第6話 喉の奥、蠢くもの
買い物を済ませて茉奈の部屋に戻ると、茉奈の部屋の前に、サラリーマン風の男とスエット姿の若い女が立っていた。男は茉奈の部屋のドアを叩き、何度も大丈夫ですかと声を掛けていた。
「どうしたんですか?」
不安そうな表情の女に声を掛けた。
女が何か言いかけたとき、部屋の中から茉奈の叫びが聞こえた。部屋全体が揺れる程の振動が続き、何かが割れる音が聞こえた。
「新藤さん」
ぼくの
「知り合い?なんかさっきから叫んでるんだけど」
男の言葉を無視して、ぼくはドアノブを
「新藤さん、茉奈ちゃん。開けてくれ」
ドア越しにぼくは叫んだ。部屋の中から足音が聞こえ、ドアの前で停止した。茉奈はドアのすぐ向うにいる。
「開けてくれ。お願いだ。ここを開けてくれ」
カチャリと音がした。ドアのシリンダー錠を外した音だった。ドアノブを
勢いよくドアノブを引いたが、ドアは途中で停止した。シリンダーは解除されていたが、ドアチェーンが掛かったままだ。
ドアの向う側から、茉奈の声が聞こえてくる。
「ごめんなさい。お願い、許して」
茉奈は何度も何度もそう繰り返していた。部屋の中に他の誰かがいるのだろうか。ぼくが買い物に出ている間に、茉奈の彼氏が来たのかもしれない。ぼくとの関係を
ぼくは男に110番通報するよう頼んだ。自分で通報したくても、ぼくにはここの住所が判らなかった。
男が警察に事情を話している間、ぼくは茉奈の部屋のドアを開こうと悪戦苦闘していた。ドアチェーンくらいドアを強く引けばすぐに開くと思っていたが、全身を使って力任せに引いても、忌々しいドアチェーンは外れなかった。
「ああっ、嫌。嫌、それだけはやめて。お願い。もう殺して。それだけはやめて」
ドアの向うで茉奈が叫びを上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。止めて。いや。お母さん、いやぁっっ」
茉奈の絶叫と共に聞こえてきたのは、水の音だった。多量の水が、ドア越しにいる茉奈に浴びせかけてられていた。
茉奈の叫びが変化した。それは痛みや恐怖によるものではなかった。深い絶望に
ドア下の隙間から流れ出て来たのは熱湯だった。誰かがドアの向うにいる茉奈に熱湯を浴びせかけたのだ。
ドア越しに何かが激しくのたうち廻っていた。逃れたくても逃れられない痛みに
「これ、役にたつかどうかわからないけど」
スエット姿の女が、1メートル程の長さのバールを差し出してきた。
ぼくは無言でバールを受け取ると、ドアチェーンにバールを叩きつけた。二度三度と叩きつけると、チェーンの鎖にぐらつきが生じていた。パトカーのサイレンが近づいてくる。警察と話していた男が、あとは警察に任せようとしつこく言い募ってきたが、ぼくはそれを無視してドアに力任せに引き続けた。四度目でチェーンが跳び、ぼくを
「茉奈ちゃん」
ドアの内側に茉奈の姿は無かった。玄関の上がり
靴を履いたまま、ぼくは部屋の中に踏み込んだ。いつの間にかサラリーマン風の男は姿を消し、バールを貸してくれたスエットの女だけが後から付いて来てくれていた。
バスルームの扉が開いていた。ぼくがコンビニに行く前には閉じていた扉だ。中を見ると、
トイレとバスタブの間に、薄いピンク色のシャワーカーテンが引かれていた。そのせいでバスタブの内側は見えない。シャワーカーテンの先から水音が聞こえてくる。
誰かがここで今シャワーを浴びている。ぼくはシャワーカーテンに手をかけ、一息に引き開けた。
人一人が体育座りをしてようやく肩まで
茉奈の姿を見た瞬間、ぼくとスエットの女は折り重なるようにしてバスルームから転がり出た。
茉奈は死んでいた。狭いバスタブの中で体を折りたたみ、
茉奈の口から、黒く長い女の髪の毛が伸びていた。驚くほど大量の黒髪が、茉奈の
ぼくの背後で、スエットの女が音を立てて倒れた。無理もない。茉奈の
蠢く黒髪は、完全に茉奈の体内へ消えていった。何とか茉奈に近づこうと努力したが、ぼくの意思に反して、足は一歩たりとも前へ進まなかった。今、
何がぼくをそこまで
茉奈を殺したのは、彼女ではなく沙織だった。
