第6話 水平線

 知らない駅の知らない朝に私は意味のない焦燥感に駆り立てられた。


 いつも降りる駅を過ぎて。超満員電車なんて言葉がかわいく思えるほどぎゅぎゅうな通勤ラッシュを超えて。新宿にたどり着いた私たちはトイレで制服から私服に着替えた。制服をなるべくきれいに折りたたんでバックに詰める。まだブレザーを着ていなくてよかった。きっと取れないシワがついてしまう。

 私はワンピースにジャケットを羽織ったシンプルなコーディネート。薊は黒と白しかないストリート系のファッションで個室の扉を開けた。


「ん?」


 薊のことを思わず見つめてしまった私に薊は不思議そうな顔をする。


「ちょっとファッションのイメージが違ったから」

「あーわかる」


 ストレッチタイプのパンツの太ももあたりを指でつまんでパチンとはじく。


「行くか」

「うん」


 スマホと財布とメイク道具とタオルやハンカチ。必要最低限以外のものをコインロッカーに詰め、押し寄せる人波に逆らうように私たちは歩いた。薊についていくのが精いっぱいな人間だらけの世界で小田急線の改札をくぐった。


「どこ行くの?」

「うーん……海」

「海? 江の島?」


 私の問いには答えず薊はSuicaを自動改札にタッチしてスタスタと歩いていってしまう。私は置いていかれないように一生懸命に足を動かす。

 いつもならそろそろ授業が始まるという時間に私たちの住む県とは反対方面に向かう電車に乗る。


「眠い?」

「ううん。眠くないよ」

「なにか暇つぶせるものある?」

「えっと……」


 私はポシェットの中から新書サイズの本を取り出す。


「一時間半かかるから」

「えっ、うん」


 確かに江の島までならそれくらいかな? と思ったと同時に電車は動きだす。

 車内で薊と言葉を交わすことはなかった。薊は代々木上原までスマホをいじると、糸が切れたように眠り始めてしまった。私はそれに驚きつつも、きっと朝の満員電車で疲れてしまったのだろうと声をかけなかった。どこで降りるかも聞いていなかったが、一時間半かかると言っていたからそれまで降りる駅は気にしなくていいのだろう。

 私はペシミズムについて書かれた本を読み、時々窓の外を眺めて非日常にたどり着くのを待った。外の景色はどんどん田舎のものになり、稲刈りが終わった田んぼの畔にススキが揺れていた。車内に乗客は少ない。私たちが乗る車両には二、三人の乗客しかしない。

 きっかり一時間半後に目を覚ました薊は一度大きく伸びをすると「腰いてぇ……」と呟いて立ち上がった。それと同時に終点を知らせるアナウンスがなる。


「小田原? ここが目的地?」

「そだよ」


 開いた扉を二人並んでくぐり改札を抜ける。小田原なんてお城とかまぼこのイメージしかなかったけど、意外と大きな駅にびっくりしてしまう。


「喉乾かない?」

「うん」

「んじゃ飲み物買っていこう」


 薊はついでというように私に昼食を買うことを勧めた。確かに平日の昼間に高校生二人が飲食店に入るのも変だからと、私は特に反対せずに梅と鮭のおにぎりと野菜ジュースを買った。薊もいくつかの菓子パンを手に取りレジに向かった。


 それから駅を出て海を目指して歩いた。といっても私は薊の一歩半後ろをチワワよろしくついていくだけ。なんとなく観光地なんだろうなーというお店の並びは、海に近づくたびに馴染みのある住宅街と大差のないものに変わっていった。


 小道に入って幹線道路の下を通るトンネルをくぐる。波の音が聞こえる。光の世界に踏み出す。


「わぁ……」


 感動が心を動かして、マイナスの気持ちを水に溶かしていく。海はどこまでも広がっていて、水平線の先に浮かぶいくつかの船以外には私たちをさえぎるものは何もなかった。


「綺麗だね」

「…………」


 薊は返事をしないまま、手のひらサイズの石混じりの砂利海岸線を行く。私は置いていかれないように右足を踏み出す。こういう日に限って三センチ踵がある靴を履いていた。


「だいじょーぶ?」

「うん……」


 ハイカットスニーカーでサクサクと砂利を踏み分ける薊が戻ってくる。


「手」

「あ、ありがと」


 薊は優しく私の手を取って、波打ち際へと導いていく。


「ねぇ、足だけ入れてもいいかな?」


 海を前にテンションが上がっていた。


「んー? クラゲいそうだからオススメはしないなー。あと釣り人も多いから釣針落ちてそう」

「そっか」


 波が押し寄せるギリギリにやってきた私たちはお互い一言も発さずに陽光を受けてキラキラ輝く海を見つめた。

 隣にいる薊の顔は見ない。薊が何を考えて、どんな気持ちで海を見ているのか。知りたいけど知りたくない。ここは非日常だ。きっと踏み込んではいけない何かを海に返しに薊はこここまできたのだ。私は薊がここにくるまでの一歩を踏み出すための装置でしかなくて、きっかけでしかない。薊に放課後の公園で話した私自身のことの半分も薊のことを知らない。

 ただこの時間は薊の指先から伝わる体温だけが現実だった。

 どれくらいそうしていただろう。薊が柔らかく私の手を引く。海岸線に背を向けた薊の背中は死のにおいを薄くまとわせた私とは異なる香りを漂わせていた。

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