第四話 夢と現実

 え、なんて言った?

 辞める?

 ヴァイオリンを?


「ほら。有斗と別れてから、ヴァイオリンに全てをかけてやってきたと思うの。それで、ありがたいことに評価もしてもらって」


「あぁ」


 だって、言ってたじゃないか。ヴァイオリンは私が人生をかけるって決めたものだからって。それだけは譲れないからって。

 僕と一緒に日本でやろうって言ったのを断ったのもお前じゃないか。


「なんていうのかな。表現したいものは、やりたい事は全部やり切ったと思うのよね。

 だから、その。そろそろ女性としての幸せを考えてもいいと思うのよ」


「うん」


 やりきった?だから次の幸せを?

 そんな簡単に終えられることのために、僕は苦悩を重ねてきたっていうのか。


「だから、その……有斗?」


「……駄目だよ。それはだめだ。」


「え?」


「そんな勝手は許さない。お前が言ったんだ、ヴァイオリンで生きていきたい。それも、世界で戦ってみたいって。

 全てを捨ててでも、そこで生活していくんだって。カッコいいよな。すごいよ。

 僕にはとても、そんな事をする勇気は持てなかった。それが選択出来る才能もなかったしな」


 僕はきっと今、引き攣ったような笑顔になっているんだろう。さっきまでは縋るような、媚びるような笑顔だった彼女の表情が消えていく。


「だからこの五年間、Orizuruをメディアで見るたびに複雑な気持ちを抱いたよ。

 友人としての誇らしさと憧れ。それに自分が隣で一緒に笑ってられない屈辱と劣等感。

 見れば見るほど辛いのに、目が、耳が、釘付けになるんだ」


 ずっと思っていた。

 どうしてあの時、挑戦しなかったんだろう。

 どうしてあの時、才能の上限を自分で決めたんだろう。


 口から出る言葉は全て、八つ当たりだ。でも、感情の吐露を止めることが出来ない。

 だめだ。こんな事を言いたいんじゃないんだ。こんな事を言うつもりじゃないんだ。

 しかし僕の感情は理性を押し倒し、簡単に飛び出してしまった。


「やりたい演奏はやりきった? 知ったことか。じゃあ次は踊りでも踊ればいいじゃねぇか。歌でも歌えば良いじゃねぇか」


 織鶴の顔が歪む。

 最低だ。本当に最悪だ。


「…ごめん。八つ当たりだった。話を聞くって言ったの、俺の方なのに」


 こんなにも薄っぺらい謝罪があるだろうか。開き直りにすらなっていない。


 でも、これ以上かける言葉がない。

 今にも泣き出しそうな顔をしている彼女に。

 自分から切り出させといて、こんな顔をさせてしまう自分にすらも。


 後悔と苛立ちだけが膨れ上がっていく。

 口から言葉を吐き出せば、また傷つけてしまうだろう。頭の中が真っ白で、指先がピリピリする。


「ごめん。本当に、ごめん。会計は済ませとくから」


 もうここにはいられない。もう彼女には会えない。


 せっかく久しぶりに会えたのに。

 せっかく楽しく話せたのに。

 せっかく、また一緒にいられたかもしれないのに。


 全部、全部僕がぶち壊したんだ。


 とにかくここから逃げ出したい一心で、鞄を掴んで立ち上がった。どう思われても仕方ない。


「待って! 行かないで!」


 織鶴も追うように立ち上がると僕の腕を弱々しく掴む。今更何を話すというのだ。もう、僕は全てを曝け出してしまったのに。

 ささくれ立った気持ちのまま強引に手を振り払おうとした。が、その時ふと違和感に気づいた。


……おかしい。いくらなんでも弱すぎる。


 動きを止めた僕を見て、織鶴は慌てて手をひいた。


「織鶴、お前」


 違和感を探るうちに、急に頭が冷えていった。いやそれどころか、至った仮説に全身が粟立った。


 よく考えたら、おかしかったんだ。

 いくら芸術家って言ったって、いかにもなお店でドレスにリュックを合わせたり、足で椅子を引くだろうか。

 食事に誘っておいて、ミルクティーしか飲まないなんてあり得るだろうか。

 そもそも、公演で世界中を飛び回っている彼女が、時差ボケを考慮せずに1時間も遅刻する時間に待ち合わせの予定を入れるだろうか。


「お前、まさか」


 彼女は観念したように息を吐くと、崩れるように椅子に座り、言った。


――指がね、両手とも駄目になっちゃったの。


 力なく言うその表情は、すでに哀しみを通り越し諦観の域に陥っていた。




 指が動かなくなる。ヴァイオリンに人生を賭けると誓った彼女にとって、それは死刑宣告と同義だった。


「向こうについて1年くらい経った頃かな。左手の指が思うように動かなくなってさ。

 最初は腱鞘炎かと思ってたんだけど、だんだんと曲げ伸ばしが上手くできなくなってきて。

 バレる前に左利き用のヴァイオリンに持ち替えたりもしたんだけど…負担がかかったのかな。右手も結局。それでもう、隠せないところまで来ちゃった」


