手にして口に運ぶ。さくっ、と心地の良い音とともに、バターの風味がじんわりと口の中に広がる。かりかりとした外側とは裏腹に、中の生地はもっちりとしている。味も余計なものなどない、素朴な甘さを持っていた。視力検査のマークのようになった輪っかの断面は、綺麗な黄金色をしている。我ながら上出来だと僕は紅茶を口に含みながら心の中で頷いた。向かいに座ったナツキに目をやると、同じように一口かじった跡がきつね色の輪っかについている。僕がはっとしたのもつかの間、ナツキはもう二口目に入っていた。無邪気にドーナツを両手で持ち小さい口でかじる度に、粉糖がぽろぽろと零れていく。水色のワンピースは白色のドット柄にデコレーションされていった。

「美味しいです」

 無邪気な甘い笑顔……だったらよかったものの、やっぱりそこにあったのはビターな微笑だった。それでも、しっかりとその感想がお世辞や気遣いではないことが伝わっていた。空色の目の輝きが先程とは全く異なっていたからだ。

「なにか?」

「いや、ちゃんと子供なんだなぁって」

 遠くを見ながら僕がぼそりと呟くと、ナツキは一瞬だけ口を結んだものの不機嫌になる様子はなかった。

「得意なんですね、お菓子作り」

「ありがとう。材料が余っててよかった」

 人に褒められたのはいつぶりだろう。僕はずり下がった黒縁眼鏡を上げる。

「有栖川さんも、甘い物が好きなんですよね」

 ミルクを僕の二倍は入れた紅茶を、ナツキがゆっくりと啜る。僕が頷くと、こう続けた。

「こういう手作りのお菓子、あんまり食べないんです。いつも両親が買ってきてくれるものを食べるので」

「うん」

「だから、すごく新鮮で。嬉しかったです」

 言葉通りの確かな喜びがナツキの声色からにじみ出ていた。彼女の手元を見ると、確かに魔法のようにドーナツが減っている。

「また作ってくれませんか」

「え?」

 ナツキの提案に、僕は今日一番感情の滲んだ声を出した。あまりにも驚きすぎて声量を誤ったくらいだ。紅茶の水面がゆらゆらと揺れる。慌てて口元を覆いつつ言葉を紡ぐ。

「有栖川さんの作ったお菓子がもっと食べたいです。わがまま、ですか?」

 それは、えっと、と混乱してしどろもどろになる僕の様子がおかしかったのか、ナツキはふふっと笑う。

「でも、とっても“子供っぽいわがまま”じゃないですか?」

 ナツキは囁くような声を発し、片目を瞑ってみせる。その妖艶さに、僕は思わず息をのんでしまった。どこで覚えてきたのか。

「……分かった。僕も大人らしく、わがまま聞いてあげようかな」

 僕はなんとか空気を変えようとして俯きながら答える。もうドーナツの乗っていた皿はいつの間にか空っぽになっていた。

「ありがとう。楽しみにしていますね」

 ごちそうさまと手を合わせると、ナツキはそのまま本を開いた。最初に会った時と同じように足をぶらぶらさせながら。


 二人分の食器を洗うのは随分と久々だった。洗剤をつけたスポンジで茶渋を落とす。普段は憂鬱な洗い物も、今はそれほど苦痛に思わない。

「晩御飯、出前でもとる?」

 水ですすぎながらそう声を掛けると、ナツキが首をかしげた。僕も一緒に首をかしげたが、すぐに理解した。込み上げる笑いをこらえながらこう言った。

「……あー、僕、料理はしないんだよね」

 愕然とするナツキの顔を見て安心する。やっぱり彼女は、背伸びをしているけどちゃんと子供だ。

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