戦いの始まり? というか、始まってる?

『話があるので連絡ください。マリナ090-○○○○-9○○○』


 二日後、携帯電話に麻里奈からのショートメールが届いた。佐藤家とは昔から親しくしてはいるが、個々に連絡を取り合うことはなかった。情報提供者は明らかにカオルだ。


 幼少の麻里奈とは一対一でよく遊んだものだが、大人になってその状況は一度もない。

 先日の彼女の否定的な態度を見て、話の内容は風当たりの厳しいものだと想像できた。だが二人で会うとなれば、その理由も明らかになるだろう。ボクを家族として認めてもらえるなら、彼女が課す条件は全て受け入れようと覚悟を決めた。

 麻里奈は自宅近くまで足を運んでくれるというが、周囲は古くからの住宅街で喫茶店が全くない。軽く思案した後、待ち合わせ場所には近所で唯一外食ができるファミレスを選んだ。そこは有名なハンバーグレストランで、週末には待ち時間も想定しなければ入れない程家族連れで賑わう。麻里奈の住いは夫の実家近くにあり、同じ県内だが、ここに来るまで車でも最低一時間はかかる。だからそんな手間をかけてまで会いに来る麻里奈が伝えたい話の内容は、決して軽いモノではないと改めて身を引き締めた。


「ゴメンね。いきなり呼び出しちゃって」

 ボクの姿を確認し、立ち上がる麻里奈は意外な程穏やかな笑顔で迎えてくれた。

 お昼時だが、店内は六割程度の入りで割りと静かだった。住宅街とはいえ、非日常を味わいたい家族が訪れるこの施設に、平日足しげく通う近隣住民はさほど多くはないのだろう。

「お昼まだでしょ?とりあえずご飯食べようよ」

 麻里奈の話し振りに深刻な気配はない。身構えていた緊張感が一気に緩むと、心地よい空腹感が気分を高揚させ、ボクは素直にメニューを覗き込んだ。

 近所にありながら、ボクはこのレストランの常連客ではない。ハンバーグが特別好きでもないし、子供がいる訳でもないのがその理由だ。だから訪れるのは半年に一度くらい。ハンバーグの味自体はどれも一緒だから、その際には決まってカレーのかかったディッシュセットのコーンスープ付きを注文。それとどのレストランを訪れても飲みたくなるコーラフロートを合せて頼んだ。

 麻里奈はというと、カレーの上に更にチーズを載せたディッシュセットの、ボリュームのある三〇〇gにライス大盛を注文(コーンスープ付きにドリンクはホットコーヒーで)。ボクが目を丸くして驚いていると、手の掛かるチビちゃんが二人いるといつでも体力勝負なのと、母親の貫禄を見せ微笑んだ。

 食後の胃もたれを気にして、一五〇gにした中年男とは大違いだ。

 ウエイトレスがメニューを下げて立ち去ると、ボクは少し身を乗り出して体重が三キロ減ったあの夏の日の思い出を麻里奈に話した。すると麻里奈も覚えていてくれてそうそうあの頃はたっくん大好きだったから、ずっと付き合ってもらってたよねと、懐かしそうに相槌を打ってくれた。


 程なくして注文の品が届くと、二人はしばし無言でハンバーグを切り箸を進めた。


「たっくんさあ、ママのことありがとうね」


 えっ!?


