第49話
静けさを取り戻した山の中に、虫の声が再び響き始める。リンリンと、鈴虫が鳴く空にはいつの間にか月が上がっていた。
ブロロロロ、と、遠くでプロペラの音が聞こえる。多分それは気のせいではないだろう。雨が止んで、救助のヘリを飛ばすことが出来るようになったのだ。
「……良かったあ、死ななくて」
袴の角帯を引っこ抜き、村上の手足を縛ってから、社はもはや袴が汚れるのも構わずに、気絶するかのように地にへたり込んだ。
「怖かった……」
本当に、死ぬかと思った。今まで張っていた気という気が抜けて、空気の漏れた人形のようにぐにゃりと社は身を傾ける。本当に、今生きているのが不思議なくらいだった。
どうしよう、実は僕もすでに死んでいて、今までのは幻だったりとかしたら。
無事だったというのに、まるで現実味がなかった。社の脇には薄れかかった唯の霊が浮いていて、ぼんやりと社は考える。
実は今の僕も、彼女みたいな姿で――。
「ヤシロ、良かった!」
そんな彼を現実に引き戻したのは、へたり込む社の背に飛びついたアズサの体温だった。
「アタシたち、Mr.ムラカミをやっつけたわ。ねえ、ユイサン」
彼女の柔らかな金の髪が、社の首筋を撫でる。こそばゆくって、社の唇の端が持ち上がる。そうだ、僕たちはこうして生き延びた。けれど、彼女は。
アズサが見上げた先には、霞んだ唯の姿があった。ひどく痛ましい、死者の姿。どれだけ神に願っても、その姿を元に戻すことはできない。
『でも、やっぱり私はこの人を、許せない』
その彼女が、もはや風のささやきのような弱々しい声で言う。
『あなた達まで殺そうとした。こいつを、地獄に落とさなければ』
恨めしい気持ちを込めて彼女は言う。その目的のために、怨霊にすら姿を変えて。けれど。
「それは、君の役目じゃない」
静かに社は口を開いた。
「そこまで君がする必要はない。それに、こいつを怨んでるのは君だけじゃないからね」
地面に転がる男の姿を睨んで、社は少し怒ったような口調で続けた。
「僕たちも大変な目に遭った。それに、いたいけな妹を手に掛けるなんて許せないし、ここに来た人たち、玲夏さんや草刈さんを死なせたのもこいつだ。こいつのことを許せないのは君だけじゃない」
社の背に身を凭れたまま、アズサも大きくうなずいた。もちろんあの男にだって、ああなってしまうまでに何かがあったのかもしれない。彼は母と妹と別れたのち、父との間に何かがあったのかもしれない。
けれどだからと言って、したことが許されるわけではない。
「だから、こいつが生きている限りは、ヒトの世界の罪を負わせるべきだ。その負担まで君が背負って、こんなのと一緒に黄泉に行く必要はない」
社はそう言い切った。とはいえこの状況で、どこまで村上に責任を問えるだろう。こいつが、罪を犯したのは悪霊に憑りつかれたせいだなどと喚いて、下手したら心神喪失で不起訴になる可能性だってある。
けれどそこは、頼もしい現役刑事に任せよう。
ブロロロと、プロペラの音が段々と近づいてきた。強力なサーチライトがあたりを照らしている。その光が、月居山の頂上を、今いるあたりを照らしている。
華だ。彼女が、僕らを見つけたんだ。社は眩さに目を細める。光が、こんなに落ち着くものだなんて。
その朝日のような人工の光の中で、唯の姿がだんだんと消えていく。水に薄墨を溶かすように、その姿が解けていく。
『そうね、あとはアナタたちにお願いする』
彼女はそう言って笑った。ように見えた。その足元で、あの犬が消えゆく彼女に鼻を摺り寄せる。その顔を撫でながら、最後に彼女は呟いた。
『プティも、ありがとう。五老海さんも』
イサミ?そう問いかける間もなかった。プティの体から白っぽい煙のような、魂のようなものが抜け出たように見えた。そしてそれは、さらさらと流れていく唯と同じく、強い光の中に消えていってしまった。
「ワン、ワンッ!」
後には気絶した主犯格と、社とアズサ、そして主を失ったポメラニアンだけが残ったのだった。
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