戸谷秀平の逃走

半井幸矢

戸谷秀平の逃走


 戸谷とだに秀平しゅうへいが何かおかしいと感じたのは、二十六歳の誕生日を迎えた翌日、四月一日の朝、目覚めた直後のことだった。いつもはそのままベッドの中で三十分程うとうとしたりぼんやりと覚醒したりを何度か繰り返すのだが、珍しく目が冴える。それどころか逆に落ち着かない。

 一体何が気にかかるのだろうと不思議に思いながら、仕方がないのでベッドから出る。時計とカレンダーを確認。確かに今日は四月一日だ。朝晩はまだ足元が冷えるからと理由をつけてしまっていないこたつの上には、昨夜自身の誕生日を祝って飲んだビールの空き缶が二つと、食べきれずに少し中身が残っているポテトチップスの袋、二切れのケーキを食べた形跡。

「……あぁ、そっか」


 いちごの乗ったシンプルなショートケーキ。

 一緒に食べようと思っていた相手が不在で、仕方なく一人で二つとも食べたのだった。


 再度時計を見ると出勤まで少し余裕があったので、飲み食いした後を簡単に片付ける。どうせ片付けなくとも、今日はハウスキーパーがくる日ではあったのだが。

(そういや先週もいなかったなぁ)

 身支度を整えながら思い出す。よろしく頼むと身内に言われていたので、たまに共に外出や食事をしたり、部屋に泊まりに来させて相手をしていたのだが、しばらく姿を見ていない。実家に帰っているのだろうか? しかしいつもなら施設外に出るときも一緒だった。そうなら声をかけてくれれば休暇を取って外出届も提出したのに。

「んむー……」

 個人的な用事かもしれないとも思いつつ、置いていかれたような気分になった。




 何となく納得がいかないままその日の仕事をこなし、定時で上がる。エリュシオンに住む者は国で保護・管理されている為働かなくても生きていけるのだが、「あんたはすぐだらけるから」という姉の発言に同意した父が手を回してくれて、決まった時間内に簡単な作業をする程度の職に就かせてもらっている。ちゃんと給与も出るお陰で懐はそこそこ温かく、一部の嗜好品等は支給申請の手間をかけることなく即購入できるのがありがたい。

 帰りがけに晩酌用の缶ビールとつまみを買って宿舎にもうすぐ着くというところに、

「あ」

「ようドラ息子、何シケたツラしてんだ」

 父・誠が正面から歩いてきた。キャプターしかも特別戦闘部隊所属という何とも屈強そうな肩書きを持ちながら、細身の長身で常にスタイル維持と身なりに気を遣う誠であるが、珍しくひげが伸び、目の下にはくまが出ている。

「うわ、きったねー」

 実際には言う程ではない。あくまで「普段の誠に比べれば」、なのだが、思わず口に出すと頬を軽く叩かれる。痛くはない。

「おめぇそれが当直明けのお疲れさんな父ちゃんにかける言葉かよ」

「だって……何かくたびれてる……歳……?」

「バカ野郎俺ぁ生涯現役よ。新年度だから今度新しく入った奴らの講習のマニュアル作りつつ通常業務だったの! もー疲れるの何のって」

「講習? 持ち場変わったの? 特戦部でしょ誠」

「父ちゃんと呼べぃ」

 ぺちん、とまた頬を軽く叩かれる。

「いや特戦部だけどさ、今年度で終わりだーって思ってたら最後の最後で新人指導係回ってきちまってなー。つら」

「ふーん。まぁ誠その道で長いから頼りにされてんじゃねーの」

「父ちゃんと呼べつっとろうが全くお前は」

 ぺちん。三回目。

「んっふふやっぱりそうかねぇー、流石俺ですねぇー! そうだ、たまには飯一緒に食おうぜ息子よ、どうせまりえちゃんと別れてから寂しい一人飯なんだろ?」

「別に寂しくねーしたまに謠子うたこさんと一緒に食ってるし」

「あれ」

 誠が意外そうな顔をした。一方の秀平は怪訝けげんな顔になる。

「……何」

「お前、知らんの?」

「何を」

「謠子ちゃん、もうここにいねーぞ」

「は?」

「今年からキャプターになったんだよ。前にきよみんと叶恵かなえ姐さんがやってたみたいに、外部で情報管理の仕事やることになったんだ」

「…………は?」




 彼女と一番仲がいいのは自分だと思っていた。

 きっとそうなんだろうと勝手に思っていた。


 何しろ彼女のことは、彼女が生まれた翌日から知っている。


 難しい本と動物が好き。幼馴染みである秀平の姉の子どもたち以外に同年代の友達はいないが、性格に難があるわけではなく、ただ頭の回転が速くこましゃくれているだけだ。髪の色も瞳の色も英国人の父親譲りのものだが、母親によく似ていた。黙ってじっとしていれば人形のような愛らしい女の子なのに、好奇心旺盛で少年然としている。

