初めてのデート(戦い?)中編。

 よく足を運ぶとは言え、ドーム関連施設の駐車場は高額料金故、全く利用していなかった。壱岐坂通りを一本北に入った一方通行の坂の頂上付近にあるコインパーキングに車を停め、二人並んで下り坂を西へ向けゆっくりと歩を進めた。


『特別はいらない』


 そう訴えたカオルの願いを聞き入れ、全く変わらないルーティーンを踏襲した。だがどのパートも妊婦には過酷な試練が待っていた。

 先ずはこの坂道。球場までは五〇〇メートルほどある距離の三〇〇メートルは急坂だ。叔父との観戦ツアーでは必要ない心配事が次々と訪れる。

 ところがボクの憂いをよそに、カオルの足取りは軽かった。坂道は上りより下りの方が身体への負担が大きいと言われるが、彼女は全く意に介さず、飛び跳ねるように歩いていた。それでも不測の事態に備えて、カオルの右ひじ裏にそっと手を添え横を歩くと、すぐに左手を掴み、右手を絡ませ指先は恋人繋ぎをした。異性と恋人の体で街中を歩いた記憶はほんの僅か。彼女の肌の温もりを感じて心拍数が上がったとたん無意識に足早になった。一瞬気遣いを忘れたボクの歩調にすかさず合わせ、カオルはやや大股歩きをしながら、最初の難所は無理なくクリアした。

 次の試練は壱岐坂下の交差点を渡ると、進行方向正面に。今度は球場入口へと向かうデッキに繋がる上り階段が待ち受けていて、隣接する娯楽施設の三階部分に接続しているため、その距離は長い。

 上りきったその後、デッキを左に折れ、五分ほどで球場のホームベース裏に位置する入口正面に辿り着くと、右手には三番目の試練、二階席入口に向かう長い外部階段が。よくよく考えれば、自然が造った谷底から人工物を利用して、再び車を停めた高さまで昇り詰める過酷なルート。

 辟易しながらも、軽く覚悟を決め、一歩一歩踏みしめるように歩を進める。カオルも右斜め後ろから、一歩一歩確実に上り続け、ボクの後ろを離れることなく頂に辿り着いたのだが、息の乱れは驚くほど感じられなかった。

 二階席入り口前の踊り場で検温と手荷物検査を行い、個人情報を記したカードを備え付けの小箱に入れて、チケットの端をバーコードリーダーにかざす。ゲートが開くと係員に促され、腰高の手摺付き回転扉をゆっくり前方に押し、場内へと吸い込まれる。

 スタンド裏通路に辿り着くと外部の騒音は一切遮断され、試合開始前のグランド内に響くアナウンスが非日常の空間へと野球ファンを誘う。

 ドーム内でもカオルの試練はさらに続く。 

 決して緩やかとは言えない二階スタンドへと繋がる階段を、カオルはまるで心踊らせる野球少年のように軽やかに駆け上った。


「カオルちゃんて案外身軽なんだね。全然知らなかった」


 何度も経験しているのに、身を案じて彼女の後ろを慌てて付いて上がった自分の方が息を切らせていた。その結果も含め、ボクはここまでの道程での数々の驚きを改めて総括した。

「私、スポーツ得意だったの。結婚してすぐ妊娠したから、身体を動かす機会がなくて、そのあとも立て続けに子どもを産んで、育児も毎日の生活も忙しかったから、結局何も出来ず仕舞い」

「そうなんだ!」

 新たな発見が無条件にボクの心を踊らせる。

「だからって、急に身体を動かすと、すぐどこかを痛めたりするから気を付けてね、まあ今さらだけど」

 カオルは突然動きを止め、ボクを見つめ、俯いた。

「やっぱりたっくんて優しいね。パパはそんなことちっとも言ってくれなかった」

 カオルは小さな声で呟いた。

「でも大丈夫。たっくんといると、それだけで心も身体も軽くなって空だって飛べるような気持ちになっちゃうの。死んだ人を悪く言う積りはないけど、パパの時は一度もなかった」

 少女のような笑顔が突然泣き顔に変わる。素直な心の内を、躊躇わずに見せてくれる。

 ボクは感動で胸が熱くなった。


 あれ?カオルは何歳だっけ?


