第8話 港町、彼女の証

 彼女の母親に電話をし、彼女の高校時代の友人であることを告げた。最近になって彼女の死を知り、どうしても焼香しょうこうに伺いたいと伝えたが、彼女の母親からはにべもなく断られた。それでも引き下がらず、香典こうでんを渡したいことと、生前、彼女から借りていたお金を返したいと伝えた。咄嗟とっさに吐いた嘘だったが、彼女の母親は手のひらを返したように態度を変え、ぼくに自宅の住所を教えてくれた。


「あの子は、幾ら貸していたのかしら」


 電話の向こうで、彼女の母親は言いにくそうにそう尋ねてきた。五万円程だと告げると、日と時間を決めてくれれば、当日駅まで迎えにいくとまで言い出した。

 ぼくは一週間ほど先の日付と時間を伝えて電話を切った。本当はその日のうちに訪ねたかったが、職についていないぼくにとっても五万円は高額だったし、何よりも気持ちを一度整理する必要があった。ぼくは本当に、彼女の墓を訪れたいのか。彼女の死の原因の一因である彼女の母親という女に会ってみたいのか。


 春が近い3月の半ば、ぼくは彼女の母親が住む房総半島ぼうそうはんとうの南端にある小さな港町を訪ねた。海水浴のシーズンならにぎわっているのだろうが、冬明けのこのシーズンは人も少なく、指定された駅の改札には誰もいなかった。

 彼女の母親は、駅のロータリーでぼくを待っていた。洗車もされていない軽自動車の運転席の中からぼくを見つけると、女は短くクラクションを鳴らした。軽自動車に近づくと、手動で窓を開き、ぼくの苗字を呼んだ。ぼくはうなき、女に促されるまま軽自動車の助手席に乗り込んだ。


 驚いたことに運転席の女は彼女に良く似ていた。実の母親なのだから当然なのかもしれないが、彼女の妹と比べると、その容姿は格段に彼女に近かった。電話越しに聞いた女の声はしわがれていて、始終しじゅう咳き込んでいたから、ぼくは勝手に年老いた年配の女が現れるものだと思い込んでいたが、実際に目にした女は、五十を過ぎているようには見えなかった。


 車の中はひどく散らかっていて、その上煙草臭かった。女の運転は荒く、人通りが少ない田舎道をかなりの速度で車を走らせた。時折ときおり信号で止まると、いらだたし気にハンドルを指の先でコツコツと叩く。ノイズの混じるラジオから流れてくる曲が気に入らないと、すぐにチューナーに手を伸ばして番組を変えた。

 30分程走ると、車は人気の無い漁港に辿たどり着いた。中心地と呼ぶにはあまりにさびれた通りを進み、小さな居酒屋の駐車場に車を入れると、ぼくは女にうながされて車から降りた。

 女のあとについて狭い路地を進んだ。女は古い雑居ビルの一階にあるスナックのドアを開け、ぼくを中にしょうじ入れた。


「この店のオーナーなんだよ。従業員なんていないけどね」


 しゃがれ声で呟くと、女は一人で笑った。酒と煙草で喉をやられていなければ、きっと声も彼女に似ていたのだろう。

 ぼくは女の勧めるまま、缶ビールを一本貰った。ぼくの予想に反して、冷蔵庫から取り出した缶ビールはよく冷えていて旨かった。


「高校時代の友達?」


 女の問いかけにぼくは頷いた。煙草をくゆらせながら、女は首を傾げた。


「そんな昔から男がいたんだねぇ。ませてるね」


「友達だったんです。一緒に、よく勉強しました」


「へぇ~。でもさ、いつ金なんか借りたのさ。まさか高校時代じゃないだろ?」


「4年前、偶然再会したんです。そのときに」


「そうかい。実をいうと折り合いが悪くってね。あんまり顔を合わせて無かったんだよ。金は毎月送ってくれてたから、まさかあんな悪い連中と付き合ってるなんて知りもしなかった」


