第5話 熊

 吹雪は、ようやく収まってきたようだ。

 恐る恐る外を覗いてみたが、熊の姿は、見える範囲にはいない。

「おい」

「うぎゃあ!?」

 後ろから足音も無く近寄って来て声をかけて来た草津先輩を振り返る。

「びびびっくりした……おはようございます。草津先輩でしたか。ああ、もう。熊がいるんじゃないかとびくびくしてたのに」

 草津先輩はキョトンとしてから、大声で笑い出した。

「ああ。それで、変な忍び足でドアの方へ行ってたのか」

「そうですよ。そこに熊がいたら怖いじゃないですか」

 草津先輩は涙を浮かべながら笑い、

「スマン。脅かすつもりはなかったんだが……クククッ。あのへっぴり腰……ブフッ」

と、笑いながら、奥へと引っ込んで行った。

 そこまで笑わなくてもいいじゃないかあ。

 震える草津先輩の背中を見送って、恥ずかしさを堪え、平静をたもってみる。

「ようやく吹雪が収まって来ましたよ」

 黒川先輩も、傍に来て外を眺めた。

「そうだな。これなら、このまま回復するかも知れないな」

「救助隊が来てくれますか。それとも、こっちから下山しますか」

 ウキウキと問う。

「ここにいると、向こうがわかっているかどうかわからんしな。下山しよう。これだけ視界が晴れて来ていたら、大丈夫。迷わずに下山できるだろう」

 別府先輩と翔子の事が心配になる。

「そうときまれば、準備だ。毛布を返して来てくれ」

「はい」

 僕は毛布を畳んで、部屋へ返しに行った。それから、ザッとリビングの掃除をしておく。

 姿の見えない先輩達はキッチンの掃除でもしているのかと、キッチンを覗きに行く。

「あ、いた。先輩。簡単に掃除、を……」

 先輩達は、怖い顔で、広げたジャンパーに何かを包んでいた。靴とウエストポーチ。どれも、見覚えがある。

 先輩達は怖い顔で僕を振り返った。

「……それ、翔子の……。そっちは、別府先輩の……」

 どうして2人のジャンパーがここにあるのだ。2人は、防寒具無しで行ったとでも言うのか?あり得ない!

 黒川先輩が、ひたと僕に目を据えて言った。

「本当はわかってたんだろ」

 草津先輩は口元を吊り上げた。

「鹿やうさぎが、そう都合よく出て来る訳ないって」

 僕は後ずさり、その分、先輩が近付く。

「そ、そんなの……だって……何で……」

 味が甦る。鹿の赤ワイン煮のあの舌を火傷しそうな熱さとコク、ステーキのジューシーな旨味、ハンバーグのしっとりとした食感、肉団子入りスープのあっさりとした旨味。うさぎのコンソメ煮のあっさりとした味と弾力、ソテーの香ばしさ、味噌煮のこっくりとしたコク、香草煮の爽やかな風味。

「う、嘘だ、嘘だ、嘘だ!何で!?」

 黒川先輩が、神妙な顔で答えた。

「別府は、部長として責任を感じていたんだよ。それで、志願した」

「有馬は、お前を助けたかったんだな。足手まといとして食料にされるんじゃないかって恐れて。お前に食べられるなら嬉しいって言ってたぜ」

 草津先輩は言って、穏やかに笑いかけて来た。

「……そんな……翔子……」

 ペタンと、座り込む。

 そんな僕の肩に手をかけ、黒川先輩が言う。

「究極の事態だったんだ。これ以上吹雪が続いたら、今度はこの中の誰かになっていただろうな。

 でも、世間はそうは思わないだろうな」

「だから、昨日のうちに、食べられなかった内臓と頭を外に出しておいたんだ。熊が来ただろ」

 あ……。

「2人は熊に襲われたんだ。ここへ辿り着く寸前に別府が。後からパニックになって飛び出した有馬が」

「これも外に捨てておかないとな。ここにあるはずのないものだからな」

 先輩達は当然のように言って、それらを外に持ち出していった。


 その後の事は、よく覚えていない。先輩達に連れられて歩き出し、救助隊に発見され、ショックのあまりに記憶もおかしくなって現実を受け入れられないでいるかわいそうな体験をした子、としてしばらく入院した。

 ふわふわとした中で、退院し、学校に行き、ようやく現実に帰って来たのは、春になってからだった。

 何を食べても味がしない。

 山荘で食べたものは、あんなに鮮明に思い出せるのに……。

 どうすればいいんだろう。

「翔子ォ」

 こんなにお腹は空いているのに。誰か、助けて。




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