第4話

悔しかった。

その馬は、ブーケトスは努力の果てに勝利を納めた。

けれども、スターの邪魔をしたという理由で、彼は罵声を浴びせられた。


やれ、黒い刺客だの。

やれ、悪役だの。

皆好き放題にブーケトスを罵った。



悔しかった。

ブーケトスは、何も悪い事はしていないのに。

他の馬のように………いや、馬一倍努力していたのに。

近くで見ていた自分だからこそ、それはよく解る。


だから、勝って欲しかった。

だから、心を鬼にして彼を強くしようとした。

一方で、怖かった。

「馬を殺す気か」と忠告されたが、言われなくとも自分が一番怖かった。

もしかしたら、自分はブーケトスを殺してしまうのかも知れないと。


………今思えば、その予想は当たっていた。



やがて、ブーケトスを悪役と呼ぶ者は少なくなっていった。

ようやく、引退直前にようやく、ブーケトスは皆から認められたのだ。


嬉しかった。

ようやく、ブーケトスは報われたと。


そしてファンに推されて、ブーケトスの引退は姫路記念に後回しになった。

歴史もあり、華々しいG1レースをラストランにした方が、ブーケトスも誇らしいだろう。


そう、思ったのだ。

あんな事が起こるとは、思わずに。



ブーケトスに疲労が溜まっていたのは知っていた。

だから、無事に走りきる事だけを考えた。

それだけでよかったのだ。

それだけで………。


やがてゲートが開き、ブーケトスが飛び出した。

馬群の中を走るブーケトスの姿は、端から見ていても少しおかしかった。


だが、疲労の溜まった時の走り方に似ていたので、気には止めなかった。

走りきるだけでいいのだから、勝つ必要はないのだから、と。


もう少し。

もう少しでゴールだ。

応援席の中で、祈っていた。

頼む、このまま無事に終わってくれ、と。


その時だった。

第三コーナーの坂を登っていたその時、ブーケトスの足がほつれるように絡まり、馬体がバランスを崩してガクンと沈み………。



『転倒!ブーケトスが転倒しました!!』






………………






「………ッッッ!!!!」



米雨流ヨネザメ・ナガレが、予定より遥かに早い深夜帯に目を覚ますのは、これで三度目だ。


決まって、あの日の夢。

ブーケトスが命を落とした、あの1995年の姫路記念の悪夢を見る。

そして、まるで熱病にでもうなされていたかのような、全身を気持ちの悪い汗で濡らし、飛び起きる。


夏の覇王賞が近づくと、いつもこうなのだ。



「また………あの日の………」



二度寝する気にはなれなかった。

また、あの日の夢を見そうで、恐ろしかったからだ。


ナガレは、逃げるようにベッドから出ると、部屋に備え付けられた冷蔵庫を開く。

そこには、自ら持ち込んだウォッカが入っている。


洒落で飲む為ではない。

悪夢を、少しでも和らげる為の、薬代わりだ。



「………はぁ」



グラスに注いだウォッカを飲み、ナガレは窓から映る景色を見下ろす。


ここは、稲荷市にある高級ホテル。

ナガレの自宅と米雨コンツェルンの本社は県外にあり、覇王賞の来賓として招かれた際にはここに泊まる。


ホテルから見下ろす夜景は酷く美しく、勝者の特権とも言えたが、それでもナガレの心にはぽっかりと穴が空いたままだ。



米雨コンツェルンの跡取りという将来が決まっていたナガレが、一時とはいえ馬の調教師という仕事をしていた理由。

金が強く絡む世界に、僅かながら拒否感があったからだ。


担当馬の多くが、その時の社長だった父親が馬主として保有していた馬だった事もあり、金持ちの道楽と揶揄される事もあった。

だが、そんな奴は実力で………育てた馬の成績で黙らせた。

ナガレは、そういう男だった。


そんな時、一頭の黒鹿毛の馬と出会った。

ブーケトスだ。

他の調教師がその小柄な体格を見て判断を下す中、ナガレはその強い心臓の鼓動を聞き、ブーケトスの秘めたる実力を感じ取った。


ブーケトスは賢く、優しい馬だった。

だから、ナガレの調教にも嫌な顔一つせず付き合ったし、それに見合った実力も発揮した。


調教師のナガレは勿論の事、厩務員も、馬主である父も、牧場の関係者全員が、ブーケトスを誇りに思っていた。


だから………彼を悪役ヒール呼ばわりする世間を、見返してやりたかった。

ブーケトスは、悪役ヒールじゃない、英雄ヒーローだ。

そう言ってやりたかった。


だから、ブーケトスに勝ってほしくて、彼に苛烈な調教をしてしまった。

その結果が、あの姫路賞での惨劇だ。



………それから時が流れた。


ナガレは父の後を継ぎ、この米雨コンツェルンの代表取締役社長として、会社を率いてきた。

そして、父と同じように競走馬を抱える馬主にもなり、こうして覇王賞に招かれた。


馬を愛する気持ちは変わらない。

父がそうであったように、馬達も我が子のように愛している。

その気持ちに、偽りはないつもりだ。



………だが、ふと思うのだ。



ブーケトスを殺したのは、自分だ。

愛していると言いながら、彼が従順なのをいい事に、苛烈な調教を課した。

本来、近くにいた自分が止めなければならなかったのに………。


企業を預かる者として、何もかもの責任を放棄する事は許されないというのは解っている。


それでも、こんな考えが過る。

自分に、馬と関わる資格はあるのか?と。



………夜景の光によって空には星一つ見えない。

真っ暗な闇が広がっている。



「………ブーケトス………俺は、ここに戻ってきて良かったのか………?」



ブーケトスの黒鹿毛のような夜の闇は、何も答えてくれなかった。

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