第6話 絶対に死なせないぞ

 『ジュ・トゥ・ヴ』は、三拍子は、為男の気持ちなどおかまいなく部屋中に弾み続ける。


 そういえば着信音を変えるのを忘れていた、と思いながらそれを聞き、しかし同時にどうでもいいとも思っていた。


 もう死ぬのだ、関係ない。


 為男はガラス片を握る手に力を込めた。ポタポタと血が垂れた。


 『ジュ・トゥ・ヴ』のテンポと、血の垂れる音が重なった。


 踊るようなその音楽をきいたまま、為男は固まっていた。


 動けなかった。

 なぜかはわからないがそれ以上手は引けず、ふわりとした三拍子に合わせて為男の血だけが弾み続け、床にシミを作っていった。


 鳴りやまない『ジュ・トゥ・ヴ』は二周目に突入してしばらくすると、突然、為男は固まった体の反動から凄まじい勢いでスマートフォンを手に取った。

 血まみれのガラスがにちゃりとダイニングテーブルに落ちた。


 画面には知らない番号。しかしどこかで見たことがあるような番号が並んでいた。

 固定電話だ。

 少し震え始めた指で受話のスワイプをすると、画面には紅い線が一本引かれた。



「もしもし」



 やはり冷静な声でそう言う。

 不意にひどくおかしな気分になった。

 こんなに血まみれでひどい精神状態なのに、他人事のようにもしもしだなんて。笑いそうだ。 



――亜梅さんですか?


「はい、そうです」



 携帯電話にかけてきて名前を尋ねるというのもおかしな奴だな、とぼんやり考えながら、為男はその声には聞き覚えがあることに気がついた。

 

 まとまりのある、抑制された女の声。



――喜多瀬川です。あの、奥さまの、佳乃さんの・・・・・・。



 もちろん為男はその事をすでに思い出していた。

 なんとなく電話番号を見たときから、喜多瀬川のことを思い出す準備を頭の片隅でしていた気がした。

 

 そういえば、と為男は視線をガラス片の飛び散った床へと移した。

 佳乃が花瓶になったのを教えてくれたのも、この人だった。

 それを思い出すと、再び自分の首を思いきりガラスで引き裂きたい衝動が全身を駆け巡った。

 チャンスをもらったのに、自分はそれを不意にした、という事実がさらに重く彼の体にまとわりついた。



――佳乃さん、残念でしたね・・・・・・。



 何を今さら、と為男は少し腹立たしく床を踏んだ。



――あまり、お気を落とされぬよう。不慮の事故で、ということは当然あり得るものですから。



 喜多瀬川の話に付き合っている暇はなかった。

 早く自分はこの世を去るべきなのだと、できることなら佳乃がいるであろう極楽ではなく、地獄へ落ちて罰を受けるべきなのだと、為男はそう思っていた。

 すんでのところでスマートフォンを叩きつけるところだったが、半年も前の佳乃の死についてなぜ今更、という少しの違和感が為男を止めた。


 喜多瀬川はまるでつい最近、いや、今しがた、事態が起こったかのように話している。

 いや、何よりも彼女は今なんと言った?

 

 事故? 事故で亡くなったと言わなかったか?

 

 佳乃が、事故で?


 それはつまり……。



「喜多瀬川さん」


――はい。


「……わかるんですか……その、佳乃が」


――ええ、魂がまた、肉体を失って漂い始めたのがわかります。佳乃さんに、花瓶の体に、何かが起きたんですね。



 こいつは本物だ。


 本物だったんだ。


 本当に佳乃は生まれ変わっていたんだ。


 今さらながら、為男はその時初めて喜多瀬川の言葉を心から信じたのだった。


 信じていなかったのにどうして花瓶との生活を幸せに送り、そしてその死を実際の佳乃の死と同じように悲しめたのか。


 狂っていたからだった。


 為男はその時までずっと、自分が狂っていたということに気がつかずに生活を続けていた。

 

 狂ったまま、狂った生活を続けていた。


 しかしもう違う。自分は正しかった。喜多瀬川が正しかった。佳乃は、生まれ変わっていたのだ。


 自分は本当に佳乃と一緒に生活をしていたのだ。


 急に手と首筋の痛みに気がついた。

 自分は何をしようとしていたのだろう。

 死のうとしていたという事実に改めて恐怖した。

 しかし、正気に戻ったために改めて佳乃の魂の二度目の死が悲しみとなってひたひたと忍び寄ってきてもいた。涙が流れ始めていた。



「喜多瀬川さん、佳乃、佳乃が・・・・・・」


――ええ、お気持ちはお察しします。痛みも苦しみもない花瓶として壊れたことがせめてもの救いでしたね。次に宿る先はそういったことのないモノであればいいのですが・・・・・・。


「・・・・・・え?」



 為男は喜多瀬川の話したことがすぐには理解できず、しばらく言葉を失った。

 次って、なんだ。次なんてない。佳乃はもう、戻ってこない。自分は最後のチャンスを無駄にした。

 喜多瀬川が呼びかける声で我に返る。結構な時間、呆然としていたらしい。



「あの、次の、というのはどういう・・・・・・次の、来世、ということですか、来世は、佳乃の来世は」


――落ち着いてください、亜梅さん。


「ああ、はい、ええ、落ち着きます、ええ」



 手のひらの痛みは次第にはっきりしてくる。じんじんという拍動に変わる。床の上で足を動かすと、自分の血に触れて気持ち悪かった。



――佳乃さんの依頼はですね、佳乃さんの魂が常にあなたとあり続けられるように、次に魂の宿る先をあなたの周囲に限定できないかということでした。わたくし、苦心いたしました。できるかどうかは自分自身半信半疑な部分がございました。しかし、なんとか、精魂果てながらも複雑なおまじないをかけさせていただきまして、やっとそれが成就したのです。佳乃さんの魂はあなたの魂と結び付いています。


「じゃあ、あの、じゃあ」


――はい、佳乃さんの魂は再び肉体を失いましたが、必ずまた亜梅さんのお近くの何か・・・・・・それも佳乃さんとゆかりのある何かに宿るはずです。少し時間は空きますが、大丈夫、佳乃さんはまたあなたと共にいられるようになりますよ。



 為男は首筋の痛みが跳ね上がったのを感じて思わず顔をしかめ、スマートフォンを強く握った。

 顔から溢れて伝った涙は首の傷口へと沁みていた。


 ありがとうございます、と精一杯冷静さを装った声で何度もそう言い、喜多瀬川との電話を終えた。


 今度こそ、今度こそ、と為男は床に這いつくばってガラスの破片を集めながら呟いていた。



 今度こそ、佳乃を死なせはしない。佳乃との幸せを壊しはしない。



 絶対に死なせないぞ。



 為男はそう強く決心しながら薄暗くなり始めた部屋で、電気もつけずに祈るように体を震わせた。







 その一ヶ月後、為男は佳乃を自らの手で殺した。

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