 歳は十六も離れているものの、秀平はそんな彼女と一緒にいる時間を楽んでいた。自分よりも頭がいい彼女から知らないことを教えてもらうのは決して嫌ではなかったし、普段大人のような物言いをするようでいて、しっかり子どもらしい面も持っているのは可愛らしいと思っていた。正直なところ、交際していた相手と会うよりも、彼女と過ごす時間の方が楽しみだったかもしれない。


 恐らく彼女も、秀平に対しては身内に等しい親しみの感情を持っている。


 何しろ姪と甥が生まれるよりも前から接していたし、エリュシオンに入ってからも幼い彼女が寂しくないようにとできるだけ一緒にいた。叔父と姪のようであり、兄と妹のようであり、友人――いや親友のようでもあり。


「……何で黙ってたんですかぁ」

 誰が聞いているわけでもない。飲み干したビールの空き缶を落とすようにして、底を何度もベランダの手すりにぶつける。桜が咲く時期ではあるが、酒で火照る頬を撫でる夜風はやはりまだ冷たい。


 それ以上に、腹の底に風が通っているような、そんな気分だった。

 冷たくて、哀しい。


 裏切られた、のとは違う。彼女がそうしたのには、絶対に理由がある。そしてそれはきっと、秀平には関わりのないことだ。


 それでも、何故、話してくれなかったのか。


 特殊能力・ギフトを持つ能力者の中でも法に従わない者を取り締まるキャプターになるのには、一定の審査基準と試験の通過が必須である。明晰な頭脳を持つ彼女なら試験は通るだろうが、年齢制限の最低ラインである十六歳には達していない。

 そんな彼女が十歳にしてキャプターになった、ということは、特別な何かがあったとしか思えない。にも関わらず、一番近しい存在だっただろう秀平にすら、彼女は何も言わなかった。


(キャプターなんて、危ねーのに)


 実質警察のようなもの、それに加えて異能の力が絡んでくるのだ。ギフトを持つ者を、能力者を住まわせる施設・通称エリュシオンに〝原則生かして〟連れてくる、それがキャプターの仕事。捕らえる相手の人間性や能力次第では、下手をすれば殉職も有り得る。秀平の父親の誠、そして今は亡き彼女の祖父母もキャプターであったから、その職務の内容は何となくではあるが知っている。


 そんなものに、まだ十歳の彼女が、なんて。


 そう考えているうちに、動いていた。


 丈の長い上着を引っ掛けて、財布と部屋の鍵だけをポケットに突っ込んで。

 施設のゲートへ。


 どうしてかはわからないが、すぐに彼女に会わなければ。




 思い立ってから約二時間後、何故こんなことをしてしまったのか、と戸谷秀平は我に返っていた。


 よくよく考えてみれば、別段切羽詰まっているというわけでもない。通常通りに、ちゃんと手順を踏んで施設外に出る許可を取って出てくればよかったのだ。ゲートの門衛の目を盗んで抜け出してくる必要は全くなかったのだ。

「これ、ランナーじゃん、俺」

 真夜中のひとのない小さな公園のベンチ。つぶやいた途端、急にどきどきしてきた。とりあえず落ち着こう、と先程立ち寄ったコンビニエンスストアで買った缶のココアを啜る。

「どうしよ……」

 父親はキャプターなのに。しかも自分はとっくに成人している。「子どものワガママ」で許されるような歳ではない。それなのに勝手に施設を飛び出すだなんて。〝逃走者ランナー〟として登録されてしまえばキャプターに追われる身となり、捕らえられれば収監されてしまう。


(でも……)