 階段付近を離れ、二階席を上下に分断する中央に横に伸びる通路の手すりに手を掛け、カオルはバックスクリーンに聳える電光掲示板に真っ先に目をやると、間を置かず球場全体を見渡した。 

「中はこんなに広いのね。選手も小さいし、グランドが谷底にあるみたいですごく遠い。これならテレビで観てた方が分かりやすい気がする」

 忌憚のない第一印象がカオルの口を付いた。もともと野球に興味のない人間からすれば、ストレスがかかる現場にわざわざ出向いてまでごひいき球団を応援するメリットがすぐには見出だせなかったのだろう。もしも最初に連れて来たのが叔父だったなら、だったら来るなよと即座に喧嘩が始まったかもしれない。そう考えるとボクに最初のエスコートを頼んだカオルの判断も正しいと言わざるを得ない。と同時に『ママってわがままだよ』と打ち明けた次女の言葉も裏付けられて、カオルという女性に対するボクの見識もこの発言で深みを増した。彼女に抱くネガティブな一面さえ、知ることで明るい未来が開かれる。


「確かにテレビの前で観ている方が、他人を気にする必要もないし、選手はアップだし、解説も付いてる。でもテレビでは臨場感もないし、ファンの一体感もないから感情が孤立して負けた時にはストレスが溜まる。プロの解説がなくて、先入観がないから自分で試合の流れで選手起用を予想したりするのも結構楽しいんだ」

 

 やや通ぶってしまった自分の言葉が恥ずかしかった。


 カオルは薄く笑みを浮かべ、そうなんだねと軽く相槌を打った。だが、ナマの野球観戦の経験がないカオルにはその醍醐味は理解できないだろう。『野球音痴の私にはよく判らない!』とバッサリ切ってしまえば、公衆の面前で赤っ恥をかくボクの立場を考えてくれた、それがカオルの思い遣りなのだと胸が熱くなった。


 二人が座る席はこの中央通路のさらに上。二階席中央通路から見下ろすグランドも慣れていない客には吸い込まれそうな恐怖感を抱くには十分な勾配と高さだ。そして上段に向かえばもっと割り増しされる。

 目標は座席の脇に書かれた列数20の数字。

「そこまでゆっくり上がってね」

 そう指示すると、ボクはカオルを前に立たせ、後ろから見守りながら上り始めた。カオルは時折ボクの様子を伺いながらワンピースが広がらないよう、太股の裏を押さえながらゆっくり歩を進めた。その時だった。


(!)


 カオルが足を運ぶ一瞬ワンピースが揺れ、微かな風を感じた時、やや湿気を含んだ酸いにおいを嗅覚が捉えた。過去の観戦時に汗塗れの男性の体臭を嫌というほど味わった経験がある。それとは異質だが心当たりがなくもない。自分にとって良いとも悪いとも判断し兼ねる香りが、彼女に対する非日常の不安感を煽った。


 座席20の高さに到着すると、今度は座面に表示された席番号を確認し、先に座るようカオルを促した。


「でもこの高さは壮観だね。何となく観に来たいのが判った気がする」

 見渡すカオルの表情が、まるで山の頂に立つ爽快感を感じているようだった。


 この日の先発投手は、本格派と言われるオーバースローの左利き。そこそこ良い実績を上げてはいるが、懸念材料も多い。投げるテンポが素晴らしく、波に乗ると簡単には打ち崩せない能力を持ちながら、一旦打たれ始めると逆にテンポの良さが災いして、投球間隔が単調になる。単調になると、打者もタイミングを『いち、に、さん』で合わせ易く、投げ急いでコントロールが甘くなるから、連打を喫し、瞬く間に大量失点を献上する悪い癖がしばしば露呈していた。気持ちを落ち着かせたり、打者の打ち気を逸らす『間(ま)』という技術を全く使えないのが、その大きな原因だった。精神的に未熟であると言えるかもしれない。

 初回表、持ち前のテンポの良さで一・二番を簡単に内野ゴロで退けた後、三番打者には慎重にコーナーを狙いすぎて、三・二のフルカウントからフォアボールで歩かせた。次の四番には初球簡単にストライクを取りに行き、甘くなった直球を痛打され左中間フェンス直撃の二塁打に。

