第10話 惨劇、この世のものでないなにか

 店のドアが外から強い力で叩かれた。それに続いて、女の名を呼ぶ男の声がした。再びドアが叩かれ、男の声が女を呼ぶ。女はぼくから目をらし、頭をめぐらせて店の入口に視線を向けた。入口の脇にあるりガラス越しに、複数の人影が見えた。


 ドアが叩かれ、さっきとは別の男の声がした。


「警察です。中にどなたかいらっしゃいますか?」


 女はよろよろと立ち上がると、入口に向けて歩き出した。ふらつきながらも立ち上がると、ぼくはカウンターから出て、客用のすり切れたソファに腰を下ろした。凄まじい頭痛と眩暈めまいのせいで目を開けているのもつらかったが、女が彼女と入れ替わる可能性を考えると、女の動向どうこうから目を離すわけには行かなかった。


 女の右手に、床に落としたはずの柳葉包丁が握られていた。包丁を握り締めたまま、女は左手でぎこちなく鍵を外し扉を開けた。


 開いた扉から、派手な赤いジャンパーを着た初老しょろうの男が現れた。女の肩を掴み、大丈夫かと声を掛けているところからすると、女の亭主なのかもしれない。


 男に続き、制服姿の警官が店の中に入り込んできた。ぼくと大して変わらなそうな若い警官は、店の中で言い争う声がしたと近隣きんりんから通報があったのだと女に告げると、手にしたマグライトでソファに座るぼくを照らし出した。


「あなたは?ここで何をしているんです?」


 ぼくの顔に向けてマグライトを照射しょうしゃしながら警官が尋ねてきた。てのひらかざし、マグライトの光をさえぎりながら立ち上がろうとすると、警官は鋭い声で立つなと警告してきた。


「だれなんだあいつ。なんで店にいるんだ?」


赤いジャンパーの男が女を問いただすが、女は何も答えない。警官の問いかけに答えようとしたが、ぼくの喉は完全につぶれていて、口を開いてもかすれた呻き声しか出て来なかった。


 女の両肩に手を掛け、ジャンパーの男が激しく女を揺さぶるが、それでも女は無反応だった。


 女が首をひねり、視線をぼくに向けた。女の視線とぼくの視線が重なると、女の目が再び反転し、白一色と化した。次に女は、あごがはずれそうなほど大きく口を開くと、口の中にふくんでいたものをぼくにだけさらして見せた。


 女の口の中に、茉奈がいた。正確にいうのなら、つて茉奈だった女の目が、口腔こうこうの奥からぼくを見つめていた。茉奈は女の口を通して、まるでのぞき穴からこちらの世界を盗み見るようにぼくを見つめていた。丸みを帯びた茉奈の目が消えると、黒く長い睫毛まつげに縁どられた沙織の目が現れ、ぼくの姿を捉えて目を細める。


「駄目だ。やめてくれ」


 沙織と茉奈に向けてそう言ったつもりだったが、ぼくの喉から洩れてくるのは言葉にならない呻き声だけだった。


「何言ってんのお前。お前誰なんだよ。うちの女に何しやがった」


 ジャンパーの男がぼくにめ寄ってきた。ぼくは男を制止しようと立ち上り、血痰けったんを吐き散らしながら来るなと叫んだ。


 女に背を向けたジャンパーの男が動きを止めた。背後から伸びた女の両腕が男の頭を包み込む。男は肩越かたごしに振り返り、頭ひとつ低い女の顔に目を向けた。そこで男が目にしたものは、白濁した女の両眼と、開いた口の中から男を見つめている沙織の瞳だった。


 女の手にした柳葉包丁が、ジャンパーの男の喉首のどくびを切り裂いた。なんの躊躇ちゅうちょもなく、女は包丁の刃を男の耳の後から顎の下まで一気に走らせた。


 何が起きたのか把握はあくできていない男の両手が切り裂かれた喉元へ伸びていく。一拍遅れで噴き出してきた自分の血を、男は自分の首を絞めるようにして止めようとした。痛みに耐えかねて男が口を開くが、声帯まで切り裂かれているらしく声は出ず、代わりに切り裂かれた喉首から、大量の血と共にごぼごぼと音を立てながら泡が噴き出してきた。


 警官のマグライトが男の喉首から噴き上がった血を照らし出した。動脈から流れ出る血は、天井にまで届くほど高く噴き上がり、狭い店の中に文字通り血の雨を降らせていた。


 短く悲鳴を上げた警官を押し退けるように、別の警官が店の中に踏み込んできた。ベテランらしいその警官は、店の中の惨状さんじょうを目にすると同時に、無線機を掴んで応援を要請した。


 血をき散らしながらジャンパーの男が床に転がった。脳への血流を止められると人間は七秒ほどで意識を失くすと聞いていたが、信じられないほどの量の血液を撒き散らしながらも、男の身体は釣り上げられた魚のように床の上で跳ねまり、薄汚れた店の床に血溜まりを広げていく。


 首を押さえながらのたうち廻る男を見下ろしながら、女が腹を抱えて笑い始めた。だが女の口からほとばしるその笑い声は、しわがれた中年女の声ではなかった。女の口から迸る狂気の笑いは、高くんだ若い女たちの声、沙織と茉奈の声に他ならなかった。


