二度目のデート(これも戦い?)。~休戦~

「たっくん……、ねえたっくん!」   


 頭の上で呼ぶ声がした。目を開けるとカオルの逆さまの顔が目の前に現れ、ボクの意識は突然クリアになった。


「もうすぐ制限時間だよ」

 三十分、目一杯泳いだ後、軽い休憩の積りがリクライニングベッドに横たわったとたん意識を失ったようだ。

 カオルの言う通り既に制限時間終了五分前だった。 

「ごめん。ちょっと休んだらカオルちゃんの処へ下りようと思ってたら寝ちゃったみたいだね」

 少女のようなふくれっ面のカオルにボクは両手を合わせ、平謝りした。だが戸惑いを窺わせる彼女の反応になぜか釈然としない思いを抱いた。

「どうしたの?」

 下半身を指差した瞬間、気付いた。膨らみが通常の大きさではない。パンツの中が祭りのあとだ。

「たっくん、どんな夢見てたの?」

 カオルは再びふくれっ面をして今度は睨んだ。他の女にでも現を抜かしていたのかと疑念を抱いたのだろう。いいおっさんがこともあろうに白昼堂々の夢精とは自分でも呆れてしまう。でも原因は明らかにカオルが少年たちに凌辱される、あの光景だ。独りきりの自室ならまだしも、公の場で肉体が何の理性も働かず欲望を簡単に吐き出してしまう事態にも驚愕した。ボクはカオルが第三者に弄ばれることを常日頃から望んでいるのか?だからあんな突拍子もない夢を見てしまうのか?自分は愛する女性を寝取られて喜ぶ異常性欲者なのか?いやそんなコトがあってはならない。カオルはボク一人のモノだ。カオルを誰にも渡したくない。人類の危機が訪れるなんて何時までたっても実感できない。訪れたらカオルと離れ離れになってしまうのか?

 絶対に失いたくない!


 ボクはずっと自戒の念に駆られていた。

「さっきのカオルちゃんの感触を思い出してたのかもしれない」

 心中とは裏腹に気の利いたセリフが口を付いた。真実は告げられないが、咄嗟に飛び出した言い訳は意外に言い得て妙だと思った。

 夢精が示すように、あれは確かに現実ではなかった。だが思い返しても何処がリアルとバーチャルの境だったのかが全く分からなかった。自分のせいだと聞かされたカオルは、しょうがないわねとハニカムような素振りを見せると、急に態度を変え、ボクに耳打ちした。


「たっくんのその汚れ、また舐めてあげようか?」


 それにしても改めて考える。ボクの性欲は今までにも増して底なし沼のように際限がなくなっている。非現実的なカオルの誘いが、淫靡な炎を点火させてしまう。

 それは間違いなくパートナーの影響だ。

 一瞬で陰茎への血流を命令した脳を強引にねじ伏せ、ボクは手を振り、拒否した。


「あ、うん、わかった。それでね……」

 カオルが意外なほどあっさりボクの考えを受け入れてくれたのは、別に本題があったからのようだ。

「たっくんが上に泳ぎに行ってる間ね、男の人に声を掛けられたの。『お嬢さんお一人ですか?』だって」

 カオルは頬を染めた。

「小学生じゃなくて?」

 咄嗟に頭に浮かぶ映像を口走ってしまった。

「小学生?小学生なんかに一人も声を掛けられなかったわよ」

 夢でよかった。だが、それにしても……。

「カオルちゃん、お嬢さんて言われたの?」

「そう、お嬢さんだって……。ちょっと嬉しくなって思わず訊ねたの。『私、お嬢さんて言われるほど若くもないけど、一体何歳に見える?』って。そしたら」

「そしたら?」

「何歳って言われたと思う?」

 カオルは薄い笑みを浮かべ、もったいぶった。少し苛立ったが、顔を覗き込む彼女の期待に応えるよう真面目に考えるフリをした。

「う~ん、五十歳。あ、いや五十代じゃお嬢さんなんて言われないから、四十五歳くらいかな?」

 カオルは顔の前で陽気に手を振り否定した。

「それがね、『三十代半ばくらいに見えた』だって。だからもっと嬉しくなって『本当はもうちょっと上だけど、そういうことにしておきましょう』って返事しちゃったの」

 ちょっとどころではない。

 とても疲れる会話だ。

「それでね、私が意地悪言って、『そのお嬢さんが一人だったらどうするの』って質問したら、この後食事でもどうですかだって。それも同じように何人にもそうやってナンパされちゃった。たっくんよりイケメンもいたかな」

 何て余計なコトを。背中に悪寒が走った。

「それでカオルちゃんは、何人もの人に何て言ったの?」

「ごめんなさい、私が一対一で食事するのはこの子のお父さんとだけなのって言って大きなお腹を見せたの」

 カオルはハニカミながら、真っすぐな目でボクを見た。一瞬胸がときめいた。その言葉に大いに胸を撫でおろす自分がいた。それだけで、何の実りもない、退屈なだけの会話が幸せなひとときに変わる。


 それにしても、目の前にいる現実のカオルはこんなにもボクに一途で奥ゆかしい態度を見せるのに、なぜ夢の中では豹変するのだろう?