 早くも懸念していた悪癖が顔を出した。

「あー、またかよ!何回同じコトやってるんだよ!」

 履き捨てるように呟いた独り言にカオルは反応した。

「たっくんも怒る時があるのね。初めて見た」

 横顔が微笑んでいた。

「ごめん、野球の時はいつもこうなんだ」

「ううん、いいの。素のたっくんて見たコトないから新鮮だなって」 


 二死二・三塁。単打でも二得点される可能性が高い。

 次の五番打者は厄介だった。走者が二塁・三塁にいる場合に安打を放つ率、いわゆる得点圏打率が五割以上(二回に一回は打つ)と極めて高い。


 試合開始早々、ボクは唇を噛みしめていた。真剣な眼差しをグランドに送っていただろう。たかが野球観戦だが、永年蓄積された知識で自然と流れが読めるようになっていた。自分の人生には全く関係ない戦いなのに、ここまで入れあげている人間の姿を、全く興味のない周囲は冷ややかな目で見つめているのだろう。微笑んではいたがカオルも内心呆れているに違いない。

 分かってはいるがボクは止められなかった。


(ここは五番を歩かせて……)


「ここは五番を歩かせて、左ピッチャーが苦手な六番と勝負するしかないわね」


 えっ!?

 カオルが耳元で呟いた。その作戦に容易く同意できた。この回をとりあえず無得点で抑えたいなら満塁のリスクは伴うが、切り抜けられる確率は高くなる。


「カオルちゃん、野球……」

 カオルは野球を知っていた。


「全然知らないって言ったけど、ねだった手前、少しは勉強しておこうかと思って。もちろんルールとか最低限の知識はあったらからそれほど大変じゃなかったけどね」


「う、うん……」


 顔を見つめたまま動かないボクに彼女は続けた。


「私、言いっぱなしで何もしないと思った?わがままってね、相手の態度で変わるのよ。ツレなければぶっきら棒だし、優しくされたら気遣うし。たっくんのことだからきっと丁寧に教えてくれると思った。だから予習してきたの。それに、門前の小僧じゃないけど毎日中継の音聴いてるだけでも、様子は何となく理解できるようになったから」

 真一を背後で見守っていたのだろう。


「ここはまだ初回だけど、大事な場面ね。試合の流れを左右する。ピッチャー頑張って!」

 カオルはいきなりボクの手を握り締めた。


 予想通り六番バッターは大きく曲がる変化球に力のないスイングで二度空振りし、最後は高めのボール気味の直球に振り遅れて三球三振を喫してくれた。

「よかった。先ずはひと安心ね」

 カオルは手を強く握り返し、素直に微笑んだ。


 驚くことばかりだった。

 でもその驚きは、ボクの気持ちを楽にしてくれた。叔父との観戦ではお互いの野球論(大それた代物ではないが)が噛み合わず、苛立つ場面も何度かあった。

 カオルと一緒なら、もうそんなコトも起こらないだろう。

 そう思わせてくれたこの瞬間が、二人の明るい未来を想像させ、ボクの心を軽くした。

 

 初回裏、ごひいき球団の攻撃。相手投手の初球の直球を叩いて、足の速い先頭打者がセンター前に安打を放った。

 二番打者はこのチームのキャプテンであり強打者。ストライク、ボールを見極める選球眼は抜群で、フォアボールも多いが、元来勝負は早い。初球の内角へ甘く入った速球を完璧に捉え左中間スタンドにいきなりの先制ツーランホームラン。

 その瞬間、歓喜の雄叫びと共に周囲の同胞は一斉に両手を挙げて立ち上がった。だがカオルのように場内の雰囲気に慣れていないゲストなら、視線の先も定まらないまま、息つく暇もない展開には全く付いて行けず、呆気に取られ、ただ茫然と見守るだけのはず。 