 どうしても、彼女に会って話を聞きたいと思った。

 教えてほしいと思った。

 ただ、それだけだ。


 それができれば、何も思い残すことはない。確かに家族にはほんの少し迷惑がかかるかもしれないが、衝動的に出てきてしまっただけで人をあやめたわけでもなし、「秀平じゃ仕方ない」と皆が口を揃えて言うだろう。恋人とも少し前に別れているし、失って困るようなものは特に何も持っていない。


 どうせ何年か収監されたところで、元々あそこ自体がおりみたいなもの。

 束の間とはいえ、今は自由。今なら自由。


「……よし。行くか」


 この辺りから彼女が住まいとする屋敷まで、車で一時間弱。徒歩だとどれくらいかかるだろうか。しかしこんな形では――ランナーとなって会いに行くのでは、きっと、いや絶対、キャプターである彼女も困ってしまうだろう。会って、話をしたら、すぐに帰ろう。

 空き缶を自動販売機横の専用ボックスに捨てると、秀平は歩き出した。




 人目を気にしながら途中で休憩を挟みつつ移動し、屋敷前に着いたのは午前九時前。歩いているうちにバスや電車が動き出したので、注意を払い緊張しながら少しずつそれらを利用したら、想像していたよりも早く着いてしまった。予定では昼頃に到着して、昼食を食べさせてもらってから彼女と話をして、その後施設のゲートまで送ってもらおうと思っていたのに。


 門の前に立ち、呼び鈴を鳴らそうとして、少しためう。


 彼女は、話してくれるだろうか。

 今までだって話してくれなかったのに?


 そのまま立ち尽くしていると、門が開いた。

「あ」

「あ?」

 柄の長いほうきとちり取りを持った、白いワイシャツに黒いベストとネクタイ、スラックスというモノクロームの装いの男。

 顔を見るなり、男は秀平の腕を掴み強く引っ張り込むようにして敷地内に引き入れると、急いで門を閉じた。秀平は勢いで倒れそうになるが、何とか踏み止まって転倒をまぬがれる。

「ちょっ……、何ですかいきな」

「てめェこそ何なんだ何しに来た」

 潜めるようでいて、威圧感のある声。いつになく迫力を感じるのは、フォーマルな服装のせいもあるかもしれない。それは怒りか呆れか両方か、静かに燃える高温の炎のような――秀平は萎縮し黙り込む。