「包丁を捨てろ」


 ベテランらしい警官が女に声を掛けた。今や血の海と化した床の上を転がる男の姿を笑いながら見つめていた女が、ゆっくりと警官に向き直る。


「お巡りさん」


 二人の警官を視野にいれた女が楽しそうに声を上げる。二人の警官は、耳を打つ女の声がどうみても眼前の女より若い女の声で構成こうせいされていることに気づいてもいない。


 女をあやつっているのは沙織と茉奈だ。だが、悪夢のような惨劇をもたらしたのが、沙織と茉奈だとはどうしても思えなかった。ぼくは生前の二人を知っている。ぼくと沙織はとても親しい間柄だったし、短い間ではあったが、ぼくを気遣う茉奈の優しさにも触れている。


 だが、今ぼくの前に立つ女の中にいるはずの二人は、生前の彼女たちとは似ても似つかない化物だった。彼女たちを模倣もほうしてはいるが、女にりついているそれは、決して沙織と茉奈などではない。


「ナイフを捨てなさい。警告を聴かないなら発砲はっぽうする」


 ベテランが腰のホルスターから拳銃を抜いた。それを見た若い警官も慌てて拳銃を抜く。


「お巡りさん好き。大好き」


 茉奈の声で女がつぶやく。だらりと下げた包丁の先端が女のすねに傷をつけ、赤い血の筋が足首から女の靴の中に流れ込んでいく。


「遊ぼうよ。お巡りさん」


 今度は沙織の声だ。女の中にいる何かは、警官たちに話しかける振りをして、ぼくをいたぶり責めさいんでいる。女は一歩進むごとに振り返っては、ぼくに顔を向けて微笑んで見せる。この惨劇がなぜ起きたのか、どうして無関係な人たちが死んでいかなければならないのかをぼくが思い知るまで、女は殺戮さつりくの手を止めはしない。


「止まりなさい。それ以上近づけば撃つ」


 ベテランが拳銃の撃鉄を起こすと、それにならって若い警官も撃鉄を起こす。


「撃って。ねぇ、撃って、お巡りさん」


 白眼をき出しにしていた女の目に瞳孔が戻る。言葉とは裏腹に、女の瞳は恐怖の余り小刻みに震え、とめどなく涙を流してた。女は意識を取り戻していたが、その体は依然いぜん操られ、その声は沙織と茉奈のものだった。


 若い警官の視線が女からベテランへと移動する。彼は事態の異常さに怖気おじけづき、あきらかに怯えていた。


 若い警官の動揺を敏感に察したのか、両手を広げた女が若い警官にしがみつく。不意をつかれた警官は、短い叫びを上げながら、女ともつれあいながら床に倒れこんだ。なんとか女の体を押しのけようと足掻あがく警官の首筋目掛けて、のしかかる女が包丁の切先を振り下ろした。咄嗟とっさに出した警官の左手が女の刃を遮った。致命傷となりうる首筋への攻撃は避けられたが、包丁は警官の左掌を貫通した。痛みに顔を歪めながらも、警官は右手の拳銃を女の体に密着させたまま引き金を引いた。


 鼓膜に平手を叩きつけたような乾いた音が鳴響なりひびき、女はびくりと痙攣けいれんすると、半身を起こして動きを止めた。女が身に着けていた白いブラウスに、焼け焦げた穴がふたつ穿うがたれていた。警官の体に馬乗りになりながら、女は不思議そうな顔でブラウスに生じた黒い焼け焦げを見つめ、左の薬指で傷口をなぞっている。身に着けた白いブラウスの表面に赤い染みが広がり始め、女の薬指が傷口から離れると、たる木栓もくせんを引き抜いたように血が噴き出してきた。


「痛い」


 馬乗りになったまま、女が警官に向けて囁く。女の体から逃れようと藻掻もがく警官の右手首に、女は容赦なく包丁を突き刺した。


「痛い。ねぇ、痛いよ」


 首をじり、ぼくを見ながら女が叫んだ。もうぼくには、叫んでいるのが沙織なのか茉奈なのか判別がつかなかった。


「痛い。ねぇ、助けてよ。見てないでわたしを助けてよ。何回殺すの?ねぇ、あんたわたしたちを何回見殺しにすんのよ」


 全身血に塗れながらも女は笑っていた。片時もぼくから目を離さず、だが手にした包丁は何度も何度も警官の顔に向けて振り下ろされていく。警官は首を捻って刃をけていたが、執拗しつように振り下ろされる包丁に頬を刺され、目を突かれ、やがて動きを止めた。


 ベテランの警官が女の正面に立ち、拳銃を女の顔面に向けた。警官に気づいた女は束の間ぼくから目を逸らし、突きつけられた銃口を不思議そうに眺めていた。鼓膜を叩く乾いた音が再び響き、女の後頭部から血煙が舞い上がった。女は声もなく倒れ、その場から動かなくなった。


 ベテラン警官はその場に座り込み、手にした拳銃の銃口からたなびく硝煙しょうえんの白い煙を見つめていた。それから彼は、女が床に落とした柳葉包丁を左足で蹴りとばし、ぼくに目を向けた。彼の唇は震え、その頬は涙に濡れていた。


「死んだか?」


 震える声で警官がぼくにたずねる。確かに彼の位置からは女の状況が見て取れない。仕方なくぼくは倒れている女に目を向けた。


 女の左目に大穴が空いていた。右目は見開かれ、口元に笑みを浮かべてはいたが、女は完全に死んでいた。


 ぼくを注視する警官に向けて、ぼくは黙ってうないた。上着の袖で涙を拭うと、警官は無線を手に取り、無線機の先に座る誰かに向けて救急車を要請した。



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