第8話 港町、彼女の証
彼女の母親に電話をし、彼女の高校時代の友人であることを告げた。最近になって彼女の死を知り、どうしても
「あの子は、幾ら貸していたのかしら」
電話の向こうで、彼女の母親は言いにくそうにそう尋ねてきた。五万円程だと告げると、日と時間を決めてくれれば、当日駅まで迎えにいくとまで言い出した。
ぼくは一週間ほど先の日付と時間を伝えて電話を切った。本当はその日のうちに訪ねたかったが、職についていないぼくにとっても五万円は高額だったし、何よりも気持ちを一度整理する必要があった。ぼくは本当に、彼女の墓を訪れたいのか。彼女の死の原因の一因である彼女の母親という女に会ってみたいのか。
春が近い3月の半ば、ぼくは彼女の母親が住む
彼女の母親は、駅のロータリーでぼくを待っていた。洗車もされていない軽自動車の運転席の中からぼくを見つけると、女は短くクラクションを鳴らした。軽自動車に近づくと、手動で窓を開き、ぼくの苗字を呼んだ。ぼくは
驚いたことに運転席の女は彼女に良く似ていた。実の母親なのだから当然なのかもしれないが、彼女の妹と比べると、その容姿は格段に彼女に近かった。電話越しに聞いた女の声はしわがれていて、
車の中はひどく散らかっていて、その上煙草臭かった。女の運転は荒く、人通りが少ない田舎道をかなりの速度で車を走らせた。
30分程走ると、車は人気の無い漁港に
女のあとについて狭い路地を進んだ。女は古い雑居ビルの一階にあるスナックのドアを開け、ぼくを中に
「この店のオーナーなんだよ。従業員なんていないけどね」
ぼくは女の勧めるまま、缶ビールを一本貰った。ぼくの予想に反して、冷蔵庫から取り出した缶ビールはよく冷えていて旨かった。
「高校時代の友達?」
女の問いかけにぼくは頷いた。煙草をくゆらせながら、女は首を傾げた。
「そんな昔から男がいたんだねぇ。ませてるね」
「友達だったんです。一緒に、よく勉強しました」
「へぇ~。でもさ、いつ金なんか借りたのさ。まさか高校時代じゃないだろ?」
「4年前、偶然再会したんです。そのときに」
「そうかい。実をいうと折り合いが悪くってね。あんまり顔を合わせて無かったんだよ。金は毎月送ってくれてたから、まさかあんな悪い連中と付き合ってるなんて知りもしなかった」
この女が、何をして彼女が金を
「ご焼香をさせて頂きたいのですが、ご
気まずい沈黙のあと、ぼくは女に尋ねた。女は
「ほら、あの子、あんな死に方だっただろ?だから満足に葬式もできなくってさ」
それでも位牌くらいはあるだろうと言い
「ありがと。だからね。これ、あの子なんだよ。お別れ言ってやってよ」
女はカウンターの床から、
ぼくは目を見開き、呆然とその陶器でできた白い壺を見つめた。ぼくの表情から察したのか、女はきまり悪そうにぼくから視線を
「あの子、寂しがり屋だからさ。近くに置いておいてやらないと
「可哀そう?」
何を言ってるのか理解できなかった。状態からして、どこかに放置されていたものをつい今しがた引っ張り出してきたのだろう。彼女は、彼女が生きて存在していたという証である彼女の遺骨は、なんの
彼女の最後は決して人に
だがそれでも、ぼくは彼女の優しさを覚えている。どん底の中でも母親を気遣い、裏切った養父と妹を思い、そして何もできなかったぼくを許し、感謝しているとさえ言ってくれた彼女の優しさを覚えている。それがどうして、死して尚これほどまでの
「可哀そうって、何をいってるんだ、あんた。これが、こんなものが彼女なのか?」
「埋葬もしない。位牌も遺影もない。だったら、誰が彼女を弔うんだ?彼女が生きていたことを、誰が覚えているんだ?たった20年しか生きられなかった彼女の人生を、母親であるあんたが弔わないでどうするんだよ」
怒鳴りつけたくなる感情を
「金置いて消えな。嘘かほんとか知らないけど、借りてた金があるんだろう?それ置いて出て行きなよ」
カウンターの中から、吐き出すように女が声を上げた。女の顔に浮かんでいた卑屈な笑顔は一瞬にして消え去り、敵意に満ちた醜い目がぼくを
「うさんくせぇとは思ってたんだよ。あのガキが人に金を貸すわけないもんね。実の親であるわたしにだって
「用があるのはあんたにじゃない。おれは彼女に会いに来たんだ」
ぼくは指を伸ばして、彼女の遺骨が
「はっ。だったら幾らでも見ていきなよ。かび臭いただの骨だけどね。大方こいつに性病でもうつされて、文句のひとつも言いにきたんだろう?」
「誰のせいでこうなった?あんたのせいだろう」
「あたしのせいじゃないよ。全部あいつのせいだ。結婚してくれって頼まれたからしてやったんだ。金にもの言わせて、あたしを欲しがったから結婚してやったんだ。そうでなきゃ誰があんな奴と暮らすかよ」
缶ビールを飲み干すと、女は平手で彼女が入った骨壺を叩きながら笑った。
「こいつが自分の子じゃないって知ったときのあいつの顔ったらなかったよ。思い出すたびに笑っちゃうね、まったく。誰の子か言われて初めて気づいたんだろうね。あたしらのさ、中学の時の担任の子なんだよ。顔の作りなんかそっくりだったのに、あのバカ、言われるまでまるで気づいてなかった。20年近く騙されてたんだから、もう爆笑もんだよ」
「だからって彼女に罪はないはずだ。なんであんたは彼女を連れて出たんだ?薬と借金に首まで
憎しみに歪んでいた女の顔から、束の間表情が消えた。そして次の瞬間、女は大口を開いて笑い出した。
「何がおかしい?」
カウンターの上の骨壺を叩きながら、女は息も切れ切れに笑い続けた。ひとしきり笑うと煙草に火を点け、笑いの発作を抑えようとでもするように吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。
「こいつだってそれくらいのことは考えてたさ。あたしじゃなく、あの男に
おそらくは彼女の養父のことなのだろう。彼女が母親でなく、養父に頼ろうとしたのは当然だ。まがりなりにも17年もの間、互いに実の親子だと信じてきた相手なのだ。
「こいつは結局わたしんとこに戻ってきやがった。 何があったのかは言わなかったけど、しばらくはこいつ、まるで死人みたいだったからねぇ。当時付き合ってた野郎が手ぇ出したときも抵抗しなかったっていうから、よっぽどショックだったんじゃねぇの?あのバカにされたことがさ」
女の言葉は早口で、発音も
だが、仮にも実の娘として育てて来た彼女を、実の父以上に信頼し、助けを求めてきた彼女を、その男は・・・・・。
「そっから先はもう
聞くに
ぼくはカウンターを乗り越えて女に
女の右手を
倒れ込んだぼくの前で女がカウンターから持ち上げたのは、彼女の遺骨が入った骨壺だった。静止する暇もなく、女はぼく目掛けて骨壺を投げ落とした。彼女の骨を詰めた白磁の壺はぼくの
側頭部を強打されたぼくの意識は束の間消失していたようだが、女もまた舞い散る粉塵のせいで激しく咳き込んでいた。かび臭いこの粉塵こそが、現世に唯一残った彼女の
「いきなり襲われたんだから、お前が悪いんだ。正当防衛なんだから、お前が悪いんだよ」
粉塵に塗れた女の手には、刃渡り20㎝はありそうな
「仕方ないんだよ。悪いのはあんたなんだからさ。あたしは自分を守っただけだ。正当防衛なんだよ。正当防衛」
女が包丁を振り下ろすのと、ぼくが立ち上がったのはほとんど同時だった。女の振り下ろした刃がぼくの左耳を
腕の中で抗う女の体を押さえつけながら、ぼくは
糸を引く
「なんだよ。やりたいのかよ、こんなおばちゃんと。だったら最初からそう言えばいい」
ぼくは女から身を離し、距離を取った。女の手にはあいかわらず包丁が握られていて、その切先はぼくの心臓に向いていた。
「恥ずかしがらなくていいんだよ、ぼく。おいでよ。あいつよりあたしの方が上手いんだから。年季の違いを教えてやるよ」
にじり寄る女に、カウンターの端まで追い詰められた。もう後には下がれなかった。女がぼくの胸を刺し貫いてくれれば、何もかもが終わる。地獄があるのなら、ぼくはおそらくそこで彼女と過ごすことになる。それは幸せな幻想だった。彼女と一緒ならどこにでも行ける。もちろんその前に、沙織と茉奈に
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