第11話 彼女のキスは甘く冷たい
すべてが終わったのは深夜に近かった。
現場となったスナックは応援要請を受けて到着した警官と救急隊、それに事件を
寂れた港町の裏通りで起きた凄惨な殺人事件は、重傷者1名、警官を含む男性2名が死亡、そして被疑者と思われる女性が警察官に射殺されるというセンセーショナルな結末を迎えた。
重傷者とはぼくのことで、搬送された総合病院で行われた検査の結果、
地元の人間ではないぼくが開店前の店の中にいたことから、警察はぼくを重要参考人として確保しようとしていた。ぼくを取り調べる上で、ぼくの健康状態を徹底的に調べておく必要があったのだろう。病院に到着するなり、CTスキャンを
事件の目撃者であるぼくの素性と事件との関連を知ろうと、病院の前にはマスコミが大挙して押しかけ、田舎町の総合病院の玄関を昼間のように照らし出し、警察からの新たな情報を待ちわびていた。
集中治療室に運び込まれたぼくは、医師の立会のもと、私服警官から15分ほどの
納得してはいない様子ではあったが、彼らはきっかり15分で質問を終え、集中治療室から出て行った。治療室から出て行く間際、部屋の外にはいつでも警官いるので、何かあったら遠慮なく声を掛けて下さいと言われた。つまりぼくの身柄は、完全に警察の監視下にあるということだ。
ぼくは集中治療室のベッドの上で、絶え間なく襲ってくる酷い頭痛と闘っていた。横になっていても眩暈は治まらず、定期的に看護師を呼んで、看護師から差し出されるバケツの中に嘔吐をしなければならなかった。体も精神も限界まで
ぼくが浅い眠りについたのは、午前3時を少し廻った頃だった。眠ることはおろか、目を閉じることすらできなかったぼくは、秒針のない壁の時計をひたすら見つめていた。時計の針が午前三時を指すと、ぼくの脳内に
目を開けると、不自然に明るい窓のない部屋に立っていた。部屋の中央には三台のストレッチャーが並んでいて、その上にはビニールシートを被せた遺体が
ここは病院の中にある霊安室で、三つの遺体はそれぞれ朝から行われる
最初に目にしたのは、若い警官の遺体だった。左頬と右の目、それに左耳が無残に抉られていた。次に目にしたのは女の遺体で、
赤いジャンパーを着こんだ初老の男の死に顔は、三人の中で最も穏やかだった。瞬時に喉を切り裂かれたせいで男の顔は
振り返ると、女の顔を
ぼくは女の遺体が乗せてあるストレッチャーに近づくと、しゃがみ込んで白布を手に取った。
ストレッチャーを挟んで反対側の床に、女のふくらはぎが見えた。これが夢であることは知っていたから、さして驚くこともなくストレッチャーから投げ出された女の両足をただ見つめていた。
しゃがんだままの姿勢で動きを止め、力なく左右に揺れる女のふくらはぎを見つめていた。うつ伏せで寝かされていたせいか、女のふくらはぎには青紫の
女は
白布を床に落とし、ぼくはゆっくりと立ち上がった。女の遺体はぼくに背を向けるようにしてストレッチャーに座っている。女の
検死のために衣服が剥ぎ取られた女の背中をぼくは長い間見つめていた。女の髪は血と
「
氷のように冷たいその体に、ぼくは腕を
「暗いところにいたの」
容赦なく
「暗くて、寒くて、音のない場所。右も左も、上も下もないところ」
彼女の手が、ぼくの腕に触れた。体と同様に冷たかったが、それでも彼女の
「すまなかった。悪かった。でもどうしたらいいか解からないんだ」
「いいよ。来てくれるって信じていたから。こうしてまた、きみに逢えたから」
吐き気を
彼女は、明らかに以前とは変わっていた。茉奈の体に憑依したときは、言葉数も少なく、感情も
「きみに逢いたい。ずっとこうしていたい。でも、もう誰も死なせたくないんだ。どうしたらいいか教えてくれないかな。きみの言う通りにするから、何をすればいいか教えてくれないかな」
「わたしは誰かを傷つけた?誰かに
彼女の耳元で、ぼくは沙織とお母さんと呟いた。茉奈を忘れたわけではないけれど、彼女は多分、茉奈の名を知らない。
「そのふたりに、わたしは何をしたの?」
