アカウント∽サービス
キングスマン
アカウント∽サービス
この世界に必要ないのはどっち?
悪いことばかりをして、みんなを困らせる人。
正しいことばかりして、みんなを困らせる人。
ねえ、どっち?
この世界に必要なのはどっち?
いつまでも好きなだけ健康に生きられるシステム。
いつでも死にたいときに楽に死んでいいシステム。
海宮美靴は青年にそう訊ねる。
ねえ、どっち?
──十年後。
「ねえ、どっち?」海宮美靴は彼に訊ねる。
「ねえ、どっち?」海宮美靴も彼に訊ねる。
ところで、海宮美靴と海宮美靴は別人であり他人である。
同姓同名、性別も年齢も同じだが、それでも他人である。
美靴という風変わりな名前は、彼女の両親が応援しているスポーツ選手から取ったものだが、当然、美靴の両親と美靴の両親も別人である。
今から十年前、すなわち海宮美靴と海宮美靴がまだ五歳の女の子だったころ、二人はたまたま同じ公園に居合わせ、たまたま同じように人生の意味を
そんな二人の目にちょうど話しかけるのに具合のよさそうな大人──すなわち彼がベンチに腰をおろしているのが見えたのだ。
ちなみにそのとき彼はスマートフォンの画面をタイミングよくタップして七面鳥をフライドチキンに変身させるアプリケーションソフトに興じていた。
同じような年ごろの同じような顔をした女の子から同じような質問を投げかけられてみたものの、その内容はあまりにも哲学的で、彼の手には負えなかった。
話をはぐらかすように彼は二人に名前を
「みくつ!」
「みくつ!」
美靴と美靴は声を揃えた。
とてもいい名前だね、と彼は言う。
美靴と美靴はお揃いの笑顔を浮かべた。
それでも海宮美靴と海宮美靴は他人である。
「ねえ、どっち?」海宮美靴は彼に訊ねる。
「ねえ、どっち?」海宮美靴も彼に訊ねる。
はじめての出会いから十年が経ち、美靴と美靴は中学三年生になっていた。
年相応に成長していても、相変わらず二人は彼に答えを求めていた。
かつて青年だった彼も今年で三十七歳。
お前、年をとるの忘れてないか? と知人に首をかしげられるほど外見に変化のない彼だが、だからといって青年と呼ぶには図々しく、かといって中年と呼ぶにはまだ早い。微妙なお年ごろである。
今、彼が直面している問題は、かつて美靴たちにぶつけられたような哲学的なものではない。
夏休みにヒマだからどこかに連れていけとおっしゃっているのだ。
美靴は海がいいと言い、もう一人の美靴は海外がいいと言う。
自分はきみたち中学生と違って夏に休みは三日くらいしかないと彼は言った。
そもそもどうして選択肢が海と海外なのか。どちらにしろ海じゃないか。こういうのは海か山じゃないのか。
という彼の疑問に美靴と美靴は「山はいや」と声を揃えた。
もっと根本的な話をすれば、なぜ自分の休みをこの子たちに奪われなければならないのか理不尽極まりなかった。しかし、このまま話しを引き延ばしていると「だったら海外の海にいこう」などと言い出しかねない。
去年、こっそり空港まで尾行され、この二人は仕事についてこようとしたのだ。あの悪夢を繰り返してはならない。
わかりました。では、近所の海でよろしいでしょうか。
なぜか彼のほうから二人にお伺いを立てるかたちで決着はついた。
──二年後。
美靴と美靴は高校二年生になり、彼は三十九歳になっていた。
今日は八月八日。
八と八で『ハハ』と笑い声のようにも見えるので、一九九四年に『笑いの日』として登録されているが、全く同じ理由で二〇〇八年に『スマイル記念日』としても制定されているのだと何気なくスマートフォンで見ていたネットのニュースからたった今、教わった。
どちらか一つにまとめればいいのにと思いながら美靴はスマートフォンをショートパンツのポケットにしまう。
彼の住んでいるマンションの前に着くと、美靴はカードキーを取り出し、ぶあつくて透明なドアの中央に設置された文庫本ほどの大きさのパネルにそれを近づけた。
承認されドアが自動で開くと、美靴は中に入る。そして目を閉じる。
しっかりと視界が開けているみたいにその動きに迷いはなく、数歩あるいて、エレベーターのボタンを押して中に入り、五階まであがる。
小さくスキップするようにエレベーターをおりる。右を向いて足をおおきくひろげて十二歩あるく。もう一度右を向く。そこで目を開ける。505号室。彼の住む部屋だ。ここまでなら目を閉じたってたどり着ける。
美靴は得意げに口元を緩めた。
手に持ったままのカードキーをドアノブに近づけると、そこから金属の仕掛けが解けるような音が聞こえた。開錠の合図だ。
ドアを開けて中に入る。
三十畳もあるリビングには、面積以外ほとんど何もなかった。
すみっこにベッド代わりのマットレスと布団。その近くのコンセントにはモバイルWi-Fiルーターが差し込まれている。それの近くに10インチのタブレット。数冊の小説、ジェンガみたいに絶妙なバランスで積み上げられた読む気もおきない医学の本。それがこの空間のぜんぶ。
彼がここに引っ越してきたのが去年。あれから一年も経っているのに、引っ越したその日から何も増えていないし、何も減っていない。
靴を脱いで中に入ると、違和感を覚えた。
いつもはホテルみたいに丁寧にたたんであるマットレスの上の布団が今日は雑に投げっぱなしだった。彼らしくない。急ぎの用事でもあったのかなと首をかしげる。
この布団をたたんであげたら、気づいて喜んでくれるかな、と美靴は考えた。
都合のいい未来を空想して頬が紅くなる。
善は急げという。床にひざをつき、
布団とは、どうやってたたむものなのだろうか。
わからなかった。
むずむずと頭を悩ませていると、ストレスを
布団からそよいでくる、彼の匂い。
「…………」
美靴はまず右を確認して、次に左を確認して、もう一度右を確認して、ここには自分しかいないという確信を持ち、それから遠慮なく布団に顔を
体の内側から満たされていくのがわかった。
二回深呼吸をして、ゆっくりと顔を上げる。
動きが活発になった心臓の音が耳まで響いてくる。
いつからだろう、と美靴は思った。
こんな気持ちになってしまったのは、いつからだろう。
──十二年前。
美靴と美靴が公園にいくと、昨日の大人がまたスマートフォンで遊んでいた。
「それ、面白い?」と美靴たちは訊いた。
やってみる? そう言って青年は美靴にスマートフォンをわたす。
画面の中には七面鳥がいた。七面鳥はときどき白く光った。なんとなく発光にあわせて画面をタップすると七面鳥はフライドチキンになった。おいしそうなフライドチキンだ。
しかし、それ以外は何もない。
光にあわせて淡々と七面鳥を揚げていく。それだけ。