 ところが予想に反して、カオルの反応は的確だった。見事にシンクロし、ファンの一人を演じていた。

 続く三番は内野ゴロに倒れるも、四番の大砲がツーストライクと追い込まれながら三球目を右中間スタンドに運び、いきなり三点を奪う幸先のいいスタートとなった。

 再び歓喜の輪に溶け込むカオルは、ただ単に今起きている出来事を楽しんでいる訳ではなかった。


「これでピッチャーが波に乗れるといいね」


 これは何も知らずに連れて来られた野球音痴の言葉ではない。


 二回の表は七・八・九番の下位打線。先頭打者にフルカウントまで粘られたが何とか三振に切って取る。


「点を取った後の相手の先頭バッターが大事だったけど、上手く切り抜けられたね」


 確かにその通り。ボクは黙って頷いた。

 続く八番の捕手は外野フライ、九番の投手は三球三振と、下位打線ではあるが、淀みのない、いいリズムで終えた。


「とりあえずひと安心。流れはひとまずこっちに来たね」

 

 カオルは試合の『流れ』も理解していた。

 野球は『流れ』を奪い合うゲームだ。ピンチを切り抜けられると、必ずチャンスが訪れる。そこで得点をモノに出来れば、味方にイイ『流れ』がやって来る。しかし得点した直後に失点すれば意気消沈の相手に再び勢いを付けてしまい、『流れ』を簡単に手放してしまう。


「カオルちゃんすごいね。そこまで分かってれば、何も教える必要はないね」

「ううん、まだまだ。選手の名前もまだよく分からないし」

「そんなに詳しくなってどうするの?」

「もちろん、たっくんと共有できる時間が増えるからに決まってるじゃない」

 穏やかに微笑むカオルを見て、込み上げてくるモノを感じた。ボクはただ黙って頷くだけだった。


 打線は主力の活躍で得点を重ねると、脇役はリラックスして自分の仕事を全うできる。

二回の裏先頭の七番打者は、初球からどんな球種にも手を出し、早打ちが目立つ若手なのだが、珍しくフルカウントからファウルで粘ってフォアボールをもぎ取った。続くは、何年経ってもバッティングが上達しない捕手の八番打者は、ただ打たせるしか手がないこの場面で初球を何とライト前ヒット。予想だにしなかったノーアウト・一塁二塁。さらに投球以外は技術が未熟、攻撃では何も期待できない投手が何とツーストライクと追い込まれてからスリーバントを決め、想像もしなかった奇跡のような展開でワンアウト・二・三塁の大チャンスに。場内の歓声も後押しして、続く一番バッターが初球を鮮やかに打ち返し投手の頭上を低い弾道がセンターの前でワンバウンドした。

 二回裏で既に5点のリード。

 前半楽勝ムードは気の緩みを生じやすく、後半に悪夢の逆転、何ていう事態も『あるある』だ。

 ところがそんな心配をよそに、三回表の見方投手は圧巻の投球内容だった。一、二番は初回同様、何れもストライク先行の内野ゴロで打ち取り、僅か6球の省エネ。ツーアウト後に気が緩む悪い癖も顔を出さず、三番打者も三球で浅い外野フライに仕留めた。

 波に乗ると手が付けられない実力を発揮するが、一度打たれ出すと精神があっという間に崩壊するこの日の我が軍先発投手も、ネガティブ思考に陥る前に見方打線が得点を重ね続ける。

 三回裏。簡単にツーアウトを取られはしたが、七番打者のツーベースヒットで出塁すると、またしても『打てない捕手』がレフト前ヒットを放ち、下位打線で得点を追加。

 高飛車の投球もさらに続いた。


 守備時間の短さは攻撃にいいリズムを生み出すという理想的な試合展開の予感。

 頭をかすめた『大逆転負けあるある』が起こる気配も、この状況では微塵も感じられない。

 その根拠の決め手は、相手チームは先発投手が崩れると二番手以降の実力がガクンと落ちてしまうということ。

 カオルの笑顔も弾けっぱなし。

 こんなストレスのない、しかも愛しの女性が傍らで微笑む野球観戦なんて、ボクの歴史上前代未聞の快挙だ!