「答えろ、何しに来たっつってんだ」

 再度の問いに、ようやく声をしぼり出す。

「あ……え、と……謠子さんに、会いに」

「あァ?」

 二人、そのまま見合っていると、

「ちょっと伯父様、待って、何やってるの」

 玄関から少女が駆けてくる。

 かと思ったら、


「ぷびゃっ」


 派手に転んだ。無彩色の装いの男は、

「何でなんもねえとこで転ぶんだよお前は」

 溜め息をつきながら箒とちり取りを秀平に任せて少女に近付き身を起こし、顔や腹部、膝に付着した土を払う。

 たった今すごまれていたばかりだというのに、秀平はその様子を見て苦笑いした。

「相変わらず甲斐甲斐しいですねぇ、浄円寺さん」

「その名前で呼ぶな。俺今まだ平田なんだよ」

 むっすりした顔で振り返った男の言葉に、

「は?」

 秀平は首を傾げた。




 居間に通された秀平は縮こまっていた。庭土で汚れた衣服を着替え正面のソファーに座る少女のじっとりとした視線が突き刺さってくる。

「本当に、一体何をやっているんだきみは」

 心底呆れ返った顔で、少女――謠子は大袈裟に溜め息をついた。秀平は堪らず目を逸らす。

「……あの、もしかして、」

「ついさっき、通知がきたんだよ。本当に、きみが来る直前にね」

 かたわらに置いてあったタブレット型のパソコンを操作しながら立ち上がると、秀平の横に来て腰を下ろす。

「戸谷秀平二十六歳、登録ギフト『幻影』が施設から逃走、って。……ほら、監視カメラにもばっちり映ってる」

「わぁ」

「わぁ、じゃないよ全く。何だってきみのような女性関係以外は人畜無害で臆病な男がよりによってランナーになんて」

「待って下さい俺そんな女転がしみたいなことしてねーですよ」

「優真くんの彼女奪ってすぐ捨てたって」

「違いますあれはちゃんとあっちが別れてから付き合い始めて合わなかったから別れたってだけで」

 そこまで言うと、ごちん、と硬いものが頭に当たった。脳天が温かい。

「何の言い訳してんだ痴話喧嘩か」

 平田がマグカップを差し出す。受け取るとミルクティーが入っていた。もう一つのカップを謠子の前に置き、腕組みしながらこれまた呆れた様子で秀平を見下ろす。

「トダお前バカなの? 何だってランナーになった途端にキャプターのとこ来てんだ」

「戸谷ですぅ」

 少しだけ啜ると、不思議と落ち着いてきた。


 目的を、果たそう。


「謠子さんに、会いに来ました」


 一言、言うと、謠子と平田は顔を見合わせる。

「何だ、こいつにも話してなかったんかよ」

「言う必要ない。僕個人の事情だ」

 冷たい言い草。そういえば、元々大人びた言い回しをする子ではあったが、心なしか更に冷めているような――というより。

「謠子さんそういや髪どうしたんですか⁉」

 最後に会ったときは背の中程まで伸びていた金茶の髪が、肩より少し上のあたりで切り揃えられているのに気付くと、

「え、今それ?」

 謠子は戸惑い、平田は失笑する。

「まァ、まずそこだよな。……トダお前昼飯食ってくだろ、俺買い物行ってくるから」

「僕も行く」

 話す時間を作ってくれようとしただろう平田の言葉を謠子が遮り、外出の準備をする為か居間を出て行った。拒絶していると察した秀平は少なからずショックではあったが、同時に彼女に話す気がないのなら徹底的に避けるだろうことも何となくわかっていた。

 謠子の出て行った後に目をやりながら、平田は嘆息する。

「頑固だなーほんともー」

「まぁ予想はしてたんで。……あの、やっぱり、あの髪って、」

「自分で切っちゃったみたいでさ。ヨリちゃんに何とか整えてもらったんだけど」


 自分で。

 今は亡き母の写真を見て、「きれい」と憧れて、伸ばしていたのに。


「……そう、ですか」

「ほんとになんも聞いてねえのな」

「できるだけ一緒にいるようにはしてましたけど、ずっとってわけにもいかねーですしね。俺仕事してたし、身内じゃねーし」


 そう、できるだけ一緒にいた。

 それでも教えてもらえなかった。


「あぁ、うん、ありがとな無理言って」

「お陰でまりえさんにブチ切れられて今年入ってから別れちゃったし」

「えっマジかよすまんなほんとに」

「まぁ……ちょっと束縛厳しかったんで丁度よかったっつーか……」

「……お前そういうとこあるよな、もっと優しくしてやれよ彼女に。……そっか……そうだよなぁ……」

 僅かに目が伏せられる。秀平は少しだけ気まずく感じたのを誤魔化そうと、ソファーの背もたれに寄り掛かり、ミルクティーを啜った。もしかして、あまり突っ込んではいけないのだろうか。

「謠子さん待ってますよ。留守番してますから早く行ってきて下さい、腹減った」

「お前、飯食ったらさっさと施設帰れよ。お前がランナーになった理由があいつに会う為だなんてバレたらあいつの立場が悪くなる可能性が」

「言い訳なんてどうにでもなるし、俺が自分で捕まりに来たことにすればいいでしょ。あの人の手柄にもなる」

「そーだけど! あいつがそんなん望むと思うか?」

 頭を掻きながら居間の出入り口に向かう平田を、秀平は横目で見送る。

「思わないです。……ところで先輩」

「あ?」

「何でそんなカッコしてるんです? 葬式でもありました?」

 立ち止まった平田は、くるりと方向転換してポーズをキメる。

「俺今謠子お嬢様の執事!」

「はぁ? 何ふざけたこと言ってんですあんたみたいな裏表激しくて生まれ育ちの割にガラわりぃヤクザみたいな執事いてたまるかってんですよ生まれ変わって出直してきて下さい謠子さんの教育に悪影響です」