美靴と美靴は思った。
これ、つまんない。
面白い? と青年が訊いてくる。
美靴と美靴は笑顔でこう答えた。
「うん、面白いよ」
海宮美靴と海宮美靴は、いい子であった。
それから五年が経ち、美靴たちは十歳になっていた。
週に何度か公園にきてはいたが、青年は相変わらずベンチで鳥をフライにしていた。
二人の美靴は話し合いの場を設けたわけでもないのに、青年に対して同じ認識を持っていた。
きっとこの人は、かわいそうな人なんだろうな。
彼と同い年くらいの大人がなっていなければならない何か、持っていなければいけない何か、その両方が欠如しているんだろうな。そんなことを思うようになっていた。
とはいえ家族や学校の友達の距離感では恥ずかしくて話すことのできない十歳特有の悩みであったり世の中への疑問をぶつければ、自分なりの答えを見つけ出せるようなヒントをくれたり、どんなことでも真剣に聞いてくれるので、この人は悪い人ではないと二人の美靴は思っていた。
美靴と美靴は彼にある種の信頼を寄せていた。
──三年後。
その信頼が崩れた。
中学生になった美靴は不調だった。春からはじめた楽しい部活動が秋になった今、楽しくなくなっていた。
美靴は合気道部に所属していた。
未経験者だったにもかかわらず筋が良く、周囲の期待は高かった。
ところが、夏の合宿以降、体が思うように動かせなくなっていた。
それは本当に些細で、しかし決定的な違和感だった。
これまでは当たり前にできていたイメージ通りに体を動かすことができなくなっていた。
どうしても一瞬、遅れが生じてしまう。
瞬間の判断の積み重ねで展開する武道においてそれは、一人だけ時差のある時計を基準にして行動するようなものだった。
当然、無様で、周囲との不和を生んでしまう。
部活に顔を出すのが怖くなって、ジャージ姿のまま逃げるように学校を飛び出すと、無意識に公園まで走っていた。ベンチでは、もはやそういう遊具なのではと錯覚するほど、相変わらずスマートフォンで遊んでいる彼がいた。そういえば二ヶ月以上、会っていない。
隣に腰掛けて、やり場のない不安を
たっぷり二十分以上話して、少し落ち着いて、彼を見た。彼もこっちを見ていた。
美靴は二つの期待をした。
一つ、何か優しい言葉をかけてくれること。一つ、すぐそこの喫茶店で何かおいしいものをごちそうしてくれること。
彼の口が開く。
しばらく見ないうちにずいぶん──
まずは優しい言葉がきたと美靴は思った。
しばらく見ないうちにずいぶん──の後につづく言葉は何だろう。
きみも大人になったんだね、とか──頑張ってたんだね、あたりだろうか。
正解はこちら。
しばらく見ないうちにずいぶん、姿勢が悪くなったね。
「──え?」美靴は、ぽかんとした。
おいで。
彼はベンチから立つと、どこかへ向かって歩きはじめる。
「え? ちょっと待ってよ」
美靴は慌てて追いかける。
どこへ連れていこうというのか。少なくとも喫茶店は通り過ぎてしまった。
最上級。
すなわち最も上に君臨するものは、単語のうしろに『est』をつけるのだと英語の授業で習った。
つまり未だかつて見たことないこのオンボロな建築物は、オンボレストとでも形容するべきなのかもしれないと美靴は息をのむ。
それはおそらく二階建てのアパート。
殺人鬼を吊るした木だけを使って建てましたと説明されたら信じる程度の禍々しさがほとばしり、夜中になると通行人を食べているのかと思うほど、壁が物騒な汚れ方をしていた。
アパートの脇には錆びついた階段がある。
階段とは人が上や下の階に行き来するために設置されたものであって、爬虫類の死骸を放置するために用意された場所ではないと美靴は認識していたのだが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
その階段を彼は何食わぬ顔で上がっていく。
美靴がついてきていないことを気配で察したのか、振り返って、階段の近くで
それはこっちの台詞だと美靴は叫びそうになる。それともその足下で
怖くなって帰りたくなったけれど、放課後の学校に自分の居場所はない。
何もかも嫌になって逃げてきたのだ。
だったらとことん逃げてやろうと、美靴は目を閉じ、息をとめ、一気に階段を駆け上がった。
部屋の扉には彼の名字が書かれた板が貼ってある。
つまりここは彼の部屋ということであり、彼はここに住んでいるということでもある。
何かの罰だろうかと美靴は眉をひそめた。
扉を開けると、外の世界とは打って変わって、そこは清潔に整理されていた。
八畳ほどの空間。天井も壁も床も白で統一されている。単純な白ではない。日々の清掃を
テレビや机といった生活感を見いだせるものはほとんどなく、かろうじて部屋のすみにポケットWi-Fiとタブレットと何冊かの本があるくらい。
お世辞にも広いとはいいがたいその部屋で一際存在感を放っていたのは、部屋の中央に君臨する簡易ベッドだった。
枕も布団もないので、巨大なアイロン台のようにも見える。
まるでこのベッドが部屋の主人のようなアンバランスな配置に思えたけれど、男の人の部屋なんてこんなものなのかもしれないと美靴は特に気にしなかった。
じゃあ、そこに横になって。
と彼はベッドを指さす。
「はい?」少し驚いたあと、美靴は怪訝な表情を浮かべる。「なんで?」
いいから、ゆっくり楽にして。
と彼は言う。
毎日自分がどれだけ疲れているか想像もつかないでしょう、と長い愚痴をこぼしたので、ここで休めと言われているのだろうか。
釈然としない気持ちはあったけれど、まあいいかとお言葉に甘えて美靴はベッドに背をあずける。
安っぽい簡易ベッドにしか見えないのに、意外と悪くない感触が美靴の体を受けとめた。
もしかしてこれは外見では判断できない高級なものだったりするのだろうかと、ちょっとわくわくした瞬間、美靴は悲鳴をあげそうになる。
彼が、自分の足首を掴んだのだ。
「ちょ、ちょっと、なにを──」
静かに。ちゃんと横になってて。
制するような、彼の声。
美靴は自分の身に何が起きようとしているのか理解して、ふるえた。
はじめから、これがこの人の目的だったのだ。
中学生になって、自分の体──特に脚に視線を感じることはときどきあった。男の人から見られているのもわかっていた。別に気にするほどのことでもないと思うようにしていた。
でも、こういうのはいやだった。
よくよく思えば、この人のことを自分は何も知らない。だけど、こういううらぎりをする人ではないとわかっているつもりだった。
でもそれは、愚かな思い込みだったのかもしれない。
大声を出して暴れたら運よく逃げられるかもしれない。
でも、もし失敗したら?
