第61話 VSマーマン
彼女の肌はしょっぱくて、スベスベで、滑らかだった。
乙姫は嬉しそうに笑っているのに、申し訳なさそうな目をしていた。
大好きです、と彼女が耳元で囁いた声が震えていた。
愛してます、と乙姫が言いながら泣いている。
私はズルイ女です、とも言っていたような気がする。
布団の上で彼女の心情がぐちゃぐちゃになっているのがわかった。
だけど、それがなぜなのかはわからない。
俺は砂漠で水を与えられた旅人のように、貪るように乙姫を求めた。
頭では、こんなことしちゃいけない、とわかっている。
だけど体が言う事を聞いてくれない。
体の芯が熱い。
女を求めてしまう。
ステータスがみるみる向上していくのがわかった。
五感が研ぎ澄まされていくのがわかった。
彼女の味、心臓の音、瞳の揺らぎ。ちょっとした事が俺に伝わって来る。
抱きしめて、と泣き出しそうな声で乙姫が言った。
俺は彼女を抱きしめた。
「主人様が記憶を取り戻して、ある女の子のことを思い出しても、私のことは忘れないでください」と乙姫が言った。
海水で濡れた布団の上に俺は寝転んでいた。
「ある女の子?」
彼女が俺の手を握っていた。
「私は主人様のことを好いております。どんなことがあっても。……主人様が誰を好いていても」
なんだかよくわかんねぇーけど、俺には大切な人がいるのか? 俺というよりも、俺の前世の話か。
研ぎ澄まされた五感。
殺気を放ってコチラに近づいて来る何者かの気配がした。海の中を猛ダッシュでコチラに向かって来ている気配。
「何かが来るような気がする」と俺が言う。
乙姫が扉を見つめる。
「急ぎましょう」
彼女が立ち上がる。
そして部屋の隅に置いてあった玉手箱を持って来る。
「この玉手箱に主人様のスキルが入っております。地上に上がったら、玉手箱を開けてください」
俺は玉手箱を受け取る。
厳重に紐で巻かれている。
今、開けている時間は無さそう。
「はい」と俺は返事をする。
「窓からお逃げください」
立ち上がって、窓の方に向かった。
乙姫を見る。
「太陽を目指して行けば、鬼ヶ島に着くはずです」
「はい」
「鬼ヶ島には鬼がたくさんいます。どうか死なないでください」
「はい」
「エンマ様に会えれば、鬼も襲ってこないと思います」
「はい」
「いってらっしゃいませ。主人様」
窓を開けると海だった。
泳いでいくのか? それしかねぇー。
海の中に入る。
乙姫が手を差し出す。
その手から空気が溢れ出して、俺の顔を覆う。
息ができる。
ニッコリと彼女が笑った。
部屋の引き戸が開き、海の水が畳の部屋に流れ込んだ。
引き戸を開けたのは男の人魚だった。たしかマーマンって言うだっけ?
大きなフォークのような武器を持っている。髪はウェーブしていて金髪で長い。首には金のネックレスを付けている。
全裸? というべきなんだろう。服を身につけていなかった。
マーマンの表情は怒りそのものだった。
目は吊り上がり、眉毛は吊り上がりすぎて縦になっていた。
俺はマーマンから逃げるように太陽に向かって泳ぎ始める。
ステータスが上がっているせいか、体が軽い。
凄いスピードで光に向かって泳いでいく。
マーマンも俺を追って窓から出て来る。
海の中で追われているっていうのは、すげぇー恐怖。
しかもマーマンって大きい。
シャチぐらいに見える。
ステータス向上して泳ぎが早くなっていても、海の中ではマーマン選手には勝てない。
すぐに追いつかれる。
ヤバい。殺される、と思った。
乙姫が付けてくれた顔を覆う酸素ボンベをマーマンが大きなフォークで刺した。
風船が割れるように、ブシューーと空気が抜けていく。
すぐに俺は溺れる。
マーマンが大きなフォークで俺の首を刺した。
グサッと貫通したわけじゃない。
フォークの隙間に首が入ってしまった。
攻撃もできない。
マーマンはそのまま、俺を海底に引きずり込んでいく。
耳がキーンとする。
体に入っていた空気が口から漏れる。
苦しい。
でも自動回復があるおかげで死なない。
死なないのに苦しいから気絶する。
でも、すぐに回復して意識を取り戻す。
だけど苦しくて意識を失う。
誰か助けてくれ。
海底の底にドスンと叩き付けられた。
俺は覚えたてのエアーガンを手から出す。
手の平から気泡が出る。
それがマーマンの顔面に当たる。
一切、効いていない。
やべぇー死ぬ。
自動回復と言っても、回復するスピードがある。
それを越えようとしている、っていうのが何となくわかった。
意識を失う。
次に目覚めた時に、乙姫がマーマンを羽交い締めにしていた。
「お逃げください」と乙姫が言った。
大きなフォークから抜け出す。
俺は太陽に向かって泳ぐ。
酸素。酸素が欲しい。
手の平からエアーガンで酸素を出す。
熟練度が無いせいで、乙姫がやってくれたように顔に固定することはできないけど、気泡を大きく作って酸素を吸うことができた。
だけど、ちょっと酸素を吸うと、もっともっと酸素が欲しくなる。
やべぇー海水飲んじゃった。
海の中で咳き込む。
咳き込んだら海水が口の中にドボドボドボと入って来る。
意識を失う。
沈んで行く。
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