第8話 どうかしている

「ああ、ごめん、ごめんね佳乃」



 慌ててティッシュでぬぐうが、佳乃の「雨漏り唄」のページ右側の中心から少し離れた部分にシミはくっきりと残ったままだった。

 「あ」と「え」の間に昔からずっとあったかのようにそのシミは残り、拭っても拭っても取れなかった。

 拭っても拭っても、拭っても、拭っても、とれない。

 シミの部分は紙が弱くなり、ぬぐっているうちに破けてしまった。



「あ」



 為男は呆然と、佳乃をテーブルの上に落とし、眺める。小さな穴の向こうから、その部分には本来あるはずのない文字が見える。


 モノに宿った魂は痛みを感じるわけではない、というのは喜多瀬川から聞いて知っていた。

 この穴も佳乃に痛みを与えてはいないだろう。もし与えていたとしても、為男にそれを知る術はないわけだが。

 何しろ佳乃は何も話さず、何もできず、何もこちらに働きかけては来ないのだから。



 その時、為男は再び狂気を目の前にしていた。



 為男の頭に浮かんだその考えが、為男を狂わせようとしていた。


 人間の佳乃は死んで、花瓶へと魂はうつった。

 花瓶は割れて今の「詩歌篇」の佳乃へと魂はうつった。



 じゃあ、この佳乃の肉体が壊れてしまえば?



 喜多瀬川は佳乃の魂と為男の魂を結びつけるようおまじないをした、と話していた。次も恐らく為男の身の回りのもの、そして佳乃と縁のあったものへ魂は移るのだろう。


 次は椅子だろうか、服だろうか、ゴミ箱か、CDか、そしていつかは・・・・・・いつかは、人に生まれ変わるかもしれない。


 その可能性に思い至ると同時に為男はそれを考え付いた自分に恐怖していた。

 つまりそれは、佳乃を、次々と姿を変える佳乃を、殺し続けることに他ならない。


 自分がまた狂い始めていることに気がつき、為男は佳乃をテーブルへと放り、できるだけ離れようと部屋の壁際まで後ずさった。



 どうかしている、そんなことを考え付くだなんて。



 急に全身から力が抜けて、為男は床の上にへなへなとくずおれて伏した。

 頭をかきむしって、佳乃へ詫びの言葉を唱え続けた。それはテーブルの上にいる佳乃へではなく、かつていた、そして今はもういない、人間の形をしていた佳乃への言葉だった。


 少ししてからその謝罪が途切れると、為男は佳乃をベッドへと運び、倒れるようにして眠った。

 疲労はすぐに為男を夢へと誘い、夢の中で為男は人間の形をした佳乃と抱き合い、久しぶりのその温もりを泣きながら喜んだ。



 このぬくもりをもう一度失うことができるか? できるわけがない!



 為男は夢の中で叫び、そして泣いた。






 三日後、為男は「詩歌篇」を燃やした。

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