「命を奪った。だけど、ふたりでだ。おれときみで、ふたりの命を奪ったんだ」
「そうなんだ。そう言われてみれば、ふたりを殺したような気がする。それどころか、もっと沢山の人を殺したのかも」
「もうこれ以上、誰も死なせたくない。どうすればいい?」
ぼくの腕の中で、
「あなたを愛してる」
以前にも聞いた言葉だ。薄暗い雑居ビルの階段の途中で、茉奈の身体に憑依した彼女の口から。電話越しに、おそらくは沙織の身体を憑依した彼女の口から、ぼくは同じ言葉を告げられていた。
ぼくを愛しているという彼女の言葉はいずれも真実に違いないのだろうが、せん
彼女は今日初めて、自分の意志で、ぼくに愛を伝えてくれたのだ。
「おれも愛してる。きみだけを、世界中の誰よりもきみだけを愛している。だから教えてほしい。おれが死ねば、きみのいるところに行けるのかな。きみと一緒に、その暗い場所にずっといられるのかな」
ぼくの腕の中で、彼女の首が左右に揺れた。彼女の肌はぬくもりを取り戻し、その皮膚の奥からは明らかな血の巡りが感じられた。ぼくは今、死からの復活を成し遂げた女をこの腕に抱いていた。
「あなたを渡したくない。誰にも、絶対に、あなたを奪われたりしない」
腕の中で、彼女は顔を上げてぼくの目に視線を重ねた。
「あなたが誰かを好きになったなら、わたしはその人を殺す。女でも男でも、子供でも大人でも構わない。体を奪って、心の中を憎しみと苦しみで満たして、絶望の底に突き落として」
ぼくを見上げる彼女の瞳から涙が流れ落ちていく。それでも彼女は、ぼくに
「どうしてそんなことを?誰かを殺さなければならないなら、おれを殺せばいい。関係ない人を傷つける必要なんてない。それはきみらしくない。きみが望むことじゃない」
「あなたを殺したい。世界中の誰よりもあなたが嫌い。でもできない。それは約束と違うから」
「約束?約束ってなんだ?誰と交わした約束なんだ?」
「あの日、あの時だよ。わたし達が最後に交わした約束。あなたがわたしに
何を言われているのか
彼女が最後に交わした約束。ぼくが彼女に吐いた唯ひとつの嘘。
記憶の中で、何かが音を立てて組み合わさった。全ての終わり。全ての始まり。それはあの日、あの安ホテルの一室で結ばれた、ぼくと彼女の最後の約束だった。
「おれがきみを殺した。あの日、あのホテルで、おれがきみを殺したんだね」
ホテルの部屋から出て行こうとする彼女に追い
「すぐにおれもきみの後を追うから。だから向こうで待っててほしい」
ぼくは確かにそう彼女に約束した。この世界で結ばれることがないのなら、この先の世界に望みを
彼女を抱く腕を解くと、ぼくはゆっくりと彼女の白く細い首に手を廻した。あの日、あの部屋で彼女にそうしたように。
「きみを愛している。世界中の誰よりも。きみを誰にも渡したくない。誰にも、絶対に、もうきみを奪わせたりしない」
涙に濡れた彼女の頬を拭いながら、ぼくはあの日彼女に囁いた言葉をもう一度囁いた。
「約束する。すぐに行くから。これからはいつも一緒だ。地の底でも闇の奥でも、永遠にきみと一緒だ」
喉を絞め上げるぼくを見上げながら、彼女は
「きみを愛している。世界中の誰よりも。きみだけを、いつまでも永遠に」
あの日と同じように、ぼくは彼女の唇に自分の唇を重ねた。
彼女もぼくも、互いに目は閉じなかった。彼女の瞳から急速に光が消え失せていく。やがて、彼女の唇から漏れる肺に残っていた最後の息がぼくの唇を震わせると、彼女は永遠に動かなくなった。
凍えるほどに冷え切った霊安室の中央に、ぼくはひとり立っていた。
ぼくの前には、今は冷え切った遺体と化した彼女の母親が横たわっていた。
ぼくはいつの間にか病室から抜け出し、ひとりでこの霊安室まで歩いてきたようだ。身に着けた
母親の遺体は、顔を白布に覆われたままで、動いた形跡など何ひとつ伺えなかった。だとすれば、ぼくが見ていた彼女の姿は幻覚だということになる。そしてそれは、たぶん正しい。
霊安室を出ると、ぼくは自分の病室として
ぼくの気分は悪くなく、むしろ