きっと彼を怒らせて予定になかった暴力を浴びせられるかもしれない。ひどい扱いをうけるかもしれない。それに、うまく逃げられる自信もない。だって、足を掴まれているのだから。
ザリガニのツメを無理やり開くように、美靴の足首を掴んだまま彼は、少女の足をひろげていく。
理由もなく彼に向けていた信頼は、スポンジを
きっと、これは罰なんだと美靴は思った。
嫌なことから逃げつづけた罰だと。
恐怖で感覚が麻痺したのか、美靴は
もう本気でどうでもいい。
どうせいつかはすることなんだ。それが他の人よりちょっと早くやってきたんだ。
歯を食いしばり、強がる。
こみ上げてくる涙を必死に抑える。きつくまぶたを閉じる。
美靴のかかと、ふくらはぎ、ひざのうらを丁寧に丁寧に彼は
それじゃあ、ゆっくり起きて。
と彼は言う。
「…………え? もう終わったの?」と涙声で美靴はもらした。
なんだか、思っていたのとずいぶん違う。
とりあえず言われたとおり、ゆっくりと体を起こす。
明らかな違和感があった。
正しくは、一ヶ月前から自分にまとわりついていた体の違和感が消えていた。
驚いて、立ち上がる。
ふんわりと体が軽い。
自分が新品になった気がした。
ちょっと体をさわられただけなのに、一体、彼は自分に何をしたのだろう。
体中に余分な力が入ってたからとりあえずほぐしておいたけど、スポーツをするときはもっと準備運動をしたほうがいいし、ちゃんと早寝早起きもすること。あとスマートフォンを使う時間をもっと減らして、寝る一時間前にはさわらないこと。いい?
軽くお説教をされてしまう。
何年も飽きずに七面鳥をフライドチキンにしてる人の言葉とは思えなかったけど、このときばかりは美靴も素直に、はいと返事をした。
そのとき部屋の扉が開いた。
そして、横綱が入ってきた。
比喩的な表現ではなく、本当に第七〇代横綱、
「おっ、かわいいお客さんがいるな」横綱は美靴を見て言う。
いらっしゃい、と彼は相手に背を向けた体勢でつまらなそうに口をとがらせる。
「何で横綱が? っていうか、何でそんなに無愛想なの?」
横綱は豪快に笑う。「気にしなくていいよ。こいつとは小学校からの腐れ縁だからな。最近じゃ親も俺のことを横綱呼ばわりで、もう俺のことを名前で呼ぶのはこいつくらいだよ」
横綱は、なんだか嬉しそうだった。
「…………」
美靴は、何がなんだかわからなくなって、ただただ困惑するしかなかった。
翌日、もう一人の美靴も不調であった。
春からはじめた楽しい部活動が秋になった今、楽しくなくなっていた。
美靴はバレーボール部に所属していた。
未経験者だったにもかかわらず筋が良く、周囲の期待は高かった。
ところが、夏の合宿以降、体が思うように動かせなくなっていた。
これ以降の展開は先ほどの美靴とほぼ同じなので割愛する。
唯一の違いは、一通りの流れが終わって彼の部屋に入ってきたのが横綱ではなく、日本女子バレー界のエース、宮野遥選手だったことだ。
宮野選手に憧れてバレーをはじめた美靴は、緊張のあまり、その場で腰を抜かした。
翌日、公園近くの喫茶店にて。
美靴と美靴は数年来の謎を解くため話し合いの場を設けていた。
一体、彼は何者なのか。
とりあえず、名前を検索してみた。
答はすぐに出た。
『奇跡の手を持つ人』
なんとも
どうやらそれが彼の職業だった。
美靴と美靴には、初耳の業種だった。
怪我や病気で身体に障害のある人、日常生活で体の調子を悪くした人、競技中に故障してしまったアスリート、そういう人たちに運動療法や物理療法なるものを用いて回復に導く専門家なのだと、ネットには書いてある。
国内外のトップアスリート、海外のセレブにも彼のファンは多く、彼に
いつも公園で面白くないアプリで遊んでいるあの人とは同姓同名で顔も一緒の別人なのではと思ったりもしたが、軽く体にふれられただけで魔法のように不調を解消してくれたのは美靴たちも身をもって知っている。
「……そっか」美靴と美靴は感慨深く声を揃えた。「……無職じゃなかったんだ」
翌日、美靴と美靴が公園にいくと、期待を裏切ることなく彼はいた。
体をなおしてくれたお礼を言ってなかったので、ジュースでもごちそうしてあげようという話になったのだ。
いつもと変わらぬ彼だったが、その日は一つだけ、いつもと違うところがあった。
彼のトレードマークともいうべき、あのつまらないゲームをプレイしていない。
「今日はあのゲームやらないの?」美靴は小首をかしげる。
彼にとってあれは日課というより、もはや呼吸のようなものだと思っていたので、今さら飽きたというわけでもないだろう。
うん。と彼は短くうなずく。
「どうして?」
美靴の問いに彼は、こう答えた。
──もう、する必要がなくなったから。
生まれつきの重い病気で、ずっとベッドから出られない少女がいた。
なんとか彼女を元気にしようというプロジェクトが立ち上がった。
あらゆるジャンルのプロフェッショナルが集まり、その中の一人に彼がいた。
「ねえ先生、これ知ってる?」
ある日、少女が彼に声をかけてきた。
少女のスマートフォンにインストールされていた子供向けのアプリケーションソフト。
タイミングよく七面鳥をタップしてフライドチキンに変えるという、単純で単調なゲーム。
一日の中の限られたほんのわずかな自由時間で、ほとんど体を動かすことのできない少女にとって、それは貴重な娯楽だった。
「先生、勝負しようよ。一ヶ月の合計スコアで私が勝ったら、私の体が元気になったとき、先生が私のお願いを一つ叶えてくれるの」
わかった。と彼は了承した。
「手加減しちゃダメだからね」少女は細く小さな手で握りこぶしをつくってみせる。
わかった。と彼はうなずく。
「もうゲームをしなくていいてことは──」美靴は言う。「その子、元気になったんだ」
彼と目が合う。はじめて見る、少し虚ろな目だった。
それでやっと、察することができた。
「……あっ、ごめん……なさい」
きみがあやまる必要なんてないよ、と彼は言う。
しばらくの沈黙のあと、そうだ、と彼は小さくこぼした。
よかったら、付き合ってくれないかな? と彼は美靴たちを見た。
「え?」
「え?」
美靴と美靴は、なかよく頭の上に疑問符を浮かべる。
彼はポケットから小さなノートを取り出す。
おおきなペンギンのシールの貼ってある児童向けのノート。
それを開いて、目を通しながら彼は言う。
じゃあ、とりあえずチョコレートパフェを食べにいこうか。どこかおすすめの店はある?
