第44話

『なんで殺したの?』

 若い女性の声だった。聞いたことのある声。その声に、村上が動きを止めた。

「まさか、お前」


 女の声が伝えるのは、自身が殺されたことに対する怨み。

『許さない……あなたがみんなを殺したの?』

 ぽたぽたと、血が垂れる。ぬかるんだ地面に落ちて、黒い水たまりを作っていく。

 これは僕の血?社はぼんやりと考える。いや、違う。これは。


「アナタが、ユイ、サン?」

 アズサが僕を見上げて言った。ああ、そう言うことか。

 昨日の晩以来、姿を見せなかった犬尾唯の霊。望みの犬を見つけても現れなかった彼女。頭から血を流す、痛々しいその姿。

『そう。私は唯。啓兄に殺された』


 社の身体から、ずるずると何かが抜けていくのを感じる。堰き止められていたものが、突如として放出されるような感覚。今まで雨で濡れて冷えた身体が、思い出したかのように熱を持ち始める。

 そうか、やけに冷えると思ったら。

「嘘だろ、最初から僕に憑りついてたのか?」

 視ないと思ったらこんなとこに!気づかない僕も僕だ!


『ごめんなさい』

 彼女は謝るように頭を垂れた。さらさらと、長い髪が流れる。おどろおどろしい姿が影を潜め、社の枕元に立った時のように生前の姿を現した。

 まだ若い、かわいい女の子がそこに居る。けれど、この場の力でそう見えるだけだ。彼女の命は、もうここにはない。


『私ひとりじゃ、あのトンネルを抜けられなかったの』

 悔しそうに唯が言う。

『それで、あなたに。お兄さんなら大丈夫そうだったから』 

 僕に憑いてきた、のだという。

『入ろうとすると、弾かれてしまって』

 やはり、ここには強い磁場があるのだ。社は思った。なにせ、死者が生者のふりをしていた場所だ。やっぱり、何かが。

 だとしても。


「なんで誰も気が付かなかったんだ!」

 社は思わず頭を抱えてしまった。え、僕ってそんなに憑りつかれやすいの?こんな無自覚で憑かれちゃうなんて、大丈夫なのか?

 そのうち、憑りつかれて気づかぬうちに殺人犯にでもなったりして。

 なんて、マジでシャレにならない。


「最初から、いるのを許してるんだと思ってた」

 あまりに狼狽える社を見て、アズサが困惑したように言った。

「ghost一人背負って、よく平気でいられるって思ったけれど」

 うう、知ってたなら教えてくれ!恨めし気に彼女を睨むが今更だ。やたらと目が合うと思ったら、彼女は僕じゃなくて唯を視ていたのか。


『ここは、すごく良くないところ。こんなところで、啓のせいで、みんな』

 悲しそうに呟いて、唯は腰をかがめた。足元では、あの犬が嬉しそうに鳴いている。

『ありがとう、この子を、プティを見つけてくれて』 

 そう微笑んでから、彼女はキッと目の前の男を睨んだ。

 自分を殺した人間を。


「まさかお前までユーレイになって現れるとはなあ」

 その視線を受けて、けれど怖気るそぶりも見せずに村上は言う。

「それで、俺に殺されたってショーゲンでもするつもり?」

 明らかに馬鹿にしたような態度だった。

「生憎この国じゃ、ユーレイの発言なんて証言として認めてはくれねぇんだ。まあ、どこの国でもそうだろうけど」

 軽口をたたいて肩をすくめる村上を、社は信じられないような気持で眺めていた。こいつ、どういう神経してるんだ?だって、彼女は。


「あなたの妹なんでしょう?なのに、なんで殺したんだ!」

 社には理解が出来なかった。確かに親が離婚して、兄妹としての交流もなかったのかもしれない。だとしても、殺すことなどなかったはずだ。

「妹ねえ」

 自分の前に立ちふさがる、自分が殺した人間を眺めながら村上は言う。

「ってもそんなのはずいぶん前の話だ。今となっちゃただの他人」

 そう話す兄を、妹は悲しそうに見つめていた。

『確かに母と父が別れて、私たちは別々になった』

 彼女の気持ちに同調するかのように、犬がくうんと鳴く。

『けれど、啓兄はそんな人じゃなかった。――お父さんと、何かがあったの?』

 確か華から聞いた話だと、兄妹はそれぞれ父親と母親に引きとられたんだっけ。社は思い出す。先に父が亡くなり、そして母親が亡くなった。その報告で、唯は兄を訪れたのだと聞いている。

『お母さんと私と離れてから、啓兄になにかあったの?』


「別に」

 つっけんどんな声だった。面白くなさそうに村上は言う。

「何もない。それに、もうアイツも死んだんだし」

『嘘、何かあったんじゃないの?じゃなきゃ、啓兄がこんなこと。五老海さんまで巻き込んで、こんな』 

 上ずる唯の声をさえぎって、村上が声を上げた。

「そうお前が思いたいだけだろ。俺は、最初からこうだったよ」

 そして、彼女を諭すようににっこり笑った。いやに優しげな笑顔だった。


「お前も、五老海もとんだ甘ちゃんだな。だめだぜ、安易に人間なんか信じたら」

 その笑みを仮面のように張りつかせたまま、村上がこちらに近づいてくる。その姿に不気味さを覚え、社とアズサは後ずさる。けれどまるで魔法に掛けられたかのように、唯はその場を動かない。