 これも人類滅亡の危機と関わりがあるのだろうか?


 加えて、リゾートホテルのプールサイドでもない地方都市の公営施設で、『食事でも』などと言う誘いがあるのも非日常的で妙な話だとは思ったのだが……。 


 このスポーツセンターの入口ホールには、ソフトドリンクやスポーツドリンクの自販機とひと息つくベンチは設置されているが、喫茶施設はない。民間のスポーツジムにあるようなお洒落で気の利いたスペースを公営施設に望むのは些かお門違いだし、不満を言う積りもない。

 だから二人は、いち早くスポーツ施設を離れ、すぐ近くにある大型ショッピングモールに向かった。運動後の栄養補給とリラックスタイムを過ごすには選択肢の多いこの施設が最適だと考えた。目的の店も既に決定済みだ。

 デートだと考えれば見栄を張ってでも費用ぐらいは奮発したいが、悲しいかな潤沢な資金がある訳でもない。かと言って全てをケチっての外出では、ボクの日常を共有したいと願うカオルとて幻滅する可能性は否定できないし、それで結果が悪ければさらに自分が惨めになるだけだ。

 スポーツ施設の利用を安価で済ませたのだから、せめてアフターだけでも贅沢したいと考えれば、ボクの気持ちと懐具合も何とか折り合いがついた。


 二人は焼き肉店に向かおうとしていた。


 実はこの決定、二人とっては意外な展開だった。

 

 最初はパスタの店を考えていた。

 運動直後に素早くエネルギー補給をしたい時、糖質を多く含むパスタはより望ましいとされている。ボクはパスタが大好きで、モール内にある店も映画鑑賞帰りによく立ち寄っていた。だから食が細いカオルも、パスタなら身重の身体にムリせず食べられると考え、先ずはその店を提案した。

 ところがカオルの返事は予想外で意外だった。


「私、焼き肉がいいな……」


 彼女の食生活に反していたからではない。ボクの驚きは別の処にあった。

 実は最近のボクの食生活が、肉系重視に移行していたのだ。理由は、かつて幼少の麻里奈の相手をするのに体力が必要だと痛感したように、カオルとの生活にも今まで以上の体力が必要だと感じたからだ。

 振り回される日常も、肉体的な施しも、確固たる体力がなければカオルの要求を満たすことができない。

 だが、その事実と心境を、カオルにはまだ話していなかった。

 

「最近ね、とってもお腹がすくの。前の三人の時にはこんなコト、なかったんだけどね。それにこの子、とっても元気で中ですごく動くの。毎日のようにお腹を蹴って、私に何かを訴えるの。元気良すぎだからきっと男の子だと思う。それで受け身になってると私も疲れちゃうから体力も付けて赤ちゃんに応えなきゃって、お肉食べる機会が増えたの。だから、いい……?」


 思わぬかたちだが、二人の思惑が一致したのなら、迷う理由はなかった。


「ねえ、たっくんはどっちが生まれてほしい?」

 FMラジオに耳を傾けていると、助手席のカオルが突然下から顔を覗き込んだ。

「ボクは……女の子かな。でも神様からの授かりものだから、どっちが生まれても嬉しいよ」 

「この前一緒に見たエコー検査で、性別って判るんだけど、たっくんは生まれる前に知りたい?」

「いや、ボクは生まれてからの楽しみにしたい。だから知らない方がイイ。カオルちゃんがもしもどちらか知らされても、ボクには打ち明けないでね」 

「そう……、分かった。たっくんが言うならそうする」

 カオルは少し残念そうな表情を見せたが、すぐに笑顔が戻った。


 カオルにとっては初産ではないが、我が子の誕生を待ち望むごく普通の夫婦の会話として、僅か十分程度の車中で交わした何気ない言葉の数々を、ボクはその後気にも留めなかった。


 だがカオルが投げ掛ける言葉の一つ一つが人類滅亡の危機に向かわせると気づかされるのは、ずっと後のことだった。

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