 四回裏。毎回のチャンスで攻撃に多くの時間を費やしており、試合の進行は普段よりも遅めだった。早くも三巡目を迎えた先頭の一番打者が二球目を叩いてライト前ヒットで出塁した。続く二番のキャプテンが、初球の甘い外角球を力強く、しかも簡単に弾き返し、右中間フェンス直撃のツーベース。三球でノーアウト二塁・三塁の大チャンスを迎えた。三回までの相手投手の投球は、ストライクを先行させ、カウントを有利に進めているにもかかわらず、決め球に精度を欠いて真ん中に集まり、ことごとく痛打されていた。しかしこの回に入ると、投げる球が全てストライクゾーンの真ん中に集まっていた。このまま続投でも、或いは交代でも味方打線は全く手を休めることはないだろう。

 この回もビッグイニング(一イニングに大量得点すること)の予感。


 だからグランドを注視している時間も長く、ボクは異変に気づかなかった。


「たっくん、ごめん私トイレ行ってくる」


 大規模なイベント会場では野外、屋内を問わずトイレ、特に女性側の数が問題になる。設備の整ったドーム内でさえ、長蛇の列は日常茶飯事だ。でも明確なタイミングがある。それはごひいきチームの攻撃が終了した直後に発生する。男女共ほぼ同時で攻守交替の間にその混雑はどちらも収束しない。女性側は男性側ほど回転が早くないから、一度トイレに立つと観戦できない時間が男性よりも多く発生してしまうし、尿意を長時間我慢するのも健康に悪い。

 カオルはボクの助言を聞き入れ、場内に入るとすぐに一度用を足した。彼女が出てきた直後、試合開始が近付くタイミングで列が繋がり始めた。カオルはそれを見て、対策を思案していたのだろう。

 その結論は攻撃中で、理に適っていると思った。スムーズに事を済ませるならこのタイミングしかない。初めて来る大きな施設では一度席を離れると迷子になる可能性があるが、カオルは方向音痴ではないと話していたからその点は問題ない。でも身重の女性を一人で行かせるのは心配だった。

「それじゃあ、ボクも付いて行くよ」

 得点チャンス。絶好の場面。本音は離れたくない。でも致し方ない。

 二人は同時に席を立った。

 以前はスタンド裏の売店が立ち並ぶ通路にも天井吊りのモニターが設置されていたのだが、世界的な事情で無用に立ち止るコトを許されなくなり、現在は撤去されてしまった。だから試合の進行状況は、観客の拍手や場内アナウンスで判断するしかなかった。気遣いが必要の連れなら、自分の思惑通りに観戦を楽しめない場合もあるのはカオルの願いに賛同した時点で覚悟はしていた。

