第4話 カルピス

 対偶という概念を知った瞬間が人生最大の喜びである私は、きっと世界で一番変な女子高生だろう。

 「AならばB」その対偶は「BではないならAでない」。数学的には真であるこの概念が論理学的には真でなかったりすることも面白い。


 愛読書の一つである岩波新書を胸に抱き、ベッドにコロンと転がり天井で煌々と灯るLEDを見つめる。


「生きたいならば死にたくない」

「死にたくないなら生きたくない」


 ん? ちょっと違うかも。思った思考は口からこぼれたあくびが証明した。壁に掛けられたシンプルなアナログ時計が示すのは二十三時五十三分。そろそろ寝る時間だろう。


 小さい頃、夜一切眠らないのであれば私以外の全人類が眠っている瞬間に起きていることができるのではないかと思っていた。でも実際は地球のどこかは常に太陽がてっぺんにいて、人類全員が眠っていて私だけが起きている時間なんて存在しない。それに気づいた時に私は多分少し大人になったと思う。


 ふと思い立ってLINEを開く。そこには名前を大して認識していないクラスメイトの女子の群れに埋もれて薊の名前があった。

 彼女と交わしたメッセージはない。二学期の始業式の日、いつも通り公園で過ごしていた薊が忘れ物をして、それを知らせるために通話した履歴だけだ。


(薊は何しているんだろう……)


 もしかしたら薊はもう家に帰っているのかもしれない。彼女がどんな家でどんな家族に囲まれてどんな生活をしているのか――全く想像できない世界のベッドで眠っている姿を想像する。

 もしかしたら薊は家に帰っていないのかもしれない。前に見たことがあるいかにもガラの悪い不良たちと一緒にファミレスで駄弁っているのかもしれない。カラオケとかでオールでもしているのかもしれない。

 もしかしたら薊は好きな男と抱き合っているのかもしれない。いや好きな男ではないのかもしれない。薊のこれまでの発言を振り返ると彼女の世界でセックスは非常に軽いもののように思えた。


 でもそれら全て私には何も関係のないことだ。


 私たちは放課後の公園で、薊が地元の不良にさらわれるまでの時間を共有するだけの関係だ。日付の変わるこの時間に、薊との糸は繋がらない。


 アナログ時計の針が全て重なる瞬間を見つめる。私は起きてから寝るまでの最後の日課を終えると瞼を深く閉じた。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   ×   × 


 紫煙。

 たばこの煙を見るたびにどうして白いそれが紫の煙と呼ばれているのか考える。


「んー? 薊も吸うか」

「吸わない」


 目の前の男に差し出されたタバコを挟む手を押し返した。


「セッターは嫌いか?」

「たばこ自体好きじゃない」

「ふーん? 電子のほうがいい?」

「だからたばこが好きじゃないんだって」


 車の中から先に行く仲間たちが原付で馬鹿をやっているのを見つめる。警察は何をやっているんだろう。


「……あいつらおいて逃げるか」


 男のその言葉には賛成ではあった。

 しかしそれは二つの意味を持っていた。

 一つはもちろん今にも警察に捕まりそうな馬鹿から離れ一緒に補導の対象になることを避けること。

 もう一つはこのままどこかのホテルに行くか人気のない場所でこの男に抱かれること。


「……帰る」

「あ?」

「今日は帰る。家まで車まわして」

「なんで?」

「なんでもなにもない」


 拒否を突き付けるあたしに、男は左手を私の胸に伸ばす。

 抵抗する間もなく、無駄に筋肉質な手が虫のように這う。信号三つ分あたしを弄んだ手はそのまま太ももに向かい――


「生理だから」


 その一言で男の手は止まった。


「わーったよ。送るよ」


 雑にウインカーが点く。雑にアクセルが踏まれスピードがあがる。


(牡丹なにやってんのかな……)


 いつか牡丹から聞いた彼女の生活スタイルを思い出す。家に帰ると最低限の勉強をして夕食までを過ごす。専業主婦の母親とテレワークでITの仕事をする父親と一緒にご飯を食べる。牡丹は一人っ子でペットも飼っていないらしいから食卓は静かなものだろう。その後彼女はスマホを持ってたっぷり二時間お風呂に入る。電子で買った哲学書を読み、時々くる友達からのLINEを返す。お風呂から上がると父親の書斎からいくつかの哲学書を見繕って自室で日付が変わるまで読む。そして零時ぴったりに寝る。まるで大学教授のような生活に驚いたことより、あぁ牡丹らしいなとしか思わない自分にびっくりした。牡丹の学校でのパブリックイメージは人当たりのいい美少女なのに。


 しばらくして家の近くまでやってきたレクサスからあたしは半ば強引におろされる。さっきまで抱こうとしていた女の子にこの扱いはないだろうと抗議する前に車は走り去ってしまった。


「はぁ……」


 家に帰る気にもならなくて、あたしはふらふらと夜の住宅街を歩く。行く当てもなく近くのコンビニに入る。すると入口近くにいた仕事帰りのサラリーマンが気色の悪い視線を向けた。視線というのはどうして自分の体を触れられるより不快なのか。

 

 嫌なことを忘れたくてカルピスに手を伸ばす。白で不快感を全て洗い流してほしかった。


 いつからか導入されたセルフレジでカルピスの代金を支払う。Suicaの残額が少ない。今月はあまり贅沢できないだろう。

 コンビニから出て家には向かわず、近所の小さな公園を目指した。小さい頃に妹とよく遊んだブランコに腰掛ける。カルピスの蓋を開けて、そのまま中身を半分くらい呷る。

 月は夜の真ん中で静かに浮かんでいた。

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