彼は二人の美靴に意見を求めた。
一時間後、いつかいってみたいと思っていた中学生の財力では手の届かないカフェで、美靴と美靴と彼はチョコレートパフェに細長いスプーンを挿し込んでいた。
このパフェがアマゾンでも買えるなら、毎日五つ星のレビューを書いてもいい。そう断言できる幸福が口いっぱいに広がる。
自分が今まで紅茶だと聞かされて飲んでいたのは雑草の煮汁だったのではないか。
追加で注文したアールグレイを一口飲むなり、美靴はそう思わずにはいられなかった。
「ところで、どうしていきなりチョコパフェを?」もう一人の美靴が訊く。
うん。ここに書いてあったんだけど、男一人だとこういうところには入りにくいから。
そう言って、彼は先ほどの小さなノートを美靴にわたす。
受け取って、表紙をめくる。
そこに書いてあったのは、願いだった。
『おいしいチョコレートパフェをたべる』
『カラオケでおおきなこえでうたをうたう』
『えいがをみる』
『おしゃれする』
『公園ではしる』
『いぬとさんぽ』
『ゲームをする』
『小学校にいく』
『小学校にくるまでいく』
『小学校に一度でいいからいく』
いつかこのベッドから起きられる日がきたとき、忘れないように、しっかりと刻むように幼い少女の願いが書き記されていた。
『海にいく』
『山にいく』
『妹とあそぶ』
『フラワーアレンジメントをつくる』
『だれかに手がみを書く』
その子と約束したんだ。自分は叶えられそうにないから、代わりに叶えてほしいって。
からっぽのコーヒーカップを見つめながら、彼はつぶやいた。
でも難しいお願いもあるんだ。
「例えば?」美靴は訊く。
彼は言う。僕に妹はいない。
美靴と美靴は思わず苦笑いを浮かべる。彼のことだから、ふざけて言ってるわけじゃないのはわかっていた。
「……あの、だったら」美靴は小さく手を上げて提案する。「それ私がやろうか? ほら私、妹いるし」
「だったら私は小学校にいこうか? 仲のよかった先生とひさしぶりに会いたいし」おしぼりで手を拭いながら、もう一人の美靴は言った。「それに、ほら──」あなた一人だと不審者だと思われかねない、という余韻を込めて語尾を濁す。
こうして美靴と美靴と彼は、願いを叶える行動をはじめた。
時間を作って、できることをやっていく。
ときに一人で、ときに二人で、ときには三人で。
『さかなにさわる』
『ママのてつだいをする』
『パパとあそぶ』
『むずかしい本をよむ』
『ケーキをつくる』
『インターネットをする』
『かまくらをつくる』
『雨のなかであそぶ』
『カーテンでぐるぐるまきになる』
『船にのる』
『絵をかく』
『フランスりょうりをたべる』
『高いビルにのぼる』
『海外りょこう』
『車をうんてんする』
『ドレスをきる』
『カメラマンになる』
『ふうせんを100個つくる』
『しんぶんにのる』
『一日中ゲームをする』
『きれいな字をかく』
『とけいを買う』
『ギターをひく』
『のんびりする』
小さなノートいっぱいに詰め込まれた百三十九個の願いを、一年かけて三人は叶えつづけた。
一つだけ、どうしても叶えることが困難なものがあり、それはいつか叶えることとして保留にした。
ほぼ達成した記念にお礼がしたいと彼から申し出があり、美靴と美靴は、だったらあのときのチョコレートパフェをもう一度食べたいと答えた。
満足な表情で店を出る三人。
自分の前を歩く二人に、あのさ、と彼は呼びとめた。
美靴と美靴は振り返った。
あのさ──彼は言う。
ありがとう
短くつぶやいて無器用に笑ってみせた。
美靴と美靴がはじめて見た、彼の表情。
「…………」
「…………」
それは、歌のような恋だった。
映画や小説みたいに前置きも理由も伏線もない。
仮にあったとしても、観客や読者を納得させる説得力があるとも思えない。
だからそれは歌のようだった。
気づいたときには好きになっていた──そんな他愛もないフレーズではじまっても、それが歌なら、ああこれは恋の物語なんだとわかってもらえる。とても気の利いた表現。
だからこれは、歌だった。
気づいたときには、好きになっていた。
海宮美靴と海宮美靴は、彼に恋をした。
海宮美靴と海宮美靴は他人である。
でも二人は、とてもよく似ていた。
現状維持。
それが美靴と美靴の選んだ結論だった。
気持ちを伝える行動に出たりはしない。
今までと一緒でいい。
この安定の中にとどまっていたい。
それでいい。
しかし二年後。事件は起きた。
高校生になった美靴と美靴が彼のアパートに着くと、入り口が騒がしいことになっていた。
そこで政治家が汚職でもしたのか、大勢の報道陣が彼の部屋の前で待機している。
数分後、アパートの前に高級車がとまる。
彼の部屋のドアが開くと手で顔に盾をした女性がスーツ姿の男性に肩を抱かれながら飛び出し、急ぎ足で車に乗り込み、車は急発進でどこかへ走り去り、報道陣たちは足でそれを追った。
「今の人って、あれだよね」美靴は美靴に言う。
「うん、不倫で大変なことになってる女優さんだよね」美靴は美靴に答える。
美靴と美靴が部屋に入ると、彼は数少ない衣類や日用品を鞄にしまい、簡易ベッドを折りたたんでいた。
「掃除でもするの? 手伝おうか?」
美靴の声に、引っ越そうと思うんだ、と彼は返す。
有名人が多く訪れるこの場所は、そのわりに彼らのプライバシーを尊重できるほどセキュリティー対策ができておらず、今回のように顧客の安全を
頼むからなんとかしてほしいという要望をのらりくらりとかわしてきた彼だったが、ついにその腰を上げるために必要な
「どこに引っ越すの?」
美靴の疑問に彼は、これから考える、と言った。
「あっ、だったら──」もう一人の美靴が、ぽんと手を叩く。「あのお願いを叶えるチャンスなんじゃないの?」
