第7話 詩歌篇
――奥さまは、本になりました。
花瓶が割れてから五日後に喜多瀬川にそう言われて為男が本棚を探すと、言われた通りの特徴の一冊の本が見つかった。
詩集だった。
一人の詩人の詩を集めたものではなく何人もの詩が集まったもので、それほど厚くはなかった。
淡い青一色の装丁はしっかりとした布張りのもので、題名はたった一言『詩歌篇』とあるだけだった。
生前、一番最初の肉体の佳乃がそれを気に入って読んでいたのかどうか、為男には自信がなかった。
奥付もいれて全部で130ページ。
きっちりと数え何度も何度も読んだので、為男は何ページにどの詩が書いているのかまですぐに思い出せるようになった。
最初の一週間、為男はその本を丁寧に丁寧に扱い、佳乃の帰還を喜び、花瓶と暮らしていた頃と比べても劣らないぐらいに佳乃を愛で、幸せに暮らした。
花瓶を失った時の悲しみ、自分が狂っていたという恐怖があったから、なおのこと、そこに佳乃の魂がいるということを噛みしめて為男は日々を丁寧に暮らし、細心の注意を払って佳乃と過ごした。
もう二度とあの悲しみを味わいたくなかった。
度々、悪夢を見て起きた。
血まみれになった自分の真横に、バラバラになって死に絶えた佳乃がいる、という夢だ。
夜中に起きて布団の中の佳乃を探しだし、強く顔に擦り付けて泣いた。
自分がいまだにあの狂気と悲しみの方に体の半分をはみ出したままでいることを、為男はよく自覚していた。それでもその危うい側に落ちないように気をつけて、佳乃との幸せを守ろうとしていた。
瓦解のきっかけは、食事中のふとした出来事だった。
その頃の為男は、佳乃に話しかけても言葉が返ってこないということに少しずつ空しさを覚え始めていた。
その空しさを無理やり払拭するべく、佳乃を開いてそこに書かれた言葉を読み、文字に返事を返すことで会話をした気分になろうと苦心する毎日を送っていた。
会話にならないような詩の一部……、
「そこに漏れた光を 俺は手探りで 掴み 結んだのだ 明日を」
と、いうような文から佳乃の気持ちを無理やりこじつけてそれに返事をするというのはなかなか難しかったが、為男は辛抱強くそれを続けていた。
為男は、自分でもはっきりとは気が付いていなかったが、明らかにイライラしていた。
それは以前の佳乃と会っている時には感じなかった種類の苛立ちだった。
人間の肉と骨を持った佳乃ばかりではなく、ガラスの体を持った佳乃と比べてすら、今の佳乃は不自由だった。
この佳乃は……『詩歌篇』の佳乃は、あまりにも繊細で、静かで、そして軽すぎた。
触れることはできるが、抱こうとすればページに皺がより破けそうになる。
一緒に風呂に入ることもできない。
以前は食事時に、同じメニューを花瓶に詰めることができたが、今の佳乃は汚れてしまうとそれを洗うこともできないので食事時は傍らにいるだけだ。
夜も……花瓶なら、人間の肉体の頃とは違うにせよ、為男の欲望を受け止めてくれたが、今の佳乃にはそれができない。
そう言った一つ一つは些細な、しかし積み重なっていくうちに膨大な数になるちょっとした差異が、為男を少しずつ、本人すらうまく気がつけない程度に苛立たせ疲弊させていた。
「ねえ、佳乃、ちょっとこのスパゲティ、茹ですぎたみたいだ」
・・・・・・佳乃はなにも言わない。しかし為男はつい話しかけてしまう。
「佳乃が、ほら、止めてくれれば良かったのに・・・・・・僕もついサッカー観るのに夢中でさ・・・・・・」
佳乃はなにも言わない。
為男は佳乃の言葉を探して、食事をしながら、佳乃を開く。
82ページにあるはずだ、最適の言葉が。
「揺れていました 眠っていました 静かに日々が暮れていきました 老いへと」
「そっか、寝てたんなら仕方ないね」
為男は佳乃をめくる。
「夜に美味くも不味くもない飯をかっこむだけで食事の時間が終わる」
「ちょっと、そんな言い方ないんじゃないか、これでも佳乃が作ってくれてた頃よりは僕の自炊の腕も上がってるって」
為男は佳乃をめくる。
「嘘ばかりの賢しい人たちから逃がさなくては 自らの人生を 黙らせなくては 感情のとげを」
「いや、怒ってはないよ、だけど、物には言い方ってものが・・・・・・」
為男は佳乃をめくる。
「わっわ わっわ ぱっぱ ばらああばああ あめ あっめ あめあ あめが わっわ ふる わっわ」
それ以上為男の言葉は続かなかった。
自分が今していることの虚しさをどうしても考えないわけにはいかず、この場のすべてを投げ出したい衝動に駆られながら、それでもこらえ、なんとかスパゲティミートソースを凄まじい勢いですすった。
「あ」
為男は思わず立ち上がった。
跳ねたミートソースが佳乃についてしまったのだ。
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