第5話 非通知、その先で笑う女
しばらく思案した後、ぼくは友人の一人が、以前、霊感の強い女の子と付き合っていたと話していたのを思い出した。
夜景を見るために観覧車に乗ろうとしたところ、それまで楽しそうにしていたその女の子は、突然乗りたくないと言い出した。高所恐怖症なのかもしれないと思い、友人は彼女と観覧車に乗ることを
翌日、その観覧車が故障し、乗っていた乗客が数時間に渡って内部に閉じ込められたというニュースが流れていた。閉じ込められた乗客の一人が体調を崩し、病院に
そのことを伝えると、彼女は観覧車の中の一台に、害意のある霊を感じたのだと話してくれたという。強い怨みの念をその観覧車から感じたらしいが、なぜそこにそんな霊がいるのかは彼女にも判らなかったらしい。
ぼくはこの話を思い出し、その子ならあるいはと考えた。この話が
だからこそぼくは、この話を鮮明に記憶していた。友人とその女の子は、しばらく付き合った後に大した理由もなく別れてしまったらしいが、ときどき妙なものを見聞きする以外は、いたって普通の女の子だったという。
ぼくは友人に電話を掛けて、その女の子と連絡を取れないか訊ねてみた。友人は理由を知りたがったが、友達が相談したがってるとだけ伝え、あとは話を
十数分後、友人から折り返しの着信があった。友人はひどく
「条件があるらしくってな。電話を取ったら、お前は絶対に、一言も声を出さないでくれってことだ」
「どういうことだ?」
「知るかよ。とにかく、絶対にあの子と話をするな。声も出すな。お前はただ一方的に、あの子の話を聴くだけだ。この条件を呑むなら、あの子はお前に電話してくる。どうだ?」
「意味がわからない。向こうはこっちの状況は分からないはずなのに、なんでそんなこと言うんだろう?」
「ほんと意味不明だけどな。どうする?その条件でよけりゃ、おれの方からお前の番号を教えるが」
僅かな間、ぼくは
「わかった。その条件でいい。おれは何も話さないし、声も立てない。だからその子に連絡してくれ」
「絶対だぞ。一声でも上げれば、速攻で切るっていってたからな。約束は守れよ」
ぼくは友人に礼を述べ、電話を切った。茉奈はよく眠っているようだが、ぼくはキッチンまで移動して、女の子からの電話を待った。
五分きっかりに、ぼくのスマホに非通知の着信が入った。ぼくは通話スイッチを操作し、何も言わずにスマホに耳をつけた。
「これから言うことを理解して。それから、あいつから言われたと思うけど、絶対にわたしに話しかけないで。声を出してもダメ。もしあなたが声を上げたら、咳だろうがくしゃみだろうが通話を切る。お願いね」
危うく返事をしそうになるのを堪えた。しばらくの沈黙のあと、その子は早口で喋り始めた。
「結論からいうと、あなたは誰も救えない。あなたの友達とかいう人には気の毒だけど、その人は助からない」
ぼくは友人に、友達が相談したがっているとしか伝えていない。それなのに電話の向こうの女は、茉奈が助からないと断言した。
「納得いかないだろうけど理解して。あなたに憑りついている何かは、それが何なのか知りたくもないけど、それはとても強力。触れれば必ず相手を死に至らしめるだけの力を持ってるの。だからもう、あなたの友達は助からない。気の毒だとは思うけれど、それは仕方がないことなの。あなたがその人にできることはもう何もない。友達の死にざまを見たくないなら、すぐにでもその場から離れることね」
「ねぇ、怒りたい気持ちは解る。わたしだってこんなことは言いたくないの。でも、みんなわたし達のことを誤解してる。わたし達はね、わたしと同じような
一方的に
「電話が掛かってきたわ」
トーンを落とした低い声で、女が
「あいつから電話が掛かってきた電話を切って、あなたの話を聴こうとした
女の声にヒステリックな笑いが
「非通知だった。いえ、通話記録もないから、そもそもそんな電話が本当にかかってきたのかも分からないけど、それでも電話が鳴ったの」
スマホの向こう側から、女の笑い声が
「話を聴かないで。それだけいって電話は切れた」