そう言って、彼の鞄の中にあった小さなノートを取り出す。
そこには幼い少女の願いが
美靴たちはここに書いてある百三十九個の願いのうち、百三十八個まで叶えた。
どうしても叶えることのできなかった最後の一つはこうだった。
『こうきゅうなばしょでくらす』
高級な場所で暮らす。
これだけはどうすることもできなかった。
「でも、高級な場所って?」美靴は問う。
「だから、高級なマンション、とか?」美靴は自信なさげに答える。
「お金は?」
「ええっと、それは──」
美靴は彼の鞄にちらりと目を向ける。銀行の通帳が見えた。
ちょっと見せて、と言って取り出して開く。
落胆したくなかったので、あらかじめ期待を排除してみたものの、そこには子供がふざけてキーを叩いた計算機のような数字が印字されていた。
そういえばこの人は世界で最も予約の取れない人だということを美靴と美靴は思い出す。
こうして彼は美靴と美靴の導きにより、この地域で最も高級なマンションを新居とすることとなった。
オレンジ色の蛍光ペンで最後の願いに完了のチェックを入れる。これで全ての願いは叶えられた。
達成感に満たされる。同時に、ノートを持っていた美靴の指先に違和感がふれた。
表紙に貼ってあるおおきなペンギンのシールがはがれそうになっていることに気づき、貼りなおそうとしたとき、シールの下に文字が書いてあることを発見したのだ。
そこにはこうあった。
『八月八日、たった一人のたいせつな人に、たいせつなプレゼントをする』
三人は目を丸くした。こんなところに願いが隠してあったとは。
どうして八月八日なんだろうと美靴が首をかしげると、その日はその少女の誕生日だから、自分の生まれた日に大切な人に贈り物をしたかったのかもしれない、と彼は推測する。
おそらくそれで間違っていないと美靴たちも納得した。
しかし、この願いには二つの問題があった。
まず、八月八日は一週間前に過ぎてしまったので、この願いを叶えるには少なくともあと一年待たなくてはならないこと。
そして、たった一人のたいせつな人とは、自分にとって誰なんだろう。
二人の美靴は、なぜかその考えを先に進めることがこわくなって「じゃあ、これが本当に最後のお願いだね。一年後が楽しみだね」と明るい声ではぐらかした。
──それから一年後、現在。
微かな音に反応して、慌てて美靴は布団を落として立ち上がる。
扉が開くと、美靴が入ってきた。
白い半袖のブラウスに深い紺のプリーツスカート、焦げ茶色の鞄。
「学校だったの?」と美靴は訊く。
「そっちはこのあと海にでもいくの?」と美靴は訊く。
腹部を露出した白のミニTシャツとデニムのショートパンツは、どちらも肌に貼りつけてあるみたいに体に密着していた。
制服の美靴はリビングに上がると、足下で雑に寝転がっている彼の布団を見た。つづいて、目の前のTシャツの美靴に焦点をあわせる。
制服の美靴は、レンゲの花を見つけたミツバチみたいに、自分の顔を素早くTシャツの美靴の顔に寄せる。あと数ミリ近づけば、お互いのくちびるがぶつかる。
制服の美靴は鼻をひくひくさせて、こう言った。
「あの人の匂いがする。布団くんくんしてたでしょ?」
「べ、別に──」
「じゃあ、私も」
制服の美靴は、その場にしゃがんで布団を拾い、先ほどTシャツの美靴がしていたことと同じことをする。
「ところで、なに持ってきたの?」
布団から顔を上げて制服の美靴は訊く。その視線の先には白いトートバッグ。
「そっちこそ、なに持ってきたの?」
Tシャツの美靴は質問に質問で応えた。その視線の先には焦げ茶色の鞄。
『八月八日、たった一人のたいせつな人に、たいせつなプレゼントをする』
今日がその八月八日。たった一人のたいせつ人にたいせつなプレゼントをする日。
この願いを叶えるために美靴たちはここにいる。
どちらの美靴もプレゼントをわたす相手は決まっている。当然、彼だ。
しかし、今は相手のプレゼントの中身が気がかりだった。
厳密にいうと、中身の中身。
美靴と美靴は、目の前にいる自分と同じ名前のやつが嫌になるほど自分と酷似していることを熟知している。
住んでる場所と通っている学校と所属する部活以外は、同じような人生を歩んで、同じ人を好きになった。
だから、相手が彼に何をプレゼントするのかもわかっていた。
間違いなく、自分と同じものだ。だからこそ、その中身が気になった。そこだけは自分と違うような気がしたから。
どっち、だろう。
誰にも言えない悩みでも、こいつだけには打ち明けることができて、二人で泣きながら朝まで通話していたこともある。
それと比べたら取るに足らない話題なのに、訊くことができない。
どっちにしたの? ──と。
唐突にマットレスと布団の間から風鈴の音が鳴る。
布団をめくり上げると、彼のスマートフォンがあった。どうやらここに忘れたようだ。
まだ使えるからという理由だけで使っている数世代前の機種。
どうしてメールの着信音を風鈴にしているの? と訊ねると、風情があるからという何の面白みもない答えが返ってきたことを美靴たちは思い出す。
彼のスマートフォンには、こう表示されていた。
『スポーツショップダルモア1962より。ミクツさまへの高級スポーツウェア《メッセージ付き》《特典付き》《ラッピング済み》《一点》本日到着予定です。ありがとうございます。』
数秒後、スマートフォンのバックライトは消えてスリープ状態に戻る。
美靴と美靴は一語一句逃さずそれを読んでしまった。
彼も今日のためにプレゼントを用意していた。でも。
ミクツさまへの高級スポーツウェア
《メッセージ付き》《特典付き》《ラッピング済み》《一点》
たった一人のたいせつな人に、たいせつなプレゼントをする。
たった一人の。
美靴と美靴は思った。
──どっち?