 この女が、何をして彼女が金をかせいでいたのか知らないわけがない。そんな生活を続けながらも、彼女はこの女に仕送りを続けていた。この女は彼女から全てを奪っておきながら尚、母親として彼女をしばり続けていたのだ。


「ご焼香をさせて頂きたいのですが、ご位牌いはいはどちらに?」


 気まずい沈黙のあと、ぼくは女に尋ねた。女は居心地いごこち悪そうに咳払いをすると、位牌も墓もないんだよと答えた。


「ほら、あの子、あんな死に方だっただろ?だから満足に葬式もできなくってさ」


 それでも位牌くらいはあるだろうと言いつのりそうになるのをこらえて、ぼくは一言、お察ししますと答えた。


「ありがと。だからね。これ、あの子なんだよ。お別れ言ってやってよ」


 女はカウンターの床から、ほこりかぶった骨壺こつつぼを取り出してカウンターに置いた。自宅で保存するための小型の骨壺ではない。火葬場から直接引き取ってきた、一抱ひとかかえはありそうな普通の骨壺だった。

 ぼくは目を見開き、呆然とその陶器でできた白い壺を見つめた。ぼくの表情から察したのか、女はきまり悪そうにぼくから視線をらした。


「あの子、寂しがり屋だからさ。近くに置いておいてやらないと可哀かわいそうだろう?」


「可哀そう?」


 何を言ってるのか理解できなかった。状態からして、どこかに放置されていたものをつい今しがた引っ張り出してきたのだろう。彼女は、彼女が生きて存在していたという証である彼女の遺骨は、なんの供養くようもされず4年にも渡って放置されていた。


 彼女の最後は決して人にほこれるものではなかった。薬物中毒の売春婦として、どこの誰ともしれない男に絞殺され、繁華街はんかがいの安ホテルの部屋に放置されていた。


 だがそれでも、ぼくは彼女の優しさを覚えている。どん底の中でも母親を気遣い、裏切った養父と妹を思い、そして何もできなかったぼくを許し、感謝しているとさえ言ってくれた彼女の優しさを覚えている。それがどうして、死して尚これほどまでのはずかしめを受けなければならないのか?どうして実の母親が、きちんとした埋葬すらせずに遺骨を放置しておけるのか。


「可哀そうって、何をいってるんだ、あんた。これが、こんなものが彼女なのか?」


 つくろっていたが限界だった。怒りのあまり、こめかみがひどく痛み眩暈めまいがした。手元の缶ビールを女に向けて投げつけそうになるのを辛うじて自制した。


「埋葬もしない。位牌も遺影もない。だったら、誰が彼女を弔うんだ?彼女が生きていたことを、誰が覚えているんだ?たった20年しか生きられなかった彼女の人生を、母親であるあんたが弔わないでどうするんだよ」


 怒鳴りつけたくなる感情をおさえながら、ぼくは女にそう言った。女の中にあるはずの、僅かな情けにすがり付きたかった。


「金置いて消えな。嘘かほんとか知らないけど、借りてた金があるんだろう?それ置いて出て行きなよ」


 カウンターの中から、吐き出すように女が声を上げた。女の顔に浮かんでいた卑屈な笑顔は一瞬にして消え去り、敵意に満ちた醜い目がぼくをにらみつけていた。


「うさんくせぇとは思ってたんだよ。あのガキが人に金を貸すわけないもんね。実の親であるわたしにだってろくに金渡さなかったあいつが、たまたま会った男に金貸すわけがない。なんなんだよ、お前。わたしに何の用があるんだよ」


「用があるのはあんたにじゃない。おれは彼女に会いに来たんだ」


 ぼくは指を伸ばして、彼女の遺骨がおさめられているだろう壺の表面をなぞった。白磁はくじの壺はいかにも安物で、指で触れると表面に付着した埃に筋ができた。彼女の骨壺は長い間、覆袋おおいぶくろにすら入れられずこの薄汚い飲み屋の隅に放置されていたのだろう。まがりなりにも事前に連絡を入れて弔問ちょうもんの意志を伝えていたのだから、それなりの配慮をしておけばいいものを、この女はそれすらせず、ぼくが持ってくる予定の金だけを心待ちにしていた。


