第9話 狭いカウンター、茉奈と沙織
店の中に鳴り響いていた火災報知器の電子音が不意に止んだ。狭いカウンターの中で
先に変化に気づいたのは女だった。荒い
「なんだよ、あの音」
女の吐き出す荒い
「気持ち悪いね。なんなんだよ、あれ。聞こえるだろ、あの音。猫かね?どっかで猫でも鳴いてるのかね?」
ぼくには何も聞こえない。だが女は、
「うるさいったらありゃしない。何だろね、あの音」
頭に集った虫を追い払うように、女の両手が髪の毛を
「うるさいよお前ら。どこにいるんだ、姿を見せな!」
天井を
最初のうち漠然とした雑音でしかなかったその音は、意識を集中し耳を澄ませるにつれ、人の声として認識され始めた。言葉として意味を為さない呻きと叫びの合間から、やがて女の声が漏れ聞こえてきた。苦しいと
苦しみに喘ぎ、怒りに絶叫する声の中から、耳慣れた二つの単語をぼくの意識が
地獄の底から響いてくるような怨嗟の声の正体は、ぼくの為に命を落とした二人の女の声だった。
おそらくぼくはその時、声を限りに絶叫したのだろう。全てが終わったあと、ぼくの喉から血塗れの痰が大量に吐き出されたからだ。
人間が感じられる恐怖にはおのずと限界があるという。交通事故を起こした際、衝突の瞬間をまるで記憶していない人が少なからず存在するという。許容量を超えた恐怖は、脳が勝手に記憶を遮断してしまうからだ。
あの日あの時、薄汚れたあのスナックのカウンターの中で、女の身に何が起きたのか、ぼくはまるで覚えていない。だが、あの日から不定期に襲い来る悪夢の中で、沙織と茉奈があの女にしたことを、ぼくは何度も繰り返し追体験することになる。
悪夢の中の彼女たちは全裸で、その肌は透けて見えるほどに白い。そして二人は、互いにもつれ合いながらも蛇のように女の身体に絡みつき、歯の抜けた赤い口を開いて女の血肉を
沙織と茉奈は、互いに絡み合い解れあいながら、丹念に女の血肉を啜る。女の身体を絡め取った二人からは、もう怨嗟の声は聞こえてこない。獲物を前にした沙織と茉奈はひどくご機嫌で、互いにキスを交わし、クスクスと笑いあい、ゆっくりと時間を掛けて女の身体を喰らい尽くしていく。
沙織と茉奈は、ときどき思い出したようにぼくに視線を向ける。好奇心の強い茉奈に
どれくらいの時が経過したのだろう。気づくとぼくは、狭いカウンターの中に膝を付き、同じ格好のまま
この店に着いたのは昼過ぎだったはずだが、天井に近い明り取り窓から差し込んでいた陽光は陰り、辺りはもう薄暗くなり始めていた。
激しく痛む左のこめかみに触れると、血の塊が指先に付着した。女が彼女の骨壺を叩きつけた際にできた傷なのだろうが、髪にこびりついた血液は既に固まっていて、出血は止まっていた。
目の前にいる女に声を掛けようとしたが、口を開くと同時にぼくは激しく咳き込み、薄汚れた床の上に大量の血痰を吐き出した。声帯が損傷しているらしく、大丈夫ですかと女に向けた言葉は、およそ人の声とは程遠い獣じみた呻きとなってぼくの口を吐いて出た。
仕方なく、ぼくは骨ばった女の肩に手を伸ばした。
ぼくの指が女の肩先に触れた瞬間、項垂れていた女は顔を上げ、鼓膜を突き刺すような鋭く短い叫びを上げた。顔を
「助けて」
極限まで目を見開き、女がぼくを見つめていた。
「助けて。ねぇ、助けて。死にたくない。助けて。ほんとなんでもするから。だからお願い、助けて」
大きく見開かれた女の眼球が反転し白一色と化した。真円を描く女の口から突き出された灰色の長い舌は、何もない空間を舐めとるようにせわしなく動いていた。
「なんでもする。お金もあげる。償えるなら、なんでもする」
視線を逸らすと、女は床に散らばった彼女の遺骨を拾い集めた。
「供養だってするよ。ちゃんと、ちゃんと弔ってあげる。駄目な母親だったけどさ、償うよ。心入れ替えて、あの子に許してもらうから」
掬い上げた遺骨に頬を擦りつけながら、女が上目遣いにぼくを見つめていた。恐怖と絶望に彩られた女の瞳の奥に、僅かな希望が透けて見えた。
「助けてくれるんだよね?そうでしょう?これじゃあんた、人殺しだよ?」
ぼくの頭に骨壺を叩きつけ、柳葉包丁で刺し殺そうとした女の言い分ではない。だけどぼくはこうなると知りながら、明らかな殺意を持って女の唇に自分の唇を重ねていた。沙織や茉奈のときとは異なり、知らなかったという言い訳は通用しない。このまま女が死ねば、ぼくは意図的にこの女を死に追いやったことになる。
女の言葉に
確かに女は、死の直前の沙織や茉奈同様、何かに酷く怯えている。だが、女の表層に彼女は現れていない。キスをしてから、相手の
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