茉奈の口から体内に侵入していった、あの大量の黒髪は、間違いなく沙織のものだった。たった一度だけだが、ぼくと沙織は愛し合い、沙織の美しく豊富な髪の毛に、ぼくは何度も顔を埋めた。あの質感、
バスルームの前で
茉奈の
だが今バスタブの中にいるあれは、ぼくの知る茉奈とは全くの別物だった。あれは茉奈ではない。それどころか、人間の死体ですらないような気がした。
それから数時間のぼくの記憶はひどく
窓の外が暗くなったころ、不意に耳鳴りが止んだ。フィルターを掛けられたようにぼんやりとしていた視界が開け、音と光が洪水のようにぼくの頭の中に流れ込んできた。同時に、狭いバスタブの中で両手両足を折りたたんだまま死んでいた茉奈の姿が
ぼくの喉から
ベッドに戻され、体を
浅い睡眠を繰り返しながら、その日の夜を拘束されたベッドの上で過ごした。
翌朝になって、ぼくは落ち着きを取り戻した。自分が病院にいることは理解していたが、そこが一般病棟ではなく、集中治療室だということは看護師に
父によると、極度の恐怖とストレスで一時的に脈拍と血圧が低下し、失神状態に
ぼくは父に礼を述べ、ぼくと共に茉奈の部屋に入ったスエットの女の安否を尋ねた。本当は茉奈がどうなったのかを知りたかったが、それを口する勇気は無かった。父はスエットの女の安否どころか、そんな女の存在すら知らなかった。
翌日の午後、ぼくは自宅で療養することを条件に退院を許された。病院の受付で母親が会計をしている際、待合のソファに座っているぼくの前に、刑事が二人現れた。
茉奈の住む地域の生活安全課に勤務しているというその刑事は、簡単なお
三日後、ぼくは茉奈の住む地域の警察署を訪ねた。ぼくの体調を考慮してくれたのか、担当の警察官2名はぼくを取調室ではなく、応接室のソファに座らせてから質問を始めた。
彼らが知りたがっていたのは、ぼくと茉奈の関係だった。なぜぼくが茉奈の部屋にいたのか、茉奈とぼくは、以前からそういった付き合いをしていたのかという二点を知りたがっていた。
同じ店でアルバイトをしている以上の関係ではないと説明したが、彼らは納得してくれず、質問は形を変え時間を変え、何度も繰り返された。態度にこそ表さなかったが、彼らがぼくに何等かの疑いを持っているのは間違いなかった。一人暮らしの女性が
ぼくはバイト先の事務所で茉奈からギターの
警官たちは茉奈とぼくの関係と、事件までの時系列を一通り聞き終えると、遺体発見時の状況に話を転じてきた。だいぶ落ち着いたといえ、ぼくはまだ茉奈の死にざまをはっきりと記憶していたから、その質問に答えるのにひどく苦労した。パニックを起こさない様、ぼくは言葉を選んで、感情を
「髪の毛は出てきましたか?」
警官に尋ねてみた。あれほどの量の毛髪が体内から見つかったのだから、毛髪について何か警官たちは知ってるかもしれないと考えたからだ。だが、50代と20代の親子のような私服警官二人は、互いの顔を見合わせて首を
「なんの話ですか?」
反対に若い警官に尋ねられた。ぼくは茉奈の遺体を発見した際に見た大量の髪の毛の話をした。ぼくの話を一通り聞いたあと、警官は手元のファイルを開いて資料に目を通したあと、そんな事実は確認されていないと答えた。
スエットの女も同じ光景を見たはずだと伝えたが、すべてを聞いたわけではないがと前置きしたうえで、スエットの女の証言の中に、髪の毛に関する証言は見当たらないと警官はぼくに伝えてきた。
思い切って、ぼくは警官たちに茉奈の死因を問い質した。茉奈の死因は、大量の髪の毛で喉を詰まらせたことによる窒息死だろうと勝手に思い込んでいたが、警官たちが告げた茉奈の死因は、ぼくの予想とは異なっていた。
死因は窒息死で間違いはなかったが、原因が異なっていた。茉奈の死因は、
要するに喉の奥が火傷のせいで
朝の9時から始まった事情聴取は、夕方の16時を少し回る位迄続いた。
言葉遣いも態度も丁寧ではあったけれど、警官たちが茉奈の死に関して、ぼくの関与を疑っているのは明白だった。