「あなたに憑りついてるそれは、あなたに手を差し伸べる者を皆殺しにしようとしてる。あのおぞましい声を聴いた瞬間、心臓を
長い沈黙が続いた。荒い息遣いは聞こえていたから、女はまだそこにいる。
「あなたに忠告する」
最初に聞いた声とはまるで別人のような
「その友達がどんな人なのかは知らない。あたなにとってかけがえのない人なのかもしれない。ひょっとしたら命より大切な誰かなのかもしれない。だけど、もう無駄なの。その人は助からない。あれほどの悪意と憎悪を秘めた相手から逃れる方法はない。だから諦めて受け入れなさい。誰かの助けを借りようとしてもダメ。あなたが助けを求めれば、それが誰であれ間違いなく殺される。いたずらに犠牲を出したくないのなら、誰にも接触しないで、その友達とかいう人を見殺しにして」
女の忠告はとてもじゃないが受け入れられなかった。それどころか、ぼくは女の正気すら疑い始めていた。
「
ぼくの思考を先読みしたように女が釘を差す。
「ねえ、本当にごめんなさい。でもわたし、怖くて仕方ないの。この先いつかどこかで、あなたに出会ってしまうかもしれないと考えると叫びだしたくなるくらい怖いの。あなたは多分、普通の
スマホの向こうからすすり泣きが聞こえた。何も言えないぼくは、スマホ越しに漏れてくる女の泣き声をただ聴いていた。
「わたしに言えるのはそれだけ。あとはあなた自身で考えることよ。ひとつだけ言えるのは、もう誰にも相談してはいけない。無関係な犠牲を出したくないのなら、あなた自身で考えて、行動に移して」
そこで通話は切れた。スマホを耳に当てたまま、ぼくはキッチンの床に座り込んだ。
立ち上がり、眠っている茉奈の様子を見た。呼吸は安定しているし、顔色もいい。この後、茉奈の
自殺しろと、女は遠回しに言っていた。女からすれば、ぼくは歩く病原体、もしくは呪いそのものなのだろう。これ以上の犠牲者を出す前に、人知れず死ねと忠告する為だけに、女は自らの命も
「いかれてる。頭がおかしいんだ」
茉奈の部屋のキッチンに立ち、ぼくはひとり呟いた。とんだ茶番だった。いるはずもない幽霊を信じる頭のいかれた女が、ここぞとばかりに嘘を並べ立てただけに過ぎない。明日の朝になれば、全ては笑い話と化すに違いない。茉奈は気持ちよさそうにベッドの上で眠っているし、ぼくにも何の変化もない。音を小さくしてテレビを点けてみると、いつもと変わらぬ番組が、いつもと同じように放送されていた。
いつもと同じ夜が更けていく。ぼくはスマホでバイト先のカフェに電話し、急にバイト先からいなくなった理由を説明した。持病の発作が起きたという下手な嘘を、店長は何も言わずに認めてくれた。
眠れはしないだろうと思っていたのに、いつの間にかぼくは茉奈の
ぼくの前に茉奈の小さな顔があった。茉奈は起きていて、ぼくの顔を正面から見つめていた。
「ごめん。眠ってた」
ベッドの中で茉奈が首を左右に振った。
「大丈夫?」
訊ねると、今度は首を縦に振る。
「ずっとそばにいてくれたんですね」
「眠っちゃったけどね」
目を
「わたしがやったんですよね、これ」
「大したことはない。気にしないで」
「気にします。ほんと、わたし、どうしちゃったんだろう。ごめんなさい」
茉奈の大きな瞳から大粒の涙が流れ落ちる。
「その様子ならもう大丈夫みたいだ。安心した」
茉奈に予定を尋ねると、午前中はバイトが入っているが、体調不良を理由に休むつもりだと言われた。昨日の晩、ぼくと茉奈がタクシーに乗り込む姿を誰かに見られていたら、バイト先でちょっと面倒なことになる。だが、そんなことはどうでもよかった。茉奈が生きててくれさえすれば、それは
「ちょっとおなか空いちゃいましたね」
コンビニで何か買ってくるというと、茉奈はカップ焼きそばが食べたいと恥ずかしそうに囁いた。ぼくは声を上げて笑い、買ってくると茉奈に約束した。すぐに食べられるようにお湯を沸かしておくという茉奈を部屋に残し、ぼくはコンビニに向かった。通りから茉奈の部屋を見上げると、窓越しに茉奈が笑いながら手を振ってくれていた。
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