 織鶴の言葉が上手く入ってこない。

 自分の感情が上手く整理できない。


「なんで、なんで最初からそれを」


「言ったら有斗、許しちゃうでしょ。貴方を捨てて、一人で飛び出しちゃったこと。判るもん」


「それは…」


「本当は会うつもりも無かったんだ。日本に帰るつもりも。

 これまでの私を全部捨てて、どこかで一人で過ごそうって思ってた。仕事はまぁ、コネで何か探そうって。

 それで最後に携帯の整理してて……おかしいよね、気づいたら、電話してたんだ」


 彼女の痛みが伝わってくる。

 天才と言われ続ける彼女の重責と葛藤、苦悩。

 理解はきっと出来ていないだろう。それでも痛みだけははっきりと伝わってくる。


 「今日だって楽しく過ごしてそれで終わるつもりだった。いい思い出になるはずだった。

 だけど有斗が変わらず接してくれるから、期待しちゃったんじゃない。

 私だって皆みたいに、幸せな女の子になったっていいのかなって思ったんじゃない!」


 ポロポロと涙を流しながらうなだれる織鶴。本当はここで抱きしめて、頑張ったなって言えばハッピーエンドなんだろう。

 実際これまで本当に頑張ったんだ。あとは結婚して、出来たら子どもも産んで、家族一緒に穏やかな日常を過ごしたって良いはずなんだ。

 曲がらない指だってプロのヴァイオリニストとしてはダメでも、日常生活を送るくらいまでは治るかもしれない。

 僕も愛した女性のために、これからも誠心誠意働こう。そして普通の幸せってやつを築いていけば良いじゃないか。


 別れる前であれば、そう言ってあげられた。でも今は出来ない。その先に何が待っているかは、僕が過ごして来た日々を振り返れば想像に容易いから。

 だから伝えよう。悔恨の日々は、今日、この時のためにあったはずだから。


「織鶴、よく聞いてくれ。」


 返事はない。


「一度舞台で喝采を浴びた人間は呪われる。

 降り注ぐ歓声。鳴り止まない拍手。圧倒的万能感と満たされる自己肯定感。あれ以上の幸福を感じることは本当に難しい。

だから満足せずに、何かしらの理由をつけて舞台を降りた人間は必ず後悔する。

 なんであそこで辞めたんだ。辞めてなかったら、どうなっていたんだろう。ってな」


「…それは、有斗のことでしょう?

 私はもういいの。もう、いっぱい頑張ったもん」


 そうだ。彼女の言う通りだ。


「そう、その通り。

 だからこれはお前を励ます言葉でも、慰めることでもないんだ。

 僕の為に。あくまで僕自身を救う為の話なんだ」


「有斗のため?」


 ようやくこっちを見てくれたな。


「あぁ。ずっと気付かないふりをしてきたけどな。

 僕、本当は織鶴みたいになりたかったんだ。どんな結果になっても、自分の力をもっと試してみたかった。

 でも凡人だから、才能ある人達みたいにはなれないって決めつけてたんだよ。

 ただ知らない土地でお前の隣にいて、ちっぽけな自分を突き付けられるのが怖かっただけなんだ」


 幻滅されたかな。失望されたかな。

 それでも彼女に言わなければならない。


「あの時はちゃんと向き合えなくて悪かった。

 その上で頼む。もう一度、チャンスをくれないか?

 分かるんだよ。織鶴も今舞台から降りたら俺と同じになっちまう。

 表現者ってのは、他の人間を喰らい続けてでも舞台に立ち続けなきゃダメなんだ。降りたらそこで死んじまうんだよ。

 だから頼む。僕と一緒に足掻いてくれないか?」


 頭を下げる。

 一人で出来ないから力を貸してくれ。なんて恥ずかしいし、情けない。

 それでもこれは僕にとって最後のチャンスなんだ。なりふり構っていられない。

 それにきっと彼女にとっても悪くない話、だと思う。同じ後悔はさせたくないって気持ちは間違いなく本音だから。

 あとは織鶴が乗ってくれるかどうか。


「……酷いよ。それに遅いよ。そもそも、今から何をどう形にするって言うのよ」


「ヴァイオリンは僕が弾く。今は無理でも、必ず織鶴の出したい音を出してみせる。そんでお前は歌え。

 なにもプロのヴァイオリ二ストになるわけじゃない。天才、桐須織鶴の奏でたい音だけを出す、指の代わりになれればいい。その上でお前は声で伝えたい事をぶつければ良い。

 そうすればOrizuruはもっと多くの人の元まで飛べるはずだろう?言わばこれは、そのチャンスなんだよ!」


「Orizuruをさらに多くの人に届けるチャンス……この怪我が……ばか。そんな無茶苦茶な話……」


 そうだよな。まぁ、こんな提案、信じてくれってのが無理だよな。

 呆気に取られ空笑いをしている織鶴を見て、急に自分の発言に恥ずかしさが押し寄せてきた。


「めっちゃくちゃ燃えるじゃん!!」


……え?