──半年前。
それは、ロクサーヌ
説明不要、若者から年配者まで幅広く支持されている新進気鋭の占い師である。
信じられないくらい、いいことが起きるからチェックしたほうがいいという熱心なクラスメイトのすすめで、しかたなく動画投稿サイトを開く。
ロクサーヌは毎週そこで『お告げ』を配信しているという。
美靴は部屋のベッドの上で寝転がってタブレットを見つめる。
金色のローブをまとった三十代の、男性といわれても女性といわれても納得できる中性的な外見と声の持ち主が、視聴者の年代別に『幸運行動』なるものを
ロクサーヌ曰く、十代の女の子はスマートフォンの待ち受け画面を赤い野菜にすると恋愛幸運がアップするとのことだった。
ずっと気になっているあの人との距離が縮まるのだそうで。
一度だけタイムマシンが使えるなら、少しは有益な情報が聞けるかもしれないと、この占い師に期待していた数分前の自分を蹴飛ばすために使いたいと美靴は思った。
評判の占い師とはいえ、そこから出てきたものは雑誌の埋めあわせで載っている無責任な占いコーナーとなんら変わらないものだった。
とはいえ、有害な行為でもないし、せっかくだからと、一応スマートフォンの壁紙をトマトにして眠りについた。
ロクサーヌ下山田の存在すら忘れていた三日後の放課後。
商店街を歩いていると、品のない中年男性の笑い声が響いてきた。
あなたは本物の天才だと、誰かを持ち上げている。取引先の社長に媚びでも売っているのかなと、興味はないけどなんとなく声の方角を見る。
自分でも驚くほど、美靴の胸は高鳴った。
おや、あのお嬢さんは先生のお知り合いですか? だったらあの子も一緒にどうですか?
およそ一時間後、恰幅のいい紳士の誘いを受けて、彼と美靴はとあるホテルの最上階にあるドレスコードの存在するレストランで名前の覚えられない北欧の料理にフォークを刺したりナイフで
レストランの入り口で彼と美靴は黒服の男性にとめられそうになったが、恰幅の紳士からの「このお二人はわしの大切なお客さんじゃけえな、粗相のないように頼むな」の一言で、黒服の男性は深くおじぎをして引き下がった。
その恰幅の紳士は急な仕事で今この場にはいない。
ここあるのは優しく耳に届くピアノの調べと完璧なタイミングで運ばれる北欧の料理。
あとは彼と自分の二人だけ。
こんなおいしいのはじめて食べたよ、と彼は舌鼓をうっている。
そうなんだ、この料理そんなにおいしいんだと、美靴は平皿の上に盛り付けられた彩り豊かな彫刻のような一品をじっと見つめる。
小さく切り分けて、一つを口に運ぶ。
まずいわけではない。まず味がしないのだ。
こんな日常から隔離された空間で、彼と二人きり。
あらゆる神経が彼に集中している。
今この瞬間、実は誰かに刺されていたとしても美靴は気づかなかっただろう。
二日後、もう一人の美靴にも同じような出来事が訪れた。
だから美靴と美靴はロクサーヌ下山田の信奉者となっていた。
お告げがいつも当たったわけではない。
それでもときどき、奇跡と表現したくなるような驚きと喜びを授かることもあった。
そして六月のある日。それは告げられた。
「十代から四十代までの女子たちに朗報です。この夏は半世紀に一度のサマータインが訪れます。八月八日、誰かに特別なチョコレートをプレゼントして下さい。そこであなたの永遠は約束されるでしょう」
ピストルで撃たれたような衝撃だった。
八月八日。こんな偶然、あるわけない。
ロクサーヌ様が
一人は恋愛の女神。もう一人は友情の女神。
女神は甘い物と果実を好まれる。
恋愛の女神はブルーベリーを好み。
友情の女神はラズベリーが好き。
だから叶えたい恋があるならブルーベリーの果実を、ずっとなかよしでいたい友達がいるならラズベリーの果汁を入れたチョコレートを誰かにプレゼントすればいい。
女神は自分以外の誰かの肉体を介してそれを受け取る。
だからプレゼントをする相手は意中の人でなくてもかまわない。
プレゼントをするとき、大切な人を思い浮かべるだけでいい。
でも気をつけなくてはいけないことが一つだけ。
幸運の女神はよくばりが嫌い。
捧げていいのは一つのチョコレートだけ。
恋愛と友情、二種類のチョコレートを作ってはいけない。
好きな人や友達になりたい人が複数いるからといって、二つ以上のチョコレートを作ってもいけない。
よくばりは魔女を呼び寄せる。
魔女は、あなたの叶えたい恋と友情に永遠の魔法をかけてしまう。
永遠に叶わない魔法を。
どうか、それだけは気をつけて。
配信終了と同時に、美靴は近所のスーパーに走った。
ブルーベリーとラズベリーのジャムだけ売り切れていた。
メディアに踊らされすぎだと美靴はため息をつく。
三軒まわって、ようやくブルーベリーのジャムを発見したときは、洞窟の奥で金塊を発見したような気持ちになった。
帰宅して台所のテーブルに買ってきたものを並べる。ブルーベリーのジャム。
と、ラズベリーのジャム。
なぜだろう。
美靴は自分の行動が理解できないでいた。
どうして、こっちも買ってしまったのだろう。
美靴は二種類のジャムを、じっと見つめていた。
それは、もう一人の美靴も同じだった。
──現在。彼の部屋。
「なんか今、見えたよね?」
「……う、うん」
『スポーツショップダルモア1962より。ミクツさまへの高級スポーツウェア《メッセージ付き》《特典付き》《ラッピング済み》《一点》本日到着予定です。ありがとうございます。』
「ダルモア1962ってあれだよね、すごい高いお店だよね」
「……うん」
「さすがお金持ちだよね、私たちにそんないいものプレゼントしてくれるなんて」
「違うでしょ」
「──え?」
「私『たち』じゃなくて、私かそっちかの、どっちかでしょ。『一点』って書いてあったの見えたでしょ?」
「…………」
「それに今日プレゼントがもらえるのは一人だけでしょ」
たった一人のたいせつな人に、たいせつなプレゼントをする。
「じゃあ……あの人、私かそっちかのどっちかにしかプレゼントしてくれないの?」
「それ、いま私が言った」
「じゃあ……あの人にとって、私かそっちかのどっちかが特別だってこと?」
「…………」
一番言われたくないことを、一番言われたくない相手から言われてしまう。
「……見間違いかも」
「──え?」
「一点じゃなくて、二点だったかもしれない。ほら『一』と『二』ってよく似てるし」
似ているけど見間違いはしないだろうと美靴は言いかけたが、口を閉じた。
「調べる」と言って、美靴は彼のスマートフォンを手にする。「……ねえ、パスワード教えて」
美靴はスマートフォンの画面を美靴に向ける。四桁の数字を入力せよと表示されている。
「私が知ってるわけないでしょ」
「ベタだけどあの人の誕生日入れてみるね──あっ、違った。どうしよう、あと二回間違えたらロックするって出てるけど」
「やめようよ、怒られるよ」
スマートフォンを持っていた美靴は「きゃ」っと小さく悲鳴を上げてスマートフォンを布団に落とした。
「どうしたの? 虫でもいたの?」
「ちがう……解除、できちゃった」
スマートフォンを拾って画面を向ける。ホーム画面が表示されていた。
「パスワードどうしてわかったの?」
「なんとなく自分の名前を入れてみたの『0392』って」
美靴と美靴は、またしても思ってしまう。
どっち?