「はァー⁉ 俺程優秀で実用性高い執事いねえっての謠子も俺が育てたってのお前俺のことも大好きなくせに何でそーゆーこと言うー⁉」

うぬれんな気持ちわりー俺は別にあんたなんてクソどうでもいいですよ」

「おっ? そーゆーこと言う? 何だ飯いらねえのか? ん?」

「飯は食わせろ!」

「ちゃっかりか!」

 部屋を出ようとする背中に、声を掛ける。

「……後で、話、聞かせてくれますか」

 溜め息が聞こえた。

「あいつに会いに来たんだろ。直接聞け」

 そう言うと平田は、居間から完全に退出した。




 昼食をとってから、

「あの、うた」

 秀平は謠子に話し掛けようとしたのだが、

「仕事あるから」

 と、逃げられてしまった。思わず平田を見ると「行け」と顎で示すので黙って頷き慌てて追うが、謠子は自室に逃げ込むと内側から鍵をかけた。

「何で逃げるんですか!」

「仕事あるって言ってるでしょ!」

「何でキャプターなんかになっちゃったんですか!」

「そんなのきみには関係ない! 帰って! いくら付き合い長いからって、そう何でもかんでも話すと思ってるの⁉ バカじゃないの⁉」

 などとドア越しに言い合っていると、

「ぅるっせえよお前ら喚くな」

 呆れた顔の平田がやってきて謠子の部屋のドアを叩く。

「謠ちゃーん、話してやんないのォー?」

「絶対嫌!」

「じゃあ俺話しちゃっていいー?」

「絶対ダメ!」

「だってよ」

 秀平も年甲斐もなくムキになり、平田を退かすとドアに寄り掛かりながらその場に座り込んだ。

「話してくれるまで絶対帰りませんからね」

 まるで子どものような後輩にやや呆れ気味の視線を送った平田は、

「夕飯までには仲直りしろよォ」

 その場を立ち去った。


 しばらく、そのまま。

 沈黙が流れる。


 謠子はどうして話してくれないのか。


 彼女の放った言葉。「言う必要ない」、「関係ない」。

 今までこんなことは言わなかった。秀平に関係のない話でも、秀平を納得させ、安心させる為に話してくれていた。


(完全シャットアウト、ってことは、俺に聞かれたら都合が悪い……?)


 何故都合が悪い?


 彼女はキャプターになったことを秘していた。


(キャプターになったのがよくねーこと?)

 そこまで考えていたそのとき、背中にどん、と鈍い衝撃が走る。謠子がドアを開けようとしているらしく、あれ、という声と共に二度三度、ぶつかってくる。

「えっ、何、何で」

 向こう側で狼狽えている様子に、秀平はにや、と薄く笑った。

「出してほしいですか?」

「ちょっと! 何で塞いでるの⁉ ふざけないでよどいて!」

「え~、どうしよっかなぁ~」

「バカ! トイレ! 行かせてよ!」

「話してくれなきゃ嫌ですぅ~」

「もう! 最低、最低!」

 台所から、昼食の片付けをしていた平田が顔を出した。

「おい、うるせえぞ!」




 日付が変わる頃になっても、謠子は秀平と言葉を交わすどころかまともに顔を合わせようとしなかった。

 平田も事態が長引くだろうことを予測していたのか、秀平に対し早く帰るよう何度も言っていた割に、きっちりと秀平の分の夕食と着替え、そして「送ってやるから泊まってけ」と部屋と布団まで用意してくれた。しかも明日着る為の服は勿論、寝間着代わりのルームウェア上下、下着や靴下に至るまで新品だった。買い物に出た際にわざわざ買ってくれたのだろう。あの男は何だかんだいって結構面倒見がいい。

 折角もらったチャンス。しかし相手は強敵。どうすべきなのだろうと布団の上でごろごろ転がりながら考えているうちに、丑三つ時になってしまった。もうあまり時間がない。

「…………行くしかない、か」

 策などあるわけがない。何しろ謠子は子どもだが、秀平よりも頭がいいのだ。やり込められるに決まっている。そんなふうなことを思いながらも、秀平は謠子の私室へと向かった。ドアの隙間から明かりが漏れている。あまり大きな音にならないよう、そっと二回、ノックをしてドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。