 自分もついでに用を足し、女性トイレの入り口付近で彼女の出を待った。

 すると間を置かずポケットの携帯電話が震えた。トイレの中のカオルからだった。

「どうしたの?」

「少し気分が悪くなった」

「お腹?赤ちゃん?すごく悪いの?誰か人を呼ぼうか?」

 ボクは明らかに狼狽していた。

「ううん、それほどでもないから……、たっくん中に入って来て、背中擦ってくれない?」

「ええっ、ムリだよ。今係の人を呼ぶから」

「お願い、多分今個室の外には誰もいないから、入口から覗いてみて」

 入り口付近に女性の姿はない。周囲に誰もいないのを確認して、中を覗き込んだ。カオルの言う通り無人だった。閉まっている扉も一つだけ。

「カオルちゃんがいるの、奥から二番目?」

「そうよ、だから来て」

「それじゃ、飛び込むからカギ開けて」

 個室の中から開錠する音がした。ボクは素早く進入、ドアを押し開け、素早く締めた。

 カオルは便器には座らず、開くドアの障害にならないように隅に立っていた。

「大丈夫?」

 囁くように訊ねた。

「う、うん」

 カオルははにかんで返事をした。

「赤ちゃんも平気?背中擦ろうか?ココ座って」

 狭い個室に立つ二人は、身体を密着させると、すぐに体勢を入れ替えた。

「たっくんさあ……」

 指示に従い腰を下ろしたカオルの様子がおかしい。

「なに?背中擦らなくていいの?」

「ごめん、本当はウソなの」

「えっ!?」

「気分悪くなったの、ウソ」

「ウソって、それじゃあどうして呼んだの?」

「逆に気分がよくなったというか、気持ちよくなったというか……」

「気持ちよく?」

「便器に座っておしっこして、アソコ拭いてたら何だか感じちゃって……」

 ボクは黙って続きを待った。

「濡れ始めちゃって止まらないの。何度拭いても……だから」

「だ、だから何?」

 半分予想はついた。

「ここでエッチしない?」

 カオルがワンピースを捲り上げると、目の前には既に光る女性器が露わになっていた。

「カオルちゃん、こんな処で何してんの?それに下着は?」

「着けてくるの忘れちゃった」

 あり得ないとは思ったが、やはりあの時感じた香りの発生源はココだった。

「どうして?何で気付かなかったの?」

「ワンピース先に着ちゃって、その後ショーツ履こうと思ってたら、玄関のチャイムが鳴って、そのまま玄関に迎えに出ちゃって、たっくんと抱き合ったら、全部忘れちゃった」

「どうするの?お腹冷えてないの?」

「大丈夫。今身体が火照ってるから。ねえそんなコトより……シヨ」

 そんなコトは大事なコトなのに、カオルは構わず二本の指で縦の亀裂を開き、誘っている。

「な、何言ってるの?」

 言葉は強く否定しているが、明らかに顔から火が出ている。下半身も熱く反応している。

 カオルはジーンズのファスナーに手を掛け忙しく中をまさぐった。ボクは心地よい彼女の手の温もりをただ無防備に感じていた。

 程なく外気に晒された男性器は既に八割程度の膨張を終えていた。

「あと少しね」

 そう微笑んでカオルは『彼』を口に含んだ。既に下が準備を整えているからなのか口内は既に膨張した全てを覆い尽くすほどの唾液が準備されていた。粘液の海に溺れた陰茎は絡み付く舌の動きで瞬く間に臨戦態勢を迎えた。


 ボクは目を閉じ身を委ねてしまった。

 埋まればすぐに吐き出す用意はできていた。


(!)


 突然外が騒がしくなった。攻撃が終わり、人の流れがトイレに押し寄せてきた。打者一巡すると予測したのに、意外に早く攻撃が終了したようだ。若い女性の観戦で興奮した甲高い声は、恐怖すら感じさせた。ボクは素直に狼狽えた。勇んで結集した欲望は簡単には収束しないが、かと言ってこのまま繋がることはできないし、騒音の中吐き出すほど図太い神経は持ち得なかった。


「ごめんね、誘ったのに。このまま止めたら納まらないよね。だからじっとしてて。私の口でイッて」

 カオルの動きが激しくなった。誘った代償を必死に払おうとしていた。だがその動きは冷静かつ正確で、一切物音を立てることなく感度のツボを刺激した。陰茎の周りをゆっくりと粘り付くようにざらつく彼女の舌が這い回った。女王様に拘束を余儀なくされ犯される奴隷のような感情を味わい、得も言われぬ陶酔感で呻き声が漏れそうになった。非日常的な行為がボクの異常な昂りを後押しして、カオルの口内で呆気なく精が放たれた。

 尿道に留まる残骸さえ取りこぼさないように痛いほど根元まで強くしごかれ、粘液は全て彼女の喉奥へと消えていった。

 ココずっと開かないね。何してるのかな?具合でも悪いのかな?と囁く声を耳にしながら二人は息を潜めた。そして十分後、人の波は納まり、幸いにして係員を呼ばれることはなかった。

 カオルが先に外へ出て様子を伺い、彼女の合図でボクは直後に素早くその場を離れた。

 何が起こったか理解できないまま、呆気に取られたまま、ボクの肉体は彼女のお陰で、思いがけない爽快感を味わった。


 それにしても淫靡な香りを放っていたアノ部分を、カオルはどう落ち着かせたのだろうか?再びボクを誘うのだろうか?


 カオルが妊婦であることを忘れ、ボクは次の誘惑を期待していた。たった今終わったばかりなのに、めくるめく光景が、歩き出したとたん何度も脳裏に蘇り、感触を思い出し、下半身が断続的に熱くなるのを感じた。


 ところがこの瞬間を境に、彼女の態度が一変した。


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