「はっ。だったら幾らでも見ていきなよ。かび臭いただの骨だけどね。大方こいつに性病でもうつされて、文句のひとつも言いにきたんだろう?」


「誰のせいでこうなった?あんたのせいだろう」


「あたしのせいじゃないよ。全部あいつのせいだ。結婚してくれって頼まれたからしてやったんだ。金にもの言わせて、あたしを欲しがったから結婚してやったんだ。そうでなきゃ誰があんな奴と暮らすかよ」


 缶ビールを飲み干すと、女は平手で彼女が入った骨壺を叩きながら笑った。


「こいつが自分の子じゃないって知ったときのあいつの顔ったらなかったよ。思い出すたびに笑っちゃうね、まったく。誰の子か言われて初めて気づいたんだろうね。あたしらのさ、中学の時の担任の子なんだよ。顔の作りなんかそっくりだったのに、あのバカ、言われるまでまるで気づいてなかった。20年近く騙されてたんだから、もう爆笑もんだよ」


「だからって彼女に罪はないはずだ。なんであんたは彼女を連れて出たんだ?薬と借金に首までかってたあんたに、彼女を育てられるわけがない。どうしてあんたは、いや、あんたらは、あと数年、せめて成人するまで待ってやることができなかったんだ?」


 憎しみに歪んでいた女の顔から、束の間表情が消えた。そして次の瞬間、女は大口を開いて笑い出した。


「何がおかしい?」


 カウンターの上の骨壺を叩きながら、女は息も切れ切れに笑い続けた。ひとしきり笑うと煙草に火を点け、笑いの発作を抑えようとでもするように吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。


「こいつだってそれくらいのことは考えてたさ。あたしじゃなく、あの男に懇願こんがんしてたよ。お父さんってな。笑っちゃうよ、まったく。血なんか全然つながってないのに、よりによって、あいつが一番嫌ってた人間の娘だってのに、お情けを貰おうとしてたんだからさ」


 おそらくは彼女の養父のことなのだろう。彼女が母親でなく、養父に頼ろうとしたのは当然だ。まがりなりにも17年もの間、互いに実の親子だと信じてきた相手なのだ。


「こいつは結局わたしんとこに戻ってきやがった。 何があったのかは言わなかったけど、しばらくはこいつ、まるで死人みたいだったからねぇ。当時付き合ってた野郎が手ぇ出したときも抵抗しなかったっていうから、よっぽどショックだったんじゃねぇの?あのバカにされたことがさ」


 女の言葉は早口で、発音も不明瞭ふめいりょうだったが、それでもぼくは女の言わんとすることの意味を理解した。この女が異常なら、養父もまた異常だ。養父と彼女の実の父親の間に、どんな因縁があったのかは知る由もない。

 だが、仮にも実の娘として育てて来た彼女を、実の父以上に信頼し、助けを求めてきた彼女を、その男は・・・・・。


「そっから先はもうひどいもんだよ。薬は盗むわ、隙さえありゃわたしの男を寝取るわ、呆れ果てて開いた口がふさがらなかったね。あたしも結構な淫売いんばいだけどさ、こいつには敵わないね。ありゃぁ、なんていうの?依存症いぞんしょうだよ。セックス依存症。お前はどう思う?金まで借りてたっていうんなら、あいつとやったんだろう?所構ところかまわず、さかりのついた犬みたいにでかい声上げてさ」


 聞くにえず、耳をふさいでその場にしゃがみ込んでしまいたかった。ぼくを傷つける為に誇張こちょうして話してもいるのだろうが、それでも女の言葉は容赦ようしゃなくぼくの心をえぐった。


 ぼくはカウンターを乗り越えて女につかみかかった。女は怒声を上げてカウンターの上に置いてあったウィスキーの酒瓶に手を伸ばし、ぼくの頭頂部とうちょうぶ目がけて振り下ろしてきた。かろうじて避けたぼくの肩口を叩いた酒瓶は、カウンターの端に激突して砕け散り、狭い店の中に濃密なウィスキーの匂いをき散らした。


女の右手をひねり上げ、割れた酒瓶を床にはたき落とした。獣じみた呻きを上げながら暴れる女を力尽くでカウンターに押し付けると、女の足が跳ね上がり、ぼくの股間を蹴りつけてきた。かろうじてかわしはしたものの、バランスを崩して狭いカウンターの床に倒れ込んだ。

 倒れ込んだぼくの前で女がカウンターから持ち上げたのは、彼女の遺骨が入った骨壺だった。静止する暇もなく、女はぼく目掛けて骨壺を投げ落とした。彼女の骨を詰めた白磁の壺はぼくの側頭部そくとうぶに激突し、派手な音を立てて砕け散った。狭い店の中が舞い散る粉塵ふんじんで白くにごり、店の天井に設置された火災感知器が作動し鋭い警告音を発した。


 側頭部を強打されたぼくの意識は束の間消失していたようだが、女もまた舞い散る粉塵のせいで激しく咳き込んでいた。かび臭いこの粉塵こそが、現世に唯一残った彼女のあかしだった。


「いきなり襲われたんだから、お前が悪いんだ。正当防衛なんだから、お前が悪いんだよ」


 粉塵に塗れた女の手には、刃渡り20㎝はありそうな柳葉包丁やなぎばぼうちょうが握られていた。立ち上がろうと足掻あがくぼくに、女は柳葉包丁を逆手に構えて近づいてくる。


「仕方ないんだよ。悪いのはあんたなんだからさ。あたしは自分を守っただけだ。正当防衛なんだよ。正当防衛」


 譫言うわごとのように繰り返しながら、女は距離を詰めてくる。女の目にはもう、ぼくは映ってはいない。下卑げびた笑みと、血に飢えた獣の興奮だけが女の行動を支配しているようだった。


 女が包丁を振り下ろすのと、ぼくが立ち上がったのはほとんど同時だった。女の振り下ろした刃がぼくの左耳をかすめ、鎖骨さこつの皮膚を切り裂いた。ぼくは両手で女を抱きしめ、そのかわいた唇に自分の唇を重ねていた。


 腕の中で抗う女の体を押さえつけながら、ぼくはむさぼるように女の唇を吸い続けた。腕の中で暴れる女の体から不意に抵抗が消え、強張こわばっていた全身が砂のように力を失っていく。硬く乾いた女の唇が開き、狂暴なヘビを連想させる長い舌がぼくの口蓋こうがいに侵入し、煙草の臭いと長年の不摂生で痛めた胃に溜まったガスがぼくの口の中に広がっていく。吐き気を催して女から離れようとしたが、いつの間にかぼくは女の腕に全身を絡めとられていた。


 糸を引く唾液だえきを舐めとりながら、女が卑猥ひわいに笑った。血と暴力に酔ったのか、完全に開いた女の瞳孔が薄暗い部屋の灯りを反射して輝いていた。


「なんだよ。やりたいのかよ、こんなおばちゃんと。だったら最初からそう言えばいい」


 ぼくは女から身を離し、距離を取った。女の手にはあいかわらず包丁が握られていて、その切先はぼくの心臓に向いていた。


「恥ずかしがらなくていいんだよ、ぼく。おいでよ。あいつよりあたしの方が上手いんだから。年季の違いを教えてやるよ」


 しゃがれたあえぎを口から漏らしながら、女は自らの股間を左手でまさぐり出した。なまじ彼女の面影があるだけに、女の姿は耐えきれないほどおぞましい。


 にじり寄る女に、カウンターの端まで追い詰められた。もう後には下がれなかった。女がぼくの胸を刺し貫いてくれれば、何もかもが終わる。地獄があるのなら、ぼくはおそらくそこで彼女と過ごすことになる。それは幸せな幻想だった。彼女と一緒ならどこにでも行ける。もちろんその前に、沙織と茉奈にびなければならないけれど、それすらも今となってはひそかな喜びに変わっていた。

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