長い事情聴取が終わり、応接室から出ようとしたぼくに、若い方の警官が何か思い出したらいつでも連絡してほしいと名刺を差し出した。名刺を受け取ったぼくに、年配の方の警官が、旅行に出かける際には必ず一報くださいと付け足してきた。
まるで容疑者ですねと
「でもね」
相も変わらず薄ら笑いを浮かべながら、年配の警官が続ける。
「大口開いて、自分の喉の奥に
パニックの発作が、ぼくの喉元までせり上がってきていた。ドア越しに泣き叫び、
「大丈夫ですか?」
若い警官が心配そうに声を掛けてきた。映画などで見る
大丈夫ですと答えると、ぼくは警官二人を押しのけるようにして廊下を進んだ。若い警官がついてきて、玄関までお見送りしますと一緒にエレベーターに乗り込んできた。
「すみませんでした。状況から判断して、自殺であることは間違いなさそうなんですが」
ぼくと大して歳の差などないような警官は、エレベーターの中で深々と頭を下げた。
「ただ新藤茉奈さんには、自殺するような理由が見当たらないんです。あの日だって、バイトが終わったあと、友人とライブハウスへ出かける約束をしていたそうで。そんな人が、なんで急にあんな死に方をしますかね」
「知るわけがない」
吐き捨てるように言い放った。本当のことを話してやろうかとすら考えた。高校時代、ほんの数か月付き合った女の子の霊がぼくに憑りついていて、ぼくとキスした相手はみんな死ぬんだと教えてやりたかった。もしぼくがそんなこと言おうものなら、この警官はぼくの正気を疑い、重要参考人として再びぼくに任意同行を求めてくるだろう。だがいくら調べたところで、茉奈の喉を塞いでいたあの大量の髪の毛同様、証拠など何ひとつとして
警官の目つきが鋭くなった。温厚そうな顔立ちは一瞬にして消え去り、よく訓練された猟犬のような無慈悲な目がぼくを見つめていた。
「本当に何も知らないんです。知ってることはさっき全部話しました。新藤さんのためにも、どうか本当に、事実を突き止めて下さい。お願いします」
警官に頭を下げると、ぼくは逃げ出すように警察署を後にした。
事件の翌日、ぼくはバイトを辞めた。バイトを辞めたことで、茉奈の死に関する情報は完全に
警察からはあれから二度ほど呼出を受けたが、最初に事情聴取を受け持った二人の警官と会うことはなかった。書類の上のことなのか、いくつかの
警察は、ぼくに振られた茉奈が
ぼくは他人との接触を断ち、できるだけひとりで過ごすよう心掛けた。ぼくとキスをした相手が、短時間のうちに二人も死亡していることは事実だ。そしてキスをした相手を通して、ぼくは数か月前に死んだ彼女の存在を感じた。沙織のときは電話越しの声だけだったが、茉奈のときには茉奈に憑依したとしか思えない彼女の姿を見ている。彼女を失ったぼくが
ぼくは友人に連絡し、茉奈の部屋で電話越しに話した女と再度コンタクトを取れないか
「あれ以来、
どんな手がかりでもいいから、その子について知ってることを教えてくれないかと頼んでみた。だが、友人の返事は驚くほど冷たかった。
「何があったのか知らないけどな、お前と話した後、あの子から電話があったんだよ。あなたを一生怨むって、そう言われた。信じられるか?おれはただお前の相談を聴いてやってくれないかと頼んだだけだ。たったそれだけなのに、電話の向うで泣き叫びながらそう言われたんだぜ?これから先、電話に脅えながら、一生悪夢の中で生きていかなきゃならないってな」
返す言葉を捜しているうちに、一方的に電話を切られた。彼とはその後何度か会って話しているが、この件に関して話をすることは二度と無かった。だから、その女の子がどうなったのかは知る由も無い。
ぼくは幾つかの寺社を訪ねて、お
次に試してみたのは、霊能力者と呼ばれる人たちとのコンタクトだった。ネットや口コミを通じて、それらしい相手に連絡を取り、何人か霊視ができるという人と会ってみたが、いずれも期待外れだった。
彼らの指摘やアドバイスは完全に
電話越しに話したあの女のように、彼女からの警告をうけた者は一人もいなかった。それはつまり、自称霊能力者たちが
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