第46話
この、非現実的な状況の中で、ふいにまざまざと現実的な死への恐怖が社を襲った。
このまま僕らは殺されて、くだらない宝を守る、悪霊にされてしまうのか?
こんな、まだ若い子も助けることも出来ないで。彼女の未来も奪われてしまっていいのか?
そんなのは、絶対に嫌だった。うつむいていた顔を上げて、社は金の獣を睨んだ。
僕に出来ることなんて、たかが知れている。けれど、それでも。
「高天原に神留り坐す、皇親神漏岐、神漏美の命以て、八百万の神等を神集へ集へ賜ひ、神議り議り賜ひて、我が皇御孫之命は、豊葦原乃水穂之国を、安国と平けく知し食せと事依さし奉りき……」
厳かに社は唱え始めた。大祓。人の犯した数々の罪や、この世の災厄すべてを黄泉へと還す祝詞。とりあえずこれを唱えておけば、災厄でしかない悪霊も祓えるだろう。そう考えて、社は事あるたびに唱えている。ただ、今回の霊はいつもの事故物件に憑りつくものと違って、やけに妖怪じみている。果たして、この祝詞が彼らに届くかどうか。
「……如此く聞し食してば、皇御孫之命の朝廷を始めて、天下四方国には、罪と云ふ罪はあらじと、科戸之風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝の御霧、夕の御霧を、朝風、夕替えの吹き掃う事の如く、大津辺に居る大船を……」
彼らが犯した罪は、生膚断、死膚断。いずれも傷つけ血を流させる、穢れの行為。更には死者の魂すらも弄んでいる。だがそれさえも、神聖な祝詞を唱えれば、残る罪はなく祓われ清められるという。
闇が薄くなってきた。影が一つ、一つと消えていく。佐竹氏の悪霊に翻弄された哀れな霊たちが、その穢れが祓われて黄泉の国へと還っていく。それに気を良くして、さらに社は大祓を唱える。だが。
『オノレ、ヨクもワが手駒を』
金の獣の口から、あの悪霊の声が響いた。そして、神の言葉など聞く耳持たない様子で社に飛び掛かって来た。
「危ない!」
アズサの銃が光る。空気を切り裂いて、光が獣に炸裂する。けれど、ソイツは少し体勢を崩したくらいで、すぐに社の方へと向き直った。
『あのキミョウな技も、大シタことハない』
笑うように、金の獣が吠える。そしてじりじりと、鼠を嬲るように舌なめずりをして、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「どうにかならないのか?」
「もう、力が」
苦しそうに、けれどそれでも銃を構えたままアズサがうなった。その隣には、唯がヒトの姿となってうずくまっている。その姿はひどく希薄で、存在しているのが奇跡的にも思えた。
『ごめんなさい、私、なにも出来なかった』
その唯が、悔しそうに涙を流した。プティさえ悲しそうな顔をして彼女を見上げている。
絶体絶命。そんな言葉が社の胸に浮かんだ。これ以上、僕らに何が出来るっていうんだ。
やはり、神の言葉は悪霊には届かないのだ。社は肩を落とす。そしてふと思い出す。そうだ、しかもこの山にあるのは観音堂だったじゃないか。
絶望的な気分で、社は暗い天を仰いだ。観音様。つまりは仏様。もとよりこいつらは仏教徒なのではないか。それならば、なおさら神道の言葉など。
――いや、でも。
ぐるぐると、必死に社の頭が回りだす。目の前では、あの赤く光る目が残忍な色を湛えてこちらを睨んでいる。怖い、逃げ出したい。そう思う心をなだめ、社は必死に考える。
思い出せ、考えろ。あの、故人の言葉を。草刈は何と言っていた?月居城の出来た時代。佐竹氏が、宝を守る悪霊へと身を落としたその時代。城が作られたのは応永。廃城となったのは慶長。どちらも、室町時代だと彼は言っていた。
まだ可能性はある。社は確信した。室町時代。仏教が伝播し、それは武家層にも広く広まった。だが、だからと言って神道が廃れたわけではない。
その頃は、神仏が混同されて信仰されていたのではなかったか。ぼんやりと聞き流していた大学の授業を思い返す。室町時代、ちょうど応仁の乱の頃、京で吉田神社の宮司を務めていた吉田兼倶が、足利義政の妻の支持を得て大元宮なる神道の祭壇を建立する。神道は、きわめて巧みに仏教とともに、その時代の為政者とともにあったのだ。
それを地方とはいえ、民を束ねる立場にあった佐竹氏が知らないとは言わせない。すでにこの時代から日本の民は、神道、仏教の区別なく、八百万の神として、すべての神を崇めていたのだから。
でもそれなら、なぜ祝詞が効かない?こいつらは悪霊で、いや。
社の目が、赤い目を見据えた。こいつらは。
自分たちの行いが正しいと信じ、主亡き今も宝を守る。それが、こいつらの信じる善。そして、そのために生きた人間を取り込み亡霊へと化してしまう。
もはや災厄だ。それらを黄泉へと、死者の国へと返す。それが一番正しいと思い、社は大祓を唱えた。だがその言葉は、こいつらには届かない。自分の行いが、悪とは、穢れとは思っていないのだ。アイツは、自分こそが正しいと思っている。それはもはや。
彼らは、祟る神なのではないか。
すう、と息を吸い、社は再び口を開いた。ぎらぎらと光る赤を見つめて。
大丈夫、きっと何とかなる。そのために、神は居る。社の口から、いつもの気弱な声とは似ても似つかない調べが流れる。まるで神の代行者かのように。
