第15話

「………」

「めを……さ………て」

 耳元で声が聞こえる気がする。女の声だ。

 うるさいなあ、大丈夫だよ、会社にはまだ間に合うから……。

 うつらうつら、社はゆるやかに息を吐く。誰だろう。

「はやく……みつ……あの……」

 だから、まだ大丈夫だって。ああ、もしかして僕、誰かと一緒に住んでるのかな。

「どこ……あいつ……ゆ………い……」

 どこって、僕の家に決まってるじゃないか。そこで、きっと華ちゃんと……。

「……いい……に……起き……ねえ」

 

 いや……。この声は、誰の声だ?

 緩やかに上がっていた口元が、きゅっと結ばれる。よく聞けば、あまりなじみのない声だった。けれど、僕はこの声を確かに聴いたことがある。ごく最近に。

「早く……目を……ねえ……」

 そういや、どこかに出張だって言ってなかったっけ。そうだ、もっと早い時間の新幹線に乗らなきゃいけなくて、それで。

「うわあああああっ!」


 そこで目が醒めた。早く着替えなきゃ!そう飛び起きるも、すでにシャツをしっかり着こんでいて。しかも起きたのは僕の家どころか布団の上ですらない。草ぼうぼうの土の上。

 なんで?


 そこで心配そうな猫目と目が合った。

「Are you OK?」

「はっ!?えっと、そう、あいむふぁいん、せんきゅー」

 あれ、僕は海外に出張したんだっけ?いや、そんな馬鹿な。

「ちょっと、これ」

 そこで、その子にぐいとスマホを押し付けられた。

「これ、さっきから鳴りっぱなし」

 画面には、〈華ちゃん〉の文字。ああ、そうだ、僕は……僕たちは。

 急にすべてを思い出し、社は慌てて着信ボタンを押した。


『も、もしもし?』

『社くん!?大丈夫なの?』

 ひどく心配そうな声だった。そのことに、社は安堵と喜びを覚えた。きっと彼女が僕と同じような目に遭ったら、僕もこんな声を出すのだろう。

『さっき、亀井さんからこっちも連絡があって』

『社長が?』

 そこで、ちらと社は猫目の女の子に目をやった。

「Mr.カメイには連絡したわ。中で死体を発見したことと、ヤシロが倒れたこと」 

 ほっと息を吐くと、女の子――そうだ、アズサだ、さっきの声はアズサのものだったのか――が立ち上がって伸びをした。どうやら彼女なりに心配してくれてたらしい。


「あれ、君一人?確か他にも」

 そうだ、消えたテツヤを探していて。他に二人同行者がいたはずだった。確か。

「Mr.ゼニヤとMr.クサカリは、びっくりして逃げてったわ。多分、小屋に戻ったんだとは思うけれど」

 少し呆れた様子で彼女は言う。

「まあ、普通の人間はそうなるのかもしれないわ」

 恐らく、彼女もあの遺体を見たのだろう。だというのに、ここに残ってくれた。こんな、危ない場所で。その状況に、社は申し訳なさを覚える。

「けど、ヤシロがキゼツするとは思ってもみなかったけれど」

 ああ、僕が気絶なんてしたばっかりに!


「その、ごめんよ、ちょっと……びっくりして」

「仕方ないわ。それより電話の彼女はいいの?」

「彼女って、いや、別にそんなんじゃ」

 夢のことを思い出し社はへらりと笑った。そこへアズサの冷たい声が突き刺さる。

「そういう意味じゃない。外の情報を知りたいし、こちらの状況も伝えなきゃ。続けて」

 まあ、そうですよね。アズサに促され、社は再びスマホに耳を当てた。


『もしもし、ごめん。ああ、それで?』

『そう、そっちに遺体が――誰かが亡くなってるのを見つけたって』

 放置されて少し苛立っているのだろうか。あるいは、向こうも大変な状況なのかもしれない。再び聞こえた華の声は、少し早口だった。

『遺体はそのままにしておいて』

『そのままったって、あれじゃあ』 

 思わず社は口を噤んだ。あんなぐちゃぐちゃじゃあ、どこかに移動することだって出来ない。というか、亡くなった人には悪いけれど、そんなの嫌だった。


『ひどい状態なんだ。いつ亡くなったんだろう?たぶん、先に来てた業者の人たちの誰かだとは思うんだけど』

 他の人に聞けばわかるかもしれない、と社は続けた。

『そうね、先発隊のうちの一人なら、身元はすぐわかると思う。死因はわからない?』

『どうだろ……』


 あの時。一番怪しいのは、とにかくあの廃棄業者の男だろう。社は考える。誰だってそう思うはずだ。直前まであのあたりにいて、まさかあの遺体に気づかなかったとも思いにくい。

 森や草刈が声を掛けても知らんぷり。何かを探しているのか、こんな状況だというのに一人で森の中をうろうろしている。

 これで、怪しくないはずがない。では、あいつが殺したのか?