 麻里奈はハンバーグを一切れ口に運び、徐に口を開いた。 

「ママ独りぼっちになるの、すごく心配だったから、たっくんに拾ってもらって実はホッとしてたんだ」

 先日とはまるで別人の態度。


「たっくんてさあ、ずっと前からママのこと好きだったの?」

「う、うん……」

 一転して好意的な彼女の態度に、心の防御はあっさり解かれ、ボクは素直に吐露してしまう。

「麻里奈が生まれる前から?」

「え、あ、うん……」

「あっ、もしかして、パパと結婚する時から気になってたのかな?」

「う、う~ん」

 頬が熱を帯びたと感じた。

 歯切れが悪いが、無邪気な笑顔で覗き込むかつてのやんちゃな少女に、ボクはあっさり白旗を上げた。

「ふうん、そうかあ、でもやっぱりたっくんて真面目で優しいね。パパが死ぬまで待ってて、それもすぐじゃなくて、喪が明けるまでなんて、筋金入りの優しさだね」

「べ、べつにパパが死ぬのを待ってた訳じゃないし、こうなったのもたまたまだし、タイミングが合ったというか、背中を押されたというか……」

「え?誰かに背中押されたの?」

 夢の中のリリスが一瞬頭を過った。

「あ、いや、誰に押されたというのはないんだけどね。何だか急に踏ん切りがついてね」

 そうかあ、それにしても相手がたっくんでよかったよと、麻里奈は頻りに同じ言葉を繰り返した。

 彼女にしてみれば、無意識に漏れた心の内だったのだろう。後にこの事実が深い意味を持つとはボクは考えもしなかった。


 再び無音の時が過ぎ、食器を慣らす音だけが二人の間に響いた。

 沈黙がボクの気持ちを軽くした。話が途切れたのは伝えたいコトが終了したからだと、早合点していた。だが、それはボクの警戒心を解くための作戦で、本題はここからだった。


「たっくんはさ、何歳まで生きたい?」

「え?何歳まで?」

 麻里奈は唐突に質問の主旨を変えた。

「それはどういうこと?」

 真意を問い質しながらも、カオルとボクの今後について尋ねているのだと思った。

 麻里奈に言われて、そんなことは一度も考えて来なかったと、改めて人生を振り返った。

 若い頃は、人間は間違いなく死が訪れるのにその終わりはずっと先にあると思い込んでいた。だから行動には無駄や、努力しない諦めがたくさんあって、何の成果も上げられなかった。人生も半生記を迎えようとする今、若い頃と同様中途半端な考えではこのまま何も成し得ないで一生が終わってしまう。その日が明日来るかもしれないのに。


「今は男女の平均寿命も延びてるし、『人生百年時代』なんて言われてる。ボクも百歳まで生きられたらいいなとは思うけど、ただ寝たきりでその時を迎えるなら、そこまで行かなくても構わない。死ぬ直前まで自分のやりたいコトが精一杯できるなら、もう少し早く逝ってもいいかな?」

 改めて心を入れ替える意思表示のように、ボクは答えた。

「具体的には何歳くらい?」

「それを聞いてどうするの?」

 彼女の執拗な問い掛けにボクは少し困惑した。

「たっくんがもしもこれからずっとママと一緒にいたいと思うなら、ママを好きでいてくれるなら、ママはずっとたっくんと一緒にいられる」

「そうなの?」

「多分たっくんが百歳まで生きたいってママに言ったら、ある目的を途中で達成できない限り、ママはずっと生きていられるの」

「どういうこと?ある目的って?」

 麻里奈はあえて疑問符を無視しているようだった。

「ずっと一緒にいたいと思うママと、たっくんはずっとセックスしていたい?」

 プライベートに、しかもデリケートな部分に切り込み重ねた彼女の質問は思いがけず衝撃的で、自分が何を訊ねたのかが一瞬で消え去ってしまった。

「えっ、マリちゃん何言ってるの?」

 即座にそう返したものの、迷わず問い掛ける彼女の勢いに、躊躇いや戸惑いすらはばかられる気がしてボクは素直に返した。

「君のママは歳の割にはずっと奇麗だなって思ってたし、子供ができたら更に若返った気もする。もしもママがボクをずっと好きでいてくれて、肌を重ねることで他人より何倍も若さを保てるなら、ボクの精力が失われない限り何時までもママを抱き締めていたいな」

 上手くまとめられたと自分の返事に酔っていた。だが麻里奈は再びあっさりと通り過ぎた。

「たっくん、もっと子供欲しい?」

「こ、子供は嫌いじゃないから理想は何人も欲しいけど、現実問題、体力的なコトと経済的なコトが常に付き纏うからせいぜい三人くらいかな」

「もしもママがもっと欲しいって言ったら?」

「彼女が強く願うなら考えなくもない」

「そう……」

「どうして?」

「たっくんとの間に赤ちゃんができて新しいパートナーが見つかったことで、ママはたっくんとセックスする度にどんどん若さを取り戻す」

「え?それは精神的に安定するからってこと?」

「ううん、そうじゃない。物理的に、身体の仕組みがそうさせるの」

「身体の仕組み?」

「そう。麻里奈にもその仕組みはよく分からないけど、長い歴史がそれを物語ってる」


 長い歴史?一体何のコトだ?


「そしてたっくんに気に入られたくて、パパとの関係にはなかったママが現れて増々たっくん好みの『カオル』に変わっていく。場合によっては人格すら変化する。パパと一緒にいる時のカオルとは違う、全く別の『カオル』にね。そしてたっくんはそんな魅力的なママの虜になる。今のママ、ううん、これからのママにとってはたっくんの精子を自分の中に受け続けるコトがとても重要になってくる。ママはそんな生き物になったの」

 麻里奈の口から子種の話が出るとは想像もできなかった。しかもそれはボクの種。

 麻里奈は生態を知り尽くし、全てを理解した研究者のよう自分の母カオルを人間とは異質の生物のように語り始めた。


「生き物って、まるで怪物扱いだね」

 ボクは冗談めかして苦笑いを浮かべていただろう。


「そう、姿形は人間だけどある意味モンスターかもしれないね。たっくん一筋のモンスター……」

「ママはいつからそのモンスターだったの?」

 麻里奈は少し間を置いた。

「ずっと昔から。でも私が生まれた後はずっと普通のママだった。それが復活したのはあの時からなの」

「あの時?」

「そう、あの時」

「あの時っていつ?」

「それはママがたっくんに抱かれて、たっくんがママの膣内(なか)に射精した時、モンスターは復活した……」

 

 えっ!?


