第4話 佳乃は死んでいた。再び。

――もしもし、あの、もしもし? 亜梅さん?


「ああ、はい、すいません、ちょっと、あのわけがわからなくて」



 取り繕うこともせずに率直に為男がそう言うと、喜多瀬川は少し間を置いてから、慎重に言葉を選んで話を続けた。



――お宅に、花瓶がございますでしょう。ダイニングテーブルの上に、ふちだけ薄く青い、透明の花瓶。背が高い花瓶です。佳乃さんの魂は今そちらに宿っています。



 為男はふり返る。

 確かにそこには花瓶がある。あるということにその時はじめて為男は気がついた。

 佳乃が買ってきて、佳乃しか花を生けていなかったし、為男は花が家に飾ってあろうとなかろうと無頓着な人間だったので目には入っていてもその存在を認識してはいなかった。


 為男はスマートフォンを持ったままダイニングテーブルへと近づき、花瓶をまじまじと見た。


 元がなんの花だったのかも思い出せない、ほぼ灰色になった枯れた植物の茎がそこへ刺さっていた。

 水は乾いて、ただの汚れの跡となって底の方にこびりついているだけだ。

 

 これに、佳乃が?


 そう思うといてもたってもいられず、花瓶の中の茎を流しの中へ放り、そのまま花瓶を優しく、しかし徹底的に洗い上げた。

 くすんでいた表面はつやつやと輝き、部屋の向こうが見えるほどの透明さを取り戻した。



――亜梅さん! あら、亜梅さん!?



 ダイニングテーブルに放ったままのスマートフォンから喜多瀬川の声が為男を呼ぶ。電話を切るのも忘れ花瓶に飛び付いていたのだ。

 為男は慌てて通話へと戻った。



「あ、すいません、ええと」


――ありがとうございます。佳乃さんも、喜んでいますよ。


「え」


――花瓶、いえ、佳乃さん、洗ってくださったんですね。喜んでいます。


「わ・・・・・・」



 わかるんですか、と言おうとしたが、すぐに喜多瀬川が言葉を続けた。



――それではあの、わたくし、お伝えいたしましたので。姿形は変わってしまいましたが、佳乃さんのお心は今もあなたと共にあります。あまりお気を落としにならぬよう。・・・・・・では失礼いたします。



 そして為男の返事も待たずに電話は切れた。

 

 唐突に始まったのと同じように、唐突に会話は終わった。


 為男はキッチンシンクで艶々と立つ花瓶を手に取った。



「佳乃……?」



 もちろん、花瓶はなにも答えない。ただそこにあるだけだ。


 本当に、佳乃がここに?


 いたずらだったとしてもおかしくない電話だ。いやむしろその可能性の方が高い。

 喜多瀬川という名前にも為男は聞き覚えがなかった。古い友人だということだったが、一度も佳乃の口からそんな名前のそんな特技を持った友人の話など聞いたことがなかった。



 信じられるわけがなかった。


 疑わしさしかなかった。


 この上なく胡散臭く、怪しい話だった。




 しかし為男はそれを信じた。




 その夜は花瓶を抱いて眠った。





 それからの半年、為男は久しぶりに穏やかな気持ちで生活をした。


 佳乃はダイニングテーブルとリビングのローテーブルのどちらかに居て為男と共に食事をし、話をし、気に入った動画を観て笑い、そしてたまには布団の中で一緒に眠ることもあった。


 休日には佳乃をそっと厚手の布製の手さげカバンに入れて買い物へ行くこともあったし、ごくごくたまには為男は佳乃と性交渉を試みることもあった。


 人前で話しかけるようなことはしなかったが、家では為男は佳乃とよく話した。

 他愛もない雑談の所々に、佳乃が――つまりこれは最初の佳乃の肉体が、ということだが――死んでしまったときのことを冗談として挟めるようになるまでに為男の心は回復し、元通りに世界の色や香りや音や肌触りを楽しめるようになっていた。


 季節は春になり、気分がいい休日には佳乃に花を活けてあげることもあった。


 為男は幸せだった。


 それはつい数年ほど前には、まだ佳乃が元気だった頃には当たり前だった幸せだが、いまの為男にはかけがえのない大切な幸せだった。



 為男はその幸せをできるだけ長く続けさせようと毎夜毎夜心に誓い、そして………………………………失敗した。





 朝起きると佳乃は死んでいた。

 再び。

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