「技術を失った私と、技術を知らない貴方で業界に殴り込み。まずは、私の技術を徹底的に教え込んで……ふふふ。想像するだけでワクワクする。

 あ、すいませーん! ミルクティーおかわりくださーい! あと、さっきまで彼が食べてたもの、ちょっとずつ盛り合わせにして持ってきてくださーい!」


 さっきまでの涙はどこに行ったのか。立ったり座ったり、あっちこっちに視線をやりながら何かを考える彼女。

 あまりの豹変ぶりに、今度はこっちが呆気に取られてしまう。


「自分で提案してなんだけどさ。いいのか?」


 俺がどれだけ無茶な事を提案したのか、伝わっているだろうか。

 自暴自棄になっているだけじゃないか不安になり、ついそう聞いてしまった。


「なに? 今更無しなんて言わせないんだから。

 言っとくけど厳しいわよ、私の指導は」


「お、おう、任しとけ。もう絶対に後悔したくないってのは本気だ」


 お待たせいたしました。こちら、ミルクティーのおかわりと、各種プレート盛り合わせでございます。

 お連れさまにはこちら。サービスのダイキリでございます。


「あ、はい。ありがとうございます。

 ん? もしかして」


 ウェイターの態度に若干の気安さを感じる。

ふと周りを見回すが、食事を楽しんでいる声はどのテープルからも聞こえない。

 自分が如何に視野が狭くなっていたかに気づき、頭を抱える。


「そうだよ。今日は貸し切り。こんな手の状態じゃ迷惑かけちゃうしね、先に話は通してあるに決まってるじゃない。

 知らずにあんな大声出してたの? うわぁ、それはないわ。」


 舞い上がって、盛り上がって、落ち込んで、懇願して。自分の発言、行動を思い返す。

 もうウェイターさんの方を見られないじゃないか!

 声にならない声をあげて頭を抱える僕は、なおさら滑稽だろう。


「まぁいいじゃない。

それより名前を決めましょうよ!」


 悶える僕を無視して、織鶴が足をぷらぷらさせながら言う。

 ご機嫌になったのは分かったが、時折ヒールのつま先をスネに当てるのはやめてほしい。行儀も悪い。


「名前か……そのままOrizuruでいいんじゃないの?俺はあくまで織鶴の指の代わりだしな」


「駄目だよ!有斗がそうであるように、私も変わりたい。

 Orizuruは、今日で、おしまいなの。明日からはそうだなぁ。うん。ただの、桐須としてやっていくことにする」


 一人で考え、一人で決断し、一人で前に進める。これが織鶴の強さだ。

 たった一つのきっかけでここまで前向きになれる彼女を、僕はとても尊敬している。海外に飛び出して行った時も、そこで成功を収めた事を知った時もその気持ちに変わりはない。

 だけどそれは危うさでもあるはずだ。即断即決が必ずとも最善とは限らない。パートナーを称するなら、僕がそれを教えてあげねばなるまい。



「なるほど……わかった。

 でもな。極寒のロシアの地で、怪我や文化の違いとも戦ってきた事を全て否定するのは違うとおもうぜ。Orizuruとしての時間があったから、これから桐須としてやっていけるんだろう?

 だからさ。形を変えてでも、残しておかなきゃだめだと思うんだよ。

 僕と桐須と、織鶴の三人で前に進もうよ」


 彼女はヴァイオリニストとして、どんな気持ちで、どんな風に闘ってきたんだろう。

 きっと凡人には想像も出来ないほど凄まじく、過酷であったに違いない。

 であれば、決してそれを蔑ろにしてはならないはずだ。


「そっかぁ、うん。ありがとう。でも三人でって言ったって、何か良い案はあるの?」


 人生ってわからないな。あの日言えなかった言葉を言えるチャンスが突然やってくる。今日はそんな奇跡が何度も起きる。奇跡に奇跡が重なった時、それはなんて言うんだろう。


「大学を卒業したらさ。僕、彼女にプロポーズするつもりだったんだよ。『金はないかもしれないけど、死ぬまで笑顔でいさせてやるから』って。チーム名も勝手に決めててさ。

 良かったらその名前、使ってもらえないかな。結局振られちゃったから縁起悪いかもしれないけど」


 なんだか言っててめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。

 既に空になってるハーブティーを飲むふりをする。生唾を飲んで誤魔化してみたりもする。

 織鶴は顔を伏せており、反応が読み取れない。


 ……やばい。何か言ってくれ。


 沈黙に耐えられず、ついどうでも良い事を聞く。


「ところで織鶴。そのプレート、どうやって食べるつもりなの?」


 僕の問いに、織鶴は目元を擦り、立ち上がる勢いで顔を上げると


「そんなん決まってんじゃん。

……初めての共同作業ってやつですよ」


 顔を真っ赤にして、屈託のない満面の笑みを浮かべながらそう言った。

 それは初めて見る、とても可愛らしい、絶対に守り抜くと思わせる笑顔だった。

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