「……あの」

 開いた隙間から顔だけ覗かせる。謠子はそれに目をくれるでもなく大きなモニターを見据えたままキーボードを叩いていたが、手を止める。

「きみも存外しつこい男だな」

「納得が、いかないんです。このままじゃ」

 返すと、ふ、と息をついて、

「入るんなら入りなよ」

 ようやく秀平を見た。薄暗い部屋の中に所狭しと並ぶモニター。その光を反射した深い緑の目が星空のようだ。


 ふと、彼女の父親を思い出す。彼の持つ色彩も、光を含むときらきらと輝き美しかった――その死に様は、全身黒焦げというあまりにも無残なものだったが。

 好奇心にあふれ、ときどき幼子のように無邪気にはしゃぐ青年は、以前の謠子とそっくりだった。そういえば、彼女はいつからこんなに子どもらしくない妙な落ち着きを身に付けてしまったのだろう? 父親のようなどこか忙しない賑やかしさとまではいかなかったが、以前はもう少し明るかったような記憶がある。


 すみに立てかけられたパイプ椅子を広げ、謠子の横に置いて座ると、謠子も椅子を回転させて秀平と向き合った。かと思うと、

「理由は話さないよ」

 開始一ターン目のクリティカルヒット。秀平は攻撃を封じられる。謠子はそのまま続けた。

「というより、話さない方がいい」

 デスクの上に置いてあったマグカップを取ると中身を啜った。鼻をくすぐるこの香りはコーヒーか。

「どうしてですか」

「話したら、きみ、絶対首を突っ込むだろう? 過干渉なんだよ。きみは僕の身内じゃない。そうする必要はないんだ」

「身内じゃなくたって、」


 一瞬、詰まる。

 彼女が生まれてから今まで結構な時間を共に過ごしたが、身内ではない。

 では彼女と自分の関係とは何なのか?


「……ともだち、じゃないです、か」

 自信なくぽつぽつ言うと、謠子は、

「まぁ、確かに、友人ではある」

 飲みかけのコーヒーの入ったマグカップを秀平に差し出した。受け取ると想像していたより温かい。一口、飲む。

「友達でも、何でもかんでも話すわけじゃない、って、わかってます、けど。でも、俺、言われてるんです。喜久子さんに、貴女に何かあったら頼むって。先輩にだって、自分じゃどうしても手が届かないところがあるからって」

「そんなことに義務感を」

「義務感、とかじゃないです。言われたってのもあるけど、俺は、今まで、そうしたいからしてきたんです。……何でかは、よくわかんねーですけど」

 突き返すようにマグカップを差し出す。上手い言葉が出てこないのがもどかしい。それを察したか、謠子は少し申し訳なさそうな顔で、秀平の手を両手で包む。

「そんなだから彼女さん怒らせちゃうんだよ?」

「こんなことで怒る彼女なんていらねーです」

「きみとの関係性は今後もう少し考えるべきだな」

「もういっそのこと謠子さんが付き合ってくれればいいんじゃないですか」

「子ども相手に何言ってるんだきみは。そういう趣味なの?」

「全然そういう趣味じゃねーので早く成長して下さい」

「バカ」

 マグカップを受け取りながら、ようやく、笑う。が、その顔立ちは確かにまだまだ幼さの残る子どものままなのに、妙に大人びて見えた。胸が詰まる――何故このひとが、こんなをしなきゃならない?

「……ごめん。僕がキャプターになったのは、少し複雑な事情があるんだ。規定の年齢でない僕が何故キャプターになれたのか――それだけんでくれないかな」

 諭すように、静かに。これではどちらが年上かわからない。

「きみが僕に関わってしまったら、きっと戸谷家のみんなに迷惑がかかる」

「俺が、キャプターの息子だからですか」

 その問いに対する答えであるように、困ったように笑った謠子は、再びパソコンのモニターの方を向いた。

「僕がきみに話せるのはここまでだ。もう寝なよ、眠そうな顔して」


 たった十歳の少女には似つかわしくない、少し疲労しているような横顔を見て、悟った。


 本当は彼女は打ち明けたかったのではないか。

 でも〝話せない〟のではないか。


 真っ当なやり方でキャプターになったわけではなく、しかも施設に住まわず外部にいる彼女は、恐らく目を付けられているのだ。だから秀平がこれまで通りに密に接すれば、同職の秀平の父親、ひいては家族に累が及ぶかもしれない。彼女が案じているのはそこだろう。


「……貴女だって眠いでしょ」

 秀平は立ち上がると、謠子の座る椅子を回転させ、謠子を抱き上げ――ようとして、抱き上げきれずに引きり下ろし、部屋から出た。完全に抱き上げられれば多少は格好がついたのだろうが、残念ながら秀平はさほど背が高いわけでもなく、力もないので謠子の足先は床に着いてしまっている。仕方なく、そのままよたよたしながら洗面所方面へと搬送を開始。