「人間は裏切るんだ。仲間と思わせておいて、平気で」

 さらに一歩、村上が唯に近づいた。

「アイツらだって、お前を騙してるかもしれないぜ?アイツらだって、本当は」

「ユイサン、逃げて!」

 アズサが叫んだ。唯はもう故人だ。刃物など怖くもないのかもしれない。

『あの人たちは、そんなんじゃないわ!』 

 唯が叫んだ。

『もうこれ以上、アンタの好きなようになんかさせない!』

 そして、男に立ち向かう。でも、彼女は。


「今更ユーレイが一人増えたところで、何が出来るっていうんだよ」

 村上が大きくナイフを振りかぶった。

「唯ちゃん、危ない!」

 確かに再び彼女が血を流すことはないだろう。けれど、社らは知っている。いくら生きているように見えても霊は霊。霊は、触れられると消えてしまう――。

「ユーレイなんざ、俺が触るだけで消えちまうんだ、ほら、こうやって……は?」


 禍々しいナイフの切っ先が、唯の身体を確かに切り裂いた。けれどそれは彼女の身体をするりとすり抜けただけ。まるで空気を切るかのようにナイフは宙を舞い、そして狼狽えたように村上が動きを止めた。

 信じられない、とばかりに目を見開いて。

「なぜ消えない?」

 唯は、依然としてそこに立っていた。まるで立場が変わったかのように、悠々と彼女は口を開く。


『私は、自分が死んだことを知っている』

 この場所で、生きているように見えた人々は自分の死を認識していなかった。

『そして、殺されたことも』

 けれど、彼女はそれを知っている。今さら生者に触れられたところで、最初から自分が霊体だと知ってしまっている。

『そういう人間が、何になるか知っている?』

 とっておきの秘密を話すように、彼女は赤い唇を開いた。ぞわり、と社は鳥肌が立つのを感じた。聞きたくない、嫌な予感がする。

「まさか、君は」


『怨霊』

 そう言い放った唇は、裂けんばかりに開かれていて。

『啓兄が許せなかった。だから、こうなるしかなかった』

「オンリョウ……怨みに縛られた、Evil spirit.」

 アズサが呟くのが聞こえた。怨霊。もはやそれはヒトの霊というより、妖怪や悪魔に近い存在。それが、ひどく人間じみた、悲しそうな声で訴える。

『私だけじゃなくて、あなたは多くの人を殺した。五老海さんだって。なんで殺したの?』

 先までさらさらだった髪がとぐろを巻き、再び額から血が流れている。ぼたぼたと、彼女が村上に近づくたびに、あたりに血だまりを作っていく。


 霧雨が作る白い世界の中で、それはひどく禍々しく見えた。

 悪夢だ。社は声にならない声を上げた。あの女の子が、怨みからこんな姿になるだなんて。そこまで彼女を追い詰めた男は、あんなに悠々としているのに。

 唯の面影が消え、ぶくぶくと身体が膨れ上がる。風船のように身体が浮いた。そいつが、大きく口を開く。耳元まで裂けた、てらてらと赤い唇。指は強張り、両足は尾のように伸びている。まるで龍のようでもあった。

 その口から洩れる声はひどくしわがれていた。黄色く濁った眼が男をねめつける。睨まれて、喘ぐように村上が言った。


「それは、アイツが金を」

『盗もうとした?違う』

 醜い怨霊の姿となった唯が、虫けらを見るみたいに村上を睨んだ。

『五老海さんは、もう悪いことはやめようって言ったはず。警察に持って行こうと』

 けれどそれでも、村上は動じない。それどころか目を血走らせ、唾を飛ばしながら叫んだ。

「違うのはそっちだ!アイツはそういうフリをして、盗もうとしたんだ!」

「あの人……」

 ただ茫然と立ちすくむ社の横で、アズサが眉をよせて呟いた。

「おかしいわ」

「確かに、あれじゃまるで金の亡者だ」

 社もうなずいた。自分が殺した人間が怨霊となって自分を食わんとばかりだというのに、アイツは金のことばかり。まるで、何かに憑りつかれたみたいに。

「お前だってそうだったんだろう」

 さらに村上は言い募る。もはやヒトが敵うはずでもない怨霊を前に。


「お前がこの犬を連れてここに来たのは、おれの金を横取りするつもりだったんだろ?」

『何を、言って』

 セリフだけを聞けば、よほど村上の方が怨霊に思えたのは社だけではないだろう。困惑する唯の怨霊に対し、村上は狂ったように喚き始めた。

「お前は俺の部屋で何かを見つけて、金の在処をこの犬コロが知ってると考えたんだろ?」

『違う。私は五老海さんを』

 怨霊の言葉すら、もはや村上の耳には届かない。


「そうだ、やっぱりお前もこの金を」

 そう呟いて唯を見上げる目は、ヒトの物とも思えないほど黒く濁っていた。

「やっぱりおかしいわ、まさか、あの人も」

 何かに気づいたようにアズサが喘いだ。

「そうだわ、ここにいる〈何か〉の正体は――」

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