あの日ぼくは彼女をこの手で絞め殺し、すぐに彼女の後を追うと誓った。だがその約束は果たされず、彼女の魂は行き場所を失い、最後の想い出となったぼくの唇に憑依した。
最後の瞬間、彼女はもう一度だけ人を信じようとしたのだろう。母に、養父に裏切られ、すべてに絶望していた彼女は、最後の瞬間に交わしたぼくとの約束を
しかしその約束が果たされることは無かった。何故すぐにも彼女の後を追わなかったのか、
あの日のことを思い起こすと、警察の追求がぼくに向かわなかった理由は
彼女と共にホテルにチェックインしたぼくは、コンビニで金を
あの手のホテルは一度外出するとチェックアウトしたものと見なされる。だからぼくは、もう一度部屋に戻る為、あらかじめ廊下の先にある非常階段のドアの鍵を内側から開けてから1階へ移動し、フロントの前を通って外に出た。
ホテル側は女を買った男が先にひとりで帰ったと認識したのだろう。
彼女を殺害したあと、ぼくは同じように非常階段から逃走した。ぼくにとって幸いだったのは、事件の第一発見者があの粗暴な若い男だったことだ。
彼は戻らない彼女に
現実を受け入れられないぼくは、彼女の死に
果たされることの無かったぼくと彼女の約束は、彼女の死後、その契約の性質を変化させた。彼女は僕を信じ、愛し、同時に心の底から憎悪した。そして彼女は、ぼくを殺すのではなく、ぼくを生かしておくことを選択した。ぼくを殺さず、ぼくを愛してくれる人を殺すことを選んだのだ。それは復讐なのかもしれない。だがそれ以上に、彼女は自分がぼくの記憶の中で永遠に生き続けることを選んだのだろう。
ぼくらは互いを憎みあうと同時に求めあい、傷つけあいながらも唯一無二の存在としてこれから先も共存していく。ぼくはもう決して死ねはしない。だれも僕を殺せはしないだろうし、ぼく自身でさえぼくを傷つけることはできない。ぼくはただ、この命が滅び去る最後の瞬間まで、ぼくと彼女が生み出す犠牲者たちの
ここは地獄だった。ぼくと彼女が創り出した地獄だ。そしてぼくはこの地獄を愛していた。ひとりの少女の魂を、ぼくはこの身の
残念だけど、もうきみは助からない。ぼくとキスをしたあの瞬間、体内に
きみにも断ったように、ぼくは誰に対しても事前に、ぼくとキスを交わせば必ず死が訪れると話して聞かせてきた。
ぼくが本気でそう思っていると分かると、大抵の人はぼくとキスするこを諦めてくれた。だけど時々、理由は人様々だけど、今日のきみのように、そんな
気の毒ではあるけれど、そうした人達はみんな死んだ。それこそ一人の例外もなくね。
これからきみの身に何が起こるのか、正直に言ってぼくには想像もつかない。
ただひとつ分かることは、今日か明日、きみは悲惨な死を
最近は彼女も慣れてきたようで、ぼくの話が終わるまで相手の体に憑依することを
だからぼくは、今きみに話して聞かせた彼女とぼくに
お勧めは自死だ。彼女がそれを許してくれるかどうかは解らないけれど、それが最も苦しみが少なく、他人に危害を加えずに済む方法だと思う。
きみが死を受け入れられず抵抗した場合、過去の犠牲者の誰かが現れ、かなり
経験から言わせてもらうと、沙織や彼女の母親が現れると最悪だ。彼女からの憎しみが特に強いせいなのか、この二人に憑依されると、死に様は凄惨を極め、大抵の場合、無関係な人たちにも犠牲がでる。
茉奈や彼女の妹が現れてくれれば比較的楽だとは思うけれど、それもその時の彼女たちの気分次第だからね。
席を立とうとしても無駄だよ。誰かに助けを求めることも
10分か15分、ぼくは彼女と共に過ごせるはずだ。数年ぶりだから、正直とても興奮している。繰り返すたびに、彼女はより完璧な姿でぼくの前に現れる。ぼくは年齢を重ねてしまっているのに、彼女は相変わらず昔のまま、若く美しい。
きみを愛してる。世界中の誰よりも。きみだけを、心の底から愛してる。
彼女の唇は甘く、凍りつくように冷たい。
彼女のキスは甘く冷たい 氷川 瑠衣 @komuhubu2
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