第二話 楽しい時間

た。




「そう言えばさ。織鶴は結局、なんでロシアの楽団にしたの?

 オーストリアからも声かかってたんだろう?そっちなら英語も通じて楽だっただろうに」


 食事をしながら、何気なく聞いてみる。


「有斗がそれを聞く? 誰かさんが、海外には僕はついていけないって言ったからじゃない。

 私と別れる原因になったことなんて忘れちゃったのね。過去の女は辛いわぁ。

 そんなわけで、傷心の私は出来るだけ日本語が聞こえないところにしたいなって思ったんですー」


「……あー、なるほどね。なんか、こう、悪かったな」


 言葉以上に重みを感じさせる彼女の言葉に、反射的に謝ってしまう。

 いや、よく考えたら『海外で戦いたい。ついて来てくれないなら別れたい』って言ってたのは彼女で、僕は振られた側だったはずだ。

 分かってはいる。こういう事は思うだけに留めておくのが男の甲斐性だということくらい。

 僕も社会の歯車として成長した大人なのだから、それくらいの判別はある。


「……まぁ、でも結果的には良かったかな。珍しがってくれて、注目してもらえたし。

 それに、意外と英語も通じたしね。おかげさまで今やトリリンガルの美人演奏家。男なんて、選びたい放題だからね」


 織鶴は含みを持たせて話すと、反応を伺うように僕をじっと見つめる。

 両手で支えるように持ったミルクティーで口元を隠してはいるが、目元を見る限り、からかわれているんだろう。

 ひそめた眉を誤魔化すように目をこする。バレないように深呼吸を一度。よし、大丈夫。


「そりゃ良かったな、安心したよ。

 しかしトリリンガルね。そりゃあ、素晴らしいことで。でもやっぱり僕は日本人の誇りとして、ひらがなが至高の言語だと思ってるからね。三つどころか、これ一つで充分だとすら思ってるよ」


「ほう、それはそれは興味深い。して、理由は?」


 会話を続けたくなくて、舌が赴くままに話題を切り替える。彼女もそれを察したのか、それとも面白がったのか。ミルクティーを置くと、続きを促すように座り直す。


「僕も全部がそうかは知らないけどさ。外国語って、子音を発音しない場合が結構あるだろ。

 例えば、《twenty》は《トウェニィ》で《night》にいたっては《ナイッ》じゃないか。

 語尾の《T》や《G》はどこ行ったんだっての。無駄が多いんだよ、無駄が。

 それに対して平仮名は、50音を覚えればどんな言葉だって書き表せるし、その日のうちに読むことが出来るんだぜ?文字の形も簡単だしな。

 世界が平仮名だけになればどれだけ言語教育が楽になるか」


「なるほどね。確かに面白いかも。同音異義語の問題を乗り越えられるなら、だけど」


 む。確かに平仮名じゃ、文字単体では《あめ》が《雨》と《飴》どちらを差しているのかが分からない。


「そもそも、同音異義語にならないように、単語数を増やせば良いんじゃないか?百年計画くらいで単語を増やしていけば」


「その文字の確立まではどうするのよ。みんな、今まで通りに話してていいの?」


 たしかに、そりゃそうだ。

 織鶴が興味を失っていくのが、表情から見て取れる。

 そんな顔するなよ。僕だって何を話してるかよく判らなくなってきたんだから。


「じゃあ、平仮名の数を3000個くらい作れば!」


「それ、もはや漢字やカタカナを併用した日本語を拡めた方が早いんじゃない?

 というか。冷静に考えたら、そもそも同じ表音文字であるアルファベットでいいじゃない」


 こちらを見ることもなく言い放った一言によって、何気なく思いついた平仮名至高言語説は脆くも崩れ去った。

 話題を切り替えた代償としては大きすぎる敗北感と羞恥心を味わったせいか、この後の食事の味はよく覚えていない。

 決して高級品の味が判らない、味音痴の言い訳ではないことをここに追記しておく。




 食事を堪能し、今日何杯目かのハーブティーをゆるりと飲む。


「なぁ、本当に何も食べなくて良かったのか?」


「うん。やっぱり時差ボケかなぁ。あんまりお腹空いてなくて」


 未だ最初に注文したミルクティーをちびりちびり口にする彼女は、曖昧な笑顔を浮かべてそう言った。

 話していても、体調不良という感じはしなかったけど。いやでも、女性は、免疫力や体調不良の時に活動出来る幅が男性に比べて圧倒的に優れているって聞いた事もある。

 ならば、そろそろ聞いておいた方が良いだろう。


「それで、今日は何の話をしに来たんだ?」


「ん? いや、久しぶりに日本に帰ることになったから、昔馴染みに会おうと思っただけだよ。

 もしかして復縁とか期待してた? いやーん、それはまた考えさせて!」


 おどけているが、目線がいまいち合わない。

 ティーカップをテーブルの隅に置く。身体を少し乗り出し、彼女の目をしっかりと見つめる。


「織鶴」


「……」


「僕はお前みたいに特別な人間じゃないけどさ。普通のサラリーマンだからこそ出せる解決策もあると思うぜ。」


 ずるい言い方だとは思う。言いながら、胸の奥がジクジク痛むのがわかる。それでも彼女の悩みが少しでも楽になるなら、これくらいなんてことはない。

 この時は、本当にそう思っていた。恋の相談だって平然と聞いてやろうって、軽く考えていたんだ。


「特別だなんて言わないでよ。私だって、普通に悩んだり苦しんだりするんだから。

 ……あのね。私、ヴァイオリン、おしまいにしようと思ってるの」


――その言葉を聞くまでは。

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