初めてのデート(戦い?)前編。
カオルとの入籍は済ませたのだが、しばらく同居はしないと言い出した。
その事実を知らなければ衣服の上から気付くのは極少人数だと思うのだが、妊娠八週を過ぎ、三か月目に入り始めたこの時期になると、カオルの下腹部は見る度に主張を強くしていた。一般的にはつわりがピークを迎える時期でもあり、自分のための栄養すら足りないのではと感じられる弱々しい母体は、幸いにも心配するほどの変化は見られなかった。
華奢な体型を守る鎧のように増え始めた脂肪も印象を大きく変えるまでには至っていない。
それよりも目を見張るのは、以前にも増して、彼女の身体全体から溢れる程の生気が漲っていることだ。さらに彼女の肌は日に日に潤いを際立たせ、三・四十代の女性たちに紛れても遜色のない存在感を醸し出していた。
妊娠は新たな命を育むために十か月もの間行動を制限される過酷な作業と言えるのだが、決して辛いコトばかりではなく、その使命を与えられた女性にも生きる活力を注入するのだと改めて気付かされた。
そんな折、カオルは突然呟いた。
「私、ドームに行ってみたいな」
「えっ?」
東京ドームのことだとすぐに気付いた。
「私、野球観に行ったことないの」
ボクと叔父真一は昔からジャイアンツファンで、生前は毎年二人で数試合プロ野球観戦に東京ドームに足を運んでいた。
既に三人の娘も嫁いでおり、カオルはその度に独りの留守番を余儀なくされた。叔父が彼女に土産を買って帰ったという記憶はない。
ボクは過去の彼女の心情に思いを馳せた。
「いつも独りで寂しかった?」
想定外の言葉に戸惑いカオルは一瞬目を伏せた。
「うん、ちょっとね」
そして照れ臭そうにウインクした。
「じゃあ、行こうか?」
「うん」
歯切れのいい返事が、ボクを笑顔にする。
「ところでカオルちゃんは野球分かるの?」
「ぜんぜん」
否定するのも歯切れがよかった。
「分からないのにどうして?出掛けるならカオルちゃんの行きたい場所でいいよ」
カオルは再び目を伏せた。
「ううん、たっくんが好きなモノ、私も好きになりたいから……、たっくんに野球のコト教えてほしいの」
「真ちゃんも野球好きだったのに、真ちゃんが生きてる時、行きたいとは思わなかったの?」
「パパは人に教えるのすごく面倒くさがるの。でもきっとたっくんだったら優しく教えてくれるかなと思ったから」
叔父の性格からして確かにそうかもしれないが、あからさまに頷くことはできなかった。
「たっくんも初心者に教えるの、面倒くさい?しかもおばさんに……」
カオルはボクを試すように、上目遣いで顔を覗き込んだ。
「そ、そんなことないよ。初心者大歓迎。手取り足取り教えてあげるよ。それにおばさんは余計」
それじゃあ、ドームで手足を絡めてお願いねとカオルは艶を含んで微笑んだ。公の場で絡めたら犯罪になっちゃうよと、ボクは照れて苦笑いを浮かべた。
そして観戦時の二人を想像し、暫し思案した。
カオルが行くとなればお腹に負担のかからない席が望ましい。階段が少ない一階の指定席か、サイドテーブル付きで前が広くゆったり座れるゴンドラ席にその候補は絞られる。
ところがカオルはその両者の提案を拒んだ。
「特別はいらない。たっくんがいつも座っている席で観たいの」
「でも赤ちゃんが……」
「大丈夫、私が言い聞かせておくから」
カオルは優しく微笑んだ。
『ママはたっくんに気に入られようとするから』
ドーム行きを望むこともそうだが、麻里奈の予言は着々と歩を進めていた。
マタニティウエアというと、先ずはなるべく身体を冷やさないため、また荒れやすい肌を隠すために出来るだけ露出を少なくし、なおかつ肌触りのいいモノ、腹部を圧迫しないようゆったりと、そして楽に着られるモノを安易に想像する。
だから柄の派手な服はともかく、デザインは至ってシンプルで、上から下まで余り抑揚のない、滑らかなロングワンピースが、ボクにとっては安心する妊婦の姿だと大いなる偏見を抱いていた。
久しぶりの現役復帰ではあるが、外出するカオルの出で立ちは、妊娠初期であっても早々とその姿を披露し、自覚ある妊婦の行動を執るのだと高を括っていた。