スマートフォンからブラウザを立ち上げ、スポーツショップダルモア1962のサイトにアクセスする。
アカウント情報をタップするとパスワードの入力を求められた。
『あなたの特別な人の名前は?』
文字数制限はなく、カタカナの入力のみ受けつけられていた。
美靴はゆっくりと、だが確信を持って『ミクツ』と入力して『OK』をタップする。
承認される。
すると次は『STEP 2』なるものが現れた。
「え? まだあるの?」
美靴たちは声を揃える。
『その人が最も活躍している場面は?』
『球技』『水泳』『陸上』『試合』『アーチェリー』『その他』
「ねえ? どれだと思う?」
バレー部に所属しているTシャツの美靴は訊ねる。
「上から順番に試せばいいんじゃない?」
合気道部に所属している制服の美靴は答える。
「でもこれ、二回しか選べないみたいなこと書いてあるよ?」
「じゃあ、とりあえず球技を選んでみたら?」
「うん、じゃあ──いくよ?」
カーソルを『球技』あわせて『OK』をタップする。
『もう一度、ご確認下さい。あと一回』とテキストウインドウが表示される。
「どうしよう、間違えた」
「もうやめようよ、というかメールをチェックすればいいんじゃないの?」
「ダメだよ。メールなんか見たらプライバシーの侵害じゃん」
「いま自分が何やってるか理解している?」
「えい!」というかけ声とともに、やぶれかぶれで『試合』をタップする。
承認され、このサイトにおける彼のあらゆる情報が網羅された。
『ご注文内容:高級スポーツウェア。サイズ《フリー》色 《ネイビー》《メッセージ付き》《特典付き》《ラッピング済み》《一点》八月八日必着』
購入履歴にはそうあった。
もしかしたらもう一着買っているのかもしれないという淡い期待は砕けた。
隣で急にぐったりしたTシャツの美靴に、制服の美靴は「どうしたの?」と声をかける。
「決まりじゃん」とTシャツの美靴はこぼす。「もらえるの、そっちじゃん」
言いながら、制服の美靴を指さす。
「……なんで?」
「だって試合してるときが輝いてるのって、そっちじゃん。格闘技のことでしょ? 私は球技だし……」
Tシャツの美靴はバレー部に、制服の美靴は合気道部に所属している。
「合気道は格闘技じゃないし、合気道に試合っていう概念はないよ。それにたぶん、プレゼントをもらえるのは私じゃなくて、そっちだよ」
制服の美靴はTシャツの美靴を指さす。
「……なんで?」
「スポーツウェアの色、ネイビーってなってるでしょ? 紺色、好きじゃん。私が好きなのは白色だし」
確かにそうだった。
Tシャツの美靴は無意識に笑顔を作る、自分でそれに気づいて真顔に戻る。
「でも、だけど……」
脳内のどこかにある言語を司る場所を必死に掘り起こして、相手を気づかう言葉を探してみたものの、ふさわしい一言が出てきてくれない。
「気をつかわなくてもいいよ。おめでとう」
制服の美靴は不完全な笑顔で祝ってくれる。
いやだ、とTシャツの美靴は思う。
彼から想われているかもしれないと考えるのは、例えるものがないくらい嬉しい。
だけどそれは同時に、自分と同じ名前の誰かさんの、例えるものがないくらい悲しい顔を見なければならないということ。
なにか、なにか一つ、彼女への希望はないかとスマートフォンを操作する。
幸か不幸か、それはあっさりと見つかった。
「ねえ、プレゼントもらえるの……やっぱりそっちだよ」Tシャツの美靴は言う。
「どうして?」
「だって、ほら」
Tシャツの美靴はスマートフォンを見せた。
アカウント情報から彼がプレゼントを贈る相手へのメッセージが確認できる。
そこには『来週の試合、頑張って』とある。
「来週、合気道の試合でしょ?」
「だから合気道に試合はなくて、あれは演武っていうの」
「普通の人はそんなの知らないよ。私は来週何もないし、それにね──」Tシャツの美靴は、さらに別の情報を提示する。
彼が注文したスポーツウェア。それは白を基調にしたデザインだった。
ネイビーというのは胸元にあるロゴのカラーを示すものであり、全体としてみれば、ただの白いスポーツウェアだった。
「決まりだね、私じゃなくて、そっちだったんだよ」Tシャツの美靴は言う。「……おめでとう」ひどく、無器用な笑顔で。
制服の美靴は、ここに自分しかいなければ、嬉しさで泣いていた。
でも今はとてもそんな気分にはなれない。
なぜなら、一人ではないから。
何か、なぐさめになるようなことはないかと情報を精査する。
喜ぶべきか、悲しむべきか、それは簡単に見つかってしまう。
「……まだわからないよ。プレゼントもらえるの、そっちかも」と制服の美靴は言う。
「いい子ぶらなくていいよ。そっちで決定だよ」
「これを見てもまだそんなことが言える?」
制服の美靴はアカウント情報からもう一度、購入履歴を引き出す。
『ご注文内容:高級スポーツウェア。サイズ《フリー》色 《ネイビー》《メッセージ付き》《特典付き》《ラッピング済み》《一点》八月八日必着』
特典の詳細を開くと、それは人気バレー選手、宮野遥の非売品カードだった。
Tシャツの美靴がバレーをはじめるきっかけとなった憧れの人。
制服の美靴は言う。
「私、この人のことよく知らないし、カードなんてもらっても全然嬉しくないよ」
Tシャツの美靴は戸惑う。
「でも、だけど……辻褄が合わないよ。試合のこととか」
「そっちだって試合あるでしょ」
「来週じゃなくて再来週にね」
「ねえ、今日って何曜日?」
「え? 日曜日でしょ?」
制服の美靴は問う。「ねえ『来週』っていつ?」
Tシャツの美靴は首をかしげる。「来週って……来週でしょ?」
「私の演武があるのは『次の』土曜日。そっちは『次の次の』土曜日でしょ」