 だがそう言われると、素直に社はうなずけない。だって、遺体のあの状態。

 本当は記憶から消したいその姿を、社はぼんやりと思い浮かべた。まるで獣に食いちぎられたようだったではないか。


『犬……』

 思わず社の口から言葉が漏れた。直前まで聞こえていた、犬の鳴き声。テツヤが姿を消す前にも聞こえていた。

『まるで、獣に噛みちぎられたみたいだった』

 少しえずきながら社は答える。冷静に考えれば、熊とかにやられた可能性の方が高いんじゃないか。そうは思う、けれど。


『やっぱり、ここには恐ろしい犬がいるんじゃないのかな』

『犬?あの、入り口で亡くなってた女の子の?』

『そうだよ、その犬が』

『まさか。だって、かわいい小型犬でしょ?』

 そう返す華の声が、けれど自分でもそう信じていないように聞こえたのは気のせいだろうか。それに水を得て、社は口を開いた。

『まだそうとわからないじゃないか。幽霊が置いて行った首輪が小さかっただけだろ?』

『そう、その幽霊の女の子と……あとトンネルの中の遺体なんだけど』

 少し言いにくそうに、華は言った。今、なんと?


『え、トンネルの……中の?』

『うん。社くんが言ってた、白い車。ぐちゃぐちゃにつぶれてて、その中に……』

 ああ、嫌な予感は当たってしまっていたのだ。社は大きく息を吐く。

『若い男が……タカアキが、いたのか?』

『……遺体は破損が激しくて、まだ身元はわかってない。けど、指紋がかろうじて取れたから』

 これから、身元を照合するのだという。

『それと、犬を探してる女の子ね』

 話を切り替えるように、華が続けた。

『彼女のものと思われる放置車を袋田で見つけてね。返って来てないレンタカーがあるっていうから、それで』


 ということは、彼女はこのあたりの住民ではないということだ。そう考えながら社は促す。

『もう借主も特定できたのかい?』

『ええ』

 さらりと返す華の言葉に社は感嘆する。それだって結構大変なんじゃなかろうか。

『そのレンタカーを借りたのは犬尾唯。都内からここに遊びに来たみたいなんだけど』

 そこで一度区切り、そして再び、困ったように華は続けた。

『でも、車の中には犬の毛なんてついてなくて』

『え、でも。ほら、ケージに入れてたりしたとかは』

 借り物の車を汚すのを嫌っただけなのではないか。そう社が問えば、

『彼女、都内で独り暮らししてたみたい。だから当然、犬なんて飼ってない』

 と返されてしまった。

 

『それじゃあ、……なんで、犬を探して、だなんて』

 意味が分からなかった。本当にあの幽霊は、犬なんて探しているのか?そもそも、犬を探しているのが犬尾さんだなんて、そんな偶然。

『その犬尾って人と、落石の被害者は別人なんじゃ』

『でも、遺体のDNAと、犬尾唯の自宅に残されたDNAの型は完全に一致してるの。そして、犬尾唯も姿を消している。別人とは思えないんだけど』

 きっぱりとそう言われてしまった。けれど、どうにも腑に落ちないのは華も同じのようで、

『けど若い女の子が、わざわざレンタカーまで借りて一人で観光に行くかしら?』

 とぼやくのが聞こえた。


『何か理由があるのかもね。でも、そんなことより大変なのはそっちよ』

 そこで華は故人に思いを馳せるのを止めたらしい。

『すでに亡くなってしまった人のことは、可哀そうだけどもうどうしようもないわ』

 そうだ、僕たちは神様じゃない。死んだ人間を生き返らせることは不可能だ。社はため息をつく。死んで霊になったものを祓うことは出来るけれど、ただの死体に社は為す術を持たなかった。いや、神様にだってもう、どうしようもないのかもだけど。


『その人が、なぜ亡くなったのかはまだわからないけど』

 落ちつきを取り戻してきたのだろう、華がゆっくりと言った。

『とにかく、なるべくみんなで集まって、動かないことね』 

 ありがたい、現役刑事のアドバイスだ。

『幽霊の仕業なのか、その犬とやらなのか、あるいは人間が犯人なのか。一番あり得そうなのは熊とかかもだけど。でもいずれにせよ、単独行動は避けた方がいいと思う』 

 まあそうだろう。だいたい、この手の殺人事件の犯人(犯霊?)は、集団から離れた人間を狙いがちなのだ。


 とはいえ。すでに、テツヤを見失って久しい。誰かが見つけて、小屋に連れ戻してきてくれていると良いけれど。

 それに、あの五味と言う男。アイツはヒトの言うことなんて聞かなさそうだ。やっぱり案外、アイツがとんでもない殺人鬼なのかもしれないぞ。社は考える。大方、これまでに殺してきた人間の死体をここに隠していて、それを見つけられると困るから、隠ぺいのためにうろうろしてるのでは、なんて。


『とにかく、社くんたちがそこから出られるよう亀井さんが何とかしてくれると思うから』

 電話の向こうで華が言った。

『警察にも連絡してある。大丈夫だとは思うんだけど……』

 華にしては歯切りが悪い。そして、こうも続けた。

『想像以上に危ない場所なのかも。気を付けてね』

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