入手したチケットは五月の大型連休明け、週末のデーゲーム。試合開始は、午後二時。
午前十一時。通常一時間余りで到着するのだが、妊婦を労わる心構えで時間に余裕を持たせるため早めにカオルを迎えに家を出た。
だがその思惑は見事に裏切られる。
チャイムを鳴らすと同時に室内に響く足音が、あっという間に目の前で止まる。どうぞという声にドアノブを回すと、そこには今まで見たことのないカオルが立っていた。
袖なしのVネックがネガティブなイメージを即座に吹き飛ばした。前開きで縦に並ぶ大きなボタンの数が、身重だからと後ろ向きにならないファッションへの意欲を感じさせた。
大きなリボンはハイウエストで絞られた位置に配され、裾に向かって身体の曲線を美しく見せるAラインのシルエットが魅力的な白のロングワンピース。
柔らかな肌触りを窺わせるが、カオルの外見はその事実(妊娠)を感じさせないお洒落な女性を演出していた。
(すごく奇麗だ……。)
「どうしたの?」
「う、うん・・・」
頬が紅潮している。心配そうに覗き込むカオルにかける言葉が見つからない。
「どう?」
カオルは両手でワンピースの裾を掴んで軽やかに一回りして見せた。
「う、うん、すごくきれい……」
「えっ!何?」
「えっと、あっ、赤ちゃんどこかに置いてきたの?」
「たっくん何言ってるの?」
「バッチリココにいるよ。しかも元気にお腹蹴ってるし」
「えっ、ウソ?」
「ウソ。まだそこまで大きくないよ。それにしてもどうしたの?」
「ゴメン、あんまり奇麗だから、見たコトないカオルちゃんでビックリしちゃって……」
「ウフ、ありがとう」
カオルは優しくボクに抱き付いた。
ボクも腰に手を回しそっと引き寄せた。
いつまでもこのままでいたいと思った。
(!)
ボクは慌ててカオルを引き離した。
とてつもなく長い時間抱き合っているような気がしたのに時計をみると、経過したのはたった一分。
「まだ時間早いんでしょ?もうちょっとハグされたかったな」
カオルは少女のようなふくれっ面で拗ねた態度を見せ、床に並ぶ厚底のスニーカーに足を入れた。
「カオルちゃん、足寒くないの?身体冷えちゃうよ」
彼女は素足だった。
「大丈夫。今日夏日になるっていうし、妊婦だからっていっぱい履くと汗かいちゃうから」
少女のような言い訳だった。
あれ、カオルは何歳だっけ?
ボクは専ら球場全体を見渡せる二階席を好んだ。打球の行方を簡単に追い掛けられるのもそうだが、敵の攻撃によって変化する守備体型をほぼ俯瞰で確認でき、ベンチの意図を想像するのもプロ野球観戦の楽しみの一つだった。
だが二階席は、一階席に比べると明らかに急勾配で足元に注意が必要だ。身重とは言え、初期の段階で胎児の体重はさほど母親の負担にならないかもしれない。だがカオルの体内に宿る小さな命の存在は、それだけで周囲に対するボクの気遣いを過敏にさせるだろう。
ドームには車で向かった。かつては叔父真一の自家用車を球場まで走らせていた。アルコールを摂らない叔父は、いつも運転を担当していた。今日はボクの車の助手席にカオルを乗せている。ビールを飲めないのは致し方ない。欲張ったら何もできないから。
叔父は話し好きだった。そして何度も同じ話を繰り返した。ボクは『それ前にも聞いたよ』と返したりはしなかった。真一は佐藤家で唯一の男性でありながら、家族会議での採決には、誰一人俺の意見を尊重してはくれないと車内でよく嘆いていた。だからボクは道中いつでも叔父に花を持たせた。彼の話が弾むよう心地よい相槌を打って、雰囲気を盛り上げた。
車内の空気はその頃の雰囲気とはまるで違っていた。どちらかというと自分は話下手だ。助手席には珍しく女性を乗せている。それも美しく、心地よい香りを控えめに漂わせている。しかもその女性が赤の他人ではなく、二人の間の結晶を育んでいる。夢のようなひとときに、ボクが無言で酔いしれていた。
「こんなコト聞くと怒られるかもしれないけど、たっくんにも今までに恋愛経験あったよね?」
カオルが唐突に話し始めた。
「はい、自慢できるような経験はないけど、ありましたよ」