「ちょっと、仕事」

「急ぎじゃねーなら寝ましょうよ。はい、歯磨き歯磨き」

「……もう、」

 謠子は文句を言いたげであったが、

「きみはいつもそうだ」

 諦めてそのまま身を任せた。秀平は、笑う。

「昼間も言ったけど、ちゃんと話してくれるまで、俺施設に戻りませんからね」

「頑固だな」

「お互い様でしょ、昔から知ってると思ってましたけど?」

 自身を抱える秀平の手に、謠子はそっと、触れた。

「ごめんね」

 深夜の静寂に吸い込まれそうな程に、小さい声。


 助けを求めるようにも聞こえた。


 彼女と彼女の伯父だけでははずだ。

 どちらも同じように身内をうしない、その結果たった二人でいる。

 きっと、どちらかがいなくなったら、もう片方は壊れてしまう。


 秀平は、もうしばらく外にいようと決めた。


 このひとたちの味方でありたい。

 



「結局三年か」

 後部座席でしばらく沈黙していた謠子がぽつりと呟いた。もう少しで施設に着く。謠子以外のキャプターに捕獲される気はなかったので、施設に程近いこの辺りにはずっと近寄らずにいたが、飛び出してきてから数年――あまり変わっていないように見えて、あった店が別の店になっていたり、建物がなくなって更地になっていたりと、ところどころ変化している。あっという間に過ぎたように感じていた時間は、想像以上に長かったのだと思い知る。変わったのは町並みだけではない。味方も増えた。

「僕も多少手助けしていたし誠くんも黙認していたとはいえ、よくこんなに長期間逃げおおせていたものだね」

 隣に座る秀平は笑う。

「いつも言ってるじゃないですか。俺は運がいいって」

「その運のよさを試験でも出せればいいですけどね」

 助手席の鈴音に頷く謠子は秀平を見る。

「そうだね。運がいいのはともかくとして、基礎も応用もしっかり叩き込んでおかなくちゃ。試験まではできるだけ面会に行くから一緒に勉強しようね、これまでだって全然足りてないんだし」

 運転席の平田が苦笑した。

「鬼かお前は。フツーに会いに行ってやれよ」

「だって条件は『試験一発合格』なんだよ? それをクリアしないと僕の下に付けてもらえないんだから。来年度やっと人回してもらえるって言ったって、どこの馬の骨とも知れない奴が配属されてくるだなんて冗談じゃない。僕は手塩にかけて育てたトダくん以外はいらないよ」

「熱烈に愛されてるのは嬉しいですけど戸谷です」

「つってもなァ、お前もお前だよ謠子お嬢様よ、俺だけならともかく本部にまで無茶振りしやがって。そんなだから敵だらけになっちまうんだぞ。もーちょっと周囲の顔色うかがうなりすりゃ上手く使えンだし多少はラクな方向に」

「それ謠子ちゃんにできると思います?」

「ああ無理だな知ってた」

 秀平はまた笑う。しばらくこんな三人を見られないのだと思うと少し寂しくもあった。

「だから俺が橋渡しになるんでしょ。少なくとも俺のが謠子様よりは愛想いいし、適任適任」

「ちゃんと一発でキメて下さいよ師範代、謠子ちゃんの為なんですからね」

「俺はやれば出来る子です、那智なちさんのお墨付きだから間違いねーです」

「なっちお前に甘いからなァ~それ過大評価じゃねえ~?」

 

 ゲート外の駐車場に入る。とらわれるかごはすぐそこだ。

 

 車を停めると、平田と鈴音はシートベルトを外したものの車から出ようとはせず、

「帰ってきたらいい肉食わせてやるよ」

「行ってらっしゃい」

 手を振った。それに秀平も、

「行ってきまぁす」

 応えながら、車から降りる。見送りもしない二人の姿勢は素っ気ないように見えるが、必ず戻ってくると信じてくれているのはわかっている。

 反対側の後部座席のドアを開け、謠子の手を取る。春のあたたかな陽の光を受けた金茶の髪が、きらきら輝いた。


「さて、行こうか」

「はい」


 二人は手を繋いだままで、ゲートに向かった。




     了



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戸谷秀平の逃走 半井幸矢 @nakyukya

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