「それがどうしたの?」
「世の中には二種類の人がいるの。一週間のはじまりを日曜日に設定している人と月曜日に設定してる人が」
「……それがどうしたの?」
「まだわからない? あの人が週の
「えーと、えーと……」Tシャツの美靴は指と頭を使って何かを計算するが、答えを導き出すことはできない。「……つまり、どういうことなの?」
「……たぶん、もらえるのは、そっちってこと」制服の美靴は言う。
「……そう、なの?」Tシャツの美靴は首をかしげて見せたが、内側からわき上がる嬉しさを上手く隠せない。
二人の美靴は、それ以上、アカウントから何かを
およそ二分が経過して、Tシャツの美靴が口を開く。
「なんか、私たちってわけわかんないよね。自分が好きな人が自分のことを好きかもしれないってわかったら、そんなことない、好かれてるのはそっちだって押しつけたりして」
制服の美靴は笑う。
「そうだね」
「……自分のほうを好きでいてほしいくせにね」
「……そうだね」
「ねえ、どっちにしたの?」
「何が?」
「チョコの中身。ラズベリー? ブルーベリー?」
「死んでも教えない」
十二年前、彼というたった一人のたいせつな人と出会えた。
問題は、そのとき偶然その場にいたもう一人も、いつの間にか、たった一人のたいせつな人になってしまっていたということ。
「思ったんだけど、やっぱりプレゼントもらえるのは私じゃなくて、そっちだと思う」
「そのこころは?」
「だって、プレゼントの相手の名前、ミクツ様ってなってたし」
「そっちだってミクツ様じゃん」
言いあって、笑いあう。
世界のどこかに名前のないものが存在したとする。それはきっと不便だろう。
それと同じくらい不便なものがあるとすれば、それはきっと同じ名前を与えられたものではないだろうか。
好きという言葉では足りないくらい、彼のことが好き。
同じ想いを彼と共有して歩いていけたなら、自分の人生はより素敵なものになることに疑いの余地はない。
誰かの願いが叶うということは、別の誰かの願いが叶わないということ。
ありきたりな
美靴と美靴はそういう場面に遭遇することがあれば、迷わず夢を掴んで、敗者になさけをかけることもなく進んでいけると思っていた。
それなのに今は、叶うとしても、叶わないとしても、同じくらい苦しい。
チョコレートのおまじないだって、本気で信じてるわけじゃない。
あんな占い師、来年には消えてる。
だけど、夢を
確かなことは、まもなく、選ばれるものと選ばれないものが誕生すること。
選ばれるのはどっち?
選ばれないのはどっち?
必要なのはどっち?
必要ないのはどっち?
ねえ、どっち?
『どっち』を使ってしまうのは、きっと、どっちを選んでも悲しみを背負うことを知っているから。
開錠の音に反応して、美靴と美靴は飛び跳ねる。
扉が開いて、彼が入ってこようとする。
その手にはスポーツショップの箱。
美靴と美靴は彼に駆け寄り、声を揃えた。
「どっち?」
「どっち?」
彼は呆気にとられている。
なにが?
「その手にもってるプレゼントだよ。どっちにくれるの? 私?」美靴は自分を指さす。
「それとも私?」美靴も自分を指さす。
海宮美靴と海宮美靴は声を揃える。「ねえ、どっち?」
少々困惑した彼だったが、状況を把握して、何度かうなずく。
そして──こっち、と指をさした。
彼の指は美靴でも美靴でもなく、自分の隣をさしている。
扉が壁になって見えないが、どうやら横に誰かいるらしい。
扉を開くと、そこには横綱が立っていた。
白いジャージに『HARUKA LOVE!』という文字がプリントされている。
「……なんで?」美靴は問う。
なんでって言われても、こいつとは長いつきあいだし……。
「そうじゃなくて、プレゼントの相手はミクツって名前なんじゃ?」
だからミクツだよ。こいつの本名、
海宮美靴と海宮美靴は、しばし唖然とした。
それから見つめあって、笑いあって、抱きあって、もっと笑った。
目尻には涙も浮かんでいる。
どうしたの? 彼は首をかしげる。
「なんでもない」と美靴たちは声を揃えた。
「そうだ、これあげるね」
そう言って美靴と美靴はそれぞれの鞄の中から紙袋を取りだして、彼にわたした。
受け取ると、それはひんやり冷たかった。保冷剤の近くで保管していたらしい。
「それじゃあ、今日はもう帰るね」美靴は言う。
「そうだ、月末にどこかに連れってってよ」美靴は言う。
いや、月末は仕事が──。
「決まりだからね!」美靴と美靴は声を重ねた。
いつも通り、一方的に予定を決定して、美靴たちは帰っていった。
なにか嬉しいことでもあったのか、二人は手をつないでいる。
一体、自分の
まったく見当がつかず、彼はただ肩をすくめるしかなかった。
「俺がロリコンだったら嫉妬で自殺しそうなシチュエーションだったな」
部屋に入るなり、充玖津にそう言われた。
はあ? 彼はいぶかしい顔つきになる。
「お前ってさ、十年以上見た目が変わってないけど、精神年齢たぶん五歳ぐらいから変わってないよな」
そういえば、と思い出して、美靴たちから受け取った袋を開く。
中身はどちらも手作りのチョコレートだった。今度ちゃんと礼を言わないと、と彼は思う。
彼はまず一つを口にする。甘さのあとに果実の香りがふくらんでいく。
次に、もう一人の美靴からもらったチョコを食べてみる。
あっ、同じ味だ。と彼は言う。
「なんの味だ?」
横綱は訊ねる。
彼はこたえる。
この味は──
──どっち?
おしまい
アカウント∽サービス キングスマン @ink
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます