聖女堕つ

 その日も聖女は街に出ていた。

 特に何もすることはなく、静養という名目があるが本当に退屈でつまらない。唯一暇を潰せるとしたらノアが作ってくれるお菓子を食べている時間、そして脳裏に浮かんだ男に色々とされることを想像して体を火照らせている時間だ。


「……はぁ。この私が恋煩いなんて」


 小さな溜息を聖女は吐いた。

 何度も言うが聖女はとても欲深く、そして強欲な人間だ。しかし、一人の何処にも居るかも分からない男に恋をしている瞬間は一人の女だった。


「……彼はそろそろ来るのでしょうか」


 ノア自体には全く興味はない、興味があるのは彼が作る甘味だけだ。

 いつものようにお供を連れず、ノアが現れるのを待っていた聖女だったが……今日に関しては全く別の存在が現れた。


「……?」


 何かが体に纏わりつく感覚に首を傾げた。しかし、その違和感を感じたと思ったらその瞬間聖女の体は街中ではなくどこかの家へと飛ばされていた。


「……え?」


 突如切り替わった景色に理解が追い付かない。

 聖女も転移魔法によって場所から場所へと飛んだことはあるのだが、それよりも遥かに発動が早く正確だった。一体何が起きたのか、そう考えた聖女の耳に聞き覚えのある声が届いた。


「こっちよ聖女」

「っ!?」


 その声は忘れようもない。

 聖女は瞬時に背後を振り向き、そして絶望した。


「……どうしてあなたがここに……っ!!」


 聖女を呼んだ存在、それは少し前に自分を含め仲間たちを完膚なきまでにボロボロにした存在――魔王ニアールだったのだ。

 どうしてここに居るのかという困惑よりも、一人で出会ってしまったことによる恐怖が先に出てしまう。思わず尻もちを突き、無様にもそのまま這うようにどうにかニアールから距離を取ろうともがく。


「……あら、そんなに怖がらなくても良くないかしら」

「魔王様、それは少し無理な話かと」


 困ったような表情のニアールにルミナスがそう口にした。


「……え?」


 そして、そこで気づいたのだがニアールの傍に見覚えのある顔があった。それは聖女が待っていたノアの姿だった。視線が合ったノアは怖がる聖女の姿を見て苦笑し、ニアールにこそっと耳打ちをしていた。


「分かってるわよ。ねえ聖女、こうしてあなたを呼んだのは他でもないの」

「な、なんですか……」


 生きた心地はしないがまだ死にたくない。それは人間が持つ生存本能だった。下手なことを口にして殺されるのは嫌だが……正直なことを言えばいつ殺されても仕方ないと心は諦めていた。


 一歩ずつニアールは近づき、目の前でしゃがんだ彼女は聖女に手を伸ばす。思わず目を閉じた聖女だが、肩にトンと優しく手を置かれるだけで目を丸くする。


「あなた、とあるドラコに会いたいそうね?」


 とあるドラコとは……まさかあのドラコのことなのか!? そう聖女の心は一色に染まり、恐怖なんてものは瞬時に消え去った。


「会いたいです! もしかして知ってるのですか!?」

「おぉ……アンタ凄い変わりようね」


 決して女性がしてはいけないくらいに鼻息を荒くし、さっきまでの恐れが嘘のようにニアールの肩に両手を置いてブンブンと揺らす。あまりに不敬であり、いつ殺されてしまってもおかしくないがその勢いにニアールが若干引いていた。


(あの人に会えるのなら魔王なんてなんぼのもんじゃい!! いや絶対に勝てないのは分かってるしすぐに殺されるだろうけど……それならあの人に会いたい! どうせ死ぬなら告白して抱き着いてベロチューしてエッチして死にたい!!)


 ちなみに、サンは今居ないのでその心の声は誰にも聞かれてはいない。

 聖女の勢いに押されていたニアールだが、これは逸材だなと頷き手元に鏡のようなものを生み出した。その鏡に映るのは聖女の顔だが、まるで空間が歪むような変化が起きて全く別の存在の顔が映った。


「……これは!?」


 そう、映ったのは愛してやまない好みド真ん中のドラコだった。

 目に見える速さでニアールから鏡を奪い取った聖女は瞼を限界まで上げ、空気に目が触れて充血するのも構わずに見つめ続ける。


「彼、私の部下で名前はライガルって言うの」

「ライガル……様♪」


 名前も知ることが出来てご満悦の様子だ。

 完全に目がハートになってしまい話が出来る状況なのかイマイチ分からないが、どうやら受け答えはハッキリしているらしい。


「聖女、彼をあなたに会わせてあげる」


 ギロッと聖女はニアールに目を向けた。

 ニアールはその眼光の鋭さに思わず悲鳴を上げてノアに抱き着きそうになったがそれも仕方ない。ルミナスさえもひっと悲鳴を上げそうになったくらいに聖女の執念がその瞳に宿っていたからだ。


「……何を望みですか? 魔王であるあなたが人間の私にそのような提案を……一体何を考えているのです!!」


 人間たちの希望である聖女として堕ちるわけにはいかない。

 ビシッと人差し指を向け、強い口調でニアールを問い質す。しかし残念かな聖女の顔はニヤニヤと欲望を隠せておらず、早くライガルに会いたくてたまらないという顔をしていた。


「彼ね? どうも私にお熱みたいなのよ」

「はっ?」

「話は最後まで聞きなさい。ステイ」

「ワン」


 おい、それでいいのか聖女よ。

 人類の希望たる聖女は堕ちてはならない……堕ちてはならないのだ!! だから聖女よそんな風にみっともない顔を晒してはダメだ!


「でも私は魔王で恋愛に現を抜かしている場合ではないわ。だから、ずっと叶わない恋をする彼に前に進んでほしいの。そう、あなたみたいな美しい子が傍に居れば彼も幸せになれると思うのよ」

「なるほど、一理ありますね!!」


 どこまでも自意識過剰な聖女である。


「ライガルはそれなりに武勲を上げているからお金持ちよ。戦いがなければ基本的に領地に居るから自由が多くてイチャイチャも多く出来る」

「はいはい!」

「少し人間に対して見下している部分はあるけれど、女の子に対しては何だかんだ甘いわ。だからこそ、頑張れば彼を虜に出来るかもしれない」

「してみせます!!」


 ……聖女、人類はお前を信じているぞどこまでも。

 背後で見守るノアとルミナスは呆れたように見つめているが、聖女はニアールの声しか耳に入っていない。


「人間側を捨ててこちら側に来るかしら? もちろん、あなたにこちらの戦力として戦えとは言わないわ。そもそも私たちは争いを好まない、あなたたちとやり合ったことは水に流しましょう。それじゃあどうす――」

「私、今日からそちら側の人間になります!!」

「……こほん、ようこそ歓迎するわ! 頑張ってライガルを篭絡してね♪」

「分かりました魔王様!!」


 ……もうだめだこの聖女。

 この日、人類の希望たる一人の聖女が姿を消すことになった。いきなり姿を消すと怪しまれるので、しっかりと王都に聖女を引退する旨を手紙にしたためて聖女は正しい順序を踏んだ。


 聖女の名はヨク・バーリ。今日彼女は聖女ではなくただのヨクとなるのだった。

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