「高天原に神留り坐して、事始め給ひし神漏岐、神漏美の命以て、天之高市に八百万の神等を、神集へ集へ賜ひ、神議り議り賜ひて、我が皇御孫之命は、豊葦原乃水穂之国を、安国と平けく知し食せと、天磐座放ちて、天之八重雲を伊頭の千別に千別きて……」
始まりは、大祓と同じような内容だ。神々が集まって、この国を平定するよう話している。だが異なるのはここからだ。大祓が数々の穢れを上げ、それを清めるのと違って、この祝詞は。
「……安国と平けく知し食さむ皇御孫之尊の、天御舎の内に坐す皇神等は、荒び給ひ建び給ふ事無くして、高天之原に始めし事を、神奈我良も知し食して、神直日、大直日に直し給ひて、此の地自よりは、四方を見はるかす山川の清き地に遷り出で坐して、吾が地と宇須波伎坐せと……」
つまりこの国を荒らす祟り神は、祟るとはいえ神なのだからその心を直し改め、この国より遥か広く四方を見渡せる良さげな場所に行ってくれ、とまあ、体よく邪魔者を追い払うためのおまじないだ。
その名も『遷却祟神』。文字通り祟る神をどこかに追いやる臨時の祝詞で、基本的には通常の年間行事の祝詞を唱えていれば使うことのない物だ。が、それでもどうにもならなくなった時、例えばヒトの力ではどうしようもない災厄が襲ったときなどに唱える祝詞だったりする。
そういや少し前に、世界的に疫病が流行した時に、社も一緒に唱えさせられた。幸か不幸かそれを社は覚えていて、今まさに唱えてみているのだが。
「うぐうううっ」
「効いてるわ!」
アズサが喜びの声を上げた。獣は苦しそうに呻き、その動きを止めた。その目の光が弱まっていく。どんどん光を失って、弱々しく泳ぐ二つの双眸が、ひたと社を見つめた。
それはまるで、弱った小動物の目みたいだった。
『しかし』
獣の口から、悪霊の声が漏れ出た。逡巡するような、先までの威圧的なものと変わって、ずいぶんと大人しい声。そいつが戸惑うように続けた。
『我らはここを離れるわけにいかぬ。佐竹の宝を守らねば』
これはひょっとすると。社は祝詞を止め、悪霊に向かって声を張り上げる。
「もう、そんなことをする必要はないんだ」
「ワンっ!」
同調するようにプティが鳴いた。
「宝なんて、もうないんだ」
『なにを』
社の声に、悪霊が肩を怒らせる。ぶわり、と獣の身体が一瞬膨らんだ。その様にたじろぎながらも、必死に社は声を上げる。
さて、うまくいくか。社は唾を飲み込んだ。いつもの僕なら、こんな大それたこと出来るはずがない。
そう、いつもならさっさと逃げ出してしまうところだ。だが、ここにはもう逃げ場はない。今の僕はただ弄られるだけの鼠じゃない。窮鼠猫を噛む。それくらいのことは、してみせようじゃないか。
「宝はもうない。お前たちが大切に守っていたのはなんだ?」
張り上げた社の声に、祟神が失笑を上げた。
『それは、金に決まっておる』
そして再び、黄金色に染まった獣から呆れるような声が漏れた。
『袋田氏より引き継いだ、この山の金じゃ。愚かにもそれに手を出すものを殺し、金の守り人にしてやった』
偶然にも同じようにここに金を隠した村上らの罠により、草刈らは命を奪われ、そして亡霊へとされてしまった。佐竹の祟神と村上は、ひどく似た者同士だった。
けれどそれは本当か?
「袋田氏から佐竹氏まで、お前たちが大切に守って来ていたものは金なんて下らないものだったのか?」
挑発するように、社は殊更馬鹿にしたような口調で言い放つ。
「ヤシロ、大丈夫なの?」
隣ではアズサが不安そうに言うが、社は軽く頷くだけで再び口を開いた。彼らも祟るとは言え、この山にこれだけの影響を与える神になるほどだ。本来、彼らの役割は。
「お前たちが守って来ていたのは佐竹の民。そうじゃなかったのか?」
その言葉に、不意に金の獣が動きを止めた。
『民、じゃと?』
祟神が呟く。民。それは四十年前月居村が廃村となったときに、皆いなくなってしまった。
「この山の宝が、ここに住んでいた人たちって言うのは本当なの?」
驚きに目を見張らせアズサが言う。それに得意げにうなずきたいところではあったが、正直なところすべてが憶測だ。あの古地図の謎の印が、どこを指していたのかも定かではない。現世ですら伝説と噂があるくらいなのだから、本当に金が隠されているのかもしれない。
けれど、この佐竹氏の悪霊に社は先から違和感を覚えていた。
この山に来た人間を殺し、亡霊と化した彼らを宝の守り人にする?それならば、わざわざ生きた人のように、彼らを振舞わせる必要はなかったはずだ。むしろ今のようなおどろおどろしい亡霊の姿の方が、よほど宝を守る抑止力となるのではないか。
それでも、死者を生者のように振舞わせた。それは、彼らが本当に欲していたのは、この村の民だったから。
『そうじゃ、我らは……』
赤い目が、しきりに瞬くように点滅する。何かを思い出そうとするように、光が泳ぐようにあたりを見渡す。
「お前たちこそ、こいつの思惑に振り回されているんじゃないのか」
金の獣を指さして、声高らかに社は叫んだ。
「荒ぶる神よ、あなたの役目はとうに終えていた。どうかあとは安らかに、清らかな場所に遷ってはくれないか」
『我らは……』
赤い邪悪な光が、すうと消えていく。あたりを覆っていた闇が、幕を引くように開けていく。社は再び祝詞を唱えだす。荒ぶる神の、安寧を願って。
邪悪な人間に、生きた人間に玩ばれた、彼らが安らかになるように。
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