「それで私との時みたいに、赤ちゃんできちゃったことなんてないよね?」
いきなり核心を突いて来る。
「……いえ、これは誰にも言ってないんですけど、実は妊娠させちゃった女性(ひと)がいました」
「えっ、そうなんだ!」
「しかもその相手は人妻だったんです」
「えービックリ!大変だったんじゃないの?美人だったの?」
「いえ、それほど美形って訳じゃないけど、仕事で知り合った凄く感じのいい女性で、意気投合して……。ボクの初めての相手だったんです」
「そうなんだ……。どうしてそうなったの?いきなり着けないで、じゃないでしょ?」
「もちろん最初の頃は避妊具を着けてしてたんですけど……」
「その女性とは何度もデートしたのね」
「はい。その内ボクも感覚が麻痺しちゃって若気の至りというか、遊び半分で……」
「外しちゃったの?」
「はい。そうしたら見事に的中しちゃって」
「旦那さんは?」
「旦那さんにはずっと仕事関係の人、数人と飲み会してることになっていて、最初の頃は許してもらえてたらしいんですけど、その内疑われるようになって……」
「旦那さんと対決したの?」
「いえ、それが突然、中途半端なまま終わってしまったんです」
「どういうこと?」
「『パパと別れる』って息巻いていたので、ボクも覚悟を決めなきゃって思ってた矢先に、旦那さんが交通事故で亡くなって……。それっきり彼女に仕事場で会うことはなくなったんです」
「赤ちゃんはどうなったの?」
「一度だけ手紙が来て『パパの子として産んで育てる』と記されていて」
「結局生まれた赤ちゃんとは離れ離れになったのね」
「いえ、それがある時、噂を聞いて、子供は流産して、その後彼女も病気で亡くなってしまったって……」
「そう……。自分で蒔いた種だけど、辛い想いをしたのね」
「ボクには苦い思い出です」
しばらく車内はFMラジオから流れるDJの声だけが響いた。
「でも私とはそんなことにならないから大丈夫よ、安心して。ずっと一緒にいられるから」
カオルは運転するボクの膝元に両手を置き励ますように微笑んだ。
「たっくんは子供何人欲しい?」
麻里奈にも言われた質問だ。
「こ、子供は好きなんで何人でも欲しいんですけど……」
「そうだよね。ウチの娘たちもよく遊んでもらったから」
「でも、お互いそれなりに人生過ぎちゃったんで、これから何人でもって訳にはいかないですよね」
「それでも何人欲しい?」
「カオルちゃんの家庭も三人だったから、本音を言えば三人……かな?」
「私はもっと欲しいの」
「えっ!?もっとって、カオルちゃんはもうすぐ……」
「大丈夫。私の女としての機能がたっくんのおかげで復活したから、きっと何人でも産める気がする」
還暦間近の女性がバンバン子供を産むなんて聞いたことがない。
ボクを覗き込む彼女の瞳が、まるでこれから未来が広がる少女のように潤み、光り輝いていた。
「これからは、もっとたっくんが大好きなカオルになる。だから私に何でも言って。たっくんのためならいっぱい努力する。たっくんが『十人産んでくれ』って言ったら私も頑張って十人産む」
「えーっ、何でも言ってって子供の話?」
「子供だけじゃないけど、子供のことは特にそう。これからはたっくんの、たっくんだけのカワイイお嫁さんになりたいの」
皺を蓄えた六十路前の女性なら明らかに嫌悪感を抱く言葉も、彼女の振る舞いや肌の潤いにその老いが全く感じられないから、ボクは戸惑いを隠せない。
『パパとの関係にはなかったママが現れて増々たっくん好みの『カオル』に変わっていく』
麻里奈の言葉は本当だった。
「それと、ひとつだけお願い。敬語はやめて。ちょっと年上だけど、私はもうたっくんのモノ。どんどん呼び捨てにして」
それじゃあたっくんと呼ぶのもやめてくださいと返すと、それはダメと言ってカオルは下から顔を覗き込み、ウインクした。
だからこれからは私たちの世界を楽しみましょうと、カオルは両手で左腕を掴み、頬を摺り寄せた。
本当に人類滅亡の危機がやって来るのだろうか?
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