「本当はね、私ママに『大事な話がある』って呼ばれる前から知ってたの」

「な、何を?」

「たっくんがママとセックスしたこと」


 えぇーっ!!


「ど、どうして?監視カメラとか盗聴器とかあるの?」

「そんなモノはあるはずないよ。でも……」

「でも?」

「でもね、ある人から知らせが来たの。『カオルが求められた』ってね」


「それからは、私も分かるようになった。たっくんがママに放った瞬間、『あっ』って私も中でも感じるの」

「それじゃあ……」

「ママと何回したかも分かっちゃうの」

 顔から火が出る程恥ずかしかった。

「どんな風にしてるかとか、体位とか・・・」

「そんなことは分からないよ、安心して。分かったら麻里奈も恥ずかしいし」


「どうしてそれが判るの?それは麻里奈がママの子だから、テレパシーか何かで?」

「確かにその理由の一番はママの子だから。でも他にママとの間に特別な関係があるからなの。だけどそれはまだたっくんには教えられない秘中の秘」


 秘中の秘?


「それでこれからボクはどうしたらいいの?それで二人はどうなるの?」


「たっくんにはこれからもママの傍にいて、ママを変わらず愛し続けてほしいの。そしてママに振り回されて、ママの言いなりになってほしいの。そうすれば必ず『瞬間(とき)』がやって来る。それまでは二人の世界を育んでいくしかないの。私たちはママとたっくんの生活を静観するしかないの」

「『瞬間(とき)』が来るって、何が来るの?」


「人類滅亡の危機よ」


 えーっ!?


 ボクは口の中の咀嚼物を吹き出しそうになった。食事をしながら人類滅亡の危機を語っているとは誰も思わないだろう。それ程インパクトのある言葉だった。

 しかしハンバーグを一切れ口に運び、確かに麻里奈はきっぱりと、そして事も無げにそう言い切った。


「じ、人類滅亡の危機って、こ、ここで呑気にご飯食べてていいのーっ!?」

 ボクは驚きは当然の如く尋常ではなかった。

 大声で叫びたかった。でも可能な限りの切迫感を表情に出し、出来る限りの小さな声で麻里奈に訴えた。

 

「大丈夫、すぐには来ないから」 


 麻里奈はコップの中の氷水を一気に半分喉奥に流し込んだ。


「すぐには来ないって……」

「人類滅亡の危機が来るにはママとたっくんの関係がこれからもっと深くなって、ある処まで進展しないと起こらないの」

「ある処までって、と、途中で止めるコトは……?」

「それはできない。ママがたっくんの赤ちゃん身籠った時点で既に始まっているの。人類の危機を回避するには行き着く処までいかないと、外部の人間が手出しできないの」

 麻里奈はハンバーグの付け合わせのフライドポテトを口にした後、ゆっくり続けた。

「だからと言ってタイムリミットがある訳じゃないの。ママとたっくんの関係がどうなっていくか次第なの」

「関係が破綻したら?」

「それはあり得ない。だってたっくんはママから離れられないから」


「でも人類滅亡の危機って一体何が起こるの?」

「それはまだ教えられない。たっくんはたった今これから起こる現実を知らされただけ。覚悟も何もないでしょ?教えるのはたっくんが全てを受け入れて腹を括った時。大丈夫、その時は絶対麻里奈が力を貸すから。それが麻里奈の使命だから。覚悟って言っても多分それ程大げさなコトじゃない。安心して。だから今はママに振り回されて。ママの言いなりになって、ママを深く愛してあげて。それがママとたっくんを、いいえ、みんなを救う最善の方法なの」


 凄く大変なのか、簡単なコトなのかその時のボクには全く理解できなかった。


「本当に大丈夫だから。麻里奈に気兼ねなくママとたくさんセックスして」

 娘にセックスを奨励されるパートナーは、世界広しと言えども恐らくボク一人だろう。


「でもママの行動には気を付けてね」

「何を?」


 麻里奈はウインクするだけで、その後は何も言わなかった。

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